死者の目覚める季節
葉崎詩織
第一話 バナナがぐっすり寝られるように
ハルカの章
「バナナ」を殺したのは、パパかもしれない。バナナが吠えるのが嫌いだったから。
「バナナ」は私が一〇歳の時、四月七日の誕生日プレゼントだった。
『名前はもう決めたんだっけ』
まだ名前のないチワワを抱いたパパが私を見つめて訊いたのを覚えている。
『〈バナナ〉かな』
『〈バナナ〉か』
パパは泣きぼくろの上にある目を丸くした。いっそオーバーな反応だった。
『春斗が好きだったから』
それと前の月、ママから貰った『ナイン=ストーリーズ』の短編にちなんだ名前だった。
その年、弟が事故で死んだ。まだ三歳になる前だった。春斗は積み木を飲み込んで死んだ。新しい弟が、生まれ変わってやってきた。
『うん、いいかも』
パパの端正な笑窪が引き攣った。私はバナナの生臭い息を吸った。
パパは「バナナ」のことが嫌いだったと思う。
パパがママと「バナナ」のことで喧嘩していたのを、よく耳にした。
『本当に。なんとかできないのかな。バナナ』
以前、パパがぼやいた。
『しょうがないでしょ』
ママは不機嫌そうにした。騒音のことで争っていたらしい。詳しい経過はわからない。
『処分しちゃえば』
パパが小さく呟いた。
『春香にとってバナナは兄弟でしょう』
ママはそのとき語気を強めた。
『冗談、冗談』
『やめてよ』
『近所迷惑だよ。僕が怒られちゃう』
パパは嘆息を漏らした。
パパはお調子者だけれど神経質で、外面が良くって、裏表がある。酔っ払った時には、特に過激になる。泥酔して廊下に倒れ込んで、訳のわからないことを喚いたり、お手洗いにこもって吐いたり泣いていたり。
バナナも最期は、何度も吐いてから死んだ。目を潤ませて吐いて、痙攣を起こしていた。それは数日前のことで、もうすぐ十歳になる手前だった。
「チョコレートなんかの中毒でしょうね。カカオの入ったもの。気の毒に」
顎髭の獣医さんはあの日、俯き加減に伝えてきた。
パパは仕事で前日の朝から東京にいた。夕方に群馬の自宅に帰ってきた後で、バナナが中毒を起こしているのを見つけ、私を動物病院に車で連れていった。
「誰かの悪戯、かもですね。チョコレートをあげたのは。それか犬をよく知らない人が」
パパは危ないところを避けて、言葉を考えていた。
獣医さんが、胡麻塩の顎髭を撫でる。彼は目つきが鋭く、威圧する迫力があったが、動物を見る眼差しは優しかった。
「家族はみんな知っていました。チョコレート中毒について。他の誰かが」
パパは伏し目がちになる。
その日、私だけがずっと家にいた。ママもパートの仕事で朝から外していて、喫茶店で勉強してからパパの少し後に帰ってきた。ほかの誰かなんて、いるはずがない。
「屋外で飼っていたのでしたっけ」
獣医さんが、眉にしわを寄せた。
「いえ」
パパは気まずそうにする。
そういえばパパからチョコレートの香りがする気持ちもしたが、チョコレートはそれほど香るものではないし、気のせいだったろうか。
「家探しをしたチワワが、どこかで食べたとか。チワワは獰猛で好奇心旺盛ですからね」
獣医さんが、憂い顔をつくる。そんな痕跡、家のどこにもなかった。
「空き巣とかが、手懐けようとして、食べさせたのかもしれない。チョコレートを。それか中毒を起こすのを知っていてね。そういうのが、増えているでしょう」
パパはネクタイをきつく締めた。獣医さんも控えめに頷いた。
私はパパの言葉を回想した。
『処分しちゃえば』
パパは、バナナが嫌いだった。バナナがよく吠える犬だったからだ。
『〈うるせえんだよ、きゃんきゃんきゃんきゃん。おかげで眠れやしないよ。いつか覚えていろよ〉だって。あのジジイ。一生縁側で緑茶啜ってろ』
パパが、怒鳴り込んできた近所の人の真似をして、冗談めかした悪態をついたのを覚えている。パパは傷つきやすくて、悪く言われると案外根に持つ。
『春香、聞いてよ』
パパはそのとき、さらに愚痴を吐いた。
『バナナが偶に苦手だよ。潤んだ瞳で見つめるとき、春斗に責められている気がする』
パパは、肩をすくめてみせた。
『ママも言うんだ。春斗を殺したのはパパだ、って』
『殺したって。事故でしょう』
『僕の責任だってことだよ。目を離さずにいなかった』
パパは小さく嘆く。
『疲れちゃうよ』
ため息に曇るその瞳は、むしろ怒りを湛えていて、誰かを睨むようだった。
母の章
春斗を殺したのが春香であることは、夫婦の秘密になっている。春香は自分の与えたバナナが、春斗の喉に詰まって死んだことを知らない。
春斗が死んだのは一月。土曜日の夕方、私とパパは二時間弱の買い物から帰ってきた。一時間で戻ってくるはずが、思わぬ渋滞に巻き込まれた。
「真奈美。春斗が」
帰ってくるなりパパは息を切らせ、台所で荷物整理をする私のところへやってきた。
「どうしたの」
私はパパを見つめ返す。
「春斗が、息していない」
パパの澄んだ肌に血管が珊瑚のように、赤く根を張らせていた。
「どういうこと」
私は鼓動の高鳴りを感じた。
「救急車を呼ぶ。春斗は子供部屋にいる。そばにいてあげてくれ。春香には見せないで」
パパは憔悴の血を目に走らせていた。
困惑と不吉な予感を抱えたまま、私は二階の子供部屋へと駆けつけた。
部屋で、春斗が倒れていた。
何が起こったのかは、誰の目にも明らかだった。春斗の傍には、半分中身が残ったバナナの皮が落ちていた。春斗は口を半開きにして、口から溢れた涎と吐き出したバナナの中に溺れていた。青ざめた額の下で、その瞳は開いて、虚空にとらわれていた。
血の気が引いて、口元が何度か痙攣するのを感じた。
その後のことは、良く覚えていない。
ずっと泣いていて、気がついたら家に救急隊員がきた。青い制服の死神だと思った。
「スペースの都合もあるので、ご両親はご自分のお車が助かります。一方だけ同伴か」
制服の若い男は私に告げた。
「いや」
私は泣きじゃくって、その場にうずくまった。
真奈美、と声を掛けながら、パパがしゃがんで、私を覗き込む。
「春斗をお願いします。後から二人で追いかけますので」
パパは救急隊員の男に会釈した。
彼らはハルトを車に納めると、病院へと運んでいった。
鉛色の空の下に、救急車が小さくなっていくのを、二人は見送った。
しばらくして、二人は車でハルトを追いかけた。
春香には、留守番をしてもらった。ショックを与えるのを、パパが嫌がったからだ。どうなるかわからないから、とりあえず春香は病院へ連れていかず、最悪の結果になったら、パパが春香に丁寧に事情を伝えたいということだった。
病院へ向かうミニバンの中で、パパに怒った。口笛を吹いていたからだ。「ライ麦畑で出会えたら」だった。
「やめてよ。こんな時に」
私は隣の運転席に座るパパに強く頼んだ。私は音楽を流すことも認めなかった。
「テンパると、癖で」
パパは小さく頭を下げる。パパはパニックになると、口笛を吹いて落ち着こうとする癖があった。よくそんなときに「ライ麦畑で出会えたら」を吹いた。
「気持ちはわかるけど」
ときには、私もそうする癖があったから。
【O, Jenny’s a’ weet, poor body,
Jenny’s seldom dry:
She draigl’t a’ her petticoatie,
Comin thro’ the rye!】
《ジェニー、ずぶ濡れかわいそう。ジェニーはいつもびしょ濡れで
ジェニーが下着を引きずって ライ麦畑をやってくる》
私は吐いたもので溺れた、かわいそうな春斗を思い浮かべていた。吐き出したバナナが崩れた魚の死体のように蕩けていた。
「ハルトのことを考えたら」
私はパパを睨んだ。
「すまない」
パパは目を逸らす。重く淀んだ空気が、足首に巻き付いてきた。
【Gin a body meet a body
Comin thro’ the rye,
Gin a body kiss a body,
Need a body cry?】
《ライ麦畑で出会えたら 二人はきっと キスをする
泣くことなんて ないでしょう》
私と春斗は、よくキスをした。それが二人の挨拶だった。春斗の横顔はパパと似ていた。春斗ともう、キスもできないのだと思うと、涙が溢れた。
「春香に春斗の世話を頼んだろう。春香があげたバナナが喉に詰まったんだ」
パパは隣でハンドルを握り、横目で私を見た。
後で春香に確認したら、お腹が空いたと泣いてうるさいので、キッチンにあったバナナを持ち出して春香が宥めたらしい。
「春香には、絶対内緒だ。春斗は、積み木を喉に詰まらせた。それで口裏を合わせよう。春斗に万が一のことがあっても。春香には何の責任もない。悪いのは僕たちだ」
パパは私に強調した。私は、無言で首を縦に振った。
その日、春斗は死んだ。青ざめたその顔に、血の色が戻ることはもうなかった。
春斗を殺したのは、バナナと春香だ。それなのに、春香があの子に「バナナ」なんて名前をつけたのは、悪い冗談だと思った。
私はバナナのことはやっぱり好きだったし、春斗の代わりに思っていたが、あの名前には耐えられなかった。
父の章
春香が「バナナ」の名前をチワワにつけたのは、償いのためだという気がしている。
『春香。この本は』
僕が春香の部屋にお茶を運んであげたとき、野崎孝訳、サリンジャー『ナイン=ストーリーズ』の文庫本があるのが目に留まった。「バナナ」が来た年の夏だった。
『ママからのプレゼント。誕生日の。〈バナナ〉って、〈バナナフィッシュにうってつけの日〉からとったの』
春香は教えてくれた。
その本は僕もママも好きな本だったが、このタイミングで春香に送ったのは、妙だった。本作は戦争のトラウマや自殺がテーマとしてある作品で、春斗の死で精神的に弱っている春香にすすめるのには奇妙に思えた。そのことは僕の中にずっと残っていて、考えることが多かった。
僕は自分の中に結論を出した。それは春香に対するこんなメッセージだったのだろう。
「春斗を殺したのはお前だ」
「バナナフィッシュ」は、その短編においてシーモア=グラースのこしらえた話の中に現れる架空の魚で、餌を食べすぎて洞窟から出られなくなり、そのまま死ぬ。
バナナフィッシュは、春斗を殺したバナナのことだろう。春斗に入り込んで、出てこられなくなったバナナに、バナナフィッシュをなぞらえている。バナナフィッシュから、春香が与えたバナナに、思い至らせようとしているのではないか。
この短編は、主人公シーモア=グラースの唐突な自殺で終わる。過去のトラウマに囚われて、シーモアは拳銃で自殺を遂げる。シーモアは、ママにとっての鏡像だ。戦争のトラウマに囚われ続け、精神的混乱の中で死を選ぶシーモア。その姿をママは自分に重ねていた。その本を春香に送ることで、間接的に自分の苦境を伝えようとしたのではないか。
「お前が与えたバナナに春斗は殺された。そのせいで私は今、追い詰められている」
そんなメッセージを、ママは春香に伝えようとしているのではないか。確信はないけれど。春香の残酷性を、糾弾しようとしたのではないだろうか。
そもそも、春香と春斗という名前は、「バナナフィッシュにうってつけの日」にちなんでいる。作品にT=S=エリオット『荒地』が登場するのだけれど、その有名な一節、「四月は一番残酷な月」というフレーズにちなんでつけた名前だ。僕たち夫婦は、春香と春斗が、春という残酷な目覚めの時期に人生において直面することがあっても、敢然と向き合う強さを持ってほしいという願いを、名前に込めた。
その思いを汲んでくれたのか、春香は感受性豊かに成長した。だからママの意地悪なメッセージにも気がついて、「バナナ」の名前をつけた。それは自分への戒めと贖罪の気持ちだったろう。
春香は多分、自分が春斗を「殺した」ことに気がついた。それに対する負い目から、春香は「バナナ」の名前をつけた。自分の犯した罪と責任と、向き合うために。それは、ママにとっても辛いことだった。春斗を殺した「バナナフィッシュ」の幽霊が、自分に付き纏うことになった。
「春斗を殺したのは、春香なの。私じゃない」
ママは、罪悪感に耐えられなくなると零す。ママも本当は、春斗を殺したのは自分と僕だと思っている。それを誤魔化そうと、僕と二人のときには春香を責める。
「違う。春斗が死んだのは事故だよ。誰のせいでもない」
僕はいつも、そんなふうに否定する。
「殺したのは、私なの」
ママはこの間も、泣きじゃくった。
「誰も悪くない。運が悪かったんだ」
僕は、ママに言い聞かせた。それは、僕の本心ではなかった。
「私が、生きていてもいいのかなって」
ママは目を泣き腫らして、僕に抱きかかった。
「やめてよ」
僕は項垂れる。巧い返答が、思いつかない。
「大事な人に、いなくなってほしくないよ。春香だって、きっと同じ気持ちでいるよ」
混線したママの癖毛を僕は撫でた。春香とよく似た、黒い癖毛だ。
「僕の昔の恋人がね。自殺しちゃってさ」
「比企さんか」
ママも知っている名前だ。ママは拗れた癖毛をもてあます。
「耐え難かった。自分が殺した気持ちがしたよ」
僕はなんとか宥めたかった。
「大切な人を、失いたくないよ。春香のことも、自分のことも、もう責めないでよ」
思わず僕も、感情的になって涙が出てきた。
ハルトの章
パパが木漏れ日の差す居間でココアを飲みながら作業していると、春香がやってきた。
「春香」
パパは春香に笑顔を向ける。春香も微笑み返す。
春香は、パパの向かいの席に腰掛けた。日差しが、二人の間を皮膜で隔てる。
「もうすぐ大学かな」
「履修を決めているところだよ。何飲んでいるの。美味しそ」
春香はコップの中身をうかがう仕草をする。
パパはコップの中の膜を浚うように、一口啜る。
「うん。ホットミルクだよ」
パパは答える。言葉に少し間があった。
「カカオっぽい。いい匂いだけど」
春香が怪訝そうにする。
「ココアだった。コロナかな。舌が馬鹿」
パパが舌を出してみせる。
昨日の雨で、今日は少し蒸している。空気が湿って重く、居心地が悪い。
「ココア、一人で飲み過ぎじゃない。全然なくなっているんだけど」
春香が冗談めかして窘める。悪い、とパパが両手を合わせて謝る。
不意にパパは困り顔を浮かべる。
「大学生と会話するのは難しいな。おじさんには。ダル絡みしていたらごめんね」
それから泣きぼくろのある目尻を指でなぞった。
「暇だから大丈夫。僕、大学でもぼっちだし。パパこそ忙しくないの」
春香が尋ねた。小さくかぶりを振るパパ。
窓の外で、尾長が獲物を咥えている。後ろめたそうに周りの様子を窺っている。
「残念だったな。バナナのこと。大丈夫か」
パパは神妙な面持ちで、春香に視線を向ける。
「平気じゃないけど。大丈夫。まあ、高齢だし」
「弟、だったのにな」
パパは憂いた瞳を作る。
正面に座る春香から視線を泳がせるパパ。僕と目が合うものの、見える訳もない。
「突然で」
春香はわざとらしく、か細い声を振り絞る。
庭先のチューリップを浸す陽だまりに、アゲハチョウが泳いでいる。
「パパは、悲しいの」
「そりゃあ」
「本当に」
「どういうこと」
パパが訝しそうにする。
庭にある泥濘が、光を弾いてくる。昨日は、随分降ったのだ。
「パパは、本当はバナナのことが嫌いじゃなかったかな」
春香はパパを射すくめる。睨むように相手を見るのは、ママによく似ている。
パパは、呆気に取られて春香を見返す。
「前に、パパがこんな風に言ったのを聞いたの。
『処分しちゃおうか』
って。ママと話しているとき」
「そうだっけ」
「冗談でも、酷い」
春香は声を震わせる。
パパは真剣な面持ちで、頭を下げる。
春香の瞳は、パパを鋭く射貫く。
パパは、渋い顔で唸った。ポーカーフェイスが、割合苦手だ。
白けた空気を誤魔化そうと、パパはココアを一口流し込む。
春香が無言で、さらにパパを睨む。
誰にも似てない腫れぼったい輪郭が、鋭い刃をパパに突きつけている。
「ごめん」
パパは目頭を擦る。
庭で尾長が、不満そうに囀る。鈍く乾いた鳴き声だ。
「そんな風に思われていたのか。パパは、バナナにいなくなってほしいって」
「まあ。うん」
春香は逆に戸惑いをみせる。
パパは泣きぼくろを掻く。
春香の眼差しは、俄かに困惑に鈍って鋭さを失う。
「僕もママに、春香と同じ気持ちを持っていたんだよ」
パパの瞳に落ち着きの潤いが戻っている。
「確かめたかったんだ。ママの気持ちを。処分するって言ったら、どんな反応をするか」
パパは春香をじっと見据える。
庭で、尾長が自分を確かめるように鳴いた。
「ママが。なんで」
「勘かな。春香がパパを疑ったのと一緒だよ」
パパは困り笑いを向ける。
春香は不服そうに、癖毛を指で梳かす。
居間を照らす陽光の海に、粒子が揺蕩っていた。
迷子の粒子は、行く当てもないまま、光の中を虚ろに彷徨っていた。
「ひょっとして」
パパは思い至る。
庭で尾長が、枯れた喉で鳴いた。パパは喉の渇きをコップの中のプールで潤す。
「春香は、僕がバナナを殺したと思っているのかな。チョコを食べさせて」
パパはじっと視界に春香を捉える。
春香は気まずさに喘ぐ顔をする。息継ぎすることもままならない。
「ちょっとね」
春香は決まりが悪そうだ。
居間の壁の四月のカレンダーには、水たまりに浮かぶ桜の花弁が描かれている。
「なんでだろう」
パパは春香から目を逸らさない。
穏やかな瞳の水面を、春香は息苦しそうに覗く。
「パパって優しいけれど、思い詰めると怖いタイプ」
春香がおどけてみせる。パパは小さく微苦笑を返す。
「それに嘘つくじゃん。パパもママも」
春香の瞳に、困惑が漣を立てる。
「そうかもなあ」
パパは春香から視線を外す。二人の緊張に安寧の波が打ち寄せる。
波に足を掬われて、春香は歯がゆそうにパパに視線を向ける。
「パパがバナナを殺したなんて、本気じゃないんだよ。ただ嫌いだったのかなって」
歯切れの悪い言葉で話す春香。
パパはココアを一口飲んだ。庭の泥濘のほとりに、蝶がとまる。
「僕も春香も、考えすぎる性分だよね」
パパはにっこりする。躱された春香も、醜く顔を歪めて笑う。
僕は春香をじっと睨む。
憎悪の黒い淀みに、僕は溺れそうになった。
父の章
春香は僕が、バナナを殺したと思っているらしい。さっき春香と語らって気がついた。あの子も思い込みが激しいから、突飛なことを考えたり、それが当たっていたりする。
ルーズでうっかりミスは多いが(台所になんだっていつも出しっぱなしにするから、ママに怒られる前に僕が片付ける)春香はなかなか、勘が鋭い。いつも相手の行動を深く考えようとする。かまをかけて、こっちの反応を窺うとか。
「僕が誰かを殺したらどう思う。何があったと思う」
春香が以前、僕に訊いたのを思い出す(春香は、家ではよく自分のことを「僕」と呼ぶ。友達の前では大抵は「私」みたいだけれど、どっちも使う)。二人で近所のスーパーで買い物をしていたときのことだ。
「どういうこと」
僕は買い物かごを押しつつ、面食らった。
「動機。春香が人を殺すなら、相手は誰で、どんな動機だと思う」
春香は冗談めかした調子で訊く。
無神経な店のテーマソングが陽気に流れるのが聞こえた。「あなたのための、私たち。笑顔のために、あるお店」と。
「逆にさ。パパが誰かを殺したら、相手は誰で、動機はなんだろうね」
僕は春香をじっと見据える。
「バナナか。それか僕かな」
そのとき考えたというより、前もって準備していた感じだった。
「動機は何かな」
「バナナを殺した動機はね。まず一つは。家庭の平穏を取り戻したかった、みたいな」
春香は懸命に言葉を考える。
仲のよさそうな親子連れとすれ違った。姉と弟らしき二人と、その母親だ。
「結構パパって、裏表あって、外面いいでしょ。近所の人に怒られたくないから殺す、みたいな。あとバナナがいるから結構家族がギクシャクしてる気がするから。色々」
春香は滔々と語り続ける。無茶苦茶だ。
「それとか、これは意外な動機系だけど。もっと自分に注目を向けたかったとか。家族からの。それと、僕の反応を見たいとか、春香に試練を与えたいとか。
もっと抽象的なのだと、殺すことで『荒地』の輪廻のサイクルを維持したいみたいな。『ナイン=ストーリーズ』に『荒地』が出てくるでしょう」
淀みなく出てきた。いつもそんなことを思い巡らせているのだろうか。
「僕が春香を殺すのは、どんなわけがあるのかな」
僕たちは肉のコーナーを通り過ぎる。生肉を見るのは、苦手な性分だ。
春香は考え込んでいる風にする。本当は答えがあって、口にしづらいのだと思った。
「春斗に会わせたいとか。それか、僕が春斗じゃないからとか。少女のままの穢れない僕でいてほしいからとか。あと、僕が春斗を殺したから、とか」
「なんだって」
僕は強い口調で返してしまう。
人で溢れるスーパーの中では、思いがけずあふれたやや強い言葉も、喧騒の中に投げ売りされて、誰一人振り返らなかった。
「いいじゃん。パパはどう思うの。僕が人を殺すとしたら」
「春香自身かな」
僕の返事に、春香はピクリと眉を動かした。
「家庭の安寧を求めてみたいな。自分なんか、いない方がいいなんて、思ってね。いなくなれば、〈荒地〉も再生するだろうって」
僕は自分の考えを伝えた。
春香は無言で鼻を鳴らした。その反応が何を意味したのかは、よくわからなかった。
「春香は誰かが憎いとかは、なさそうだからね。生きている人にはね」
「春斗のこと」
春香は食いつくように反応する。
「バナナを殺すかもしれない。春斗への感情からね。春斗と重ねて」
僕は自分の解釈を教える。
春香は顎に手を添えて、思案した様子をする。
向こうでも、総菜の棚の前で若い女性が頭を悩ませ、何かを探している。
「じゃあさ」
春香はさらに深く探ろうとする。
「『バナナフィッシュにうってつけの日』ってあるでしょ。あれでシーモアが死ぬのはなんでだと思う。僕が自殺するとしたら、それはシーモアと近いかな」
春香は笑みを浮かべる。下手なセールスのように、無理につくった強張った笑顔だった。
あの作品における突発的な自殺は、一般的にはサリンジャーの従軍経験と結び付けられて、戦争のトラウマや解脱などを理由として挙げられる。『ナイン=ストーリーズ』に収められている他の短編「対エスキモー戦争の前夜」なども、戦争のトラウマの話だ。
一方で、自分が気に留めた少女のシビルが、シーモアの吐いたバナナフィッシュの嘘に合わせたことで幻滅して死を選んだ、という説もある。
僕はこれに否定的だ。嘘をシビラが守ろうとしてくれたことは、救いになっただろう。
「近い、だろうね」
僕は春香に告げる。春香もこちらを見つめ返す。
「過去のトラウマが、背景にあるからね。誰かの死とか」
僕は春香の向こうに、ハルトを捉える。
「それと『エズミに捧ぐ』と近いだろうね」
「エズミに捧ぐ」は『ナイン=ストーリーズ』に収められた短編で、語り手に向けられる純粋な少女のエズミから向けられる関心が、語り手の救済となっている。
「関心を自分に向けたい」
春香は心当たりがある風にする。
「注目、バナナ大安売り」のプレートが向こうに見えた。
「自分を見ていてほしい。春斗と同じくらいの関心を向けてほしい、って」
僕は春香を見遣る。少し平らで愛らしい、ぼんやりした横顔だ。
「そうだよね。やっぱり」
春香は納得したようにする。
春香は、僕が「外面を気にするからバナナを殺した」と言ったけれど、わりかしそれは、春香にも当てはまる。このときのやり取りのように、春香は自分が相手からどう見られているかを、過剰に気にする。自分は他人にどう見えているのかを知りたがっている。それと、春香のパーソナリティの解釈という作業を通じて、僕の人となりを探りたいと願っていると思う。
僕がバナナを殺した。春香は、そう疑っている。実は、僕もママがバナナを殺そうとしているのではないかと思ったことがある。
『処分しちゃおうか』
春香に盗み聞きされたその言葉を、僕がママに向けたのは、ママの反応が見たいからだった。ママは「バナナ」を、その忌々しい名前を嫌っていた。
『バナナ。春香は、本気なの』
バナナが来た春、ママが怪訝そうに僕を問いただしたのを覚えている。
『冗談。そんなの』
『春香がいいならそれでいいだろう。バナナは春香へのプレゼントなんだから』
「バナナ」という名前から変更させようとこだわることで、春香に真実を悟らせるのは、僕は嫌だった。我慢してほしかった。子供中心で生活することが、親の責務だから。
『パパは、平気なの』
ママは僕を睨むように見る。そうする表情は、春香とよく似ている。
『バナナのイメージに、春斗のことでネガティブな染みが、僕の中でもついているよ。でも、もし春斗が車に轢かれていても、僕は車アレルギーにはなってないだろうな』
僕の反応に、不服そうにするママ。
『普通じゃないと思うよ。パパも、春香も』
ママの青い筋が、額で不満を伝えていた。
ママはバナナを憎んでいた。殺してやりたいと思っていたし、行動に移そうともした。
母の章
私は時々、自分が誰だかわからなくなるし、自分をコントロールできなくなる。
私はその日、台所にいて「バナナ」にチョコレートを与えようとしていた。
『何やっているんだ。犬はチョコ、食べられないんだぞ』
パパが私に声をかけてきた。私は振り返った。
『知らなかった。会社で貰ったチョコ。処分したくて』
嘘だ。バナナが食べたら、どうなるか知っていた。死ぬとは限らないが、中毒を起こす。
『僕が処分してあげよう』
パパが私に手を差し出す。
私はパパに、手に持ったチョコレートを渡した。
チョコレートをパパに奪われたバナナが、パパに吠える。
『代わりにもっといいものをやるぞ』
パパはビーフジャッキーをポケットから取り出し、バナナの前に指でぶら下げる。
じっとそれを見て、バナナが吠える。
『ほら、やるぞ』
パパがジャッキーを足元に投げると、バナナはそれに飛び掛かる。
バナナは瞬く間に平らげる。
バナナはまた、パパに要求して吠える。
口からは涎が溢れていた。あの日の春斗みたいだった。
尾長が、断末魔のような鳴き声をあげるのを聞いた。
私は正直、バナナを殺したのはパパではないかと思っている。あの人は思い詰めると、少し怖いかもしれない。パパは、私がバナナを殺そうとしていたのを目にした。私がバナナに抱いている感情に気がついた。私のためにバナナを殺していてもおかしくない。
『春斗を殺したのは私じゃないの。春香なの』
私は精神的に限界になると、パパにそんな自分勝手な泣き言をぶつける。その気持ちを打ち明けないと、自分が立っていられなくなる。醜悪だとは思っている。
『春斗を殺したのは、誰でもない。春香や自分を、責めないでほしい』
パパはいつも宥めてくれる。私は、その言葉が欲しくて、パパにそんな愚痴を吐く。他人にそうしてもらえないと、正気を保てない。
『どうしても嫌だ。あんな名前』
『春香がかわいそうだろう』
『嫌なの』
『頼むから、変な気は起こさないでくれよ』
何度もパパと、そんな応酬を交わしてきた。幼稚で狡猾な自分に、嫌気がする。
パパはあの日、私の気持ちに気がついた。私はパパの制止がなくても、それを思いとどまっていただろう。ただ止めてもらいたい、苦境をアピールしたい、という邪な動機にドライブされていたから。
パパは私の殺意を知った。パパならやるかもしれない。私を救うため、自ら手を汚す。
「パパ」
バナナがいなくなった後で気になって、先日居間にいたパパに問おうとした。
「何かな」
パパはココアを啜る。
「何を飲んでいるの」
「ココア」
「カカオのいい香り」
芳ばしい黒豆の香りを吸った。
「そうでしょ」
パパは泣きぼくろの上で目を細める。
私は、小さく深呼吸をした。確かめたかった。
「パパはさ、自分が人を殺すなら動機はなんだと思う」
「流行っているの。春香も前、似た質問したよ」
パパは冗談めかす。春香が。
パパはココアを飲んだ。気まずい沈黙を、喉に流し込もうとする。
「敵討ちかな。春香やママに何かあって」
窓の外の庭では、彼岸花があだ花の実るのを待って、眠っている。
「バナナが私や春香に大怪我をさせていたら、どう」
私はパパの目を見据える。私はよく、睨んでしまう。知らず知らず、そうしてしまう。
「チワワに無理だろ」
パパはやんわり否定する。
「何かの弾みで」
「わからない」
「例えばだよ」
もどかしさから、捻れた癖毛を私は頭の上で梳かす。
不貞腐れて、訴えるような眼差しをパパに向けた。
くっきりした端正な輪郭が、すまし顔を浮かべている。
「家族の命を奪うなんて、僕にはできない」
「敵討ちは、してくれないの」
「僕が殺人を犯すならそれくらいだろう、という譬えだよ」
パパは草臥れた風にする。
パパのコーヒーカップの上に、穏やかな水面があった。
不意にそこへ波紋を起こしたくなる。
「わざとチョコレートやココアをバナナの触れやすいところに置いておくとかは」
「なんだって」
パパは強い調子で返す。
机の上でカップが乾いた音を鳴らした。
パパよりむしろ、こちらが驚いた。
「ママが、バナナを」
「私」
思わず、私は自分を指差す。完全に呆気に取られていた。
宥めるようなココアの優しい香りを嗅いだ。
パパは驚いた私の顔を見てにっこりする。
カップに起こった波紋が、小さく収束していく。
照れたように、パパは目じりを掻いた。
「いやいや」
安堵のような笑みを浮かべるパパ。
「ママがわざとチョコレートをあげたのかって」
「そんなこと、しないよ」
私は俯いた。先日のこともあり、そうしたい気持ちがあるのは嘘ではなかった。
ココアの穏やかな香りを煙幕に感じた。
結局躱されて、私が尋問から何か得られたことはなかった。
でもうまく躱されたのは、パパになんら負い目がないからだと思う。お人好しなパパだから、後ろ暗いときには、ポーカーフェイスは苦手だ。でもそうではなかった。パパは、何もしていないのかもしれない。
それに、パパにはアリバイがある。あの日はパパも私も、家にいなかった。前日から東京にいて留守にしていたパパが夕方に帰って、その足でバナナを動物病院へ連れて行った。私もパートの後で勉強を喫茶店でしてパパと同じくらいに帰ってきたから、ずっと家にいたのは、春香だけ。
パパが殺したなんて、考えすぎか。
ハルカの章
やっぱり、バナナを殺したのはパパだ。思い出した。あの日の会話を。
『チョコレートなんかの中毒でしょうね。カカオの入ったもの。気の毒に』
『誰かの悪戯、かもですね。チョコレートをあげたのは。それか犬をよく知らない人が』
考えてみたら、不自然だ。獣医さんは、チョコレートが凶器だと断言していない。それなのに、パパはチョコレートが凶器だという前提で話を続けた。なぜチョコレートが凶器だと、確信しているのだろうか。
それは、パパが犯人だからに他ならない。パパは、凶器がチョコレートだと知っている。パパからはあの日、カカオの匂いがしていた気持ちがした。それは気のせいではなかった予感がする。パパもそれには気付いたのではないか。
先日こんなやりとりがあった。
『履修を決めているところだよ。何飲んでいるの。美味しそ』
『うん。ホットミルクだよ』
『カカオっぽい。いい匂いだけど』
『ココアだった。コロナかな。舌が馬鹿』
不自然だった。パパが風邪をひいている様子はなかった。それなのにココアとミルクを間違えた。ココアをミルクと偽ったのは、話題をココアに向けたくなかったからだ。
『ココア、一人で飲み過ぎじゃない。全然なくなっているんだけど』
『大学生と会話するのは難しいなあ。おじさんには。ダル絡みしていたらごめんね』
パパは話題を移そうとしていた。そこにもココアを避けようとする心理がうかがえる。
それはなぜか。ココアからホットチョコレートやチョコレートをパパが連想し、半ば無意識にそれを避けようとしたからではないか。私との会話で凶器であるチョコレートへの注目が移り、追及されることをおそれたからではないか。
それではなぜ、パパはバナナを殺したのか。正直私は、パパがよくわからない。お人よしだけれど、本心を掴みにくい。私やママに不誠実だったり性質の悪かったりする嘘を吐く性格でもない気持ちもするが、得体のしれない部分もある。
バナナを殺したのは家族のためだったのかもしれない。本当にバナナの名前を嫌っていたのはママだ。ママは食べ物のバナナがまず苦手で、それがバナナを殺す理由にはならないだろうが、バナナをどこか嫌っていた。愛着も覚えていただろうが。
なぜバナナを嫌っていたか。それはあの『バナナフィッシュにうってつけの日』を私にプレゼントした事件に関係があるのかもしれない。
『私の愛読書。春香も読んでよ』
ママはハルトが亡くなった後、あの本を私にプレゼントした。妙だった。確かにサリンジャーのその短編集は私の愛読書にもなったが、ハルトが死んで鬱屈した日々を送る私に適切な内容とは思わなかったからだ。それをなぜ、私に与えたのか。
きっと、こういうメッセージを伝えるためだと思う。
「シーモア=グラースは私だ」
ママは私に自分の苦境をアピールしたかった。心的外傷に苛まれるシーモア=グラースに重ねて、精神的衰弱を伝えようとした。私はなんの気もなしに、犬の名前を「バナナ」にした。それはママにこんなメッセージに伝わったのかもしれない。
「シーモア=グラースの死を願っている」
バナナフィッシュには、自殺のニュアンスがある。ママはあのバナナの名前を、死への誘導と捉えていたのかもしれない。
『実はね。僕もママに、春香と同じ気持ちを持っていたんだよ。そのとき確かめたかったんだ。ママの気持ちを。処分するって言ったら、どんな反応をするか』
パパもママの心理をそう解釈していたけれど、私もそんなふうに思う。ママはバナナという名前をネガティブに解釈して、私とバナナに対する否定的な感情を持った。それにパパが応える形で、バナナの命を奪ったのではないか。
とはいえ。これも考えすぎなのかもしれない。私は昔から、変に考えすぎる癖があって、それは当たっていることもあるが、見当違いのことも多い。傾向として、勘は鋭くて違和感に気が付くことは多いものの、そこからの考えがずれていることが多い。
パパは優しいけれども、どこか危うさを秘めている。その危うさの解釈について、悩んでいる。家族のためならどんなことでもしてくれそうな気もするし、ラインは超えない気持ちもする。でも、あの日のパパはやっぱり、何か隠していた気持ちもする。
ママもまあ優しい。優しいけれどナイーブで繊細で、極めて脆い。ハルトをなくしてから、特に。憎めないところも多いが、私と似ているとよく言われる。脆いせいで攻撃的になりやすい。その攻撃性の解釈にも、私はいつも頭を悩ませている。売り言葉に買い言葉で過激なことを言いそうではあるけれど、根本的には善人な気持ちがする。バナナのことが嫌でも、殺そうとするだろうか。ママがバナナの名前が嫌いなら、私に強く頼んで変えさせればいい。それはしなかった。何か隠し事があって、それに由来するのだろうか。
そもそも、チョコレートの発言にしても私の推理からすると一貫性がない。獣医さんがいる場面では、私の前でチョコレートが凶器であることを強調し、ココアの場面ではホットチョコレートを私から隠そうとしている。凶器がチョコレートと判明したところで、それを誰が与えたかなんてわからないのだから、隠す必要もあまりない気もする。
あるいは本当の凶器は、チョコレートではなくてココアだったのかもしれない。
『誰かの悪戯、かもですね。チョコレートをあげたのは』
それを隠そうとしてあのとき咄嗟にチョコレートの話題に移そうとした。
『うん。ホットミルクだよ』
ココアをホットミルクと言ったのも、それが手伝っていた。あのときココアも瓶から中身がだいぶなくなっていた。たまたまかもしれないが。
本当の凶器はココアだった。これも一応一貫性はある。とはいえ、特に根拠もない。
そもそも。パパにはアリバイがある。事件の日、パパは前日の朝から仕事で留守だった。事件の夕方に帰ってきて、バナナを見つけてその足で私を動物病院に連れて行った。カカオ中毒は、調べたところ食べてすぐ起こす類のものではなく、数時間から一日で起こすらしい。パパにチョコレートやココアを食べさせる機会はないと思える。
ママだって、一日外にいた。家にいたのは私だけだ。
家族の誰かがバナナを殺したなんて、考えすぎか。
父の章
バナナが死んだのが、春香のせいであることは、僕だけの秘密にしようと思っている。バナナは、春香が台所の机の上に出したままにしたココアを食べたせいで、死んだ。
春香は台所になんだって出しっぱなしにする。片づけるのは、いつも僕だ。
最初に居間で倒れていたバナナを見つけたのは僕だった。台所に不審な痕跡を見つけて、違和感を覚えてバナナを探した。
すぐに見つけた。あの日と同じで、何が起こったのかは明らかだった。
台所には、春香が出しっぱなしにしたココアパウダーの入った瓶が床に転がっていた。僕はそれを元あった場所に戻し、キッチンペーパーで掃除をし、手も石鹸で洗った。
ほんの数十秒のことで、ちょうどママも自宅へ戻ってきた。
その後でもっと大事な、バナナを病院に連れて行く作業があった。
ママには留守番をしてもらって、春香と僕でバナナを車で連れて行った。
『チョコレートあたりの中毒でしょうね。カカオの入ったものを。気の毒に』
獣医さんが凶器を仄めかした。春香がいたから、ココアの話題は避けたかった。
『誰かの悪戯、かもですね。チョコレートをあげたのは。それか犬をよく知らない人が』
このとき獣医さんはチョコレートこそが原因だと特定した訳ではないから、チョコレートが凶器と断定した僕の発言は不自然だったろう。しかし僕は自分が怪しまれる行動をとる方が、ココアに話題が移るよりはよかった。
『家族はみんな知っていました。中毒について。他の誰かが』
『屋外で飼っていたのでしたっけ』
『いえ』
僕は否定したものの、決まりが悪かった。
『家探しをしたチワワが、どこかで食べたとか。チワワは獰猛で好奇心旺盛ですからね』
嫌な流れだった。他の原因の食べ物の話題へと移る気がした。
『空き巣とかが、手懐けようとして、食べさせたのかもしれない。チョコレートを。それか中毒を起こすのを知っていてね。そういうのが、増えているでしょう』
僕は誤魔化そうとした。ココアを話題にしたくはなかった。
家に帰ると、僕は床に残っていたパウダーを片づけた。
そのとき、自分の衣服からカカオの匂いがしていた気がして、不安になった。自動車の道中や病院で、春香に悟られなかったか、気がかりだった。
『何を飲んでいるの』
先日、僕がココアを飲んでいたとき、春香が僕に訊ねた。あの子は時々、驚くほど勘がいい。隠す気持ちがはたらいた。
『ホットミルクだよ』
嘘だった。すぐに匂いで分かられた。あのときは冷や汗をかいた。
『ココア、一人で飲み過ぎじゃないの』
僕はその言葉にも焦った。ココアは瓶の中からごっそりなくなっていた。こぼれたものは、キッチンペーパーに包んで捨てたからで、僕は中身を新たに詰めるのを怠っていた。
『わざとチョコレートやココアをバナナの触れやすいところに置いておくの』
ママにも驚かされた。ママが犯人か、真相を知っているのかと思った。
『なんだって』
思わず問い詰めかけると、ママは呆気に取られた表情で、偶然ニアミスしていただけだとすぐ悟った。
『パパは、本当はバナナのことが嫌いじゃなかったかな』
『パパはさ、自分が人を殺すなら動機はなんだと思う』
ママも春香も、僕がバナナを殺したと思っている。それならそれでいい。真実はもっと、春香にとって残酷かもしれないから。
春香は春斗を殺したわけでも、バナナを殺したわけでもない。春香はうっかり屋で、小さなミスも多くて、それに思いがけない不幸が重なって、今回の事故も起こった。
『春香が殺した』
ママからそんな言葉を聞くのは、いつもうんざりだ。
『殺したのは、私なの』
春香にそんな風に言わせるのも、嫌だった。
ママだって、春香が殺したなんて、本当は思っていないだろうし、僕に打ち消して欲しくて、そう愚痴をこぼしているのだろう。
『殺したのは、私なの』
それが、ママの本心だと思う。その負担に耐えかねて、春香に責任を押し付けよう
とする。そんな自分が本当は嫌いで、でもわかってほしいと願っている。
『どうしても嫌だ。あんな名前』
バナナにチョコレートをあげようとしたのだってそうだ。僕に見せつけるような、大袈裟な動きをしていた。ママはただ、止めて欲しかった。自分の苦境を伝えたかった。その気持ちを汲み取った結果、とんでもない行動を僕が犯したと、ママは心配している。そんなこと、許されるはずがない。
僕は最近、どうしたらいいのか分からずにいる。春香のために吐いたつもりの小さな嘘が、どこまでも膨れ上がって、ママや春香を苦しめていて、家族を苛んでいる。嘘がいよいよ大きくなって、取り返しのつかないことになりそうな予感がする。
家族にとっての正解がどこにあるのか分からないけれど、破綻を迎えようとしている。春香がもう二十歳になって、事件から十年が経つ。節目の春は、随分と残酷な季節だ。
春斗やバナナが命を落としたのは、春香が全部悪いわけではない(春斗に関しては、僕たち夫婦の責任が大きい)。あくまでも事故だ。運命が殺した、あるいは運命に自殺を強いられた。そんな風に思わないと、立っていられなくなる。そんな残酷な日が、確かにあると思いたくなる。
バナナや春斗にとって、真実が暴かれないでいることは、幸福なのか、正しいことなのか、分からない。けれどもバナナも春斗も、春香を愛していた。二人への僕の精一杯の捧げ物は、春香の幸福を守ることでしかない気がしている。
第二話 狼の涙
父の章
僕は結構嘘を吐く。自分の中でルールがあって、相手を傷つけるとか、アンフェアな嘘はつかないことを信条としている。最近辛くなってきた嘘があって、それは自殺したことになっている、僕の元恋人だ。名前は「比企葉子」。名前は『ナイン=ストーリーズ』の「コネティカットのひょこひょこおじさん」からとっている。彼女は実在しない。
『大事な人に、いなくなってほしくないよ』
『春香だって、きっと同じ気持ちでいるよ』
『昔ね、僕の昔の恋人がね。自殺しちゃってさ』
『やっぱりそのとき、すごく耐え難がたかった』
『自分が殺した気持ちがしたよ。何か他にできたんじゃないかって』
僕は以前、ママに宥めた。「比企葉子」は、ママと共通の話題を作るために僕が生み出した「イマジナリーエクスガールフレンド」だ。
知人が自殺したのは、ママの方だ。
「子供の頃、親戚のおじさんが自殺したの。太っていて、よろよろ揺れながら歩いていたの。『梅田尊悟』さんって名前。『梅ちゃんおじさん』って、私は呼んでいたな」
昔、ママは教えてくれた。
都内のファミレスで過ごしていた大学生の頃のことだ。二人は大学時代、群馬が共通の地元で、距離を縮めていた。
「最後に梅ちゃんおじさんと会ったときのことが、忘れられないの」
ママは鼠のように、目を赤く潤ませて語った。
「『俺は人間のクズだ』
おじさんがそのとき零して。
『そんなことないよ。私は、本当のおじさんのことを知っているよ』
私はおじさんを慰めたの。
そうしたらおじさんは、一瞬びっくりしたような、困ったような顔をしたの。
『ごめんね。本当に。ごめんね』
おじさんが泣いて。数日して、おじさんが自殺したって聞いたんだ」
ママは当時「みーちゃん」という渾名だった。雰囲気が「未亡人」で略してみーちゃん。
「時々、考えるの。おじさんの言葉の意味。私に何かできたのかなって」
ママの白い額に、古傷のように青い筋が浅く眠っていた。
「おじさんとは、よく一緒に遊んだのかな」
「両親とも仲が良かったしね。たまにおじさんが私の家に遊びに来ると、私の部屋でボードゲームをしたよ。オセロと将棋とか。それくらいだけどね」
青い線の下で、ママは記憶の糸をたどる。
「動物が好きで。よくハムスターを連れてきて、一緒に遊んでくれたの。私の部屋で放してね。かわいかった」
額の青い線が、甘く解れる。
「そのハムスターがいたずらっ子でね。部屋を駆け回って悪さするわけ」
「かわいいね。名前は」
「名前。『赤ずきん』っていうの。赤いものが好きだから」
「変わった子」
僕は笑みをこぼした。
動物の大半は色盲だと思っていたがそうとも限らないらしい。例えば犬も明度の違いがわかるし、すいじょう体の種類が少なく認識しづらい色があるだけで、色が少しわかる。犬が色盲なのを利用したミステリーのトリックは間違いだ。動物も割合色がわかる。
「びっくりしたことがあって。その赤ずきんちゃんのことで」
テーブルの上には、僕の方にはアイスコーヒー、ママの方には紅茶があった。
テーブルにいるのは、ドリンクだけで粘る質の悪い学生二人だった。二人とも食が細くて、やせている。春香も食が細いが、あの子は太りやすい。
ママは紅茶を口へ運んだ。
「赤ずきんちゃんがね、おじさんの服のボタンをちぎって。私の部屋の箪笥のなかに隠したの。隠してあったのを、後で見つけた。衣服の上に、落ちていたの」
「箪笥。開きっぱなしになっていたのかな」
「それはないな。私、基本的に几帳面で潔癖症だし。不思議だったの」
確かにママは、ルーズな春香とは対照的だ。メンタルや体調が崩れると身の回りのことがややおぼつかなくなるものの、基本的に完璧主義で、本棚でも戸棚でも整理整頓に拘る。春香はよく、ルーズなところを咎められて育ってきた。
潔癖症も極端なくらいで、自宅には埃は欠片もない。
「なんでか、分からない。ハムスターじゃ、箪笥は開けられないからね」
ママは考えるそぶりをした。
「後ろに穴が空いていたとか」
「なさそう」
ママは、髪を後ろで束ねる仕草をする。春香に似た、長い癖毛だ。
「どこから入ったんだろう」
「謎。パパもわからないでしょ」
「そうだね」
どこかで、引き出しが開いたタイミングがあったのだろうか。
「忘れられない。おじさんの気持ちが、知りたかった」
しんみりと、ママは独り言のように呟いた。
そんな、梅ちゃんおじさんの話に合わせるための比企葉子の話に、どう引導を渡そうか、考えている。
ハルカの章
ママは小さい頃、私に創作童話を作って聞かせてくれた。ママは読書が好きで、それから霊感を得て、いろいろなストーリーを組み立ていた。
印象に残った話の一つに、「ゆらゆら狼おじさん」という、「赤頭巾」のパロディのような話があった。主人公のマナミ=カナーメは、旧姓「鹿目真奈美」であるところのママ自身がモデルだろう。
作品のラストが暗示的で、ママがモデルなこともあって、特に記憶に残っている。
こんな感じの内容だった。
【ゆらゆら狼おじさん
昔々、あるところに、悪い狼がいました。悪い狼は、普段は森の中に住んでいるのですが、時々街へと出かけることがありました。そのとき狼は、人間の中年男の姿に化けていました。狼は人狼で、人間の姿と狼の姿を使い分けられました。
狼の変装は完璧ではなくて、人間に化けても狼の習性が手伝って、うまく二本の足で歩くことができません。ゆらゆらと足を引きずる歩き方をします。狼も年寄りなので、中高年にしか化けられませんでした。
狼は、若い女の子の肉が大好きでした。柔らかい歯応えが大好きで、特に小さな女の子が好きでした。
狼はあるとき、街でかわいい女の子を見つけました。名前はマナミ=カナーメといいました。マナミは赤い色が好きで、いつも赤い頭巾や上着を着ていましたが「赤ずきん」とは呼ばれず「マナミちゃん」と呼ばれて街で可愛がられていました。マナミは街で若い両親と暮らしていました。マナミの両親は彼女を可愛がっていたので、滅多に遠出はさせませんでしたし、森へなんて絶対行かせませんでした。
狼はマナミを食べたかった。まずはマナミの両親をなんとかしなくてはいけない。マナミのパパを始末してパパに変装することを考えましたが、老いた狼は、若いマナミのパパには化けられません。それにマナミの両親はたいてい、自警団の守る街にいます。
困った狼でしたが、あるとき街をゆらゆらと彷徨う人狼の耳に、町人の世間話が聞こえてきました。
「知っているかい。カナーメさんの家族」
狼は耳をピクリとさせました。「カナーメさん」といえばマナミの一家のことです。
「マナミちゃんのおじいさんがね、森で一人住んでいて。弱っているらしい」
「かわいそうに。家族は面倒を見てあげないのかい」
「真面目で頑固な人でね。家族の世話になろうとしないんだ。森で狩猟や採集をしつつ、時々街で買い物をするらしいんだけれど。しばらく街にも顔を出さないそうでね」
「それは心配だね」
そんな話が聞こえました。
これはしたり。そのおじいさんを始末してすり替わればいいのです。
狼は早速、おじいさんの家について聞き回ります。おじいさんは射撃の名手だったそうで、自警団での活躍や朴訥な人柄から、中高年の間ではそれなりに有名でした。聞き込みをした狼でしたが、首尾は上々です。
やがて居所を突き止め、そこに向かいます。
森の小さな炭焼き小屋に、おじいさんは住んでいました。
「ごめんください」
マナミのおじいさんの家の前で、狼はドアをノックします。返事はありません。
「入りますよ」
狼は中へ入ります。
花の香料の香りがしました。それに傷んだ肉の饐えた匂いが混じっています。
狼はベッドの膨らみに気がつきました。
「おや」
それはマナミのおじいさんでした。こちらに気がつく様子もなく、音もなく目を閉じています。
死体の臭いが鼻腔に染みました。おじいさんは亡くなっていたのです。
ラッキー。弱っていると聞いていましたが、病気か老衰で亡くなったのでしょう。
そのまま服を奪って、狼はおじいさんに化けます。
次に狼は、その姿でマナミの家にむかいます。
とんとん拍子で事が進んで、狼は上機嫌です。
二階建ての、レンガ造りの新築に、マナミの家族は暮らしていました。目印に、赤い煙突がそびえています。
「こんにちは。私だよ」
狼はカナーメさんの家を訪ね、ドアをノックしました。
はい、と男の声がして、ドアの向こうに誰かがやってきます。
「おじいさん。お元気でしたか。最近音沙汰ありませんで、心配しておりました」
マナミのパパが出迎えます。
「少し風邪で寝込んでいただけさ。ところでマナミは。マナミに会いたくてね」
「今は買い物です。お部屋で待っていてください」
お父さんは案内してくれます。
これであとは部屋で待ってマナミが来るのを待つだけです。
階段を上り、二階のマナミの部屋に向かいます。
しめしめ。階段で下品ににやける狼です。
狼は、目的の部屋に足を踏み入れます。
潔癖症のマナミの部屋は、子供部屋とは思えないほど、整っていました。
部屋に入ると、不意に狼は気分が悪くなりました。
「なんだこれは。銀か」
狼は眩暈と吐き気に襲われます。
マナミが部屋に隠しておいた銀のお守りの力でした。迷信ぶかいマナミは、部屋に怪物が来たときに備えて銀のお守りを仕込んでありました。
「これしきのことで」
狼はよろめきながら部屋の中を調べました。元々二足で歩くのが苦手な狼は何度も転びながら、箪笥や棚の中を探し回りました。
「あった、あったぞ」
狼は銀の十字架を箪笥の中に見つけると、それを窓から放り捨てました。
「気分が悪い。吐きそうだ」
狼はふらふらでした。マナミを食べたい気持ちも、今は起こりません。
激しい吐き気と頭痛に襲われて、早く寝て休みたく感じます。
「一度森へ戻って、立て直そう」
狼は考えて、マナミの家から退散しようとします。
フラフラで、階段を下りるのも、やっとでした。
「おじいさん、どちらへ」
家を出ようとするとマナミの父に呼び止められました。
「急に気分が悪くなってね。歳のせいかね。また出直すよ」
「どうぞお気をつけて。マナミによろしく伝えておきますよ」
マナミのお父さんが心配そうにします。
狼は、よろめきながら家を出ていきました。
お父さんはその背中を、どこか引っ掛かりを覚えつつも見送ります。
狼が出てから少しして、マナミが帰ってきました。
「おかえりマナミ」
お父さんはマナミに声を掛けます。
「おじいさんとすれ違ったわ。体調が悪そうだった。様子も変」
マナミは不安そうにします。
「おじいさんがね、さっきお前に会いにきたんだよ」
「タイミングが悪かったな」
マナミは残念そうな顔をします。
階段を上がって自室へと戻り、部屋着に着替えようとマナミは箪笥を開けます。
「おや」
そこにあったのはボタンでした。しかもそれには見覚えがあって、おじいさんのお気に入りのコートのボタンでした。おじいさんが、私の部屋を物色したのだろうかと、潔癖症なマナミは気分が悪くなります。マナミは私物に触れられるのが嫌いです。
不意に妙な胸騒ぎがしました。
そういえば。マナミはすれ違ったおじいさんへの違和感を思い出しました。おじいさんはいつも花の香料を身につけていて、いい匂いがしました。すれ違った時のおじいさんは、獣のような嫌なにおいでした。歩き方も変だった。おじいさんは右足が悪く引きずる歩き方でしたが、すれ違ったおじいさんは横にゆらゆら揺れながら歩いていました。
さては。マナミは思い至り、箪笥の引き出しにしまった銀のロザリオを探しました。
「なくなっている」
果たして、銀の十字架がなくなっていました。
マナミは、お父さんの元へ駆けていきます。
「お父さん。さっきのおじいさん、変じゃなかった」
マナミはお父さんに訊ねました。お父さんは訝しそうにします。
「いつもと様子が違わなかった」
「そういえば」
お父さんは思い出したようです。
「声が違っていた。風邪のせいかと思ったけれど。獣臭い、嫌な匂いもして」
お父さんは記憶を手繰ります。
「それよ。さっきのおじいさん、偽物かもしれない。私の部屋の銀の十字架のお守りがなくなっていたの。あれは人狼で、人狼がお守りを捨てたのかもしれない」
「一度おじいさんの家を訪ねてくるよ。何かあったのかもしれない」
お父さんは状況がのみこめないながらも返します。
急ぎ、お父さんは街の自警団を引き連れて、おじいさんの炭焼き小屋へ行きました。
そこでおじいさんの亡骸を発見します。
「やはりか。ああ、父上」
お父さんは、力なく項垂れます。幸い、おじいさんには外傷はなく、安らかに眠ったものと思われました。死んでからしばらく経っていることは明らかでした。
面倒を見てあげられず、お父さんはふがいなく感じます。
「さっきのおじいさんは偽物か」
お父さんは自警団の人に事情を打ち明けました。
「人狼は狡賢く、執着心が強い。また娘さんを狙うだろう」
自警団の男は渋面で心配します。
「どうしましょうか」
不安そうな面持ちをつくるお父さん。
「すぐにここから離れよう。おじいさんが死んでいると我々が気付いてないと見せかけるんだ。そうすれば、やつはまたボロを出すさ。きっと、また娘さんを訪ねてくるだろう。我々がお宅に張り込みをするから、やつを誘い出してほしい」
自警団の男は提案します。
マナミ一家と自警団は、人狼を家に招き寄せ、退治する計画を立てます。マナミが囮になることに決まりました。両親は嫌がったものの、マナミが自ら願い出たのでした。
数日後、また狼はマナミの家へやってきました。今度もおじいさんに化けていました。
「マナミに会いに来たよ。この間はすまなかった」
狼は出迎えたマナミのお父さんに頭を下げます。
「マナミも待っていましたよ。どうぞ二階へ」
お父さんは狼を案内します。
しめしめ、と思いながらマナミの部屋へと入る狼でした。
今度は銀のお守りはなかったのか、嫌な気分になりません。それに狼は銀のお守りに備えて、「月の石」を携帯していました。この霊石があれば、銀の効果にしばらく耐えることができます。
「こんにちは、おじいさん。久しぶり」
マナミが、こちらを見つめて微笑みます。
「やあ、マナミ。久しぶり」
緑の瞳がじっと自分を見ていました。その緑を、狼はどこかで見たことがありました。
不意に、狼に懐かしい気持ちが込み上げます。
「マナミ」
狼の目から涙が溢れます。
思いがけないことに、不思議そうにするマナミです。
「泣いているの」
マナミは呆気にとられて狼を凝視します。
「久しぶりに会えるのが嬉しくてね」
狼が泣いたのは、マナミの緑の瞳が、狼の孫とそっくりだったからでした。狼の孫は、猟師に撃たれて子供の頃に殺されました。
狼は急に、マナミを食べたい気持ちが失せました。マナミが愛おしく、罪悪感が込み上げてきたからです。
「くそ」
狼は自棄のようになります。
「どうしたの、おじいさん」
怪訝そうにするマナミ。
マナミの緑の瞳は、狼を責め立てているかのようでした。
「俺は」
狼は声を震わせます。
「俺はクズだ。最低のクズだ」
狼の口からそんな言葉が溢れます。
マナミは深呼吸します。きっと、大丈夫。呼吸を整えます。
じっと、マナミは狼に視線を向けます。
「おじいさん、大丈夫だよ」
マナミは眼に、狼を真っ直ぐ捉えます。狼は、眉を顰めるのでした。
「私、知っているよ。おじいさんの本当のこと、知っているよ」
マナミの緑の水晶は、静かに狼を見据えます。そこには淡い炎が宿っていました。
狼の顔は俄に青ざめます。
空気を裂く火薬の弾ける音が数回響き、窓が震えました。
硝煙の酸味を帯びた香りをマナミは鼻腔に感じ、生温かいものが頬を伝います。
倒れたおじいさんの、体に穴が開いています。姿も狼のものに戻っていました。
潜んでいた自警団の男たちが現れます。それから、マナミの両親も。
「穢らわしい狼め」
若い自警団の男が吐き捨て、人狼の亡骸を蹴飛ばします。
「マナミ」
お父さんがマナミの元へ駆け寄ってきました。返り血が移るのを気にもとめません。
「怪我はなかったかい。許しておくれ。危ない目に遭わせたね」
お父さんは泣きながら、マナミに謝りました。
「大丈夫だよ、お父さん」
マナミはお父さんを優しく元気づけようとします。
自警団や町の人は、二人を穏やかに見守っています。
「みんな、ありがとう」
マナミもつられて涙ぐみます。
目頭を拭いながらマナミは、狼が流した涙のことを思い出しました。あの涙は、なんだったのでしょうか。
こうして悪い狼は退治されて、マナミ家には平穏が訪れました。めでたし、めでたし。
けれども狼との最後のやりとりを、マナミは忘れられず、その緑の瞳はときどきあの日をぼんやり眺めるようになったのでした。
おしまい】
母の章
パパの「比企葉子」という元恋人の話、私は多分嘘だろうと思っている。私に話を合わせるための嘘。面白いので気がついていないふりをしている。パパがどんな設定を転がすのかが、愉しい。パパは嘘を吐くとき、独特の無表情をするのでわかりやすい。
ただ最近、本当に嘘なのか自信がなくなってきた。
「比企さん、どんな人だったの。見た目は私と似ていたかな」
私は正面の席に座るパパに問いかけた。近所のファミレスで外食していたときのこと。月曜の夜で、そこそこ賑わっていた。
「あまり似てないかなあ」
パパは懸命に思い出すふうに答えた。
パパは顔が赤らんでいた。ビールを少し飲んでいたからだ。二人とも仕事が翌日にあるので、あまり飲んではいなかった。
「芸能人なら誰かな」
「テレビ観ないからな。動物なら羊かなあ」
パパはぼんやりと返す。羊。なんだよそれ。
パパは、口元のビールの泡をナプキンで拭った。
パパはフライドポテトを箸で攫って、口へ運ぶ。食べる所作が丁寧だ。
「趣味とか、性格は」
「暗いんだけども、無理に明るく振る舞う方だったね。自虐で、みんなを笑わせるタイプ。家庭環境が悪かったから、道化的な性格。趣味はね、太宰治とかは自分と近すぎて嫌で、チェーホフと庄司薫が好きだったよ。でも太宰の『お伽草子』とか好きでね。お伽噺のパロディのやつね。
漫画だと吉田秋生とか。静謐なムードが好き」
パパは恍惚と追憶に浸る瞳をした。
設定を作るのが上手いし、それに共感するのも巧い。
「剽軽。持ちネタはあったの」
「『ポイの破れた金魚掬いとかけまして、私の人生と解きます』
で、『その心は』って訊かれると、
『どちらも救いようがありません』
って答えるの。笑いづらくて白けるから、すべり芸になるの」
パパが懐かしむ。本当らしい、穏やかな笑みがうかがえた。
「かわいいね」
私はジョッキのビールを一口飲んだ。安酒は、ビールに限る気持ちがする。
枝豆を口に運びかけて、やめた。大分、お腹が満ちている。
「あだ名がいくつかあってね。赤ずきん、金魚とか。いつも全身赤い服を着ていたから」
パパは肌が白いので、随分顔が赤くなっていた。
「何か理由はあるの」
「他人からの評価を気にする性分でね。知り合いに『赤が似合うね』って言われたら、赤ばかり着るようになってね。そしたら今度は赤ずきん、金魚とかネタにされて、笑われて。それはそれで嬉しいらしくて、赤がトレードマークになって」
「可愛い」
どこかで聞いた覚えがある気がした。
「本当に可愛いんだ」
パパが赤い頬を緩める。
私は少し、戸惑いを感じた。比企葉子って、実在するのだろうか。ポーカーフェイスは苦手なはずだ。嘘をつきながら、架空の存在に心から(に見えるほど)の愛着を嬉々として語る。そんな器用な芸当ができたろうか。
もう少し人となりについて詮索してみることにした。
「その子のどんなところが好きだったの」
「難しいな」
パパは、虚空のうちに答えを探す。
瞳の下に、頬が紅く喜色を浮かべた。大切な過去を、手繰り寄せるように求めていた。
「誰よりも優しいところ、まず他人本意で生きていること」
「なるほど」
ちょっと嫉妬しそうになった。
私は、ふと自分の額に触れた。酔うと、とくに額の青筋が目立って、嫌な性分だ。睨む顔は似ていても、春香にそこは遺伝せずよかった。
「二人の馴れ初めは」
「高校のとき、同じ部活でね。文学研究会みたいなの」
「読書つながりね」
首肯するものの、消化不良な私。
なんだかアルコールでお腹がヒリヒリする。
自殺の原因は訊ねられないものの、何に悩んでいたのかは気になる。
「やっぱり色々悩みとか多かったのかな」
「そうだね」
パパは物悲しそうにする。
「家族の確執。それがあの子の生きづらさに繋がっていたかな。彷徨う子羊」
パパは遣る瀬無い面持ちをする。
パパはジョッキのビールを思い切り飲み干した。
納得いかない私は、控えめにビールを口にした。
急に自信がなくなった。これまでパパは嘘が顔に出るタイプだから、本意は解らずとも、嘘をついていることは分かり易いと思っていた。急にポーカーフェイスが上達したのか、比企さんを語るパパの表情は真に迫っていた。なぜだろう。
ハルトの章
パパとママが食堂でお酒を飲みながら喋っている。金曜の夜、予定が合うと二人はたまにこの宴を開く。二人とも、ずいぶん顔が紅潮している。
「嘘つき野郎」
ママがパパに、にやけて嗾ける。
「そろそろ吐け。比企葉子、本当はいないんだろ」
ママがニヤニヤする。ママはちょっと(どころではないかもしれないくらい)酒癖が悪く、飲むと一転して陽気になる。よそで飲むときは、ずいぶん自制するようだ。
「すみません」
パパが目を潤ませる。パパは酔うと泣き上戸になる。いつもの我慢の堰が切れる。
「比企葉子さんの話は、確かに嘘です。彼女は生きています」
「実在するの」
「それも正確ではありません」
「どういうこと」
「比企葉子は存在しません。でもモデルは実在します」
「なるほどなあ」
ママは納得した風にする。
それからミニグラスの中身を呷る。ウイスキーのミルク割り。ママは、ウイスキーを炭酸やミルクで割るのが特に好きだ。
「比企さんの話をするとき、本当に愛着を感じているようだった」
ママは赤ら顔を綻ばせる。
「その通りです」
パパは缶ビールを控えめに飲む。
「モデルは誰」
「内緒。ベースとなった人間の他に、何人かモデルはいます。ただ自殺した人はいません。ママに寄り添いたくてそんなエピソードを盛ったんです」
「許してやる」
ママがにやける。神経質な癖毛が、今は野生味を帯びて感じられる。
「すんません」
パパが詫びる。
パパは爪で缶を何度か弾く。それをママはじっと見て、何かに思い至る。
「一つ、私に聞かせて」
パパは、ママの額の青い線を不安そうに注視する。そこで何が閃いたのか、心当たりがあるのだろう。
「モデルと私、どっちが魅力的で、どっちが大切」
「それは」
パパは言葉に詰まった。
「選べないです」
パパはため息混じりに返す。
ママは、にやりとする。得意そうに、グラスを爪で弾く。
「春香」
ママの出した結論に、パパが顔を顰める。
「当たり」
「やっぱり」
ママが顎を満足そうに摩る。
コップのウイスキーを、ママは豪快に飲み干す。
満足そうに、ママは吐息をこぼす。
「愛しい女性として春香をベースに比企葉子の話を組み立てた。それに限界や苦痛を感じるようになった」
ママの話に、パパは口をすぼめる。
「春香にいなくなって、ほしくないから」
ママがしんみりと漏らす。パパは深く頷く。僕は舌打ちをする。
「そうだよね」
ママは虚空を眺めて、ひとりごつ。
パパの綺麗な横顔の線が、悲痛な憂いを描く。
「比企さんの話、この辺りでおしまいにしちゃおうか」
「終わり」
パパは不思議そうな表情をする。
「ハッピーエンド。実は生きていた比企さんがどう幸せになるのか、顛末を教えてよ」
ママが穏やかな笑みを浮かべる。アルコールでなく、慈愛に満たされた声色だ。
「いいよ」
パパが小さくにっこりする。
パパは、赤い顔で息を深く吸って、呼吸を整える。
「比企葉子さんは、家庭の不和に悩んでいました。比企さんの家族は、昔起こった事件をきっかけに変わった。比企さんの弟が事故で亡くなったのです。比企さんはその事件から自虐的になって、事故に対する責任を感じました。
苦悩から、ある時比企さんは住んでいるマンションの屋上から飛び降りました。
下にはマットレスが敷かれていました。
『葉子、大丈夫』
マットレスに着地した比企さんの元へと両親が駆け寄ってきました。
『これまでのこと全部、ごめんなさい。もう一度、家族をやり直しましょう』
比企さんのお母さんが言いました。
比企さんの家族はまたひとつにまとまり、荒地のようだった関係は修復されました。
おしまい」
パパが微笑んで語り終えた。
ママも、静かに頷いた。ほろ酔いのような、満たされた笑顔をたたえていた。
押し寄せる孤独と憎悪に、僕は酔い潰れた。
ハルカの章
怖い話を知り合いの早瀬桃花さんから聞いた。
「私の周りで起こったこと。荻野ってヤバい男がいてね。荻野は外面がいいんだけど、遊び方が派手でね。誰に対してもニコニコしているんだけれど、付き合いだすと話が別で、急にモラハラっぽくなるんだよね。そいつ何股もかけていて。で、ばれそうになると
『これからまともになるから』
とか泣き落としにかかったり
『もう限界かも』
とか自殺を仄めかして乗り切ろうとするらしい。結構モテて。まあイケメンで高身長で。
そいつの元カノがね。名前は内緒。ポルノサイトに自分の部屋の動画があるのを見つけて、震え上がって。自分が行為中の動画とか着替えの動画とか、幾つも投稿されていて。
なんでポルノサイトを調べていたかというと、ネットで怖い話を聞いたからなんだって。以前交際していた相手に勝手にカメラを設置されて撮られていて。それがネットで販売されていたり、そこからさらに無断転載されていたり転売されていたりして。
その子も身の回りで違和感を覚えて。荻野と過ごしていた時期に、身の回りの家具とか物品の配置が変わっていて、手を加えた形跡があった気がして。箪笥の奥とか変な場所から荻野のアクセサリーが落ちていて。荻野に甲が渡したやつで、内側に名前が彫ってあるんだけれど。天使の羽みたいなデザインだって。
ポルノサイトを探ってみたら、実際に自分の動画があって。動画のアングルとかからカメラを探したけれど、流石に残ってなかったらしい。荻野と付き合っていたのも、もう二年と一ヶ月前だったし。それで、泣き寝入り。
サイトには動画を削除してもらったけれど、証拠がないし、警察に相談しても相手にされそうもないし、届け出るのも負担で。ネットで件の動画を販売しているのも荻野ではなさそうで、『下請け』から買い取ったか何かした動画を販売している感じ。その子も人間不信になってね。
春香さんも気をつけて。ストーカーの盗撮とか盗聴が流行っているらしいから」
早瀬さんはしみじみと語っていた。
「早瀬さんも、気をつけようね」
私は男性と交際経験もほとんどないから、自宅に盗撮カメラを仕掛けられる恐怖は味わったことはないが、戦慄した。
それになんとなく、この話は早瀬さん自身が経験したか、創作だという気がした。引っかかったのは指輪の話だった。
『箪笥の奥とか変な場所から荻野のアクセサリーが落ちていて。荻野に甲が渡したやつで、内側に名前が彫ってあるんだけれど。天使の羽みたいなデザインだって』
アクセサリーについての仔細を、相談や打ち明け話の際に伝えたりするものだろうか。端折る部分だろう。荻野氏の指輪が落ちていた、で済む話だ。
『荻野と付き合っていたのも、もう二年と一ヶ月前だったし』
ここも話を聞いていて変だった。相談して伝えるにしても「かなり前」とか「数年前」になりそうだ。「二年前」と伝えるかもしれないけれど、「二年と一ヶ月」なんて、妙に細かくておかしい。早瀬さんは義理堅い方だから、あんな風に相談された内容を軽はずみに話すことはしない気がする。
『マナミはおかしなことに気がつきました。そこにあったのはボタンでした。しかもそれには見覚えがあって、おじいさんのお気に入りのコートのボタンでした』
私は不意に、ママから昔聞いた「ゆらゆら狼おじさん」を思い出した。モデルがママであること、含みのある終わり方など、小さいころから引っ掛かっていた。
あれは親戚になりすました狼の話だったが、モデルがいたのかもしれない。狼おじさんの話には、狼おじさんがマナミという少女の部屋を物色して、彼女を襲う準備をする場面があったからだ。
『マナミはおかしなことに気がつきました。そこにあったのはボタンでした。しかもそれには見覚えがあって、おじいさんのお気に入りのコートのボタンでした。おじいさんが、私の部屋を物色したのだろうかと、気分が悪くなります』
早瀬さんが話した、部屋にカメラを仕掛ける荻野さんの話とそれが重なった。狼おじさんはママの身近で起こった、性暴力をモデルにしているのかもしれない。あの話は、ずっと私の中で引っ掛かっていた。
なぜそれをモデルにして話をするのか。いくつか仮説がある。まず一つには、共感を求めてだ。幼い私にそのようなセンシティブな話題を共有するのは難しい。童話に仮託すれば、共感されつつも、伝えづらいディテールをオブラートに包むことができる。ママの周りでも盗撮事件があったのかもしれない。その事件で疎外感を味わい、孤独を慰めるために、加工して婉曲に過去の事件を語ったという仮説だ。
『けれども狼との最後のやりとりを、マナミは忘れられず、その緑の瞳はときどきあの日をぼんやり眺めるようになったのでした』
もう一つは、答えを探そうとしてモデルの事件を加工しているという説だ。自分の周りで性暴力疑惑がある出来事があった。けれども具体的に何があったのか、また本当に性暴力事件が起こったのか、確証が持てずにいる。
だから事件の真相に関して整理するため、加工した内容の作品について私と語り合う中で、その事件について自分の中で結論をまとめようとした。そこでゆらゆら狼おじさんの話を考えついたのではないだろうか。
そうだとすると、ゆらゆら狼おじさんのモデルとは何者だろうか。ママが話した狼おじさんは、マナミの祖父に変装していた狼だが、現実において親戚や知り合いに誰かがなりすましているということは考えづらいだろう。それならばなんのメタファーだろうか。
『狼は急に、マナミを食べたい気持ちが失せました。マナミが愛おしく、罪悪感が込み上げてきたからです』
もしかしたらそれは誰か特定のモデルの変節を描いたものだったのかもしれない。過去には優しかった人間が、何かのきっかけで変わった。加害性を秘めた存在になった。ゆらゆら狼おじさんの変装が意味するのはそんなところかもしれない。
それから、気になるのは狼おじさんの涙の場面だ。
『俺は。俺はクズだ。最低のクズだ』
そんな風に狼おじさんが言う場面がある。
『私、知っているよ。おじいさんの本当のこと、知っているよ』
マナミはそう狼おじさんに返す。童話の中でも特に印象的な場面だ。マナミのモデルがママだとするのならば、ママは「本当のこと」を知っているのだろうか。あるいは慰めようとした言葉が、思いがけず相手の痛いところを突いた過去があるのだろうか。
『倒れたおじいさんの、体に穴が開いています。姿も元の狼のものに戻っていました』
おじいさんは、マナミの家族の作戦で命を落とす。もしかしたら、作中のマナミのように、狼おじさんのモデルの死や破滅に、ママが関与したのだろうか。
よくわからない。全部、憶測でしかないから。
父の章
ママが話していた梅ちゃんおじさんは、性犯罪者だったのかもしれない。
『その赤ずきんちゃんがね、おじさんの服のボタンをちぎってね。何か知らないけれど、私の部屋の箪笥のなかに隠しちゃったの。隠してあったのを、後で見つけたの』
ママの言葉を思い出す。ハムスターがそこへ隠したのではないだろう。ならばそれはおじさんがそこへ落としたのだろう。ママの衣服を物色したのか、あるいはカメラを仕掛けようとしたのか、わからないけれど。
『〈俺は人間のクズだ〉
おじさんがそのとき零して。
〈そんなことないよ。私は、本当のおじさんのことを知っているよ〉
私はおじさんを慰めたの。
そうしたらおじさんは、一瞬びっくりしたような、困ったような顔をしたの。
〈ごめんね。本当に。ごめんね〉
おじさんが泣いて。数日して、おじさんが自殺したって聞いたんだ』
おじさんの懺悔の意味は、ママへの罪悪感だったのかもしれない。罪の意識が、おじさんを自殺へと駆り立てた。性暴力のターゲットにしようとしていた相手からの思いがけない同情の言葉が、おじさんを死へと駆り立てたかのかもしれない。あるいはそれとは別に、警察の追及を逃れえなくなったからか。
しかし、と僕は思う。ママはおじさんの加害の可能性に本当に気がついていないのだろうか。神経質で潔癖症なママのことだ。自分の部屋から異性の身につけているものが見つかったら、まずそれを疑いそうだ。
このおじさんの話とは脱線するが、ママは子供の頃、母方の祖父母の家に遊びに行ったら勝手に自分のマフラーを祖父に使われたことがあって、心底気持ち悪くて、一時期遊びに行くのを嫌がったらしい。それに気がついたのは、マフラーにタバコの匂いが移っていたからだそうだ。咎めると祖父に泣き落としされるのもうんざりだったらしい。
このことからわかる通り、ママは不審な痕跡を自分の衣装棚や箪笥に見つけたら、すぐ誰かの物色を疑って気味悪がる性分だろう。
ママはおじさんの意図に気がついた。神経質だから、疑いがあったらまず家族に相談するはずだ。「梅ちゃんおじさん」の話はそのことを省いて脚色している可能性が高い。
「おじさんの本当のこと」にママは気がついて、告発した。その後で、おじさんは自殺した。そんな事件が実際には起こったのかもしれない。
もしそうだとしたら。やはり認めたくはないだろう。自分がおじさんの命を奪った、ということを。
もちろん、おじさんが性犯罪者でママを狙っていたならば、ママに非があるはずはないし、そもそもママの行動など関係なく、逮捕を恐れて自殺したのかもしれない。
それでも自分の行動が一パーセントでも他人の自殺の原因になったら、責任の有無とは別に、寝覚が悪い。
『昔ね、僕の昔の恋人がね。自殺しちゃってさ』
『やっぱりそのとき、すごく耐え難がたかった』
『自分が殺した気持ちがしたよ。何か他にできたんじゃないかって』
僕は自分がママについた嘘を思い出す。自分が殺したと、否応無しに思わされるのは辛いことだ。春斗を失ってから、特にそう思う。
春斗の件とは違って、自分に責任はないとしても、自分の側に正義があって、何ら非はなかったとしても、それが原因にはなったという事実は、自分を苦しめる。
だからママは、僕にそんな話をしたのかもしれない。
『春斗を殺したのは、私じゃないの。春香なの』
ママがそんな風に嘆くとき、僕は決まってこんな風に宥める。
『春斗を殺したのは誰でもない。事故なんだ。誰も悪くないんだよ』
僕自身の本音ではなくて、僕たち夫婦には一定の責任がある。短い買い物とはいえ、春斗も三歳くらいである程度物事を考えられるとはいえ、春香に命を預ける真似は、あってはならなかった。一生背負わなくてはいけない。
それでも誰かが故意に春斗を「殺した」訳ではない。事故であることに疑いはない。誰も悪くない、とは思わないけれど、春斗を「殺した」のが誰でもないのは、本当だ。
『春斗を殺したのは。私なの』
ママはよく、そう泣きじゃくる。
『誰も、殺してなんかいないんだよ』
ママはきっと、僕にそんな風に、いつも打ち消してほしいのだろう。自分一人では確信が持てないから、僕の力を借りたい。自分が誰も殺してはいないという実感を、他人からの言葉から得たいと願っている。
『時々ね、考えるの。おじさんの言葉の意味。私に何かできたのかなって』
ママはきっと、僕に否定してほしいのだろう。ママが梅ちゃんおじさんを「殺した」ことを。おじさんの物語の真実に気がついたその先で、ママに原因があるのかもしれないその死に関して、責任がないことを認めてほしいのではないか。一人では受け止めきれない懸念を僕にも思い至らせて、その責任を否定してほしいのではないか。
そんな思いでおじさんの話を語ったのではないだろうか。
ハルカの章
友人の松村薫さんから、とんでもない話を聞いた。学食で食事をしていた時のことだ。
「早瀬桃花さんの話。嘘なんだよ」
ニコニコして松村さんは教えてきた。松村さんは私の幼馴染だ。マイペースで、心根は優しい。冬でもいつも健康そうに日焼けしていて、ショートカットに拘りがある。
「嘘なの」
「作り事。荻野も架空の存在」
笑顔で松村さんは答えた。
「ポルノサイトを見ていて、自分の部屋の動画が見つかるとか。偶然にしても出来過ぎ」
松村さんは呆気に取られる私にさらに教えた。確かに違和感を覚える部分が多かったことを思い出した。そのせいで、早瀬さんの体験や創作ではないか、と思っていた。
「なんで嘘をつくの」
「早瀬さんと一緒に家で遊んだことある」
松村さんが口にものを含んだまま、ニヤニヤ訊ねてきた。
「何度かね」
「それが原因だね」
「はあ」
訳が分からなかった。
松村さんは、ナポリタンを頬張る。
松村さんは口についたケチャップを指で拭う。私よりずぼらだ。
「部屋が汚かったんだよ。だから恋人やストーカーの盗撮被害の話をしたの。片付けてほしくてね。ハウスダストアレルギー持ちだから」
「訳が分からないけど」
「盗撮被害の話をしたら部屋の中を点検する可能性が生まれるでしょう。そう誘導したかったの。昔から、早瀬さんは狼少年なの」
確かに私の部屋は、割と汚い。ママに痛めつけられてきたこともあって、汚部屋でもないけれど、掃除の仕方は気まぐれで、掃除しにくいところには埃が溜まっている。
「それって昔からなのかな」
「昔はベッドの下に斧を持った男がいる都市伝説を伝えていたらしいの。子供の頃ね。それが説得力無くなったから、新しい話を考えたって」
松村さんは口にものを含んで喋る。汚くてひやひやする。
私はトレイの上のクロワッサンを、口害から守ろうと、自分の方に寄せる。
「回りくどい」
「そうだね」
退屈そうに松村さんは欠伸して、目を細めた。
「なぜ松村さんはそれを知っているの」
「私が真に受けて、被害者を心配していたら、ネタバラシしてくれたの。本気で信じてくれている人にはネタバラシしていいって言われたからね。伝えたの」
松村さんは背中に手を突っ込んで掻く。
私は自分のクロワッサンの欠片を集め、ナプキンに包む。
「もう一つその話に理由があってね」
あくびでうるんだ瞳を、松村さんは指でこする。
「昔デートDVに遭って。恋人からね。トラウマだったんだって」
俄かに真剣な表情をする松村さん。
「異性や同性の友達から、無碍に扱われて。この話にどう反応するかを、関係を継続していけるかどうかのシグナルに使っているらしい」
「近いことは本当にあったのかな」
「盗撮とは違うけど、何かあったみたい。実際のデートDVを脚色して、他人の話としてストーリーにした、みたいな」
「咎められないな」
松村さんと同じレベルの汚部屋に潜んでいると思われていたのは心外だったが、早瀬さんの気持ちも分かる。
「そうだよね」
松村さんはそのままパスタを大口に頬張った。
正直その話もどこまで本当なのか、確信が持てないものの、早瀬さんの疑心暗鬼やしんどい状態は本当な気持ちがした。
それにやっぱりこの話は、自分が性被害にあったことを暗示するエピソードではないかと、先日抱いた懸念を強めた。それに思い至らせ、相手を試す話ではなかったか。自分の孤独を救ってくれる人を探すための物語ではなかったか。
『狼は、若い女の子の肉が大好きでした』
それからママのゆらゆら狼おじさんの話をまた思い出した。
ママにも、同様の性被害の経験があったのかもしれない。周りは聞き入れてくれなかった。泣き寝入りするよりなかった。報復のために、遠回しに対象を告発するストーリーを吹聴するようになった。それを私に思い至らせようとしたのかもしれない。
「ゆらゆら狼おじさん」の元ネタは、名前からしておそらくはママの好きなサリンジャー『ナイン=ストーリーズ』の「コネティカットのひょこひょこおじさん」だろう。この作品において、現在の結婚に不満で過去の死のトラウマに囚われ、自分の変化を嘆くエロイーズが描かれる。娘ラモーナがイマジナリー=フレンドを新しく作る展開は、エロイーズのブルジョワ社会への迎合という変化を象徴する。
「ゆらゆら狼おじさん」の話も、性被害を受けたママの孤独が産んだキャラクターではないだろうかと、思い至っている。
正直に周囲に語ったところ、信じてもらえなかった。だから婉曲に創作にして語ってみせた。性暴力を受けて純粋な自分は変わって、あの日をぼんやり眺めるようになった。それでも変わらず、当時の自分は正しかったと、伝えたかったのではないだろうか。私にそれを悟らせようと、あの話を拵えた。
『私、知っているよ。おじいさんの本当のこと、知っているよ』
あるいは。狼おじさんは、マナミの目の前で死ぬ。ママに加害を加えた性犯罪者も、ママの告発から追及され、自ら命を絶ったのかもしれない。それが忘れられない傷として、ママに残った。それを最後のマナミのトラウマとして、作品に描いたのかもしれない。「おじさん」の死によって、ママは変わった。
『狼との最後のやりとりを、マナミはずっと忘れられず、その緑の瞳はときどきあの日をぼんやり眺めるようになったのでした』
エロイーズが過去の死のトラウマの後でブルジョワ社会に適応したように、ママもそこから変わったのかもしれない。周りに自身の告発を聞いてもらえなかったから、周りの大人の理屈に合わせて適応したのかもしれない。
もしくは「おじさん」を間接的に死なせてしまい、自分を宥めて適応しようとしたのかもしれない。具体的な真相はわからない。けれども「おじさん」の事件によって味わった自分の変化と孤独を、狼おじさんの話は伝えようとしていたのかもしれない。
ママと早瀬さんが何を抱えているのかはわからない。けれども二人の孤独は、わかる気持ちがする。二人が語った話は、特定の結論へ思い至らせて、周囲を試すためのものではなかったか。
知った風に言うのは、奢りかもしれないけれど。
母の章
ところで、通称「梅ちゃんおじさん」、梅田尊悟なる人物は、存在しない。
その伏線もちゃんとある。「うめだそんご」は「うそだごめん」のアナグラムだ。だからこの話は、真っ赤な嘘だ、ごめんね。
おじさんが飼っているハムスター「赤ずきん」も、おかしい。赤いものが好きという設定だけれど、ハムスターは犬と違って色盲で、目もほとんど見えないから、特定の色に反応しないだろう。伏線を準備したから、パパも怒らないでほしい。パパの比企さんの話も、嘘だったのだから。
この梅ちゃんおじさんは、悪人という設定だ。小児性愛者で性犯罪者でもある。そういう設定にしなければ、架空の存在でも自殺させるのはかわいそうだ。いくつかのエピソードは、私自身の母方の祖父がモデルになっていて、祖父のことは嫌いでもない(あまり好きではない)から、恨んでいるわけでもない。ただ祖父のルーズでデリカシーのないエピソードを梅ちゃんおじさんのエピソードへと拝借した。
「おばあちゃん。なんかマフラーがタバコ臭いんだけど」
私がまだ小さい頃、冬に祖父母の家に泊まった時、自分のお気に入りのマフラーに違和感を覚えた。タバコの匂いがした。
「タバコ。なんでだろうね」
台所にいた祖母は不思議そうにした。
「物干し、かな」
母方の祖父母の家には、二階建ての物干しがあった。近所に建物はなかったけれど、物干しやその周囲で誰かが煙草を吸ったのかと思った。
「物干しね。どうだろう」
祖母は首を捻った。
「違うの」
「私が畳んだ時、煙草の匂いはしなかったからね」
なら、どうして。私は、いきり立つ額の筋を抑えようとする。
「しかもタンスにしまっておいたのに。誰かが物色したみたいで、気分悪かった」
私はぼやいた。小さく唸る祖母。
頭に手を当てて、考えるそぶりをする祖母。
「あ。おじいちゃん」
祖母が何かに思い至る。おじいちゃんが。
「思い出した。じいちゃん。この間ね、じいちゃんが散歩から帰ってきた時、赤と黄色のボーダーのマフラーをつけていて。真奈美のだよね」
祖母が恐縮していた。
「はあ。何やってんの。あのジジイ」
思わず語気が乱れた。
風呂に数日入らないこともある祖父が自分のマフラーを身につけていたと思うと、鳥肌が立った。お手洗いに入った後や、入れ歯を取り入れした後にも、手を洗わない祖父。新聞を捲るときに、決まって指先を舐める祖父。想像すると、悪寒がした。
「ごめんね。本当に」
祖母が頭を下げた。私は唖然としたままでいた。
「もともとね、真奈美がこっちに来る時に寝る部屋はじいちゃんの部屋だったんだよ。じいちゃんは酔っ払っている時に、たまに間違えるのよね。酔っ払って、夜に散歩に行っていたんだよね。
じいちゃん。悪い癖だけれど、やめられなくてね。うっかり真奈美のマフラーを持って行ったんだろうね」
それを聞いて本当に気持ちが悪くて、私はもう二度と祖父母の家に来たくないと、母に泣き言をこぼすようになった。
昔から潔癖症で、私物に触れられるのは、大嫌いな性格だった。
「もうやだ」
私はそのとき、祖母の前でも泣き出した。
「ごめんね、真奈美ちゃん。じいちゃんに叱っとくね。あの人さ。お人好しで傷つきやすいでしょ。本当に悪いことはしないし。叱ると泣きそうになるんだよね。
『俺は人間のクズだ』
って。叱りづらくって。案外ちゃっかりしているのよね、いい人だけどね」
祖母が呆れ顔をした。私は、祖父に腹が立った。
「そんなことないよ」
私は、祖母に八つ当たりの感情をぶつけた。
祖母がたじろぐ。私は怒ると額に青筋が走る顔が怖いらしい。
「おじいちゃんの本当のこと、私知っているよ」
私は怒りを抑えきれなかった。
「おじいちゃん、酔っ払ってぼんやりするなんて嘘だよ。お酒飲んでも全然変わらないし、強いもん。本当は知っていて、寒いから私のマフラーを勝手に借りただけ」
私は怒りを湛えながら咎めた。
「それは、ある」
何ともいえない表情を祖母がした。
あの時抱いた祖父への激しい怒りが、梅ちゃんおじさんのエピソードに繋がっている。祖父も根は一応善良で、ルーズでデリカシーがなくて図々しいだけだから、偽善を被った邪悪の権化である梅ちゃんおじさんとはだいぶ違っている。
こんな話を創作したのは、パパと仲良くなりたいからだ。梅ちゃんおじさんの正体の真相に気付いたパパに、構って欲しかった。パパが好きだったから。嘘だと一応わかるように伏線も貼っておいた。あの頃の私、悪くないよね。狼少年なんて、言わないよね。
春香に聞かせた「ゆらゆら狼おじさん」は、そのエピソードを使いまわした。それだけなのだ。
第三話 エスキモー事件の宵祭り
ハルカの章
中学時代、不思議な知り合いがいた。名前を、鹿目美緒(ママの旧姓と同じ)といった。中学の頃は仲が良かったけれど、それ以降全く接点がなくて、疎遠になった。地味で大人しい子だった。彼女には一つ、特殊な癖があった。
私はその日、鹿目さんの家に遊びに行っていた。二人で一緒にゲームで遊んだり、映画を観たりした。
その日気が付くと、窓の向こうの道路の方を、ずっと鹿目さんが見ていた。
彼女は取り憑かれたように、じっと窓の外を見ていた。鹿目さんの吐息が時々窓を曇らせ、それを指で拭っていた。彼女の背中側には壁面に備え付けられた鏡があって、そこから必死に目を逸らそうとしているかのようでもあった。
「どうしたの」
思わず私は、鹿目さんに訊ねた。
鹿目さんは瞬きするのも忘れたまま、窓の外に視線を向け続けた。
冷え性な彼女の目の下には、大きな隈が並んでいた。
「あそこに、親子がいる」
見ると確かに、道路沿いの歩道を歩く母親らしき女性と男の子が歩いている。エスキモーのように、厚手のコートとマフラーを身につけていた。
「知り合いかな」
「全然」
鹿目さんは否定する。
彼女は、冷たい指で窓を拭った。そこにまた、吐息が結露で覆う。
小さな露を巻き込んで膨張しながら、一筋の水滴が伝っていく。
「これから轢かれて死ぬかもしれない」
彼女は告げた。意味がわからなかった。
「死ぬって」
「ママと弟がね、そこで車に轢かれて死んだの。エスキモーみたいにめかしこんでいてね。車が歩道に突っ込んできて」
鹿目さんの垂れ目がぼんやり憂いに沈んでいた。
私は、反応に悩んでため息をついた。
「心配だよね。知らない人でも」
私はなんとか返す。
「いや。また事故が起こるかもって」
「どういうこと」
「二人が轢かれて死ぬかもしれないから、見ていただけ」
「なにそれ」
「いいじゃん」
少し拗ねたようにする鹿目さん。
会話を切りたそうなので、詮索するのをやめた。
私はそのとき、彼女の特殊な癖に気がついた。彼女は、映画やゲームで、人が車に撥ね飛ばされるシーンが現れると、それを目に焼き付ける。我を忘れて、じっと注視する。
その心理が、理解できなかった。自分のトラウマを刺激する出来事を、必死で見つめる気持ちが分からなかった。私だって、春斗がいなくなってから、積み木を見るのが苦しい。弱っているときに積み木のことを考えたくはない。夢で、春斗が死んでしまう。
「昨日、なんかごめんね」
あの出来事があった次の日、私は学校で鹿目さんに詫びた。不機嫌にしていたから。
「ううん。全然」
寒そうに、彼女の隈が笑った。
「嫌なこと、思い出させたよね。ごめん」
私が謝ると、かぶりを振る鹿目さん。
眠そうな垂れ目の上で、彼女は前髪を手で整えた。
「窓の外を似たような親子が歩いていると、思い出すの」
廊下の向こうを、誰かが駆けて行った。
「聞いても平気なのかな」
「全然。なんでも訊いてよ」
彼女はいっそ嬉しそうにする。
私は彼女の柔和な垂れ目を、探るように凝視する。
「仲良かったのかな。お母さんや弟とは」
「うん。事故はショックだったよ」
彼女の瞳は、死者の記憶に曇る。
「目の前でね。今でも忘れられないよ。家からすぐの、窓から見えるところで。トラックが突っ込んできて。夢みたいだった。ちょっと前の話」
彼女の視線の先には駐車場があった。トラックが二台、停まっていた。
「年子だったの。私たち。よく一緒にゲームして遊んだよ。『スマッシュブラザーズ』っていうゲームがあってね。それでアイスクライマーっていうエスキモーのコンビのキャラクターがいたの。あれがあの子のお気に入りでね」
鹿目さんの暗い半月の上で、瞳が彼方を眺めていた。
「スマブラ」
「嘘みたいに優しい弟でね。何をしても怒らないの。ゲームでも、私に勝ちそうになるとね、わざと負けちゃうの。逆に張り合い無いって」
鹿目さんの垂れ目が、切なそうにする。
彼女は何度か、指で隈をなぞった。
「名前。春香さんと同じ。『ハルカ』なの」
黒目の大きな彼女の眼が、冗談っぽく微笑む。
「字は違うけどね。『遥か遠く』の『遥』で」
彼女の瞳に、弟の影が走った。
「私もね、弟が事故で死んだの。小さい頃。おもちゃの積み木を飲み込んでね」
「そうだったんだね」
恐縮する鹿目さん。
「積み木を見るのも嫌。だから不思議」
私は自分の気持ちを吐露する。
何度か、小さく首を縦に振る鹿目さん。
鹿目さんは唸り、小さく小首をかしげる。物思いにふけっているようだった。
「普通は、そうだよね」
彼女の温和な垂れ目が、躊躇いに揺蕩って返答を探す。
「そうだね」
答えを絞り出すようにする鹿目さん。
瞳の下の隈が、一層翳った。私はそれを、じっと捉えた。
「戒め、かな。私のは」
鹿目さんは、諦めのような表情を浮かべる。
「私も事故には気をつけなきゃ、みたいな。そんな感じ」
困ったように笑う鹿目さん。
会話を打ち切ろうとするチャイムが鳴った。
私はその答えに、全然納得できなかった。違う理由があるはずだと思った。その答えもわからないまま、疎遠になった。
父の章
時々ママは、バナナを過食する。理由はわからない。
ママは食が細いので、普段はご飯をあまり食べない。時々食欲が出て、過食する。普段は嫌いなバナナを食べる時がある。春斗の一件があってから、ママはバナナをほとんど食べられなくなったが、突然、食べる日がある。
「バナナ、嫌いじゃないの」
以前、夜に一人、キッチンでバナナを食べていたママに、僕は声を掛けた。ママはバナナを何本も平らげていた。
「なんとなく、気分で」
「寒くない。パジャマで。風邪引くよ」
冬だったので、湯冷めするのが心配だった。
「別に」
ママは投げやりになっていた。メンタルが弱っている時は、いつもこんな調子だ。
「明日も仕事でしょ」
「いいって、別に」
「食細いのに」
「一人にしてよ」
ママは不貞腐れる。
「体調気をつけて」
僕は返して、その場をそそくさと後にした。
その日、案の定ママは食べ過ぎて吐いて、気分が悪そうにしていたが、何とか職場(ハルトが死んでから、正規の仕事を辞めた。数年前から、資格の勉強をしながらアルバイトをしている)には行っていた。
そのとき僕は思った。ママは吐くために過食をしていたのではないかと。春斗はバナナを吐きながら死んだ。春斗に近づくために、ママは自傷行為に及んだ。
それに気がついたのは、ネットで、あるブログの記事を読んだからだ。「ナツメ」というハンドルネームの女性のブログで、「それからのこころ」という名前だった。
記憶を頼りに再現するとこんな感じだ。
【事件のそれから
漱石の『こころ』を授業で読んだとき、胸が締め付けられた。
この作品は、三章に分かれ、前半の二章では「私」と呼ばれる語り手の青年と、「先生」という男の交流が描かれる。最後の章は先生の「遺書」になっていて、過去に「K」という知人が周りで自殺したことが描かれる。「K」から先生は「静」という女性を奪う形になって、その後「K」は自殺する。「K」の自殺の原因は、先生の行動に由来するようにも解釈できるし、そうでないようにも映るが、真相は藪の中だ。
先生も死ぬつもりで「私」に遺書を送ったという。Kの後を追いかけていくように。
私が中学の時、小学校時代の親友Kが自殺した。彼女とは中学校ではクラスが同じになったことがなくて、たまに遊ぶくらいでやや接点がなくなっていた。
Kが自殺する少し前のことだ。Kからこんなメールが来た。
「明日、どうしても相談したいことがある。会って話だけ聞いてほしい」
私は断った。単純にテストを控えて忙しいからで、彼女を避ける気持ちはなかった。
その断りの返事に対して、もう連絡が来ることはなかった。
あの日のことが、忘れられない。
学校で朝から噂になっていた。団地の駐車場でKが倒れていたと。それを同級生が目撃したそうだ。何があったのか、正確なところは分からなかった。
二時限目がホームルームになり、担任の先生が説明した。
「Kが亡くなりました。今日は午後の授業はお休みです。期末テストも延期になります」
先生の言葉に、私は叫びそうになった。
教室はざわついたが、先生が注意しておさまった。
私の頭の中に、何度もKが現れて、蔑んできた。
そのあと自分がどうしたのか、よく覚えていない。
気が付いたら、昇降口にいた。昇降口で耳にした生徒の台詞は、ずっと頭を離れない。
「Kが死んでくれたおかげで午後休。ラッキー」
人混みに紛れた言葉で、誰が言ったのか分からなかった。
それに私は息ができなくなって、うずくまった。
「Kが死んでくれてラッキー」
学校を出ても、それはずっと私の中に反響していた。
私は、しだいに自己嫌悪に囚われた。Kの目に映る私も、そいつと何一つ変わらないのではないか。Kの危機を素通りしていった人間の一人である点で、変わらない気がした。
そのときから、希死念慮が生まれた。Kと同じ死に方をすることで、初めてKに報いられる気がした。Kと同じように飛び降りて死ぬことで、ようやくKに謝れるという思いがした。少しでもKに近づきたかった。
私は一度、自宅の二階から飛び降りたことがある。死ぬつもりではなかった。自分を傷つけたかった。Kの元へ行くためにリハーサルをしたかった。
それで私は大怪我して、しばらく入院した。
「なんで、そんなことをしたの」
療養していた病院で、母に尋ねられた。問い詰めることはしなくて、穏やかに訊かれた。
「Kに、謝りたかったから」
枕元には、お見舞いの薔薇があった。気高い背中を伸ばして、私を見下ろしていた。
「亡くなった子」
母はすぐに思い出した。
母は遣る瀬無い面持ちで、私の困惑をじっと捉える。
「仲良かったもんね」
母が共感を示す。私は控えめに頷いた。私がKの友達といえるかわからなかった。
母は憂いを帯びた眼差しを私に向けた。
「Kがそんなことを望むのかな」
母は震え声で問いかけた。
Kの笑顔が脳裏を過った。私は大きくかぶりを振った。
薔薇は棘を、私の喉元に突きつけて迫った。
「わからない」
私はそのまま泣き伏した。
言葉が出てこなかった。どんな言葉なら口にする資格があるのか、わからなかった。
今でもあの後、なんと言いたかったのか、わからない。
いくら自分を見つめ直しても、どうしたら許してもらえるのか、分からない。
あの日から足踏みが続いて、前に進めずにいる。
Kも私も、あれからずっと、同じ日を何度も繰り返している】
そんな内容だった。
この記事を読んで、自傷行為によって贖罪をしたい気持ちがあることに気がついた。ママがバナナを過食するのも、春斗への償いのためかもしれない。
母の章
高校時代に、夏目漱石『こころ』を読んで、それが印象に残っている。
私はこの作品について当時から、考えることが多かった。Kはなぜ自殺したのか、先生はなぜ自殺しようとしているのか、遺書を「私」に先生が送った意図とはなんなのか。「K」の自殺の原因は、先生の行動に由来するようにも解釈できるし、そうでないようにも映る。相手の「こころ」はブラックボックスなので、正確なところはよく分からない。遺書を送った先生はこれからKのように死ぬつもりだという。とはいえなぜこんな遺書を先生が「私」へ送ったのかも、よく分からない。
そもそもこの作品においては「遺書」に綴られる先生とKの過去というのは、事件の関係者の一人である「先生」の報告にすぎないから、内容が事実を正確に伝えているとも限らない。先生が特定の解釈を誘導するように事実を脚色している可能性もある。けれども、Kや周辺人物の存在に関しては「私」の視点から旧友の墓参りに行く先生の姿も描かれていることから、真実であると考えられる。
Kが自殺したのは、何か自己嫌悪に由来する自罰的な感情に由来するものだったのか、先生のある種裏切りのような、「静」を奪う行為だったのかは分からない。どちらであってもおかしくはないから、先生からしたら「自分のせいでKが死んだ」という疑念はいつまでも消えない。遺書を「私」に送ったのも、それを一人で抱えているのが辛くて共有したいのかもしれないし、「自分が殺した」という結論を否定してほしいからなのかもしれない。実際そうなのかは、結局分からない。
先生は、遺書を送った後で本当に自殺したのだろうか。それとも「私」からの理解と制止を求めての行為で、自殺はしなかったのだろうか。もし本当に自殺していたら、「私」は先生と同じ苦痛を味わうことになる。自分のせいで、相手を自殺させたかもしれない絶望に、囚われ続けることになる。それを先生は望むだろうか。
もしも自分のせいで本当にKが自殺していたとしたら。その責任を贖う手段は、Kが自分を裁いたのと同じ手段によるしかないのかもしれない。だから、先生は自ら本当に命を絶ったのかもしれない。
「漱石の『こころ』って作品、読んだことはある」
以前に春香から訊ねられた。どこかからの帰り、徒歩で自宅へ向かっていた秋の日。
「あるよ」
金木犀の立ち並ぶ通りを歩きながら、私は隣の春香に答えた。
落花が敷き詰められて、道に絨毯を作って式場へ二人を招いた。
「じゃあさ。Kと先生が自殺したのは、なんでだと思う」
娘は、よく相手を睨むように見つめる。本当に、私と似ている。
私は、ほんのわずかな時間、答えを考える。
「自分を許せないから、かな。そうするしか、自分を許すことができないから」
向こうに三つ葉公園が見えた。小さい女の子が一人でいるのがわかった。
不安そうに、周りの様子をうかがって、少女は泣いていた。
「鹿目さんっていたじゃん。鹿目美緒」
「中学の頃、春香と仲良かった子」
私の旧姓と同じなので、よく覚えていた。
「その子に変な癖があって」
「癖。どんな」
「トラウマがあって、その子には。目の前で、弟と母親が死んで。交通事故に遭ってね。それから、鹿目さんは、映画の交通事故のシーンやあの時と似た場面を目にすると、それを目に焼き付けようとするの。
引っ掛かっているの。ママは、なぜだったと思う」
金木犀の落花が、道を橙色に染めている。目の覚める色が、何かを警告する。
鹿目さんの気持ちが分かる気持ちがした。
二人は落花を踏んで進む。足の踏み場がなくて、避けることもままならない。
「戒め、じゃないのかな」
私の答えに、春香は少し驚いた顔をする。
金木犀の花が舞い落ちて、春香の頬を掠める。
平らで丸い、愛嬌のある顔立ちで、娘は前を向いている。
「自分を裁きたい。過去に自分は、家族の死の場面に何もすることができなかった。そんな自分が許せない。あの場面を目に焼き付けて、トラウマを刺激させることで、自分を傷つけたい、みたいな」
立ち並ぶ金木犀の、過去へと誘う香りを吸った。
秋が一層、熟していく。これからもっと、寒くなる。
「忘れずに焼き付けることが、せめてもの償い、みたいな」
私は呟く。春香が相槌を打つ。
それから春香は、足元のタイルに軽く躓いた。昔から、そそっかしい。
春香は、靴紐が解れたのをなおそうとしゃがむ。
私もそれを待って、立ち止まる。
「『こころ』とそれは、どう関係するの」
私は屈んだ娘に尋ねる。
「『こころ』って、残された人間のPTSDのドラマだから。鹿目さんを連想したの。Kや先生の死の動機みたいに、鹿目さんのことも分からないから」
春香は追憶の中に過去を確かめる。
鹿目さんの気持ちが、やっぱり分かる気がした。
三つ葉公園で、さっきの幼い子供が、ひとりぼっちで泣いていた。
ハルカの章
あの日の鹿目美緒さんのことを最近、回想する。窓の外をじっと見つめていて、後ろにある鏡から目を逸らそうとするかのようだった。
鏡。鏡を見ることを鹿目さんは嫌っていた。
「鹿目さんって、鏡苦手なの」
それに気がついて鹿目さんに訊ねたことがあった。冬。彼女の家で遊んでいた時だ。
「そうだね」
鹿目さんは思い詰めた様子だった。
「木崎さんは、怖くない」
「ちょっと」
私は怖い話が苦手で、鏡にまつわる怪談も多いため、鏡が少し苦手だった。
「木崎さんも」
「仲間だね」
私は共感を示す。鹿目さんも相好を崩す。
ふと私は、部屋を見回した。きれい好きで、いつも部屋には物が少なかった。
殺風景な部屋に、掛け時計の零す秒針の音だけが散らかっていた。
「夜に怖い夢を見るの。それで苦手」
彼女は白い頬を指で撫でた。その上に半月のような隈が眠っていた。
「怖い夢って」
「ママと弟の遥と一緒に過ごしているの。ご飯とか食べながら。私が振り返ると背中に鏡があって、ママも弟も映っていないの。
そこで、目が覚める。幸せが夢だと気がつくの。ひとりぼっちだって」
窓の外では、雪があらゆる者から体温を奪っていた。
「私もね、鹿目さんと似た夢を見るかも」
「木崎さんも」
「私のは、こんなの」
私は彼女に、自分の経験を語り出した。
「夢の中でも、弟のハルトが死んでいるの。その夢の中で夢から覚めると、ハルトが死んだことが夢になっているの。それで家族みんなで幸せな生活をする。
その夢の中でまた夢から覚めると、それも夢だと気がつくの。鏡とは関係ないけどね」
話し終えると、鹿目さんが頷いた。
「わかる」
隈の上の眠そうな瞳が微笑む。
「本当に」
「悪いことが夢だったらって願っているから」
鹿目さんが呟く。
外では、音もなく雪が舞っていた。ハルトの死んだ、冬。
壁のカレンダーの中に、サンタクロースがいた。化粧鏡の前で、身支度している。
まだもっと、寒くなると分かった。
「『鏡の国のアリス』は知っている」
鹿目さんは私に訊いた。
「全部逆になっているやつでしょ」
「最後もそれが主人公の見た夢なのか、別のキャラクターの夢なのか、分からなくて」
「そうそう」
「私も、よく逆の夢を見るの。自分と遥が、逆の夢」
彼女の目の下の朧月が笑う。
心音のような規則的なリズムを掛け時計の秒針が刻む。
「あの事件で死んだのは、本当は私で。私は今も、遥の夢の世界で生きているの」
その瞳は、まだ夢から覚めずにいた。
「遥の夢が覚めて、そのまま消えられたらなって」
部屋の隅で、空気清浄機が神経質そうに唸った。
鹿目さんは、鼻炎持ちだった。ハウスダストに、敏感な質だった。
「あの日ね」
鹿目さんは切りだす。
「殺したのは、私の気持ちがして。私が遥に手を振ったから。でも全部が遥の夢だったら、逃げられるなって」
私もよくそんなふうに考える。あの日、死んでいたのが私だったら。
私の生きているこの世界は、鏡の国なのかもしれない。鏡の中の死者の国で生きているのは、私の方なのかもしれない。鏡の外では、ハルトが生きていて、私は死んでいる。家族も、今より円満でいるかもしれない。
そんな空想を小さな頃にした。下らない妄想は、昔から得意だった。
「私もそんな気持ち。ハルトを、弟を殺したような」
私は吐き出す。
彼女は頷いて、眠そうな目じりを擦った。
秒針は、二人を待たずに進んでいく。戻ることも、留まることも、許さない。
二人の間に、無機質に時が刻まれていく。
「どうやったら、二人に許されるんだろうな」
零す鹿目さんの瞳は鏡になって、私を映していた。
不意に『鏡の国のアリス』に登場する、ハンプティ=ダンプティのマザーグースが頭をよぎった。
【Humpty Dumpty sat on a wall,
Humpty Dumpty had a great fall.
All the king’s horses and all the king’s men
Couldn’t put Humpty together again.】
《ハンプティ=ダンプティ 塀に座った
ハンプティ=ダンプティ ずっこけ落ちた
王様の馬と 家来をみんな 集めてみても
ハンプティを 元通りには 戻せなかった》
ハルトの章
春香が夕方、リビングのソファでコクトー『恐るべき子供たち』を読んでいると、不意にパパが現れた。
部屋に差し込む赤い光に、春香の腕は爛れている。
「春香、お疲れ様。何をしているの」
「読書。コクトー『恐るべき子供たち』だよ」
春香が振り返って、一瞬僕と目が合う。
春香は、机上のコップから紅茶を一口飲む。
「兄弟の話だね」
コクトー『恐るべき子供たち』は、エリザベートとポールの姉弟の世界が、ダルジュロスという美少年との出会いで崩壊する物語だ。姉弟の共依存関係を描く。
「僕と春斗みたい」
「どういうこと」
パパは、春香の隣に腰掛ける。
「共依存っていうか。むしろ僕の一方的な依存かも。春斗に対する」
春香は不恰好な指を顎に当てる。
パパは、それを窺うように注視する。
「コクトーの作品は、サリンジャーの『対エスキモー戦争の前夜』にも出てくるね。『美女と野獣』ね」
「コクトーはあと、『オルフェ』とか」
「大学時代に観たよ。鏡の中に死者の世界があってね。そこから死神がやってくるの」
『オルフェ』はオルフェウスの見るなの神話、黄泉がえり神話を題材にする作品で、主人公オルフェウスと、死者の世界の王女、オルフェの妻ユリディスとの三角関係が題材になる。生者と死者の許されざる恋がテーマだ。シュルレアリスムの作家だから、分けてもルイス=キャロル『鏡の国のアリス』との共通性が窺える。
「時々ね」
春香は切りだす。
「春斗が僕を見ていてね、鏡の中から僕を攫いにくる気がするの」
僕は笑みをこぼす。
空に赤く血痕が穿たれている。
鴉が傷痕を背に飛んで、どこかに死肉を探している。
「春斗が。なんで」
「憎まれているから、かな」
「大好きだったさ。そりゃあ」
パパが切なそうな表情をする。
春香は、両手に挟んだ文庫本を持て余して、回転させる。
遠心力で、危うくそれが手の中から飛んでいきそうになる。
「私ね」
春香の指には、ちいさな傷があった。紙で浅く、指を切った。
「春斗に、私を連れて行ってほしい。春斗がいるところへまで」
春香は醜く巧く、顔を歪める。
パパが困った顔で唸る。
庭で、鴉が赤い喉を見せて鳴いた。飢えて乾いた喉を何度か鳴らす。
「謝りたいの、春斗に。会いに来てほしい」
「全部、僕とママの責任だ」
「違うよ」
春香は腐肉のような唇を噛み締める。
春香は紅茶を一口飲む。太るのが嫌だから、春香はいつもあまり甘さのしない紅茶を飲む。顔と腹に、肉が付きやすい。
「会って謝りたい。ごめんねって」
「みんな、同じ気持ちだよ」
パパは俯いて呟く。
春香は、今度は不機嫌そうに、文庫本で机を軽く何度か叩く。
図書館で借りたその本には、油染みがあった。
「あれはどう思う。ママのくれた本。誕生日に。『バナナフィッシュにうってつけの日』」
春香が問いかける。パパはしばし思案する。
春香は、獲物を狙う猛禽類がするように、赤い目でじっと睨む。
パパは無言で、春香の眼差しを受け止める。
「知っているんでしょう」
春香は、狡猾な泣き笑いを浮かべる。
パパは目頭を擦り、かぶりを振る。
「私が殺した、みたいな意味」
春香は血走った目を光らせる。眼差しの圧に、パパもたじろぐ。
「ママに責められている気がする」
春香は醜く顔を赤らめる。
「そんなわけない。パパもママも」
パパは春香の赤い淀みをじっと視界に捉える。
パパも、ママも。どうだっていうのだ。
「ママが私のせいで死んだって。春斗が。分かるよ。私がみてあげてなかったから」
春香が逆上せる。
外光が、春香の頬を紅色に濡らす。
壁のカレンダーの中で、水たまりに浮く桜の花びらが、蕩けるのを待っている。
春香の瞳から、赤く水が伝う。
「認めたくないのさ。責任を。春香のせいって、思いたくもなる」
春香は賢しい紅に潤んだ瞳をパパに向ける。
「一番辛いのは春香だけれど、ママも、背負いきれないんだ」
パパは、絞り出すように呟いた。
窓の外、空に穿たれた傷跡から、血の染みが広がるのを見た。
ハルカの章
私は日記をつけている。日記には創作も書いている。発見があるからだ。身近な題材の観察から書いており、大したものではないけれど、自分のためにはなる。
最近書いているのは、鹿目さんの件に関する作品だ。いろんな人の立場になって創作すると、気付きがある。
全体的に『ナイン=ストーリーズ』の「対エスキモー戦争の前夜」を意識している。
【オルフェウスの獣
「『美女と野獣』の実写、観た」
木崎春香は女子寮で相部屋の松村薫に訊いた。
二段ベッドの下段で春香、上段で松村が寝転がっている。二人だけの窮屈な部屋だ。
「エマ=ワトソンの。観ていないよ」
ストレートのショートヘアーを摘みながら、松村薫は下のベッドの春香に返す。
癖毛を掻く春香。枕元には、好物の炭酸飲料がある。
「実写化って流行りよね。春香はどう」
「ピンキリかな」
部屋の隅には、少し抜け毛やほこりが積もっていた。
傾向として、二人はルーズだった。気づくと春香が時々掃除した。
「春香が作るならどう。『美女と野獣』の童話を。知り合いでキャスティング」
「そうねえ」
春香は顎に指を当てて考える。
「全員、野獣」
春香は得意げにする。
「ええやん」
松村が楽しそうにする。
松村は、疎らな腕の産毛を摘まむ。割合体毛が濃い性分だった。
「三匹の野獣と獣狩りのエスキモーの狩人である『美獣』の戦いを描くドラマ。タイトルは『美獣と野獣』ね。美獣はあだ名で、本名はヴィクトリオ=ジュリアーノ」
「それでそれで」
松村が足をバタバタさせる。健康そうに日焼けした足だ。
「ある時、森の洋館にヴィクトリオは迷い込むの。ヴィクトリオは私の弟の春斗ね。三匹の獣は私と、それから鹿目美緒さん、私のお母さん。木崎真奈美」
春斗は春香の弟だが、事故で死んでいる。鹿目美緒は松村と春香の中学の同級生で、この女子寮に寝泊まりしている。
「ヴィクトリオは野獣を憎んでいるの。それで頼まれて野獣を始末しに洋館に赴いた。人間が罪を犯すことで呪われて野獣になる。重い罪。誰かを殺すとか。三匹の野獣は元々姉妹で、姉妹の弟をリンチして、川に遺棄した。これは十年ほど前の話だ。
長女であるマナミは、口のない猿の獣になったの。マナミは弟を暴行した後で、弟が行方不明になったとか、率先して自分に都合のいい嘘をついた。その報いを受けて、口のない猿になる。次女のミオは、目のない猿の獣になった。弟が殺されそうになるのをじっと見ていたから。目を背けずにいることが、自分のせめてもの責任だと思った。その因果で目がない猿の獣になった。三女のハルカは、耳のない猿になった。弟を暴行した後で、自分に不都合なことを聞かないように努めたから。その因果で耳のない猿になった。
猿の三姉妹は、ヴィクトリオを洋館に誘い込んで殺そうとした。捕らえて食べるためにね。三匹は獣といっても猿だから、嗅覚がきかない。目や耳も悪いから、数の上では有利だけれど、熟練のハンターであるヴィクトリオ相手では、不利な戦いになった。マナミは喋れないし、チームワークもイマイチだった。
ヴィクトリオは経験から、孤立させて仕留めるのが大切だとわかっていた。ヴィクトリオはまず、トイレで待ち伏せてハルカを捕らえたの。ハルカは緊張するとよく吐くから、トイレに篭りやすかった。そこを狙われたのね。
『おい、獣』
ヴィクトリオは銃口を春香の頭に向ける。春香は耳が聞こえなかったけれど、この距離まで近づかれたら、気配で気がついた。
『殺さないで。許して』
ハルカは急に命が惜しくなって、命乞いを始めた。
『お前は、自分が奪った罪のない命のことを、覚えているのか。助かりたいのならば、せめて彼らへの思いを聞かせてほしい。なぜ、自分のために、他人の命を奪えるんだ』
ヴィクトリオは問いただす。耳が聞こえないハルカはなんと言われたのか分からない。
『許して。私は悪くないの。許して。代わりに他の姉妹を殺して』
ハルカの返事が頭にきて、ヴィクトリオは猟銃を発砲した。
轟音の後、ハルカの頭は粉々に砕けた。
後二匹。二匹目に捕らえられたのは、マナミだった。マナミはバナナが嫌いという珍しい猿だった。ヴィクトリオの使っていたバナナの香料が嫌いで、後の二人に任せて自分は安全な納戸に隠れていた。だが獣の臭いに敏感なヴィクトリオに見つかった。
『化け物』
ヴィクトリオは銃を向ける。マナミはパニックになって、取り乱す。
『自分が奪った罪のない命のことを、覚えているのか。助かりたいのならば、せめて彼らへの思いを聞かせてほしい。なぜ、自分の飢えを満たすために、他人の命を奪えるんだ』
ヴィクトリオはマナミに問いかける。
そんなことを言われても、口のないマナミにはどうしようもない。
返事がないので頭に来てヴィクトリオはマナミの頭を撃った。
マナミは頭蓋骨を砕かれ絶命した。あと一匹。
ヴィクトリオは、少し気が緩み、コートのポケットに煙草とライターを求める。吸うと気分が落ち着いた。やりかけの仕事を丁寧に終える前に、よくタバコを吸った。
『ハルト』
後ろで声がして、ヴィクトリオが振り返る。
そこにいたのはミオだった。目のない獣が、じっとこちらを見ていた。
『ハルトなの』
目のない顔でヴィクトリオを見つめるミオ。
『姉さん。ミオなのか』
ヴィクトリオもその声に聞き覚えがあった。
二人の上に、シャンデリアが備えられている。大仰に光を弾き、二人を歪に映す。
『ハルト。声は違っていても、気配で分かった』
ヴィクトリオの正体は、ハルトだった。ハルトは姉妹にリンチされ、瀕死のまま川に落とされた。そのあとで人に助けられた。崩れた顔を医者に繕わせて新しいものにして、しばらく名前を偽って、三姉妹から隠れていた。
ヴィクトリオがここへやってきたのは、復讐のためではなかった。頼まれて、金のための仕事だった。
目の見えないミオは、音を頼りに、ヴィクトリオへと近づいた。
『私を殺して。何もできなかった醜い獣を裁いて』
ミオはヴィクトリオの前に項垂れる。
『姉さん』
ヴィクトリオも、ミオのそばへと体を寄せる。
ヴィクトリオの冷たい指は、ミオの見えない瞼を撫でた。
死者のように冷たい指は、ミオを懐かしく、愛おしい気持ちにした。
『謝ることなんて、何もないんですよ』
ヴィクトリオはミオを抱きしめて、耳元で囁いた。
血と果実の香りの混じった甘い腐臭をミオは感じ、満たされて微睡みそうになる。
獣になって裸足の足の裏は、大理石の床が冷たかった。それをもミオは忘れていた。
『大丈夫』
ヴィクトリオはミオを宥めてささやく。
不意に、冷たい空気がミオの背中を舐めた。
ミオは身震いする。不吉な予感が舌に絡んで、息することもできなくなった。
『言わないで』
そう拒みたくて、言葉が出てこなかった。
ヴィクトリオの唇が、錆びた発条仕掛けのように、無機質に動いた。
冷たい、と思った。
『全部姉さんの夢なんですから』
ヴィクトリオは告げた。
言葉にならない音を、ミオは喉の奥から響かせた。
拒もうと、ヴィクトリオをはねのけて、後ろを振り向く。
ミオは、そこで目を覚ました。
そばに、ハルトがいる。自室で、ベッドに横たわる自分をミオは発見する。
天井には蛍光灯がある。シャンデリアは消え失せていた。
『寝坊だ』
ハルトが揶揄う。全ては、ミオの夢の中の出来事だった。
『夢』
呆気にとられるミオ。
『十時前。休みだけど』
『夢、か』
ミオはため息をついた。吐息は、白い雲を淡くつくった。
寒い。ミオの苦手な冬だ。冷え性で、指先が痛む。
ミオは恐怖に引き攣る眼で、ハルトの顔を注視する。
『どうしたの』
『怖くて』
怯えるミオに、訝しそうにするハルト。
『ハルトから視線を逸らすのが。怖いの』
ミオの不安そうな眼差しが震える。
『夢の中で、ハルトが死んでいて、私は目の見えない猿になっていた』
ミオはハルトを、抱きしめるように凝視する。
『夢でしょ』
『目を逸らしたらこれも夢になりそう。ハルトがいることも』
ミオはハルトを見つめる。凍った瞳は、瞬きもしない。
『ずっと一緒だよ』
ハルトが宥めて、ミオは泣き出しかける。
不吉な違和感は依然、ミオの脳裏を離れない。
ミオは部屋を見回す。整った殺風景な部屋。壁の時計を見やると、もう十時数分前。
『ハルトは、予定はないの』
『友達と会う予定』
『何時から』
『十時だよ』
『やばいんじゃ』
『大丈夫』
ハルトがにっこりする。
大丈夫。そう、大丈夫。
バナナの香料の香りがした。
喉元に刺さっていた違和感が、気道を割くほどに膨れ上がった。
ミオは、恐怖で舌が麻痺した。
やめて、と否定しようとして、言葉にならなかった。
悴んだ舌は、口の中で蠢いた。けれども出口は開かなかった。
『これは』
耳元で、誰かの囁く声がした。続く内容は、知っていた。
『姉さんの夢なんですから』
声がした背中を、ミオは振り向く。
そうしたらいけないと知っていた。それでも振り返らないでいられなかった。
背中には鏡があった。部屋に備え付けられた、大きな鏡。
そこには醜い猿が、ただ一匹映っている。
『やっぱり』
ミオは泣き笑いを浮かべる。
『目を逸らしたら』
ミオの口から言葉が溢れた。ミオはまた、夢から覚めた。
おしまい」
春香が語り終えた。
「いい話」
松村が焼けた肌で朗らかに哄笑する。彼女は冬でも、日焼けしている。
春香は得意そうに、好物の炭酸飲料を呷る。
松村は腕の産毛を束ねて摘まむ。
不意に、二人の部屋にノックの音がする。
「いいよ」
松村がドアに向かって返事する。
「どうも」
同じ寮の鹿目ミオが部屋に入ってきた。
ミオは、長い髪を指で整える。
きょうだいの隈が並んで、眠そうな垂れ目を支えている。
二段ベッドの下に、誰かの抜け毛が埃を纏っていて、ミオは少し嫌な顔をする。
二人が楽しそうに忍び笑いを漏らす。
「どうしたの」
二人に訊く鹿目。
「鹿目さんの話をしていたところ」
春香が返事をする。
「私」
ミオが小さく笑みを浮かべて、自分を指差す。
「春香が、鹿目さん主演の『美女と野獣』の構想を語ってくれていたの」
「何、それ」
ミオがお人好しな垂れ目を細める。
ミオは、何かに動かされて、歩みだす。
見えない糸で、誰かが操っていた。
部屋の奥、窓のそばへと歩む。ほとんど無意識にそうした。
いつものことで、春香は気に留めない。松村は不思議そうにする。
窓際で頬杖をついて、外を眺めるミオ。
彼女の目の下の隈を、陽光が抉る。
「何」
松村がベッドの二階から鹿目に向かって尋ねる。
ミオは聞こえないくらいの相槌をうつだけで、微動だにしない。
「癖なの」
春香が教えた。ミオは、じっと窓の外を見ている。
怪訝そうにする松村。
「誰かいるの」
「親子が。道路のそばに。歩いている」
ミオは、窓の外から目を逸らさない。
「知り合い」
「これから事故が起こるかも」
ミオがぼんやりとした口調で返す。
「はあ。何それ」
松村が訝しそうにする。
「だから癖」
上のベッドにいる松村に春香が教える。さらに春香は炭酸で喉を潤わせる。
「怖いの。目を逸らすのが」
ミオは声を震わせる。乾いた瞳をミオは指で擦る。
「目を逸らしたら、全部夢になる気がする」
ミオは、さっきの夢を思い出していた。
「夢の中で私、目の見えない猿になっていた。弟も死んで、別の姿になっていた」
ミオは悪夢から逃げて、ここまでやってきた。
不安の染みはずっと拭えなかった。どこまで逃げても、それは追いかけてきた。
乾いた音が背中でした。きっと、誰かがペットボトルを落とした。
容器の中のものが、床へ注がれる音が淡く滲んでいく。
ぬめりを帯びた水音は、錆びの香りを鼻腔へ運んだ。
「私、どうしたら」
「大丈夫だよ」
春香が誰かの声で、ミオを宥めた。大丈夫。そう、大丈夫。
あの甘い香りが、舌を這わせた。不吉な腐臭を纏う、甘く気怠い香り。
ミオはその懐かしく愛おしい声に鳥肌が立った。
冷たい恐怖が、ミオの背中を舐めた。
「夢。ねえ」
ミオは二人に向かって問いかける。
二人は答えない。部屋の中に、何の音もない。
窓の外で、トラックの車輪がアスファルトを踏む音が鈍く聞こえた。
振り返ってはいけないと知っていた。それでも振り返らずにはいられなかった。
ミオは、後ろを振り返る。
そこに二人はいなかった。いたのは自分一人。
トラックが急ブレーキを踏んで、鈍い音を立てる。
視線の先には、鏡があった。殺風景な部屋を、わずかに彩る大きな鏡。
目のない醜い猿が、一匹こちらを向いていた。
猿は鏡の中で、ミオを見て嗤った。
「やっぱり」
ミオは顔を歪めて、夢から覚めた】
父の章
僕は子供の頃(今もそうかもしれないが)、怖がりだった。トイレや風呂が苦手だった。トイレや風呂で一人になっている時、無防備になる背中が怖かった。振り返ったら、誰かが後ろにいる気持ちがした。
伊射奈岐神話、オルフェウス神話など、後ろを振り返ってはいけないというタブーを描く神話がある。人間は死角になる背中側に対して、潜在的な恐怖を抱きやすいのかもしれない。後ろを振り返らないのは、覚悟がいる。
「パパ、そこにいるの」
春香が小学校四年の頃、初めて風呂に一人で(ママといつも一緒だった)入った頃のことを覚えている。シャワーを浴びる時、後ろが死角になって怖いので、僕やママに入口のところで幽霊が出現しないか見張ってくれと頼んだ。
「大丈夫だ。まだ幽霊はいないよ。掃除機も準備してあるし」
僕はドア越しに春香に語りかけた。
春香はなんでも一人でしたがる性分だったが、風呂とトイレは別だった。僕も小さいころは怖がりだったが、春香はそれより臆病だった。幽霊や怪談の類の話が特に嫌いで、心霊番組やホラー映画が苦手だった。
このころ僕がトイレに行こうとすると、足音で探知して先にトイレに駆け込み、僕をドアの前で待たせる悪質な嫌がらせを春香は繰り返していた。一人でいけないからだ。
風呂場に、シャワーのくぐもった音が反響した。冬場で、僕はずいぶん寒かった。
「なあ、春香」
僕はいたずら心が沸いた。
「春香は、僕のことは怖くないのかい。実は暗闇で家族だと思っていた相手が鬼人だった、みたいなオチが怪談であるだろ。僕が幽霊ではないと確信できるかい」
「おい、やめろ。ふざけんな」
春香が心底苛立たしそうにする。
硝子戸に水が叩きつけられて振動した。僕は体を震わせる。
桶で掬った水をガラス戸に向かって思い切りぶつけてきたようだ。
「ごめんごめん」
僕は春香の反応に驚いて平謝りする。
「マジでうざい。黙れ」
春香は本当に怒っていた。声が少しうわずっていたから。
気まずい僕は、悴む指を吐息で温めた。
「怖いって。なあ」
僕は春香が怒るので話題を変えようとした。
「バナナがフンをするときに、不安そうな顔をつくるだろう。無防備だから守ってくれっていう犬の言葉らしい。バナナにシャワーの習慣があったら、あの顔で洗うだろうね」
「面白い」
漏れた春香の吐息が、風呂場で木霊する。
「僕はあの顔を『オルフェイス』と呼ぶことにしているんだ。神話のオルフェウス」
「どういうこと」
「オルフェウスって知らないの」
「名前だけ」
「オルフェウスはね、亡くなった妻を冥界から取り戻すために、冥府に下るの。冥府の神ハデスと約束して、冥界を出るまで振り返らないルールを課されるの。振り返って、妻を失う。神話になるくらい、人間は背中が怖いわけ」
「へえ」
春香のくぐもった声が、鈍く響く。
「背中が怖い時の顔、だから『オルフェイス』ね。バナナの顔芸」
水が、タイルを這っていく音がした。
「オルフェウスはなんで振り返ったの」
「背中で亡くなった妻の気配がしたからだね。背中が気になって」
僕は教えた。
シャワーの水音が止む。水が、底へと流れていく。
「近い夢を見たことあるの。伊弉諾大神の神話を聞いたから」
春香は切り出した。
「夢の中でね、暗い部屋に一人でいるの。襖があって、襖の向こうでハルトが倒れているの。見たくないけれど、後ろを絶対に振り返ってはいけないことが気配でわかるの。
ハルトが、不意に操り人形みたいに、フワッと立ち上がって。思わず後ろを振り返ったら、鏡があって。その中からたくさん手が伸びて来て、どこかへ連れて行かれるの」
水音が鼓動のように、断続的に聞こえた。
「嫌なこと思い出させたね。もうやめよう」
「聞いてよ」
春香は、縋るようにする。僕はあいまいに了解を示す。
「やっぱりね」
春香がさらに続けた。
「目を逸らせちゃダメってことなのかも」
小さく春香が呟いた。
足の指先を冷気が突いた。冬は本当に苦手だ。いつも奪っていく。
「違うよ」
何かうまく否定しようとして、できなかった。ただ指が、冷たかった。
「違うんだよ」
僕はなんとか、さらに答えた。
春香の嘆息が、淡く響いた。
水が、地の底へと吸い込まれる音が向こうで聞こえた。
母の章
春香が、昔の友達から手紙を貰ったらしい。疎遠になっていた鹿目美緒さんからの手紙だったそう。松村薫さんという共通の知り合いを通じて受け取ったらしい。春香に旧友と関係が復活したのなら、何よりだ。
今時手紙を寄越すなんて古風で洒落ている。夏目漱石の『こころ』を連想した。鹿目さんと先生に重なるところがあったからだ。
『あのね、鹿目さんっていたじゃん。鹿目美緒』
『その子にね、変な癖があって。時々思い出すの』
『トラウマがあって、その子には。目の前で、弟と母親が死んで。交通事故に遭ってね。それから、鹿目さんは、映画の交通事故のシーンやあの時と似た場面を目にすると、それを目に焼き付けようとするの』
春香は以前に訊ねてきた。
春香に伝えなかったが、本当は考えがあった。夢で母親と弟に会えるから、相手に謝りたいから、ではないかという気がした。私がバナナを時たま過食するのはそれが理由だ。
私もパパに向けて「遺書」めいた手紙を認めたことがある。直接パパには送っていなくて、気持ちの整理のために著した。一部分は、こんな内容だ。
【パパへ
これは私からパパへの遺書です。
遺書といってもこれから死のうと書いている訳ではありません。私が限界だと感じていることを書き連ねて、もし私が完全に壊れた時や、何かでいなくなったとき、この手紙を見つけて、読んでもらえたらな、と思っています。
私が辛いのは、ハルトのことです。ハルトの死。それが人生の重荷になっています。
時々、私はバナナを過食します。ハルトの命を奪ったバナナ。それを過食すると、大抵ハルトが夢に現れるんです。夢の中で、ハルトは私をよく責めます。
「僕を殺したのはママだ」
「早くこっちに来て」
そんな言葉を浴びせてきます。
それがある種、心地よいのです。償いにもならないのですが、どんな形であれ、ハルトに会えることは嬉しいし、呪詛でもぶつけてもらえた方が、清々しいのです。
一度、こんな夢を見たこともありました。あの日、私がバナナを喉に詰まらせて死ぬんです。私は一人、誰も助けてくれないまま、孤独の中で窒息します。耐え難い不安と恐怖に溺れながら、命を落とします。そんな私をハルトが見つけて、病院へと運ばれていきます。私はこの夢の中で、ハルトと同じ苦痛を共有できました。それが私には嬉しかった。
こんなことは自己満足だし、パパや春香にも迷惑だから、早く卒業したいです。私はよく、春香に八つ当たりの感情をぶつけて、その度に自己嫌悪に苛まれます。責任を押し付けようとする自分の醜悪さに嫌気がさします。
何より、自分が一番するべきこととは、まず自分を許すことです。自分の責任を受け入れ、前に進まなくてはいけません。そうしないと、自分が今大切にしないといけない春香やパパのことを傷つけます。そんなことはハルトもきっと望んでいないと、頭ではわかっています。頭ではわかっているのですが、飲み込めずにいます。気持ちの整理をつけられそうにありません。
話が逸れるんですが、春香の友達に鹿目美緒さんっていう子がいて。私の旧姓と同じですけれど、性格も近しいところがあって。その子は自分の眼の前で、弟と母親を失ったそうなんです。車に撥ねられて。それからというもの、彼女は、自分の目にあの事故と近しい光景を焼き付けようとするそうです。
その気持ちが、私にはわかる気がするんです。そうすれば、きっと夢で亡くなった相手が会いに来るから。どんな形であれ、そうすれば相手に会えるから。
鹿目美緒さんに自分に近いものを感じたから、春香のいい友達だと思っていたのに接点がなくなったのか、疎遠になって残念です。いつか縁があるかもしれません。
それから。私が春香にサリンジャー『ナイン=ストーリーズ』を渡した理由です。春香がどう解釈しているのかは分かりません。悪く受け取っているのかもしれません。
「私を追い込んでいるのは、お前だ」
そんな気持ちがあったことは、否定できません。バナナによる死を春香に思い至らせること。自分の苦境をシーモア=グラースに重ねて思い至らせること。邪な動機は、否定できません。
でも一番の気持ちは、春香という存在がシーモア=グラースと重なって見えたのでした。春香を救いたかった。失いたくなかった。春香に自分を見つめて欲しかった。
春香は他の誰でもない、春香です。昔から春香は、他人の顔色を窺って行動するところがあります。優しさに由来するものではありますが、生きにくくなっている原因でもあります。私の目に映る春香は、そんな苦悩に押しつぶされてボロボロになっています。
そんな春香に、鏡を見つめてほしい。ハルトではなく、鏡に映る自分を、目を逸らさずに見つめてほしい。そこには他の誰でもない春香が映っているのだから、その事実をまず受け入れてほしいのです。
春香は多分、私とよく似ています。春香は年齢を重ねていくたび、私のようになっていく性分だと思います。人生において考えるべきことや責任が増えていくたびに、ますます思い詰めるタイプだと思っています。鏡に映る自分の姿をまず見つめるところから、自分の足場を作ってほしいなと、いつも願っています。
他の誰でもない春香を、そこに認めてほしいのです】
ハルカの章
【木崎春香さんへ
お久しぶりです、木崎さん。鹿目です。
木崎さんとは疎遠になっていましたが、松村薫さんとは二人とも接点があって、それでいつか会いたいな、仲良くなりたいな、と思っていて、今回手紙を送っています。
私は木崎さんに強いシンパシーを抱えていました。それは強力な感情でした。そうした気持ちを抱くようになったのは、私の「癖」を木崎さんに知られて、私も木崎さんの弟のことを知ったからです。
私は弟と母親を自分の前で亡くしました。ある程度は私のせいだった。私はその日、窓の外にいる母親と弟の姿を目にしました。窓を開けて二人に向かって手を振りました。
「おーい」
声をかけた私を見つけて、二人は私に手を振ってくれました。ちゃんと前を見ないで歩くことになったので、弟は知らないうちに車道の方に歩いていたんです。
母はそれに気がついて、咄嗟に弟の方へ駆け寄りました。事故が起こったのは一瞬のことで、夢のようでした。二人を避けようとしたトラックは冬の凍った道路の上でスリップしてそのままの勢いで突進していきました。
目の前で起こったことを受け止めきれず、悪夢のような浮遊感にとらえられたまま、何年もそこから立ち直れなくなっていました。
私はその後で、木崎さんも知っている「癖」を身につけました。あの事故を連想させる場面を目の前にすると、それを目に焼き付けます。気味が悪いし、自分でも嫌なので、その理由を木崎さんにも打ち明けられませんでした。
それには二つ理由があるんです。一つ目の理由は、その日の夜、弟と母親に会うことでした。あの事件を連想する場面を目にすると、夢の中で弟と母が会いに現れるのです。お別れの挨拶も、謝罪も交わせずに別れてしまった。せめてどんな形でもいいから二人に会いたいのです。
木崎さんも似た経験があるからわかってくれたのかもしれませんが、自分の中では気味が悪くて、あの頃は話せませんでした。なぜ今になって話したかというと、人生の中で巡り合った、同じ苦痛を共有する知人は木崎さんだけだからです。
こんな手紙は迷惑かもしれませんが、私も本当にあの頃から限界で、木崎さんの存在には救われてきていました。この手紙を送ったのも、いつか私が本当に壊れたり、命を失ったりした時、木崎さんとお別れの言葉も交わせないままになるのが心苦しいからです。
これはある種、遺書のようなものかもしれません。遺書といっても、これから死ぬ予定があるというわけではありません。私が限界でいる理由を、どうしても誰かと共有したかった。それは木崎さんでしかあり得ませんでした。
「癖」であの「エスキモー事件」に似た状況を目に焼き付けると、大抵夢の中でもあの事件が繰り返されます。あるいは母と弟が会いに来るんです。自分の無力さを再確認できたり、謝れたりします。
夢の中で弟が生きている設定になっていて、幸せに暮らせる時もあります。たいてい、あのエスキモー事件を夢に見て、夢の中で夢が覚めます。弟の遥が私を起こしにきます。
「おはよう。寝坊だね」
「夢」
私は寝呆けた顔のままでいます。
「もうお昼だよ」
遥が教えてくれます。
部屋の中は、日光が注がれて、随分暖かくなっています。
私は弟を凝視します。
「何、ジロジロ見て」
困って目を細める弟。
手が震えそうになるのを抑え、弟を見つめ続けます。
私は、ただ冷たい恐怖に支配されていました。
「視線を逸らすのが怖いの。こんなに幸せなのって、おかしい」
「何言っているの」
「夢。視線を逸らしたら、遥を失いそう。きっと夢なの」
「ずっと一緒だよ」
弟に諭されて、涙が溢れそうになりました。
ぎこちない沈黙が流れます。
掛け時計の秒針が、二人の間で時間を刻みます。
「美緒ってさ」
弟はさらに続けます。
「ハルトのお姉ちゃんと友達なの」
それは木崎さんの弟の名前でした。
「知り合いだよ。遥は、ハルトさんと仲良いの」
「そこそこ。最近疎遠だけど」
「ハルトさんは、どんな子かな」
「いい子だよ」
「なんでハルトさんの話を」
「鏡の向こうで、よく会うの」
遥は、遣る瀬無い眼差しを向けてきます。
私はじっとその目を見返します。
その瞳は鏡になって、私を映していました。
「本当にごめんね」
申し訳なさそうな顔を作る遥。
私は弟をみつめたまま、困惑します。
「どうして」
「もっと、鏡見て」
寂しそうに遥は微笑みます。
それは木崎さんから以前勧められた『ナイン=ストーリーズ』のセリフでした。
私はその言葉に誘われるまま、背中にある鏡に視線を向けます。
映っているのは、私一人。
そこで夢は覚めます。「もっと、鏡見て」という言葉がいつまでも耳に残りました。
鏡を見ると、ひとりぼっちだということを再確認します。私と弟が、並んで鏡に映ることは、もうありません。でも、うまく言えないですけれど、鏡を見るとこれが現実だと、飲み込める気がします。後ろを振り返らずに、前へと歩める気がします。
あの日も、振り返ると私の後ろには鏡がありました。そこには私が一人、ぽつんと映っていました。そのことが耐え難かった。もう一人だということを意識させる鏡という装置が恐ろしくなりました。二人を並べて映すことを許さない鏡。夢の向こうでは遥に会うことができます。でも鏡の向こうで二人が出会うことは、もうありません。
私はあの日から、鏡を恐れてきました。けれども鏡を見ることでようやく呪いが解ける気持ちが、今はします。
私の「癖」には、もう一つさらに大きな理由があります。あの「エスキモー事件」の悪い冗談に似た顛末は、悪夢のような浮遊感を伴って感じられたのです。本当に、夢のようでした。だからもう一度、夢であれを繰り返せば、「エスキモー事件」という悪夢からも覚めるのではないか、実はあの事件も夢だったというオチになるのではないか、というジンクスに似た思いがあるからです。
「エスキモー事件」を夢に見て、そこから覚めたら二人の生きている現実へと還れるのではないかと、そんな気持ちがしています。
『〈鏡の国のアリス〉って知っている』
そんな風に、木崎さんに尋ねたことがありましたよね。
『最後もそれが主人公の見た夢なのか、別のキャラクターの夢なのか、分からなくて。私もね。よく逆の夢を見るの』
『自分と遥が逆の夢』
『あの事件で死んだのは、本当は私で。私は今も、遥の夢の世界で生きているの』
私にはずっと、全部が夢のような気持ちがしたのでした。「エスキモー事件」という悪夢を見て、それを悪夢で終わらせて、遥の隣で目覚めたい。そう思っていました。
私はどこか、あの事件を現実のこととして受け止めきれていない部分があります。鏡を見ると、そんな妄想から自由になれる気がします。弟も、母親も、もういないのだと。私は一人ぼっちだと。それを受け止めて、二人のためにも前進しなくてはいけないと。ようやくそんな風に捉えられるようになりました。
木崎さんと知り合えたのは、自分にとって幸運だったと実感しています。同じ痛みを分かり合える縁を得られたのは、かけがえのないものだと感じています。
最近接点がなくなったので恐縮ですが、また仲良くできたら嬉しいです】
第四話 困り男対マッツン女王
ハルカの章
小学校の知り合いに、記憶に残る子がいた。名前は斉藤光、通称「困り男」だ。坊主頭の下にいつも困り笑いを作り、ほとんど自分のことを語ろうとしなかった。父子家庭で、父親が怖いことは噂で聞いていた。学校で抜きん出て聡明で、パソコンには明るかった。
なぜ「困り男」のことが印象に残っているのかというと、斉藤さんが描いていたマンガと小説が人気になっていたのだ。普段自分のことを一切語ろうとしない「困り男」が、自分をモデルにした作品を友達に読ませていた。
実は「困り男」は私の友達の松村薫さんと交際していたことがあり、その経験をもとに作品を作っていた。マッツン女王のモデルが松村さんらしい。
【困り男対マッツン女王
困り男は探偵でした。困り男は家庭内暴力に苦しみ、自分を守るために卑屈な笑いを身につけました。独特の困り笑いになり、困り男と呼ばれるようになりました。困り男は正義漢で、かつての自分のような弱い子供たちや女性を助ける探偵となりました。
そのライバルはマッツン女王という怪盗でした。マッツン女王は、困り男とは対照的に、手段を選ばない悪党です。コウマンチキ団という盗賊の首領で、自分が欲しいものは力づくで手に入れ、目的のためなら弱者を殺すことも厭わない存在でした。マッツンは困り男の父を殺して財産を奪い去り、鍵のかかった金庫に入れて寄越しました。
「私にとって何より大事な数字が、暗証番号だ」
マッツン女王はそんな手紙を寄越したきり、金庫の番号を教えませんでした。何より大事な数字とはなんでしょう。それは困り男の生涯の謎でした。
まず困り男が考えついたのは、マッツン女王の誕生日でした。けれどもそれを如何様に入力しても、金庫は開きません。
困り男はマッツン女王と対決し続け、数字の秘密を探ろうとします。
「私は目下、シビラ博物館にある神樹の腕飾りを狙っている。止めてみるがいい」
ある時、困り男の元へそんな手紙をマッツン女王は寄越しました。困り男はマッツンの犯罪を阻止しようと、博物館で張り込みをしました。
しかし、悲劇は起こります。神樹の腕飾りは地下の展示室で展覧されていたのですが、不意にその照明が落とされ、部屋が真っ暗になりました。明かりが再びついた後、中では警備員の男二人が殺されていました。すぐさま警察や他の警備員も駆けつけ、博物館は大騒ぎになりました。
警察は目撃情報などから事件の容疑者を三人まで絞りますが、特定ができず、探偵である困り男に協力を仰ぎます。捜査主任となったマフィン警部は困り男の友人で、相棒的な存在です。そそっかしく、今日も階級章を忘れています。整髪料で髪をガチガチにしていて、老け顔なので中年に見えますが三〇代です。
容疑者の一人目は、怪我で目の見えない老人でした。両目を覆う眼帯をつけています。男性ですが、変装の名人であるマッツン女王は誰にでも化けられます。二人目は、耳の聞こえない青年でした。幼少期に患った病気で耳が聞こえなくなりました。ブロンドの美しい男です。三人目は右腕のない女性でした。事故で片腕を無くしたそうです。
「皆さんにお聞きしたいことがあります」
困り男は三人に向きあいます。
一同、緊張の面持ちで困り男を注視します。
「始めにミスター。事件があった時には、何か不審な物音を聞きませんでしたか」
困り男は容疑者の盲目の老人に質問します。
老人は目を閉じつつ、顔は困り男をじっと捉えます。
「ヒューズが落ちるような音、ガラスの割れるような音、それくらいですじゃ」
枯れた声で返す老人。彼の顔は困り男の方を正確に向いています。
「かしこまりました。では、そちらの青年」
困り男は美青年を指差します。
耳がきこえないのに困り男は気がつき、メモ帳にボールペンで何か書きます。
「筆談でお願いします。あなたは何か事件の際に目にしたものはありますか」
そう書いたメモを渡す困り男。
青年はメモにペンで書き加えて返事します。
「すみません。特に何も。わからなかったです」
それを読んで顎髭を撫でる困り男。
困り男は、さらにメモを書いて送ります。
「マフィン氏とは話されましたか。捜査の指揮をとっている」
それにさらにメモで返信する青年。
「そこの警部さんのことですか。全然」
それを読んで得心した様子の困り男。マフィン警部も、その様子をじっと注視します。
困り男は盲目の淑女に向き直ります。
「今度はそちらのレディ。あなたは何か不審なものを見聞きしませんでしたか」
困り男は片腕のレディに質問します。
レディは、思案するそぶりをします。
「展示室ではラベンダーの香水の匂いがしました。事件と関係あったのでしょうか」
レディは顎に手を当てて答えます。
満足そうな笑みを浮かべる困り男。自信ありげに、三人を見つめます。
「わかりました。犯人が」
困り男は顎髭を摘まみます。
「本当かね、困り男よ」
それを聞いてマフィン警部が飛んできました。
顎髭に触れつつ、首肯する困り男。髭をいじるのは彼の癖でした。
「左様。ほんの推理の初歩ですよ」
「誰なんだね、いったい」
「犯人は、あなたです」
困り男は容疑者の一人を指さします。
それはあの美青年でした。美青年は唖然とした表情を作ります。
「聞こえているんでしょう。さっきこう私に答えましたね。『警部さんとはすれ違っただけ』と。よくわかりましたね、彼が警部だと。彼は今日、階級章も忘れていたのに」
困り男の指摘に、首を横に振る青年。降参を示しています。
「流石は困り男。やるものだね」
青年の声は、既に女性のものになっています。
鬘をとって、長髪を顕わにする青年。その正体はマッツン女王でした。
「褒美に金庫の番号のヒントをあげよう」
挑発的な笑みを浮かべる女王。
「それは私にとって最も大事で、お前にとって最も身近で遠い数字だ」
マッツンは不敵に哄笑するのでした。
「どういう意味なんだ」
困り男はマッツンを睨みます。
「さらば」
マッツンは足元に煙幕を投げつけました。
あたりにむせ返りそうな匂いの煙が蔓延します。困り男も目を開けません。
煙の中で出口へ駆けていく足音が聞こえました。
「待て」
誰かがそう叫ぶ声が向こうで聞こえましたが、足跡はそのまま遠ざかります。
女王は、難なく博物館を逃げおおせたのでした。
結局今回も犠牲者を出し、歯軋りする困り男でした。
「私にとって最も大事で、お前にとって最も身近で遠い数字だ」
マッツンの言葉の意味を、困り男が知る時は来るのでしょうか。
続く】
そんな話があったのを覚えている。
普段、寡黙な「困り男」の斉藤さんが、熱心に周りに読ませるので印象に残っていた。困り男の物語は、突然打ち切りになったので、謎の答えが気になっている。
母の章
「結構長いんですか」
リサイクルショップの控室で、昼食を食べつつ松村さんが質問する。
向かいに座る彼女はスティックタイプの栄養調整食を食べている。白く透明な肌で、涼しそうな顔をしている。狭い個室に彼女と二人でいる。
「いえ。子供できて仕事やめてから、足踏みが続いて。最近アルバイトを始めたんですよ。資格の勉強しながら」
私は答える。松村さんは春香と同じくらいの年齢だ。ストレートのロングヘアが似合っている、長身で快活な人だ。
彼女は、私の胸の「木崎」という名札に目を遣る。
「木崎って言えば。私の同級生に木崎春香って子がいるんですよね」
松村さんが顎に指を当てる。春香。
「春香の友達なのかな」
「なんか似ているなって。お母さん、とかですか」
松村さんは黒髪の下で、顔を綻ばせる。
春香とは、顔は似ていないが、髪と雰囲気は似ていると言われる。
「そうです。お世話になります」
私も笑顔で頭を下げる。思いがけないことに、ちょっと驚いた。
「私、春香さんの幼馴染です。そういえば」
松村さんが何かに思い至る。
「春香さんって『ナイン=ストーリーズ』が好きじゃないですか。サリンジャーの。私と春香さんの共通の知り合いに『困り男』ってあだ名の子がいて。思い出しました」
「気になります」
私が興味を示すと、彼女は笑窪で彩って、顔を輝かせる。
殺風景な部屋に、潤いを与えてくれる彼女の朗らかさだ。
私はだれかと二人になると、空気を葬式にするので、ありがたい。
「その子は、普段は寡黙で無口なんですよ。卑屈に笑って誤魔化すだけで。あだ名は『困り男』。小学校の頃、その子が自分をモデルに作品を書いてみんなに読ませていた時期があったんです。春香さんも一緒に読んでいて。意見を交わしていました。みんなで」
松村さんはパパと似た、整った輪郭の線を指でなぞる。
「どんな話なの」
「シャーロック=ホームズのパクリみたいな話で。ライバルのマッツン女王と探偵の困り男の戦いが描かれるんです。作品最大の謎がありまして。マッツン女王が、困り男の宝物を金庫に入れて寄越すんです。金庫の番号がわからないから、困り男は苦戦するんです」
松村さんは喜色に顔を煌かす。目がくらむほど、彼女は眩い。
今日は曇り空の下、空気が水を孕んで肩にまとわりついてくる。
松村さんは、そこに爽やかな風を吹かせてくれる。
「金庫を開けられない困り男にマッツンはヒントを出すんです。
『私に最も大事で、お前に最も身近な存在が、金庫の番号だ』
マッツンの言葉の意味がわからず。当時、いろんな子が意見を出し合っていました」
「面白いね」
「打ち切りになっちゃうんです」
松村さんは、長い髪を優雅に梳かす。
辛気臭い部屋には、私たち二人だけ。お揃いの上下黒の制服を着ている。
「どうしてかな」
「ライバルのマッツン女王にもモデルがいまして。困り男の恋人がモデルなんです。何か二人の間であったのかもですね」
「モデルにされた相手が嫌がったとかかな」
私が推理をしてみせる。
首を横に振る松村さん。黒髪が豊かに揺れる。
「楽しんでいましたよ。困り男は歳の割には文章や絵が上手かったので、面白がって」
彼女は、兎のようにスティック食を食べる。
「みんなが気になっていたのは、金庫の番号もそうですけれど、そもそも何であの地味で内気な困り男が作品を見せたのか、でした。そうした点から、金庫の番号について仮説を立てようとする探偵が現れました。我らが木崎春香さんです」
「春香はどんな推理をしたんですか」
「作品を書いた動機が、面白い暗号のアイディアをみんなに考えてもらうためだと考えたんですね。困り男は漫画とか小説の新人賞に応募しようとしていた、と考えたんです」
「その仮説は正しかったのかな」
「いいえ」
松村さんが大袈裟にかぶりを振る。長い髪が犬の垂れ耳のように揺れる。
「多重解決ミステリーでは最初の方に否定される推理でしたね。困り男が創作のアイディアを募るなら、匿名の掲示板あたりに投稿するはずなんですよね。内気な性格的に」
なるほど。そうなのかもしれない。
松村さんは、スティック食をまたかじる。
「私も気になるな、その謎」
「ふっふっふ」
松村さんが不敵な笑みを浮かべる。艶やかな髪を得意そうに撫でる。
「実はすでに、謎は解明されているんです」
松村さんが透明な肌を光らせる。
「打ち切りになったんじゃ」
「実は、知っているんですよ」
「気になるよ」
「まだ内緒です」
松村さんは口を両手で覆い隠す。
「困り男は連続活劇なので。何回かの連載を語ったのちに教えてあげますね。謎を解いて春香の仇をとってください」
「了解です」
私は苦笑を返す。
こほん、と小さく芝居がかった咳をする松村さん。
「今日は困り男の一作品を語ってあげます。タイトルは『困り男対シザーズ』です。
【困り男のライバルはマッツン女王ですが、マッツン女王には部下がいました。マッツン女王は子供や動物を誘拐しては改造人間に仕立てます。
シザーズも部下の一人です。シザーズは元々工作が好きな少年でしたが、マッツン女王に捕えられ、怪人になりました。普段は人間に擬態していますが、手がハサミに変形し、人間を切り刻みます。
『我が腹心、シザーズをシーモア美術館に送り込んだ。何とかしてみせよ』
予告状が探偵である困り男の元へと送られてきました。
困り男は警察と協力してシーモア美術館で張り込みをしていましたが、悲劇は起こります。警備員二人が見張りをしていた前衛芸術の間で、作品が盗まれていました。警備員の女性二人は前衛アートのように、バラバラに切り刻まれていました。
警察は事件に箝口令を敷き、容疑者を三人に絞りましたが、特定はできませんでした。容疑者は若い女性、高齢の男性、高校生の少年の三人でした。
『困り男よ。協力を頼むよ』
友人のマフィン警部の隣で頷く困り男。
『皆様。実は、この前衛芸術の間でバラバラ殺人事件が発生しました。被害者は女性の警備員。皆様は重要参考人ですので、この探偵の質問に耐えていただきたい』
マフィン警部は三人の容疑者に向かいあいます。
神妙な面持ちで、容疑者はマフィン警部と困り男を注視します。
『三人に事情を伺いましょう。そちらのレディ。不審なものを見かけませんでしたか』
困り男は若い女性に質問します。
彼女は、馬鹿にして欠伸をします。
『何も。早く帰してくださる。彼女らみたいにミンチになるのはごめんですので』
女は吐き捨てます。肩をすくめる困り男。
『わかりましたよ。ではそちらの少年。不審なものを見かけませんでしたか』
女の殺気だった様子に気圧され、今度は高校生に質問します。
青年は、落ち着かない様子で、もぞもぞと動きます。
『本当に何も。女性の悲鳴が聞こえましたが。被害者は女性ですよね』
少年は怯えきって、何度もどもります。
『怖がらずにいいのですよ』
お人好しな困り男は、慮って宥めます。
『ではそちらのミスター』
今度は老人に問いかける困り男。
無精ひげのある頬を掻く老人。彼は、白い歯を見せます。
『知っているぜ。あの怪盗マッツン女王の仕業なんだろ。困り男さん、あんたがいるってことは。なら犯人はそちらの若い女性じゃないんですかい』
老人は顎をしゃくって、淑女を示します。
『マッツン女王は変装の名人ですから、男にも化けられます。しかも今回の犯人はその部下によるものらしく』
『なら、わからねえか』
老人は眉に皺を寄せます。眉にも、大分白いものが混じる老人。
困り男は自信満々の笑みを浮かべます。
『犯人がわかりましたよ』
困り男は告げました】
ここで木崎さんにクエスチョン。犯人は誰でしょう」
松村さんは講談師のように滔々と捲し立てる。
「若い女性、かな」
「ほお。その心は」
ニヤニヤしながら松村さん。
「『彼女らみたいにミンチになる』と言ったけれど、箝口令が敷かれていて、被害者の人数について正確なところをみんな知らないはずです。警部も人数は伝えてないですしね」
「さっすがあ。
【困り男は若い女性を指差します。
『犯人はあなたです。レディ』
困り男があのレディを指さします。
『なぜそう思う』
若い女性は苛立った様子で睨み返します。
『あなたはこう言いました。〈彼女らみたいにミンチになる〉と。被害者の情報については機密にされていたし、警部さんも人数を先ほど伝えていません』
『キザ野郎め』
彼女は野太い声で怒鳴ります。
女性は即座に自分の両腕を鋭く硬化させ、二本の刃物をつくります。
長い髪を腕の刃で切り落としました。
彼女、いや彼こそがシザーズその人でした。
『やむを得ん。殺す』
マフィン警部は銃を構えます。
警部はシザーズの脳天に一撃を食らわせました。
銃弾を頭に受けてシザーズの顔面の半分が吹っ飛び、倒れます。
マフィン警部は射撃だけは天才でした。
『やるな。最期にマッツン様から伝言だぜ』
割れたハサミのように、半分になった顔で懸命に喋るシザーズ。
『お前が心の底より笑える日、金庫の番号に気がつくだろう、ってさ』
シザーズは口から血を吹き出して息絶えました。
「私が、笑える日」
シザーズの最期の言葉を反芻する困り男。その意味とはなんでしょうか】
おしまい。次回をお楽しみに。真相を考えておいてください」
松村さんが語り終えた。
父の章
春香は昔からルーズで時々とんでもないことをする。
春香にまだスマートフォンを持たせていなかった小学生のときのことだ。春香が習い事のスイミングスクールの合宿でキャンプに行くので、非常用に僕のスマートフォンを持たせておいた。画面をロックしてあるパスワードを教えておいたけれど、いちいちメモを見ないといけないのが面倒だったらしく、勝手に設定でパスワードを変えた。そのパスワードを忘れて開けられなくなり、泣いて家に帰ってきた。
なんとか春香に記憶を辿らせたら、春香の誕生日に「!」を加えたものがパスワードになっていた。そもそものパスワード変更の動機からして、自分がすぐわかる数字にするに決まっているから、忘れる理由もないはずだけれど、最後に「!」を入れたのを忘れていたらしい。
春香は一時が万事そんな感じで、本当にそそっかしい。
「パパ、お疲れ様」
春香の声がして、振り返る。
居間で回想に耽っていた僕は我に帰る。ぼんやりしていて、喧しい春香の足音にも気がつかなかった。
「何考えているの」
「春香のこと。昔の。おかしくて」
僕はつい吹き出した。
「何、何」
春香は、僕の横の黒いソファに腰掛ける。
「春香が昔キャンプに行ってさ。小学校の頃。僕のスマートフォンのパスワードを勝手に変えて、それを忘れちゃったろ。そのことを思い出して」
「黒歴史忘れてよ」
春香が赤面して、僕を小突くそぶりをする。
「ごめんて」
僕はブラックコーヒーを一口啜る。
庭で燕の声がする。巣があって、子供の世話をしている。今日も穏やかな一日だ。
「僕の友達もね」
春香は切りだす。
「似たようなことをして困ったな。松村薫っていうんだけど」
時々会話に登場するが、僕は会った事がない。
「その子がどうしたの」
「いい人だけれどね。マイペースで、強情で」
春香は僕のコップを指で軽く弾く。
「通じないかもしれないけど。『おいでよ どうぶつの森』っていうゲームがあって。私持っていたの。松村さんは持っていなくて、カードを貸してあげたことがあったの。
そのゲームって、基本的にゲーム全体の進行データは一つしか作れなくて、新しい住民を作るって形で、プレイヤーごとにデータを分けて遊べるんだけれど、家具とか村の状態は共有なんだよね。家具を誰かが売ると、取り戻せなくなっちゃうの」
春香が指で癖毛を梳かす。大体予想がついた。
「売っちゃったんだね。家具」
「そう。僕もビビったんだけど。レアな家具って入手するのが大変だから、泣きそうで。
しかもそのときの松村さんの態度にもビビって。
『私、謝らないから』
って言われて。なんで謝らないかっていうと
『春香が事前に説明してなかったから仕方ない、自分に責任はないから謝れない』
って。流石に少し険悪になって。
そういう性格だから、結構クラスで孤立しがちだったのよね。裏表がないのと、正義感は強いのとで、僕は嫌いじゃないけど。いつもニコニコしていて、不正をすぐ先生に報告するから、先生には気に入られやすくて、そこもクラスで嫌われるの」
春香は困り笑いする。
庭でお節介な燕の鳴き声がした。優しい気持ちをここまで運んでくれる。
コーヒーで体が温まって、眠い。
「僕がクラスからハブられていた時があったんよ。小学校の時。『僕』って一人称が嫌がられて。たまに物を隠されて。そのときね、松村さんが助けてくれたの。物を隠していた子を見つけて咎めて。
『馬鹿野郎。何やってんだよ』
松村さんって、いつもニコニコしているんだけど。そのときは本当に鬼の形相で。
『ふざけんな。この卑怯者』
って。ずっと覚えているよ」
春香が彼女の口調をまねておどける。
僕はブラックコーヒーを一口飲む。あたたかい苦みを舌に感じる。
庭先にはチューリップが見える。花言葉は、確か「思いやり」だっけ。
「そういう性格の友達って貴重かもね」
「変なやつだけど、まあいい人」
春香も吹き出しそうにする。
庭で燕が甘えて囀るのが聞こえた。
庭のチューリップに、白い蝶が留まるのが見えた。
母の章
「今回のお話は、『困り男対パペッティア』です。推理してください」
リサイクルショップの控室で松村さんが前口上を述べる。
あれから時折、『困り男』のストーリーを語って聞かせてくれる。
「はいはい」
「【困り男対パペッティア
今回も、困り男の事務所にマッツン女王から挑戦状が届きました。
『困り男よ。刺客のパペッティアをバナナ美術館に送り込んだ。健闘を祈る。
パペッティアは、自らは手を下さず、人形に殺させる。自らは安全な場所に隠れ、反撃を許さない。自身は子供のように、極めて非力だ。用心せよ』
そんな手紙でした。困り男は憤ります。パペッティアは、巷ですでに有名な猟奇殺人鬼でもありました。相手を殺した後、必ずロープやワイヤーで被害者を首吊り状態にするという、悪趣味な悪党でした。絶対に、許せない。
困り男はバナナ美術館に駆けつけます。懸命な張り込みも虚しく、悲劇は起こります。浄瑠璃の人形を展示するエリアで、警備員の男のチェリーとベリーの二人がワイヤーにより首吊り状態で亡くなっていました。貴重な人形もいくつか盗まれていました。
また警備員チェリーの爪には引っ掻いた形跡があり、爪に付着したDNAは、自分自身と一致しました。警備員チェリーの体には引っ掻き傷がありましたが、検死によると被害者はまず刺殺されて即死だったそうです。これは偽装工作の可能性が高いとのこと。
例によってマフィン警部たちが中心になって、捜査にあたります。なんとか警察の懸命な努力で、監視カメラの映像やアリバイと照合し、容疑者を三人に絞り込んだのでした。残っている者のうち、犯人の可能性がある関係者はこの三人だけだと警察は考えました。
『この美術館で殺人事件が発生しました。死因は刺殺。その後で首吊りにされている。有名な殺人鬼パペッティアの仕業です。あなたたちの中に、パペッティアは紛れています』
困り男は三人に告げます。
一人目の容疑者は体格の良い男のメロンでした。工事現場で作業をしているようです。
『勘弁してくださいや。予定があるんですぜ』
メロンは浅黒い頬を撫でながら苛立つ様子です。
『どうかご協力を』
困り男は宥めます。
『あんた。刑事でもないでしょうが』
メロンは困り男に怒りをぶつけます。
マフィン警部が困り男を庇って前へ出て、咳払い。
『彼は探偵です。捜査に協力してくださっている。困り男という私立探偵ですよ』
マフィン警部が困り男を讃えるように伝えます。
『探偵。怪しいもんだぜ』
メロンは高圧的に、困り男を罵ります。
仕事に誇りを感じる困り男は、気を悪くします。
『君。職業差別ですか』
困り男はメロンを睨みます。
『すまねえ』
素直にメロンが謝って、拍子抜けする困り男。
『俺は土建屋をやっている。馬鹿にされるんだ。薄汚れた奴らだと。美術館にいてもな。職業差別は、よくなかったな。すまねえ』
メロンは太い腕で首の裏を掻き、頭を下げました。正直な奴だと感心する困り男です。
『君。傷が』
困り男は、メロンの腕を注視します。
彼の逞しい腕にはいく筋かの傷が見えます。最近の傷も目に入ります。
『土建屋なら、こんなもんだろう』
メロンは不服そうにします。困り男は顎髭を撫でます。
『被害者の指には、引っ掻いた痕跡があったんですよ』
困り男は現場の状況を教えます。メロンは目を丸くするのでした。
『この傷が、そうだっていうのかい』
メロンは困り男に食って掛かります。
『爪に残っていたのは、自分の皮膚だったんです』
『どういうことだい』
メロンは目を丸くします。
『わからないんですよ。即死した被害者は、自分を引っ掻いた。謎なんです』
困り男は被害者について話します。
頭を抱えて顔を顰めるメロン。
『俺は犯人じゃねえ。それだけさ』
メロンは決まりが悪そうにしました。
その隣の青年に向き直る困り男。
『次は、そちらの青年』
困り男は、刺青の入った青年ピーチを指さします。鋭い目つきの青年です。もとギャングだった男で、今は普通に仕事をしているようです。
『早く帰してくださいや』
困り男を睨みつけるピーチ。刃物のような凄みのある眼差しです。
『まあまあ』
『この中に、あの連続殺人鬼のパペッティアがいるっていうんですかい』
『予告状がきましてね。マッツン女王は予告状に嘘を書かないんですよ』
困り男は気が弱く、やや気圧されます。
『模倣犯かもしれませんや。ワイヤーで吊るすのなんて、誰でもできるでしょう』
『ところで』
困り男は、ピーチの腕を見遣ります。引き締まった筋肉を纏う白い腕です。
『あなたの腕にも、傷がありますね』
『堅気になっても喧嘩が多くてね。これも最近の傷さ。また開いてね』
ピーチは気怠そうにします。
メロンが茶化すようなにやけ顔を作ります。
『怒らせない方がいいですぜ。さっきこいつに胸ぐらを掴まれたんだ。すげえ力だった。振り解こうとしたが、かなわなかった。この俺が』
メロンは自分の隆々とした腕をさすります。
『貴様は、あの時の』
ピーチはメロンに向かって大声を張り上げます。
気まずそうに愛想笑いするメロン。
『お前が高齢のご婦人を突き飛ばしたからだぞ。慌てていてうっかりという感じだったが。人を悪党みたいに言うなよ』
ピーチはメロンに凄みを利かせます。恥ずかしそうに頭を掻くメロン。
『面目ない。その通りで』
メロンは畏まります。こいつらは悪い奴ではないと思う困り男。
『わかりました。そこのミスター』
困り男は、もう一人の中年男を示します。頭髪の禿げたその男はオレンジといいました。小柄で痩せており、色白の男です。
『貴様は』
マフィン警部は気が付きます。困った顔を浮かべるオレンジ。
『知り合いですか。ミスター』
困り男はマフィン警部に尋ねます。
『こいつはパペッティアによる殺人事件の嫌疑で、現行犯逮捕されたことがあるんだ』
マフィン警部が一同に告げます。
にわかに、場の空気が緊張します。みんながオレンジに視線を向けます。
『決まりじゃねえか。オレンジさん、だっけ』
ピーチは、オレンジを嘲って睨みます。怯えた様子を見せるオレンジ。
『落ち着け。こいつがパペッティアとして決まったわけではない。あの時も。こいつはただの空き巣で、パペッティアが殺した被害者の住居に居合わせただけだ』
マフィン警部は彼について伝えます。
『あなたは、怪我なんてしていませんか』
困り男は、オレンジに質問します。
『私は。喧嘩も苦手で。怪我なんてどこにも。腕も、腹も、足も』
袖を捲って、困り男に見せます。
確かに、男の体のどこにも、傷はありませんでした。
困り男の口元に、不敵な笑いが現れます。
『真相がわかりましたよ』
困り男は告げます】
ここでクエスチョン。パペッティアの正体は誰でしょう。ヒントは、マッツン女王は予告状に嘘を書くことはありません」
「ピーチ、かな」
自信はなかった。
「どうして」
「『ワイヤーで吊るすのなんて、誰でもできるでしょう』ってセリフがあったよね。ワイヤーは三人には特定して示されていないはず」
「なるほど。では回答です。
【『犯人は、あなただ。ピーチ』
困り男は、ピーチを指差します。
ピーチは、真っ直ぐ困り男を睨みます。少しもたじろぐ様子がありません。
『なんでそう思う』
超然とした態度を貫くピーチ。
『〈ワイヤーで吊るすのなんて、誰でもできるでしょう〉とあなたは言った。ワイヤーなんて、特定していませんからね』
困り男の指摘に、肩をすくめるピーチ。
『さすがだ』
大胆な笑みを浮かべるピーチ。
『このパペッティアを捕まえてくださいや』
ピーチは両手を突き出します。
挑発しながら、ピーチは困り男を鋭く睨みます。
『あなたが犯人だ』
困り男が糾弾し、ピーチは満足そうな笑みを零します。
『パペッティア殺しのね』
それに目を丸くするピーチ。
『あなたは、パペッティアではありませんよ。マッツン女王の予告状に、パペッティアは非力な人間だと書かれている。それはあなたと一致しない』
困り男は、メロンの方を見遣ります。
『とんでもない力だった』
メロンが肯定します。
『あなたはパペッティアではない。パペッティアの双子の兄弟でしょう。検査すれば、警備員チェリーの遺体の爪先のDNAとあなたのDNAは一致するはずです』
困り男は、ピーチに諭すようなまなざしを向けます。
舌打ちして、項垂れるピーチ。
『隠し通せないな』
ピーチは観念します。
その瞳は、今や穏やかな諦念に沈んでいます。
『弟を庇って』
困り男は、ピーチをじっと見つめます。
『弟は。双子のリンゴは。いいやつだった。人形遊びが好きな、おとなしい性格の』
ピーチの鋭い眼が紅く潤みます。
ピーチの涙に、隣のメロンは驚いた様子です。
『体が弱くて、人懐っこい。どこまでも兄貴の俺についてくる。俺は、悪い仲間が多かった。弟とは距離を置きたかったんだ。純粋な弟に、悪い付き合いをさせたくなかった。結果。弟は、ある時拉致された。俺のクソみたいな知り合いと連んでいるうちにな』
ピーチは憤りに拳を握りしめます。
『マッツン女王は、社会に居場所のない人間を捕らえて改造する』
困り男は呟き、ピーチは切なそうに苦笑を返します。
『俺は前に、パペッティアの事件の現場に居合わせたのさ。あいつの姿を見た。顔は確かに変えられていた。でも、背格好も、大きく特徴的な耳の形も声も、弟のそれだった。全部、俺のせいだったんだ。弟を怪物にさせたのは』
ピーチは悲痛に顔を歪めます。
優しい困り男は、これにもらい泣きします。
『あの優しいリンゴが、パペッティアとして捕らえられるなんて、耐えられなかった。俺はパペッティアを追いかけていた。自分でケリをつけるためにな。あいつが、ここの警備員になりすましていることも、事前に知っていた』
顔を両手で覆うピーチ。
困り男の憮然とした顔が、無念を物語ります。
『殺すつもりだったんですか』
困り男は訊きます。
ピーチは、吐息を漏らします。それは自責の感情に湿っていました。
『マッツン女王に改造された人間は、もう元には戻せないんだろう』
ピーチは困り男に、懇願する視線を向けます。
神妙な面持ちで首肯する困り男。そうすることしかできない非力さに悶えます。
『解放してやりたかった。地獄からな。俺は非力なあいつをナイフで刺した。そのときに、爪がかすめたんだ』
ピーチは腕の新しい傷をさすります。
項垂れ、唇を噛みしめる困り男。
『あいつが死ぬ間際。なんて言ったか、わかるかい』
ピーチは困り男に問いかけます。
目を閉じて、首を横に振る困り男です。
『〈ありがとう〉だってさ』
泣き笑いを浮かべるピーチ。
困り男は、静かに目を瞑って悼みます。マフィン警部も、隣で落涙します。
『最後に優しい、リンゴに戻ったんだ』
ピーチは嗚咽します。
一同、悲壮な面持ちをピーチに向けています。
『リンゴを、優しいリンゴのままで眠らせてやってくれないかい』
ピーチは、困り男に頼みます。
困り男はマフィン警部と顔を見合わせた後、頷きます。
『そのように対応しますよ』
困り男が答えます。
穏やかな笑みを浮かべるピーチ。瞳の棘も、すっかり抜け落ちています。
『あんた、いいやつだな。目を見れば、わかる。最初から、知っていたさ』
『あなたもね。これからはパペッティアに操られるのではなく、自分の人生を生きてください。リンゴのためにも。
怪人はこの国では死者として扱われ、人権を持たない。社会で、あなたの人生を生きてください。それがリンゴへの償いです。私も励みます』
困り男は微笑み、彼を励ますのでした。
こうしてピーチは証拠隠匿と窃盗の罪では逮捕されたものの、軽微な罰ですみ、社会復帰に邁進しました。パペッティアの正体も、一部の関係者のみ知るところとなりました。
困り男もまた、もう二度とピーチたちのような犠牲者を出さないように、決意を新たにしましたとさ。
続く】」
松村さんは語り終えた。引っ掛け問題だ。
「『パペッティアの正体は、誰』っていう問題だったもんね。警備員のチェリーだね」
「いい問題でしょう。もう少ししたら、結末を教えてあげます。次回を、お楽しみに」
得意そうに松村さんは、鼻の頭を擦った。
ハルトの章
ママが居間で一人寛いで読書をしていると、向こうから春香がやってきた。春香はスリッパを履いて歩くとき不恰好な足音が大きくて、すぐにわかる。
「春香」
ママの方から春香に声を掛けた。
春香は出先からきて、好物の炭酸飲料を持っている。
「お疲れ様」
春香が母譲りの癖毛に触れる。顔はそうでもないが、内面と髪の質は似ている。
春香も、ママの隣のソファに座る。二人を春の光が抱く。
「そういえば。松村さんって人と知り合って。アルバイト先で。同級生だって」
「松村薫さんかな。他にいたっけ」
春香が思案する素振りをつくる。
「多分そう」
自信がなさそうにするママ。
ママはカップのコーヒーを一口飲む。パパもママも、ブラックコーヒーを好んでいる。
青空の下で、雀たちが囀る声がする。
「いつもニコニコしている変なテンションとノリのやつ」
春香が訊くと、ママはこくりとする。
「薫だ」
春香が吹き出した。
春香は炭酸ジュースを呷る。
泡の塊が水面に浮いている。両生類や魚類の卵に見える。
「その子がね。『困り男』っていう過去の創作の話をしていて」
「懐かしい。いつの話だろ。小学校」
春香は手に掲げるペットボトルで、泡が消えていくのを見届ける。
沸いては消える過去を、そこにじっと見守る。
「春香も名探偵だったって。私も松村さんに聞いた話で犯人当てられたよ」
「私はポンコツだったから全然。松村さん、マッツン女王のモデル」
「そうなの」
ママは少し驚いた様子をする。
窓の外の庭先で、アゲハチョウが春の光と踊っている。
ときどきチューリップで蝶は喉を潤わせている。卵を据える場所を探しているようだ。
春香は、ペットボトルの中身を一口飲む。
「困り男の作者が斉藤光。自分を主人公に、恋人の松村さんを敵役に作ったの」
春香は喉に昇ってくる炭酸を手で抑える。
「ミステリーだったの。控えめな斉藤さんがあんなストーリーをみんなに聞かせたのが」
春香は炭酸の溢れる口元を覆う。
ママが息を吐いて、コップの上の湯気が迷子のように惑う。
「春香の推理だと、新人賞のアイディア募集のためだったんだっけ」
「違うみたい。ママはどう思う」
「松村さんも面白がって聞いていたわけだから、当てつけではないんでしょう」
「松村さんって正直だし、嫌だったら嫌って拒否するしね」
「そうかもね」
ママは苦笑を返す。
窓の外には、甘い春の光がさしている。
庭には、絡新婦の巣がある。大きく威圧的な妻のそばで、ちょこんと夫が黙っている。
「ママにも分からないの」
春香の質問に、ママはあいまいに唸る。
「わからないけど、二人の間で何かあったみたいだね。松村さんと斉藤さんと」
「そりゃあね」
「二人の間の事情が執筆の動機なのかな」
ママは鳥の巣のような癖毛を指で梳かす。
「どんな」
「難しいなあ。春香ほど、松村さんと接点ないし」
ママはコップの中の漆黒を覗く。
庭で、親を求める燕たちの声がする。
「この話が打ち切りになった後の、二人の関係はどうなったの」
「仲よかったよ。ただ恋人とはなんか違うかも、みたいな」
「小学生でしょ。若い子って、すごいね」
ママは桜の色に、頬を緩める。
窓の外に、枝を咥えた燕が飛ぶ。庭で、家族を守っている。
「小学、中学の恋愛っていろんなのあるよ。数日で別れるとか」
春香は少し決まりが悪そうにする。
「あの話が打ち切りになって、むしろ二人の関係は深まったくらいだったな」
春香は、ペットボトルの中身を凝視する。
春香の瞳は追憶に染まって、沸き起こるものを眼差しで愛でる。
「金庫の番号には、何かモデルあるのかな」
「謎。あるだろうね。でも、わかんない」
春香が頭の上の混沌を掻く。
春香は微笑んで吐息を漏らし、机にへたり込む。
プラスチックの中のものを、さらに注視する。
沸いては消える泡の同胞を、春香はじっと見送った。
母の章
「それじゃあ。困り男の最後のエピソードを教えてあげますね」
正面の席に腰掛ける松村さんが楽しそうにする。
松村さんに懐かれて、一緒にファミレスに来ている。私もこの子が可愛くて好きだ。
「【マッツン女王の死
『困り男よ。もう悪事はこれきりにする。最後に伝えたいことがある。この手紙の裏に私の住所がある。そこまで来ておくれ』
困り男の探偵事務所に、そんな手紙が送られてきました。弱気なマッツン女王の手紙に警戒と不安が芽生えました。マッツン女王に何かあったのかもしれない。
困り男が、手紙に書かれた住所へと赴くと、そこにはマッツン女王の城がありました。門の向こうの庭はひっそりとしていて、人がいる気配はありません。
大門の脇に通用口があり、中へと入ることができました。
そこから困り男は城へ入ります。
『マッツン。来たぞ。どこにいるんだ。姿を現せ』
城内で大声を張り上げてマッツンを呼ぶ困り男です。
城内のスピーカーから覇気のない声が聞こえてきます。
『来たか。ここには私の他に誰一人いない。そう警戒しなくともいい。ここまで来てくれ。城の尖塔にある私室で待っている』
マッツンの声が告げます。全てに絶望した声音でした。
困り男も心配して、尖塔まで駆けて行きます。
部屋には、マッツン女王がいました。老人のような、窶れた姿でした。
大きな私室の隅にポツンと、体育座りでいました。
『来たか』
ぼんやりした調子で、困り男に言葉を向けます。
『思い出したんだ。自分が誰なのか』
マッツンの唇が力なく動きます。
困り男は、ぼんやり大口を開けて女王を見ています。
『私がどこから来て、なんのために生まれてきたのか』
そう告げる女王の表情に、普段の自信は欠片もありません。
困り男は怪訝そうな面持ちを女王に向けます。
『私はな、困り男。お前なんだ。お前の心が産んだ、お前の分身なんだ』
マッツンの唇が鈍く動き告げました。
『なんだって。馬鹿な』
困り男も動揺します。
マッツン女王の眼は、虚に開いています。全身が抜け殻になって、無気力です。
『私は、お前の心が作り出した存在なんだ。お前が望んだから、この世に生まれてきたんだ。お前にとって必要だから、生きていたんだ。なら私の人生はどこにあるんだ』
マッツン女王は生気のない瞳をしています。
困り男も混乱して言葉が出てきません。
『困り男。お前は、実の父親を殺したいほど憎んでいた。お前の髪を刻み、顔を殴って歪め、時には耳が聞こえなくなるほど苦しめたあの男を。お前を人形扱いしたあの男を。だから、私が生み出された。お前のために、あいつを殺したのだ』
マッツンは自嘲します。
『私はね、お前のために生まれてきたんだよ。お前を父の存在から解き放ち、お前が世間で認められ、自己実現を遂げるために。私の人生の意味とは、そこにあったんだ。私の人生など、なかったんだ』
女王の瞳の中央に、空洞が穿たれています。
『世界の全てを手に入れたかった。どんな手を使っても。純粋な悪党であり、思うがままに生きること、それが自分の本懐だと思っていた。けれどもね。違っていたんだ。私自身の過去も、信念も、全部幻だったんだ。私は、お前の人形だったんだ』
マッツンは涙を流します。
困り男は何か言いかけて、それをやめました。
『女王。なぜ気が付いたんだ』
『前からおかしかったんだ。自分の過去を、何一つ覚えていない。自分がどこからきて、どこへ行こうとしているのか。不意に悟ったのさ。私には過去などないと。お前が父を殺したいと願い、他人から認められたいと思った。そこから生まれたのだと』
マッツンは悲痛な面持ちをつくります。
『私の、願い』
困り男が呟き、自棄のように顔を歪める女王。
『私はとんだピエロだ。ただお前の願いを叶えるために生まれてきた。お前の操り人形だ。そんな人生は、生きるに値しないよ。お前もそう思うだろう』
マッツンの嘆きに困り男は、父に支配されるばかりの生活を想起しました。
女王の眼は、死者のように孤独な色をしています。
『死ぬ、つもりなのか』
困り男は気がつきます。
『ああ。さっき遅効性の毒を飲んだんだ。あと数時間で、私は死ぬ。お前が間に合わなかった時のために、遺書も書いておいたのだよ』
女王は遣る瀬無い表情です。困り男は、ただ下唇を噛み締めます。
困り男を、じっと見つめる女王。そこには、ほのかな慈愛の色が滲みます。
『もう自分を責めるのはやめて欲しいんだ。困り男。他人の操り人形になる人生、そんなものは生きるに値しないよ。だから私は死ぬ。
困り男。私はそれでもお前を愛していたよ。私にとってお前は私の生きる意味だった。お前こそ、私の人生そのものだった。他人の奴隷の人生。そんなものは生きるに値しないが、それでもこの先の人生で、お前が幸福に生きることがなかったならば、私の存在は本当に無価値なものになってしまうよ。
困り男。私は困り笑いのお前が本当に笑える日のために、生まれてきたのだよ。金庫の番号は、お前の誕生日さ』
虚な瞳孔がほのかな喜色に染まります。
『それが私にとって最も大事で、お前にとって最も身近で遠い数字さ。お前は自分のことを顧みようとしないから』
マッツンは儚い笑みを零します。
落ち着こうと、顎髭を撫でる困り男です。不安な時、そうするのが癖でした。
女王は穏やかな表情で、狼狽える困り男を眺めます。
マッツン女王は咳き込み、吐血します。
『時間のようだよ。無様な姿は晒したくないし、この城はじきに燃え上がる。
早く、ここから立ち去ってくれ。愛しい困り男よ』
マッツンが背中を押します。困り男は、決心した表情を作ります。
困り男は急ぎ城を後にしました。
ただがむしゃらに駆けて、一度も振り返りませんでした。
向かい風を受けながら、一心不乱に街へ戻りました。
そのしばらく後に城が燃え上がり、地元の消防団が駆けつけました。
焼け跡からは誰の遺体も見つからず、もぬけの殻だったのでした。
マッツンが残した金庫の番号によって金庫を開き、父の遺産を取り戻した困り男でしたが、その財産を元に、孤児院を創設しました。名前はマッツン孤児院でした。
一人でも多くの子供が親の専横的支配から逃れて自分の人生を生き、心から笑える日が来るようにと、願ってつけた名前でした。自分と他者を愛し、助ける子供を守り育てたいと、困り男は願ったのでした。
おしまい】」
松村さんが語り終えた。
私は聞き終えて、ため息をつく。
廊下を挟んだ隣の席に、親子連れが腰かける。
向こうに店員がクリームソーダを運んでいく。
照れ隠しのように、松村さんはマルガリータを齧る。
「綺麗な幕切だね」
子供にしては立派だと感心して漏らした。
「そうでしょう、そうでしょう」
けれども、まだ謎がある。
「金庫の番号とか、困り男が中途で打ち切りになった理由はなんだったのかな」
「モデルになった事件があるんですよ。困り男と、マッツンのモデル」
口のケチャップをナプキンで拭う松村さん。でもまだ赤が残っている。
「春香から聞きましたよ。松村さんがマッツン女王のモデル、斉藤光さんっていう子が困り男のモデルだって」
私は春香から聞いたことを話す。
松村さんは、下はデニムで、上に茶色いレースブラウスを着ている。制服を離れて、二人とも自由な衣服を着ている。最近デニムは廃れたものの、長い足によく似合っている。
「そう。現実に暗号があって。それを解決するために、困り男の話をつくったんです」
「どういうこと」
「あのですね」
彼女は目を細めてマルゲリータを頬張る。
本当に表情を見ているだけで楽しい。動物園にいたらすぐに人気者になれそうだ。
「あれ、ママ」
後ろで、声がした。
思わず振り返ると、そこには春香がいる。
黒のシアーシャツと白いパンツ。モノトーンの装いは春香の好みだ。
「春香。奇遇だね」
「不倫かな」
春香が私たちを見遣る。
「そう。職場の知り合いだよ。松村さん。
友達だよね、春香の。薫さん、だっけ」
私は春香に返して、松村さんを見る。
春香も、松村さんの顔をじっと見据える。
「いえ」
否定する松村さん。
「松村」
春香は私の正面の席に座る「松村さん」が誰だかわからない様子だ。
春香は困惑を示す。愉しそうにする松村さん。
「ふっふっふ」
松村さんが、不敵に笑う。
「お久しぶりです。私ですよ。
『困り男』の斎藤光。結婚して、今は松村光です」
松村さんは、両手を腰に当てて、大きく胸を張った。
ハルカの章
目の前にいる斉藤さんは、過去の印象と随分違っていた。いつも卑屈な笑いを浮かべていた斉藤さん。少年のような坊主頭で、「困り男」と呼ばれていた斉藤さん。
今の彼女は黒いストレートヘアーを伸ばし、曇りない表情を輝かせている。座っているが、背も随分伸びた印象がする。
「お母様に『困り男』のストーリーの解説をしていたところです。春香さんもご一緒に」
斉藤さんは向かいの、ママの隣の席を手で示す。
「お言葉に甘えまして」
僕はおちゃらけて返し、ママの隣に腰掛ける。
テーブルを見ると、ママの前にはペペロンチーノが、斉藤さんの前にはマルゲリータが食べかけてある。斎藤さんの方が、かなりペースが早い。
「えっと。私、どこまで」
「金庫の番号のエピソードにはモデルがあるって。さっき」
「そうそう。これは松村薫さんが困り男、つまり私の父のノートパソコンをこっそり貸したときに、勝手にパスワードを変えたのが元ネタなんです。使いやすいように」
斉藤さんの笑顔が、がやがやした店内でも際立って輝く。
「聞き覚えのある話」
母が僕を横目で見ながら吹き出しそうにする。
「うるさい。それで」
茶化すのを遮る僕。
「パパにボコボコにされるから困って。松村さんは、悪気はないんだろうけど、我が強いから。変えた番号を教えてくれなかったんです」
それに僕は吹き出す。
「その子は、なんでそんな意地悪を」
「松村薫さんなりの思いやりだったらしいんですけど、当時は本当に困りましてね。私から借りたパソコンのパスワードを変えたんです。そしてちゃんと教えてくれなかった。『私にとって最も大切で、斉藤にとって最も身近で遠い数字にしたはず。日記にそう書いてある。でも正確なところは忘れちゃった』
とか言って」
斉藤さんの口元が、ケチャップで少し赤く汚れている。
橙色の電灯が、穏やかな光を天井から注ぐ。
外は曇って、時々雲間から陽光がまっすぐ注がれてくる。
「彼女は、私の暗い性格が好きになれなかったんです。松村さんにとって一番大事な存在、それが私だと、私自身で気がついて欲しかったのだと思います」
斉藤さんがニコニコする。そこには子供時代の卑屈さは、影もなかった。
向こうにドリンクバーで、悪童たちが悪戯をしているのが見える。
隣の席に親子連れがいて、男の子は一生懸命に間違え探しに取り組んでいる。
「自分で気がつけなかった。お父様のパソコンのパスワードがわからなかった。だから物語にして冗談めかして、周囲や松村さんの意見を聞いてみたかった、ってことかな」
ママが隣でまとめた。
「松村さんにとって一番大事な数字がわからなかったし、教えてもくれなかったから。創作で描いてみせて、松村さんや周りから意見を得ようと」
斉藤さんがにっこりする。
シーリングファンが、同じ速度で回転し続ける。
あの頃から、松村薫さんは変わらない。
「松村さんのそういうの、ありがた迷惑だよね」
「当時は結構困りました。私の父親のこと、知っていますか」
「DVとかかな」
「そうなんです」
彼女の瞳が、ほんの少し曇る。
斉藤さんはデニムを纏う長い足を持て余し、机の下で組んでいる。
「困り男のエピソードもその経験からなんです。殴られて耳が聞こえなくなったり、髪を切るお金をしぶられてハサミで短くされたり」
斉藤さんの髪が、存在を確かめて揺れる。
「松村さんも本人なりに気遣ってくれたつもりだったんだろうけれど、パスワードがわからなくなって、散々でした。でも父親のパソコンを松村さんに勝手に貸した動機も、父親に嫌がらせしたかったからなので、松村さんを恨む気持ちはないんです」
微笑む斉藤さん。松村薫さんとは反対の、白く透明な肌だ。二人とも、たおやかな肌だ。
背中に発疹ができてしまって、ひりつくし痒い。
「光さんは、当時パスワードってわかったのかな」
「自分で気がつきました。困り男が当時打ち切りになったのもそのせいです。なので、今、お母様の前で決着させました」
「へえ」
僕は隣のママを見遣る。こくり、と肯定を示すママ。
田舎のファミレスも、夕方でそれなりに人がいる。昔はそうでもなかったが。
斉藤さんは、すっかり変わった。僕は、あのころのままだ。
「雰囲気変わったよね」
僕は斉藤さんに思っていたことを告げた。
豊かな髪の毛を指で梳かす斉藤さん。僕とは反対の、まっすぐ伸びた黒髪だ。
「大切な人と一緒になれて、心から笑えている気がします」
「よかったね」
僕は乾いた唇を舐めた。リップを忘れた。
最近一層、忘れっぽい。ますます余裕がないからだ。
「偶然だなって」
斉藤さんがしんみりとする。
「松村薫さんと、パートナーの苗字が同じになるなんて。私、恋愛感情とか、いまだにわからないですけど」
斉藤さんが眼の奥で追憶に浸る。
「どっちの出会いもすごく救われました」
斉藤さんは美味しそうに、ピザを頬張る。ハムスターのようだ。
「ありがた迷惑ではあったけれども、やっぱり嬉しかったですよ。薫さんって滅多にいないタイプの人じゃないですか。漫画みたいで。裏表がなくて、正義漢で。救われました。それを踏まえて、困り男の話も、今決着させました」
斉藤さんが朗らかに顔を綻ばせる。
僕は愛想笑いして、ため息を吐いた。
昨日もよく眠れなくて、体がだるい。考え事で、眠れない日が多い。
「パートナーって、どんな人なの」
僕は斉藤さんの端正な輪郭に視線を投げる。
「薫さんとは正反対かもですね。むしろ春香さんに近い雰囲気かもですね」
「本当に」
「昔から、私って木崎さんにシンパシーを感じていたんですよね。きもいですけれど」
斉藤さんが苦笑した。僕もだ。
「そんな」
僕は無理に口角を上げて否定する。
「小学校時代の私って、今を乗り切ることだけで精一杯で、未来へのビジョンとか全然持てませんでした。木崎さんも、大変そうだなって、共感していました」
「いいなあ。リア充さんは」
僕はおどけてみせる。
恋人を持って、一緒になりたいだなんて、今の僕には思うことができない。誰にも見られない隅っこで小石になって、ひっそり死んでいきたい。
「幸せも色々で。他人のために生きる人生って、本当に地獄だったなって。他人に奪われるだけの人生。まず自分を大切にしないとって、薫さんから教えてもらったんです」
斉藤さんが思い出に頬を緩める。
自分の気持ちに正直で、正々堂々としている松村さんは、僕にないものを持っている。結局は鈍感さがなせる技だろうから、自分には難しい。
「私もね。色々あって」
隣でママが切りだす。
「自分を許すのって、難しいよね」
ママがしんみりする。本当に、そう思う。許せる時が来るのだろうか。
ママは小食だが、自分のペースでペペロンチーノをときどき口にしている。
「本当に、難しい」
なんとなくきまりが悪くて、僕はごまかそうと携帯に目を向けた。
二人のことを、斉藤さんは穏やかに見守る。
「大丈夫ですよ。きっと。全部」
斉藤さんは笑みを浮かべて、マルゲリータを頬張った。
その無責任な言葉と表情は、僕の知っている困り男のものではなかった。ずいぶん遠くに置いて行かれた気持ちがした。
困り男はもう、死んだのだ。
第五話 小舟の上で隣り合わせ
父の章
春香は、これまでに一度だけ家出をしたことがある。小学生の頃のことで、理由はママとの夫婦喧嘩だった。
「春斗を殺したのは僕とママじゃないか」
そのとき居間にいて、ママの愚痴に返してしまった。
「春香。ハルトを殺したのは」
ママは泣き出した。僕たち二人は知らなかったが、友達の家に遊びに行っていたはずの春香が、ちょうど帰ってきていた。
玄関で扉を強く閉める音がした。僕たちは大きな物音に顔を見合わせた。
外へ出ると、ワンピースをはためかせ、春香が自転車で走り去っていくのが見えた。
「春香」
僕は大声で呼び止めたが、春香が振り返ることはなかった。
春香はどんどん小さくなっていった。
隣でママが呆然としながら、目で春香を見送っていた。
電線の上で、様子を見ていた鴉と、僕は目が合った。鴉は、赤い喉を見せて鳴いた。
やがて春香は見えなくなった。
僕も、唖然としたまま、立ち尽くしていた。
「春香に聞かれたのかな」
「わからない」
僕も事態を受け止められずにかぶりを振った。
庭では、チューリップが紅い首を垂れていた。重い頭を折れそうな茎が、支えていた。
「追いかけた方がいいのかな」
ママは血の色を失った顔をしていた。
「自動車を出すよ」
僕は部屋着のスウェットのままミニバンで春香を探しに行った。
まず遊びに行った友達の家を訪ねたが、そこにはいなかった。春香は出不精なので心当たりのある場所は少ないが、片端から探した。友人の家、公園、飲食店、図書館、学校。
春香はどこにもいなかった。
しばらくして、僕は一人で自宅へ戻った。春香は帰ってきていなかった。
黄昏の紅が、もう空を染めていた。
「警察かな」
ママは昼の月のように青い顔だった。
「とりあえず、相談しよう」
それから、僕たちは交番で事情を伝えた。子供のちょっとした家出でも、事件につながることが多いそうなので、すんなりと動いてはくれた。とりあえずお子さんが、今日か数日のうちには戻ってくるか見つかると思って、待っていてほしいと伝えられた。
二人は気まずいまま、自宅へ戻った。
夜になっても春香は戻ってこなかった。僕たち夫婦は眠れなかった。
赤い月が登って、夜を見下ろしていた。
「私のせいで」
部屋では、ママが目を充血させていた。
ママの部屋に二人でいた。色違いの、水色と灰色の寝間着を、ママと僕は纏っていた。
「戻ってくるさ。春香もそんなに子供じゃない」
僕は宥めたものの、不安だった。
この時、春香は群馬県内にいて榛名山へ向かっていた。帰ってきた時に理由を聞いたら「一人になれそうな場所を探して向かった」とのことだった。無事でよかったが、全く見当もつかなかった場所だし、春香が翌日の夜に自分で帰ってくるのを待つよりなかった。
幸い、当時は五月の終わりごろで、屋外に朝や夜に長時間いても体調を崩す気温ではなかったけれど、不安は尽きなかった。
「嫌な予感がする」
ママは蒼白な面持ちをしていた。
「そんなことないさ」
僕は否定したものの、春香を傷つけてきたことが思いやられた。
ママは吐息を漏らした。それは焦燥と後悔に苔むしていた。
「不安」
「落ち着こう。僕たち、二人とも」
僕は諭すように、ママの惑う瞳を捉えた。
ママは目頭を何度も擦る。
「整理して、うまく春香と付き合えるようになろう」
僕はママにゆっくりと告げた。
窓から、ほのかに赤い光が差し込んでいた。月の赤が、外から染みこんでいた。
淡く赤い光が闇を不穏に浸していた。
「パパは家出、したことある」
ママは鼻を啜る。
「僕」
「よくあることなのかなって」
「ないかなあ」
「私、ある。子供の時。家族に当てつけみたいな」
神経質な性格はママと春香でよく似てはいる。
「わかってほしい、認めてほしいって。私」
「そうだよね」
「春香にひどいこと、言っちゃった」
「謝って、落ち着こう」
「本当に。謝って、ちゃんとしたい」
ママは赤い目で俯いた。
僕は具合の悪そうな水色のママの背中をさすった。
窓の外で赤い瞳が、二人を睨んでいるのがわかった。
ハルカの章
僕は以前、一度だけ家出をしたことがある。
『ハルカノセイデ。コロシタノハハルカナノ』
ママの言葉に傷ついて、あてもなく家出した。自転車を走らせて、榛名山に行き着いた。
そこで、僕と同年代の子と出会った。彼女も、家出をしたらしい。一人で不安になりながら榛名山で彷徨っていたら、ひとりぼっちの彼女に気がついた。榛名山は観光スポットで、人で賑わう初夏の季節だったが、彼女は目立っていた。
「家出ですか」
僕は彼女に話しかけた。
「あなたも」
僕に似た癖毛と、小さな丸顔と団子鼻が特徴的な女の子だった。
「はい。名前は」
僕は彼女の愛嬌ある鼻を見張る。少し、躊躇う様子をする。
「名前ね。ロミオで」
「あだ名かな」
「ペンネーム。家出してきたし、自分を離れていたいから。あなたは」
団子鼻を掻く彼女。
「ジュリエットで」
自分の好きなサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』にも『ロミオとジュリエット』が出てきた。
ロミオは、はしゃいだ顔をする。
「ボートに乗らない」
ロミオの提案に、僕は了解した。
榛名山には湖があって、貸しボートがあった。
二人はボートで湖に出た。
水の底は濁って、見つめていると飲み込まれそうだった。
水面から吹く味気ない風は、冷たく濡れて招いていた。
「それで」
ボートを漕ぎながらロミオが切りだす。不器用で、ボートはよろめきつつ前進した。
「どうして家出をしたの」
彼女は、鼻の頭に飛んだ水滴を拭った。
「ママに、ひどいことを言われて。話しづらいかも」
「ごめん」
申し訳なさそうにするロミオ。僕はかぶりを振る。
吹き抜ける風が、ボートを嗤うように揺らした。
「ロミオは、どうして」
「くだらなすぎて」
ロミオはケラケラ笑う。
「気になる」
「破れているでしょ」
ロミオはワンピースの裾を示した。
「新品で。怒られるから、逃げてきたの」
ロミオは冗談めかす。本当にくだらなかった。
ロミオは、オールを不格好に漕ぐ。前を見る余裕もないまま、精一杯漕いでいる。
冷たい風が吹いて、ときどき二人を攫おうとする。
岸辺を彩るレンゲツツジは、山風に細い体を晒している。
「年齢は」
僕は訊いた。
「六年生」
「僕、五年」
「一個下か。タメ口でいいからね。この先関わることもないだろうし、気なりで」
ロミオがにっこりする。僕は小さく頷いた。
少し、切なかった。せっかく、出会えたのだから。
湖の上に漂う、孤独な二人を意識した。
「『僕』って、珍しいよね。一人称」
「そうかもね」
僕は照れ隠しに口元を掻く。笑顔を作るロミオ。
「似合っているよ。僕もたまに使うし」
ロミオは、ワンピースの袖で、鼻の頭をまた拭った。
飛沫が何度も彼女の顔を汚した。
オールを漕ぐ手が拙くて、水は出鱈目に跳ねた。
「名前も『ハルカ』っていう中性的な名前なんだよね。それがしっくりくるの」
「そうなんだ」
ロミオは口をすぼめて反応する。
力いっぱい、ロミオはオールを漕いだ。じんわりと、彼女の額は汗ばんだ。
新緑が山を染めて、水鏡は山を孕んでゆらめく。
「家出は、よくするの。ジュリエット」
ロミオは、水面を彷徨うカルガモを目で追いかけている。
「初めて」
「帰りたいの」
「今は戻れない。お互いのために」
僕は、ボートが進む方を見遣った。
水面の不恰好なカルガモが、こちらの様子に注意している。
ボートの進路を、不安そうに探ろうとしている。
「ジュリエットも大変なんだね」
「ロミオも」
「こっちも」
自分を指さすロミオ。
ボートの描く波紋から、カルガモが逃げていく。
山影は湖に沈んで、鴨を狙って潜んでいる。
「帰りたいの」
「ずっと一人でいたい。一人で人知れず死んでいきたいよ」
ロミオが笑みを浮かべる。
白けた沈黙の後、波に濡れたズボンの冷たさを意識した。
今でもこの時を、時々思い出す。
ハルカの章
「最近、思い出すよ。春香が家出した時のこと」
昼食の席で、パパが微笑む。今日は土曜日。みんな自宅に揃っている。
「春香が、小学校のころだよね」
後ろめたそうな顔をするママ。小食で、食べるペースが一番遅い。
今日はオートミールで拵えたリゾットだ。パパとママで作った。
「榛名山にね。僕が高学年のころ」
僕もときどき、回想する。ジュリエットとロミオ、二人で過ごした遠い過去のことを。
「帰ってきたとき、春香が少し、違っていた」
パパは、僕をじっと見据える。上下、ゆったりしたスウェット。パパもママもそうで、くつろいだ格好をしている。
「別人になった、気持ちがした。取り替え子のような」
パパはママを見遣る。ママも首を縦に振る。
「なんだっけ、それ」
「ゴブリンなんかが、子供を攫って、かわりに置いていく子供」
「ひどい」
僕はおどけて返す。
そういえば、大江健三郎『取り替え子』で知ったのだっけ。兄弟の自殺を描く作品。
雨で、頭が鈍く痛んで落ち着かない。
僕は机の下で、足で脛を掻く。
今はTシャツの上にパーカーを羽織り、下は黒いジャージを履いている。
「無理しているのかなって」
ママは、慮るように僕を見る。
「役割を試しているのかなって」
パパは補足して口をはさむ。
「春香が帰ってから、パパと二人で話したの」
ママは、僕を見つめた。
実際、あのころから、どんな役割を期待されているのかわからない。だから探している。家出から帰ってから、自分を「僕」と呼ぶことも、さらに増えた。
「そうかも」
呟くと、雨にかき消されそうになる。
窓の外は、豪雨が庭を漁っている。
遠くの空に、濡れ鼠になった鴉が小さくなっていくのが目に入る。
「家出したのも、その一環だったのかなって」
パパは、穏やかな眼をつくる。
「どういうこと」
「自分の役割を探したい、みたいな。よくわからないけれど」
パパは口をすぼめる。無言で僕は頷く。
ママが、憂いのまなざしを向けてくる。
ママは目の前のリゾットには、あまり手を付けていない。家族で、一番食が細い。
「友達が、できていたよね」
ママが優しく笑みを投げかける。
庭先でチューリップが、重い首を雨に殴られている。
実を結ぶのを待って、じっと細い体で耐え忍んでいる。
「いろんな運命があるって、思ったな。その子と会って」
追想に、僕は小さく顔を綻ばせる。
「運命って」
「運命っていうか、宿命っていうか。人生いろいろって」
「なるほど」
ママは、一口リゾットを口へ運ぶ。
「家庭環境とか、性格とか、才能とか、そういう運命」
ハルトの死が、重荷だった。家族がそれに苛まれる中で、どう振舞えばいいのか、わからなかった。けれどもあの日、僕は出会った。同じ傷に苛まれるあの子と巡りあった。
「そういうの、共有できて、すこし軽くなれた気持ちがしたの。あの日」
僕はグラスのウーロン茶を喉へ流す。
「運命、か」
パパは、ぽつりとひとりごつ。
雨は、無慈悲に庭に降り立って、何かを探す。
叩く雨に抗えず、シラカシは木の葉を躍らせている。
「事故とか。個人の努力では、どうにもならないもの、みたいな」
僕が呟いて、二人は深く頷いた。
「本当に」
パパは、小さく下唇を噛む。
「共有できて。その子と。それで救われた」
「あるよね。そういうの」
ママは共感を示す。
僕は、リゾットを口に運ぶ。肉や魚は、入っていない。
ジャージの上に、腹の肉が余っている。
トマトの酸味が、心地よく口の中へと広がって、満たされる。
「私も。昔、そういう経験したよ」
「ママも」
「中学の時のことだけどね。私も、昔から結構いろいろあって」
ママは、追憶に目を細める。
埃をかぶった雨の、酸っぱい匂いを吸った。
「転勤族の女の子と、一年だけ一緒のクラスで過ごして。私、人見知りだったけど、その子とは打ち解けられてね。
その子って、人との付き合いが丁寧で。一緒にいると満たされたの」
ママはリゾットを口にしようとして、やめる。食欲があまりなさそうだ。
「その子といると、自分のことを見つけてもらえる気持ちがしたよ。
私と周りの子が、すれ違ってぎくしゃくした時、仲裁してくれて。それで、あの子から、言われたの。『マナミは良くも悪くも優しすぎるから、傷つけあいになっちゃうのかもね』って。ちょっと危ういところを器用に窘められた気持ち。
あの子の言葉が、いまも私を救ってくれる気持ちがする」
ママは、優しく頬を緩ませる。
僕も、あの子に救われた。どこにもいない自分をずっと探していたけれど、見つけて認めてもらえた気持ちがする。あの子は、今どうしているのだろうか。
「僕も、そういうのあるよ」
「パパも」
「聞かせてよ」
ママが、隣で相好を崩す。
冗談っぽく、パパは咳払いする。パパは一口、ウーロン茶を飲む。
「中学生の時の話だけどね。
僕も、昔はスポーツマンだったんだ。マラソンで、全国区までいったこともあってね。割と運動が得意だった。あるとき、膝と足の骨を痛めて。しばらく、安静にしていたんだけど。長く走ると、また痛みがぶり返して、結果が出せなくなっていった。
急に熱が冷めてね。別にマラソンで将来、食べていけるはずもない。足に障害が残るリスクを背負ってまで、無理にマラソンをする意味もないって、悟って。自分の中心には、前はマラソンがあったから、燃え尽き症候群になってね。無気力な日々が続いていた」
パパが笑みをうかべる。知らなかった。インドアな印象しかなかった。
「知らなかった」
ママが茶化すような顔をする。ママも、知らなかったんだ。
「それで、そのとき、ちょうど校務員のおじさんが、留守の担任に代わってホームルームを受け持って。おじさんが話してくれたんだ。
『俺は昔、死にかけたことがある。中学のころ、小児がんでステージ4になった。
俺は、あのころ自分の人生に絶望した。それで、周りの知人が羨ましかった。健康でいることは、当たり前だと思っていた。でもそうではなかった。自分の運命を呪った。
クラスで俺に見舞いの寄せ書きが来たけれど、直接訪ねてくれたのは、親友のAだけだった。毎日のように、あいつは励ましにきてくれた。俺は、健康でいるあいつに嫉妬して、八つ当たりもした。それでもそれを受け止めてくれた。俺は、幸福だった。
あいつがいたから俺は、満たされて、前を向けた。気持ちの上で救われた。正直、死んでもそれでいいとすら思った。自分の人生は、十分満足のいくものだと感じられたから。
けれども癌は、寛解した。若いうちの癌っていうのは、進みは速いが割と治るらしい。俺が学校に戻ったことをAは俺以上に喜んでくれた。でも、いいことは、続かなかった。
親友のAは、俺が学校に戻ってしばらくして、自殺した。具体的に原因があったのではなく、漠然と受験や将来に悩んだ、突発的なものだったらしい。本当に励ましが必要だったのは、Aの方だった。
うまくまとめられないけれど。俺はステージ4の癌に苦しんでいたけど、そのときの俺も〈健康〉だった。俺はあの時、気持ちは前を向けたし、大切なAもそばにいた。そのまま死んでも悔いはそうなかった。だから〈健康〉だった。
〈健康〉も〈幸福〉も、そうでない状態と紙一重だ。大切なのは、本人が満たされているか、そうでないかだ。みんなも周りの生徒が〈健康〉に見えていても、そうではないかもしれないし、自分のことも、知らぬ間に〈健康〉を損ねていることもある。
たいてい、後になってみないと、気が付けないんだ。
俺はAを励ましてやれなかったこと、Aに俺を支えさせたことを、後悔している。その分、今の俺は〈不健康〉だ。
みんなには、悔いのない毎日を過ごしてほしい。自分や周りが〈幸福〉で〈健康〉でいられるように、毎日を悔いなく過ごしてほしい』
怖いおじさんがそんな風に話してね。
目が覚めて、無気力をぬけだしたよ。ちょっとした昔話だったけど。それに救われた気持ちがした。前を向けたよ」
パパはしみじみと語った。
「いい話」
僕は思わず漏らす。
窓の外で、ムクドリが鳴いた。大雨の中、庭のシラカシで、群れが雨宿りをしている。
小さなさえずりが重なって、けたたましい響きをつくる。
雨と群れの囀りが、私をどこかへ駆り立てる。
「そのおじさん。同じマンションの人と揉めて殴って、学校をやめたんだけど」
パパはおちゃらけた。僕とママは、並んで困り笑いする。
「めっちゃ訴えてくる話だったのに」
僕はパパに、つっこみをいれた。
何かを訴えて、雨が激しく窓を叩いた。
また、僕はあの日を回想した。
ハルカの章
「ロミオはさ」
湖のほとりで隣に座っているロミオに、あの日の僕は話しかける。
打ち寄せる水が二人の靴を冷たく濡らしている。
ロミオは伏し目がちに、足元の小石を靴先で弾いて沈める。
「運命は信じる」
「なにそれ」
ロミオは驚いた様子をする。
「運命だよ」
「惚れたのかい。ジュリエット」
自分を指差して笑みを浮かべるロミオ。僕は下唇を小さく噛んで、首を横に振る。
ズボンの尻が濡れて、砂が張り付いて気分が悪い。
「必然みたいな。こうなるべくして、こうなる」
もどかしい。
「オカルト信じないんで」
「因果っていうか」
僕は癖毛を掻いて、思案する。
「人生って大体十歳くらいまでに決まっちゃう気がするの。性格とか要領とか環境とか含めて。そういう意味で、人生は必然というか、因果に裏付けられている、というか」
僕が思うところを伝える。
紅い光に塗れたロミオは、ぼんやりとした顔で、小さく欠伸をした。
「言えているかも」
ロミオは儚く目を細める。
「因果があるようなって」
「なるほど」
ロミオは納得したようにする。
彼女は、無理にはしゃいで、靴で波を叩く。
「僕ね、他人の運命がわかるの。前世の記憶も」
「エスパー。すご」
ロミオが冷やかしてくる。
彼女のふくらはぎを水滴が、重力に抗えず流れていく。
乾いた砂が、膜をつくって僕のふくらはぎに張り付く。
「僕ね。ロミオの過去や運命もわかる気がする」
「気になる」
団子鼻を拭うロミオ。ぽつんと砂が、黒子になって纏わっている。
「いくつか質問させて」
僕は彼女の顔を、じっと覗いた。
少し不安そうな顔をつくるロミオ。地面についた僕の手のひらに、砂が食い込む。
「いいけど」
「家出の理由は、本当」
「え。まあ、うん」
ロミオは決まりが悪そうにする。
「過去に、大きな罪を犯したの」
僕は、じっとロミオを射すくめる。
ロミオは目を見開く。瞳の中央の漆黒が滲んで広がる。
「わからない」
「自分の将来は、どうなっていると思う」
「平凡な、サラリーマン。かな」
「わかったよ」
僕はロミオを凝視する。
ロミオは不安そうに拗れた前髪を摘む。頬が、少し焼けて赤らんでいる。
「ロミオは、過去に過ちを犯している。あるいはそう、信じている。それで周りから攻撃されている。ここへ逃げてきたのも、それが原因」
僕はロミオについてわかったことを伝えた。
呆気にとられるロミオ。
「そう」
ロミオは何度か、小さく首を縦に振る。
気まずい沈黙を洗って打ち寄せる波が、足の指先を舐める。
「ジュリエットは、どう。前世の記憶があるんでしょう。前世で何やらかしたの」
「何人かの記憶があるよ。本当は単なる夢だろうけど」
僕は頬を掻く。
「聞きたい」
「大抵、殺される。高いところから突き落とされるとか。プールの飛び込み台とかね」
「今世は大丈夫。ジュリエット」
「そろそろ危険」
足の指を掴んで引っ張る冷たい水が、寄せては返す。
濡れたズボンの染みが、体温を奪うのを感じる。
「私の運命はわかるの。これからの」
「まあ、まあ」
「教えて」
ロミオが頑張った笑顔をつくる。僕は伝えるのをためらう。
「あのね。サラリーマンになって、幸せになるよ」
僕は少し考えて返した。
ロミオは、首を横に振る。僕の瞳をじっと見返してくる。
「嘘」
ロミオは、ささやかな邪気を込めて、僕に眼差しを向ける。
「ジュリエットと同じでしょう。悪い因果に呪われて」
「まあ」
僕はしどろもどろになる。図星だった。
「わかるよね」
彼女は水平線を、虚ろに眺める。視線の先には、疎にボートが浮かんでいる。
湖から吹く風が、二人の癖毛で遊んで解れさせる。
「色々あるんだろうな、って。敏感になっていて」
ロミオは共感を示す。
水面に、太陽が運命の引き摺るまま沈んでいく。
水鏡に沈む山の新緑に、赤光が注いで赤く染める。
「ジュリエットのこと、よく知っているわけではないけれど。悪い因果が断ち切れてほしい。どこかで変わろうとしないと、ずるずる悪い流れがきちゃうのかも」
ロミオがしんみりする。
すこし寒くなってきた。
僕は不意に気恥ずかしくなり、無理に伸びをした。
「前世の記憶というかね。夢なの。生々しくて、そう錯覚できるくらいの」
僕は赤面して頭を掻く。
水面を向いたまま歯を見せて笑って、ロミオが肯定を示す。
彼女は瞳の奥に、行き先を無くした孤独なボートをのせていた。
母の章
春香は小学高学年の時、自分には前世の記憶があると嘯いていた。おそらくそれは、一度見た夢を忘れられず、現実の過去と錯覚したことから生まれた妄想だと考えているが、時々真実味を帯びて感じられるほど、生々しかった。
「自分が死んだ時のこと、覚えているの」
小学生の春香が冗談っぽく話していたのを覚えている。真夏の日のことだ。居間で二人、冷たいものを飲んでいた。
「死んだ時」
「前世の話。前世は少年で、プールで死んだの。ウォータースライダーから落ちて」
私は困惑した。そういう妄想は若い子あるあるなのかなとも思った。
「ウォータースライダーで下へ降りるのが不安になっていたの。それで、フェンスの上から地面を見つめていて。そうしたら、後ろで誰かに突き落とされちゃったの」
春香の麦茶入りのグラスを伝って、水滴が転落していくのが見えた。
「なんで突き落とされたの」
「憎まれていたから。突き落としたのは、妹」
春香の言葉を、私は不安に感じた。そんな春香の心理がわかる気持ちがしたからだ。春斗への罪悪感、希死念慮が自傷的な夢を見せているのだろうという気がした。
私も弱っている時に、高所から落ちる夢を見る。その夢は生々しくて、恐ろしい。私は夢のなかで、大抵人を殺している。娘と息子を殺して、高い塔を登って逃げてきている。その責任から逃れようと、高い塔を登っていく。罪はどこまでも追いかけてきて、塔の先端まで行き着く。そこにあるフェンスから身を乗り出して下を覗くと、私はそこから落ちる。誰かが背中を押したような気もするが、わからない。
「春香と一緒。私も、高いところから落ちた記憶があるよ。鮮烈な悪夢だろうけれど」
熱帯夜に目が覚めた時のような、粘った暑さを私は意識した。
「夢、なんだよね」
春香は少し俯いてみせる。汗が項の髪を束ねていた。
「前世」
「自分にとって切実な、呪いだから」
春香は神妙な面持ちで零した。
春香は小さく吐息を漏らす。
「ママは前世の記憶ある。分析してあげる」
「そうねえ」
私は微苦笑で返す。少し、思案する。
「米兵だったことがあるよ」
私は切りだした。夏に、戦争特集の番組を観て、見た夢だった。
「ノルマンディー上陸作戦にいてね。銃剣で敵を殺すの。殺した相手をよく見たら、私の顔。自分が誰なのかわからなくなって、水辺に走るの。水面に映る自分の顔を見ようとして。水場に着いたら手榴弾にやられて、意識を失うの」
「自分の顔って、今のママの顔」
「そうだよ」
「了解」
春香は私を見張る。その瞳孔の深い底に、私は息継ぎできなくなる。
春香は鼻の頭の雫を拭う。汗をかきやすい体質だ。
「自己破滅願望と、アイデンティティの悩みかな」
「なるほど」
そうかもしれない。
「前世では、ママは兵士として人を殺めた。その罪悪感が、自分を殺す夢を見せた」
私は、グラスを這う水滴を指で潰した。
コップの中の麦茶を、喉へと落とす。
グラスに水滴が生まれては下へと落ち、また露が起こる。
「それじゃあ、春香は私の運命もわかるの」
「どういうこと」
「前世のことがわかるなら、私の今世の運命もわかりそう」
「わかるよ」
春香は額の汗を拭いた。若く、粘り気のない汗をかいていた。
「どうなるの」
私はTシャッツの襟をはためかせて、風を取り込む。
「ママは絵描きになる。世俗のしがらみに草臥れて、孤島で印象派風の作品を手がけます。でも絵を描くことに突然、絶望するの」
愉しそうに語る春香。
「絵に拘りができたのは、世俗の刹那的な世界に嫌気が差して、永遠を求めたから。けれども、創作も永遠を捉えられないと悟るの。それで絵に絶望しちゃう」
春香は予言した。
春香の青いTシャツの襟もとが、汗で群青に染まっている。
「春香は」
「作家になるね」
春香はおどけた風にする。
「売れっ子作家になって、太っていく。ある時、洞窟を探検しにいくの。一日経って戻れなかったら助けを呼んでくれって書き置きして。そこから戻って来なくて救助隊が向かうけれども、洞窟を探しても、春香はどこにもいないの」
春香はまた麦茶を飲む。
突拍子のない話にかどわかされて、私もそれに倣って喉を潤わせる。
「どこへ行ったのかな」
「春香はね、人生とはこの洞窟そのものだと気がついたの。それで大穴に飛び込んだ」
春香の瞳の中央に、黒い穴が開いていた。
入口は小さいけれど、底のない穴。私に向いて、それは穿たれていた。
その日の夢で、私は穴に転落した。
ハルカの章
「運命。私もある気がする」
あの日、湖のほとりで隣に座るロミオが話しかけてきた。
二人とも裸足になって、波に足を洗われている。染みる冷たさが、心地よかった。
ロミオは腿に張り付いた砂を指で払う。
「人生には全て意味がある、とか。自己啓発本あるでしょう。あるとも言えるし、ないとも言える。何か意味合いを読み取ろうとすれば、いくらでもできそう」
ロミオの視線の先で、一羽のカルガモが、侘しそうに揺蕩っている。
「確かに」
沈む夕日を追いかけて、向こうから夜がやってくる。
体が、いよいよ冷えてくる。
「ジュリエットとの出会い。絶対、運命だなって、大人になったら思っている気がする」
「そうだね」
合わせたわけではなく、本心だった。
「気が合うね」
二人で顔を見合わせて、笑い声をあげる。
二人の影は、ますます伸びていく。
もうすぐ夜が来る。別れの時間が、やがて来る。
「会えたのは、運命だから。聞いてほしい。家出の理由」
僕はロミオに切りだす。
「わかった」
ロミオは真剣な表情をつくる。ロミオの瞳が、にわかに決意のような色を帯びる。
僕は、大きく息を吸い込む。
僕は手に砂を握った。砂を噛む、鋭い痛みが手の中で滲む。
「僕のせいで、家族が死んだの。僕が目を離した隙に、みたいな。
そのことでママに責められて、家出をしたの」
話すと、心地よい虚脱感が体を舐めて、軽くなった。
『ハルカノセイデ。コロシタノハハルカナノ』
ママの言葉が過ぎる。僕を家出に駆り立てたのは、それだった。
足元で波が何度も逃げては追いかけてくる。
「そっか」
ロミオは、じっと俯いている。
ロミオは足元の石を拾う。それを湖に向かって投げた。
水音が沈黙に波紋を描く。夜の底に、小石は沈んでいく。
「つらいね」
ロミオは共感のまなざしを向ける。
「ママと傷つけ合いになりたくないから、ここまで来た」
ロミオは誰にともなく呟いた。
僕は、一つ欠伸をした。冷えたせいなのかずいぶん眠い。
「ジュリエットは、ママのこと、好き」
「好きだよ」
僕はぼんやり、砂に塗れた足元を眺める。
「好きだからこそ、本気でないと分かるし。言われたら傷つく」
僕は本心を確かめながら伝えた。
彼女の鼻の頭に、まだ砂が張り付いているのが見えた。
「何が正解だろ」
ロミオが独り言のように呟く。
「ジュリエットの優しさのせいで、ママも責めちゃうのかも。そこに甘えてね。あくまで自分は子供なんだよ、って伝えたほうが、お互いのためかも」
ロミオは丁寧に言葉を選んでくれる。確かに僕も、そう思う。
「色々だよね」
「本当に」
僕は同意する。ロミオはため息をつく。
「ロミオも」
「そうだね」
二人の後ろを、両親と姉弟らしき二人が通り過ぎる。
不規則な砂を噛む音が、遠ざかって、波に流されていく。
消え入りそうな夕日が、湿っぽい眼差しを二人に注いでくる。
「話変わるけど。ジュリエットはさ。生まれ変わったら、何になりたいの」
ロミオが話題を移そうとおどける。
僕は少し呆気にとられる。ロミオは顔を綻ばせる。
「前世の記憶があるなら、来世は何になりたいとか、何になる運命かとか、あるのかな」
ロミオの目の下に、隈ができている。彼女も随分、冷えたのだ。
「その辺の石とか」
「へえ」
「一人で、じっと過ごしていたい」
「わかるわ」
ロミオは、また手元の石を掴んで、自棄のように湖に投げる。
一つ音をたてたきり、それは底へと落ちていった。
「ジュリエットは太宰治、知っている」
「知っているよ」
「太宰に『魚服記』って作品があるの」
「知っている」
読んだことがあった。
「あの作品でね。お父さんとの関係で悩んだ娘が入水自殺するんだけれど。生まれ変わっても鮎になって惨めなままで。また滝の中に落ちていってね。怖いなと」
ロミオは悲痛な顔をつくる。
「死のうとしても、失敗するかもって。怖くて。逃げ場ないのかなって」
ロミオの赤く潤む水鏡に映る、僕が頷く。
「運命なのかもなって。生まれ変わろうとしても、余計にしんどくなりそう」
ロミオは指で目頭を拭う。
砂のついた指でかえって顔を汚している。一事が万事彼女はそうだ。
「私は死んだらね、ジュリエットの守護霊になりたいよ」
「何それ」
「私たち、悪い運命だから。私が死んだら、ジュリエットに幸運を分けてあげたいの」
彼女は砂を掌で掬った。夜を帯びて黒ずんだ砂を、手の中に集めた。
「僕も、そうなりたいよ」
「私の守護霊に」
「それで助けてあげるよ。なんでも願いを叶えてあげる」
「願いか」
破れたワンピースをはためかせるロミオ。
赤く焼けた彼女の横顔が浮腫んでいる。
「幽霊になったら、過去へ戻れたりするのかな」
ロミオはぼんやりと、水面を眺める。きっと、夜の底に昨日を探していた。
「戻れるかも。肉体に拘束されないわけだし」
「過去へ連れて行ってほしいな。そのときは」
「それだとタイムパラドックスが起こりそう」
僕は冗談を飛ばす。ロミオは顔に喜色を浮かべる。
湖にはもう、ボートは影も形もない。
ロミオは、欠伸をした。二人とも、ぐったり疲れて、微睡みそうになる。
気怠そうに、彼女は水平線に視線を向ける。
「ならジュリエットだけ過去へ飛んでいって、耳元で囁いてほしい」
彼女は掬った砂を、砂時計のように落としていく。
「過去に何があったのか、とか。両親に」
「わかったよ」
「ありがと」
彼女は儚い笑みを頬に浮かべた。
彼女の瞳は、忌々しくも愛おしい記憶を求めて、宙を彷徨った。
昨日に逸れるロミオの視線を、僕も追いかける。
昨日に、戻れたら。
「昨日に戻れたら。遠い、昨日に戻れたら」
「戻れたら、どうしたい」
ロミオは問いかける。
傷跡のような夕陽が、水面にわずかに溶け残っている。
太陽の残り火は、黒い水面に飲み込まれていく。
どうしても、もう夜になる。
「思いがけないお別れがあったから。相手に『ごめんね』って、伝えてほしい」
「それくらいなら、深刻なタイムパラドックスは起こらなそう」
ロミオが茶化す。僕も吹きだした。
その後沈黙が流れて、波に冷やかされた。
僕は不意に辛くなった。謝れなかった、別れがあった。
足元にあった小石を掴んで、湖に投げた。
水面で三度跳ねたあと、それは水音の下に沈んでいった。
ハルカの章
家出した、遠い昨日を回想していた。ロミオとは運命のような出会いをした。
「ハルカ」
話しかけるママの耳が赤く熱っている。僕は厚手の防寒具を着ているから温かい。
「どうしたの」
僕は並んで歩くママを見遣る。
美緒とそっくりの、眠そうな垂れ目だ。冷え性な二人の目の下には、隈が並んでいる。
「急に思い出しちゃった。遥が家出した時のこと」
ママは眉に皺を寄せる。偶然だな、と思った。
「あの時は、ごめんね」
「気にしてないよ」
「『遥が殺した』なんて。レモンのこと」
ママがしんみりする。
レモンは、以前飼っていた九官鳥の名前だ。嘴のところが黄色いからレモンと名前がつけられた。ママが大事にしていたペットだったが、僕が留守番していた時、野良猫に檻を倒されて、そのまま塞ぎ込んで衰弱死した。
「本当にごめん」
ママが小さく頭を下げる。僕は、頷いて返す。
雪の上を歩く二人の足音が、静かに溶けていく。
鼻の頭が凍って染みる。鼻翼を冷たい結晶が掠める。
「僕も家出した時を考えていたよ」
「友達ができていたんだっけ」
「『春香』さん。名前まで僕と同じ『ハルカ』で」
いい思い出だ。
『名前教えて貰えない。最後だし』
あの日、僕は仲良くなったロミオという少女に訊ねた。
『ハルカ。〈春香〉だよ。〈春の香り〉で〈春香〉』
彼女は僕と同じ癖毛を掻いた。
『運命かな。僕も〈ハルカ〉だよ。〈遥か遠く〉の〈遥〉』
僕は思いがけないことに驚いた。
運命だった。あれきり会ったことはないけれど、忘れることはないだろう。
二人とも、どこか間が抜けているから、互いの苗字も聞きそびれたけれど、いつか。
「似合っているね。コート」
ママが僕を見て微笑む。姉である美緒と色違いの、エスキモーのようなコートだ。
「ありがとう」
僕が返すと、ママは小さく笑みを零す。
雪が、瞼に触れた。尖った冷たさが、目の縁で溶けた。
「レモンはね。梶井基次郎の『檸檬』からとった名前なの」
レモンはママのペットで、ママが全部面倒をみていた。
「小さい頃、しんどかった。両親、じいちゃんばあちゃんの仲が悪くてね。しんどかった時に、『檸檬』に触れて。感動したの。檸檬が爆弾に思えてゾクゾクするだけの作品だけれど。そばに爆弾があると思うと落ち着ける気持ちがしたの」
ママは向こうに視線を向ける。
見ると、家の前で小さな兄妹が雪玉を投げ合っている。
「全部吹っ飛ばせると思うと、気が楽になった。檸檬に思い入れができたの」
兄妹の家に、雪だるまが見える。頭が吹き飛ばされたように崩れている。
「今は遥に嫌な思いをさせているんだろうなって」
ママは僕の足元に目を遣る。
「そんなことないよ」
「ちゃんとしなきゃなって。私」
ママは、風で顔にかかる前髪を梳かす。
僕とは対照的な、長いストレートヘアーが、今は北風に解れている。
気まずくて、無理に伸びをした。僕の癖だった。
「遥は、美緒とは、どう」
「仲良し」
「二人ともいい子でさ。私の子とは思えない」
「ママの子だから、だよ」
「ありがとう」
ママは、小さく俯く。
気まずい沈黙の中に、二人の足音が降り積もる。
時々後ろを振り返ると、追いかける雪が、二人の痕跡を消しているのが分かった。
頬を時々、雪が冷たく撫でた。
二人の足跡は、もうすぐ家にたどり着く。
ママが、自宅の方に何かを見つけて立ち止まる。
「美緒」
ママが火照る頬を緩める。視線の先、自宅の窓の向こうに姉の美緒がいた。
美緒も窓の向こうでこちらに気がつく。窓を開けて、こちらに手を振る。
「おーい」
ママは美緒に手を振る。僕も、美緒に手を振り返す。
わざわざ窓まで開けて、寒いだろうに。
あの日も、随分冷たかった。
ふと、ロミオのことを回想する。
『私は死んだらね、ジュリエットの守護霊になりたいよ』
『僕も、そうなりたい』
今でも忘れない。いつかまた、会えるだろうか。
『ジュリエットとの出会い。絶対、運命だなって、大人になったら思っている気がする』
運命だったと、本当に思う。いつかまた、もう一度どこかで彼女に会える気がする。
運命なんて信じているわけではないけれど、それでもまた、彼女に会える気がする。なんとなく、そんな因果がある気持がする。
『私たちって悪い運命だから。私が死んだら、ジュリエットに幸運を分けてあげたい』
悪い運命。僕が、死んだら。
あの日、僕はレモンのことを思い出して、苦しくなった。レモンに謝れなかった。レモンは孤独の檻にこもって、僕のことも拒んだ。そのまま一人で、冷たくなった。
その日の僕は、そこから自棄になって水面に石を投げたのだった。
向こうの家の前でも、子供たちが雪合戦をしている。
背中に、冷たいものが当たった。雪だ。
あの日と同じで、眠気が襲ってきた。
「ハルカ」
目が覚める大声で、ママが叫んだ。
我に帰る。脇見をしていて、無意識に道路の方へ進んでいた。
クラクションの音と、ブレーキを踏む音が聞こえた。
「ハルカ」
叫んで、ママが僕の方へかけてくる。
スリップした壁が迫ってくる。轟音に鼓膜が割かれる。
雪よりも冷たいものが、瞼をなぞった。
「ごめん」
ママが叫んだ。
ごめん。声にならなくて、また、謝れなかった。
ママの口元が動いて、何も聞こえない。
「来世は何になりたいとか、何になる運命かとか、あるのかな」
耳元で、ロミオが囁いた。口元が、何度か引き攣った。
『昨日に戻れたら』
遠い、昨日へ戻れたら–。
ハルカの章
私は、子供の頃に一度、家出をしたことがある。理由は、自宅の入り口の扉にワンピースを挟んで破いて、それでパニックになった。
家の奥ではパパとママが喧嘩をしていたから、不意に、抱えてきたものの堰が切れて、私は泣きながら、家を飛び出した。ちゃっかりしているから、家出に目を向けさせてワンピースの件を咎められるのを避けたい気持ちもあった。
『木崎さんて、家出をしたことある』
関係が復活した鹿目美緒さんに、言われたことを思い出す。エスキモー事件の鹿目さん。弟の遥と母親を事故でなくした鹿目さん。このあいだ、一緒にファミレスで過ごした。
『一回だけ』
『木崎さんって、弟に雰囲気が似ているから。弟も家出を一度したことがあって』
『くだらない理由。ワンピースを破いちゃって、怒られるのが怖かったから』
『実際は、違うと思う。家族のゴタゴタをなんとかしたい、みたいな』
鹿目さんは目の下の隈を撫でた。
『ネミの森の王殺しの儀式みたいな感じ。共同体のために、そういうイベントをつくる』
言葉を懸命に考える鹿目さん。
『私の弟も昔、家出をして。不思議とあの後、家族仲が良くなったの。儀式みたいでね。弟の作戦だったんだなって。家族を一つにまとめるための』
私は彼女の言葉に、ふとあの「遥」少年のことを連想した。
私と同じ「ハルカ」という名前のジュリエット少年。私がロミオとして過ごしたあの日。彼とはあれきり会うこともなかったけれど、時々ジュリエットを思い出す。
『前世の記憶というかね。夢なの。生々しくて、そう錯覚できるくらいの』
私もジュリエットと同じで、前世の妄想を抱いたことがあった。夢だとわかっていたが、そんなふうに感じられるほど、死ぬ夢が鮮烈だった。だからそんな妄想を抱いた。
『死のうとしても、失敗するの、怖くて。逃げ場ないのかなって』
『そういう運命なのかもなって。生まれ変わろうとしても、余計にしんどくなりそう』
私はいなくなりたかった。そうすれば春斗と両親はもっと、幸せになる気持ちがした。
あの家出は王殺しの儀式だというのは的を射ているのかもしれない。そうした祝祭的な出来事を経た後ならば、家族に安寧がもたらせられる気がした。
私の家族も、その後しばらく喧嘩をすることが減った。大きな事件を起こして、家族に内省を深めてほしかった。軋轢をへらしたかった。
『木崎さんって私の弟にそっくりだったよ。会えていたら絶対、仲良くなっていたよ』
私はそれに、ふとあのジュリエットこそが鹿目さんの弟の「ハルカ」だったのではないかという妄想を抱いた。そんな運命が、偶然が、あるはずもないけれど。
「運命」とか「前世」とか、くだらない妄想は子供の頃から得意だったっけ。
『ジュリエットとの出会い。絶対、運命だなって、大人になったら思っている気がする』
ジュリエットと私は似ていたし、出会いは運命だった。相手の苗字も聞きそびれたし、接点がなくなったけれど、赤い糸で結ばれた二人だから、どこかで出会うかもしれない。
『ロミオも、ジョジョが好きなの』
私たちは趣味もよく似ていて、『ジョジョの奇妙な冒険』を二人とも好きだった。
『大好き』
『ロミオは〈ローリング=ストーンズ〉っていうスタンド知っている』
『第五部のエピローグの』
『死の運命にある人に安らかな死を与えてあげるスタンド』
ジュリエットはさらに続けた。
『うまく伝えられないんだけれど。もし不幸や死ぬべき運命が避けられないとしても、誰かのプラスになれたら、ささやかだけれど、嬉しいなって』
『こうしてロミオと会えてよかったよ』
ジュリエットは顔を綻ばせた。私も、本当にそう思っている。
ジュリエットは今、どうしているだろうか。元気で過ごしているだろうか。もしかしたら、何か不幸に巻き込まれていないだろうか。悪い因果からは逃れられただろうか。
『私は死んだらね、ジュリエットの守護霊になりたいよ』
『私たち、悪い運命だから。私が死んだら、ジュリエットに幸運を分けてあげたい』
ジュリエットも、私の守護霊になるとか冗談を飛ばした。
『ならジュリエットだけ過去へ飛んでいって、耳元で囁いてほしい』
私の耳元で、ジュリエットが。
窓を叩く雨音が、何かを告げようとする。そのことを悟らせるために急き立てる。
指先が、冷たいものに触れる。
「わ」
ぼんやりしていた私は、テーブルから烏龍茶の入ったコップを落とす。
鈍器で殴るような鈍い音。足元に、じんわりと冷たさが染みていく。
脱力感が、体に波紋を描く。あの日と同じ。
甘い眠気が、瞼を撫でる。
「いつかまた、ロミオと会えたらいいな」
耳元で、ジュリエットが囁いた。
口元が、引き攣った。
あの日感じた、水の底へと引っ張る粘っこい冷たさが、懐かしく蘇った。
第六話 江隈の口元
父の章
居間で地方新聞を読んでいると、訃報欄に思いがけない名前を目にした。
「江隈由美 女性 享年四十ニ歳 心不全」
江隈由美。彼女は中学時代に一年のころ、塾の知り合いだった。
彼女には双子の弟の真弓さんがいて、彼とも僕は遊び友達だった。近所の公園で遊んだ時、よくそこに真弓さんもいた。僕と真弓さんは仲が良くて、たまに僕の家に遊びに来ていた。弟の真弓さんの口元には黒子があって、それが二人を区別する記号だった。
二人は苦労人で、父親が早くに亡くなって、鬱や認知症で活動できない母親の面倒を二人でみていた。真弓さんが僕の家に家出をしてきた時もあった。真夏の日のことだ。
「電話来たら、いないって伝えてね」
真弓さんは念を押した。
案の定母親から電話がかかってきた。自室にいて子機で受けて、僕が出た。
「もしもし」
僕は電話口に向かって話しかけた。
「マユくんなの」
電話の向こうで女性が尋ねる。暑さで溶けた、抑揚と覇気のない声だった。
「違いますよ。木崎です」
「マユくんはいる」
「いえ。こちらには」
僕は真弓さんを見遣る。薄手のパーカーを羽織る彼は、汗を少しもかいていなかった。
「困っているの」
「何か問題が」
「一人じゃ料理できないから。マユくんがいないと」
彼女はのっぺりした声音で愚痴を吐いた。
「大変ですね」
僕は、汗をかいているわけでもないのに、額を拭った。
冷房の小さく唸る音が聞こえた。空調も熱気に競り負けている。
「本当にいい子でね。あの子がいないと、何にもできない」
起伏のない調子で彼女は話す。
「あなたの前では、マユくんはどう。迷惑かけてない」
「良いやつですよ」
本心だった。
「よかった」
電話の向こうで相手が嘆息を漏らす。
真弓さんが、部屋の隅で小さく舌打ちする。
「だる」
僕にしか聞こえないくらいの声で真弓さんが毒づく。
「マユくんの特技、知っている」
「わからないです」
「詩作ね。詩。もともと私が好きで。いつもマユくんは熱心でね。覚えも早い」
起伏に乏しかった彼女の言葉に、少し喜びの波形が滲む。
「待っていてね」
受話器が何かにぶつかる音がした。
もしもし、と声を掛けても返事がない。彼女は電話口を離れていた。
「何言ってるの。お母さん」
「いや。なんか」
僕も答えにつまった。相手が何をしに行ったのか分からなかった。
「切っちゃえば。キリがないんよ」
真弓さんが迫る。僕は躊躇う。流石に申し訳ない。
しばらくすると春香に似た喧しい足音が近づいてくる。だんだんそれが音量を増す。
受話器に触れる、乾いた音がした。
「私も、昔は詩が作れたの。今は頭がぼんやりしているけどね。前はできたの」
電話口に戻った彼女は、ぼんやりした口調で話す。
「読んであげるね。前に書いたやつ」
「はい」
「いきますよお」
「ええ」
「『頬枯れて 薔薇の手枕 蕩けし唇弁 目は窄み
屍の甘き 氷花は蕩け 鉄の香りに ただ頬緩み
窪んだ沼に 臥す睡蓮は 窓辺に微睡む 我が影法師
その唇は 蕾と潤み まなこに朱き きのう影さし
霜枯るとても 忘られぬ香に うたかたに消ゆ 夢に彷徨い』
おしまい」
調子はずれな読み方だが、内容がそれほど拙い詩とも思わなかった。イメージは統一されているし、韻を踏むとか形式も整ってはいる。
空調の冷たい風が、肩に触れた。
「かっこいい」
僕はなんと返したらいいか分からず感想を述べた。
「涼しそう。タイトルは『吸血鬼』」
彼女は得意そうにする。
「どんな意味ですか」
「忘れちゃった」
「そうですか」
僕はまた額を拭った。
真弓さんを見遣ると、億劫そうな表情をこちらに向けている。
「あ」
不意に大きな声を彼女が発して、僕は驚いて体を震わせる。
「どうしました」
「誰か来た」
また受話器が、物にぶつかる音がした。
電話は切れない。確認しに行ったようだ。
床を踏む、大きな足音が小さくなっていく。
「どうしたの」
真弓さんが訝しそうにする。
「誰か来たって」
「誰よ」
真弓さんが眉を顰める。僕は首をかしげた。
足跡が戻ってきた。足音が次第に大きくなる。乱暴に床を駆けているようだ。
受話器が乾いた音を立てる。
「ユミちゃんが帰ってきた。家事してくれているよ。バイバイ」
その言葉の後、プツンと音がする。
無機質なビジートーンが聞こえた。電話が切れている。
僕は受話器を置いた。草臥れて、額を訳もなく拭った。
真弓さんは肩をすくめる。
「由美さんが帰ってきたんだって」
僕は真弓さんを見た。
目を見開く真弓さん。肌に鉄が染みて、赤くのぼせていた。
瞳孔の黒が、滲んで広がった。
隣で扇風機が、ずっとかぶりを振り続けた。
「どうしたの」
「由美が」
真弓さんが強く確認する。僕は、戸惑い頷く。
鴉が外で間抜けな声を上げて、二人を冷やかした。
「家事してくれているって」
「マジ」
「マジ」
僕は事情が飲み込めない。
目を瞑り、首を横に振る真弓さん。
「様子見に帰るわ」
真弓さんは炎天下の中、急いで家を出ていった。
何があったのかは知らない。その日から、真弓さんは姿を消した。由美さんも家に引きこもって介護に専念し、高校にも進まなかったらしい。
ときどき彼女と母親を見かけた知り合いはいたけれど、僕もいた塾からは姿を消した。
ハルカの章
「君」
三つ葉公園で一人、失業者のようにブランコを漕いでいた僕に、女性が声を掛ける。
「知り合いに似ていて。あの」
彼女はベリーショートの髪型で、ワンピースの黒いカジュアルなドレス。
整った顔には、黒子ひとつなかった。
「えっと」
思いがけず、僕はたじろぐ。相手が男だったら、パワープレイのナンパを警戒して、走って逃げていただろう。
彼女は、艶めいた頬を掻く。
自然とその肌に、化粧が溶けている。肌質が悪い僕は、いつも肌に粉が浮く。
「ごめん。不審者だよね」
彼女は苦笑をする。
「知り合いと雰囲気がそっくりで。年齢も」
「はあ」
僕は戸惑いながらも、どこか彼女を拒めない。
彼女は、笑って吐息を漏らす。
「木崎隼平さんの子供かな、って」
「そうですけど」
僕の反応に、彼女の潤んだ虹彩が、喜びと興奮に色づく。
「やっぱり。私、彼の知り合いなんです。昔の」
彼女は楽しそうにする。
薔薇の香水と桃色の体臭の絡み合った、たおやかな香りがした。
「隣、いいかな」
彼女は僕の隣のブランコを見遣る。ええ、と僕は了解する。
「ありがと。懐かしいな。この辺は」
彼女は隣のブランコに腰掛けた。
話し方に砕けた華やかさと余裕があって、一緒にいて落ち着ける。
いつの間にか、近づかれている。
一方で、振る舞いに「仕事」している雰囲気があって、夜の街の人という予感がした。
「群馬から離れていたんですか」
「東京。キャバクラとか、色々。最近は友達と投資や事業でうまくいって。億り人に」
彼女は歯を見せて笑う。
「ところで、君、名前は。私は、まゆ–」
彼女は少し躊躇う様子を見せた。
ぼんやり、江隅さんは足元を眺めている。やがて小さく、顔を綻ばせる。
「私は。江隈由美っていいます」
「春香。木崎春香です。春の香りで、春香」
ブランコを揺らす二人の影が、時々足元で重なる。
「いい名前。懐かしいな。色々」
彼女は周囲を見回す。愛でるような眼差しを周りに注ぐ。
公園の隅には桜が並んでいる。時期外れの暑さに辟易して、花びらを散らせている。
「いつから東京に」
「もう昔よ。家出して東京に。夜の街に出て。あてもなく」
ぶらぶらと、彼女はヒールを履いた足を彷徨わせている。
「家族が死んだって聞いて、帰ってきたの」
「法事」
僕が彼女の黒で揃えた衣服を見遣って訊くと、控えめにかぶりを振る。
「双子の兄弟が死んだのよ。江隈真弓っていう」
江隅さんの言葉はどこか歯切れが悪い。
「それで気持ちの整理に帰ってきた感じかな」
彼女の澄んだ水晶が、どこかにある昨日を求めていた。
風が僕の頬を引っ掻いて、水気を奪って逃げていく。
「君は、家出したことあるの」
「一回だけ」
「逃げたくなる時あるよね」
チークを塗った彼女の頬が、桜色に緩む。
「ですね」
僕は彼女の宙ぶらりんの、足の影を見遣る。
「ヤングケアラーみたいな感じだったのよね、それで心が壊れてね」
澄んだ瞳が花曇る。
「きょうだいで、家族の世話を」
僕が尋ねると、彼女はこくりとする。
「父が早く死んで。母さんが鬱になって、面倒を見ていたの。母も、前になくなって」
江隅さんは、肩をすくめる。
「介護に疲れて、真弓っていう弟を残して家を出て、みたいな感じかな」
彼女は微苦笑を漏らす。
桃色のネイルで、彼女は凛と咲く目尻を掻く。
「当時、壊れていてね」
江隅さんの手元の鎖が、少し縺れている。
「拗れちゃってね。風俗で働くとか。汚辱に憧れてさ」
揺れるブランコが、どこか卑猥な、ぎこちない音を軋ませる。
足元の干上がりそうな水溜まりには、桜の花びらが溺れている。
「自分語り。ごめんね」
「気になるかも。パパの友達だし」
僕は心から興味を示す。江隈さんも顔に喜色を浮かべる。
彼女は後ろ髪を両手で撫でて、それがまた、薔薇の香りを運んだ。
人当たりはよいけれど、孤独な香り。
二人の前を、蜜を尋めゆくアゲハチョウが横切る。
「私は自分を捨てて、逃げて。やっと戻ってきたのさ」
江隈さんはそのまま、ブランコから飛ぶ。
浮かんだ彼女は、束の間宙を舞う。
空に遊んで、江隅さんは優雅に着地した。
やんややんやと僕は拍手する。
舞い散る桜の花びらが、甘く彼女の頬を撫でた。
父の章
亡くなった江隈由美さんたちについて、最近考える。
行方をくらませたあの日、真弓さんに何があったのか。
真弓さんからは、彼の母親についてよく話をされていた。
「お母さん、呆けていてさ」
中学の頃、三つ葉公園で真弓さんといた時のこと。
真夏の夕方、二人でブランコを漕いでいた。そうして携帯ゲームで遊んでいた。
「僕のこと、誰だか分からなくなるのよ」
真弓さんは、口元の黒子を掻く。
夕方、夏の熱く蒸れた空気は、二人の肩に圧し掛かってきた。
後ろにある茂みから、草いきれがときどき運ばれて、青臭い匂いが鼻に染みた。
「木崎さん、家出したくなったらおいでよ。僕と勘違いして、受け入れてくれるよ」
「考えておくよ」
僕は反応に悩んで、唇をすぼめる。
沈黙の間隙にブランコが、拙い弦楽器の演奏のようなリズムを刻んだ。
公園の隅には葉桜が並んで、たたずんでいた。
春と違って、夏にはほとんど桜は自分を主張しない。
「木崎さんは、親のことを好きかい」
「まあまあ。真弓さんは」
「わからない」
彼は、じっと項垂れていた。
蜩の鳴き声がした。夏の終わりを伝える音色が焦燥感を掻き立てる。
隅にある花壇に、花火の残骸が捨てられているのが目に留まった。
「すごい時間奪われるのよ。母の介護にね」
うんざりした様子だった。
蜩がいつまでも鳴りやまない、単調な音色を奏でた。
二人の影は細く長く伸びて、いつまでも同じところで行きつ戻りつした。
「しんどいよね」
なんと返すべきか、分からなかった。
砂場には、おもちゃのようなスコップが、置きざりになっていた。
それでこしらえられたと思しき小さな山が、崩れかけていた。
「前は過保護で、うるさかったの。今度は自分が世話される方になって」
「大変だね」
「もう、うんざり」
真弓さんは口元の黒子を拗ねたように指で弾く。
真弓さんの足元には、蜩の死体が仰向けになっていた。
真弓さんはその亡骸に、嫌悪とも同情とも見える眼差しを向けていた。
「傷つけたくないのさ」
「お母さん」
僕は真弓さんの黒子に目を遣る。真弓さんは首を縦に振る。
「お母さんと、距離を置きたい」
真弓さんは微苦笑を漏らした。
母親と距離を置きたくて、家出したのかもしれない。それで姉の由美さんが母と残された。それこそが真弓さんが姿を消した理由かもしれない。
真弓さんはいつも、母との関係に悩んでいた。
真弓さんはそれから、目を伏せて、気恥ずかしそうにした。
「ねえ。ポルノビデオのスターに憧れることはない」
真弓さんが赤面している。
僕は不意の質問に呆気に取られる。
向こうに見える雑木林には前から、アダルトビデオのパッケージが捨てられていた。『六月六日、文芸少女の衝撃デビュー。セックスは天国、それとも地獄』という衝撃的な惹句が書かれていて、真弓さんがケラケラ笑ったことがあった。
「アダルトビデオとか、官能的な映画の俳優」
真弓さんはブランコを止めて、足をもどかしそうに虚空に彷徨わせていた。
「ないかなあ」
「負けた姿を見られたい、みたいな」
真弓さんは頬を赤らめて、髪を指で梳かす。
真弓さんの後ろ髪が、それを束ねる赤光に濡れていた。
首を傾げて、僕は唸る。真弓さんのそうした気持ちは飲み込めなかった。
「ボロボロになって。性的に虐げられたい。汚辱に塗れたいって」
真弓さんは一層、恥ずかしそうにする。
彼の足元の蝉の亡骸に、蟻が群がっていた。
蟻は行列を作って、蝉の一部を運んで行進していた。
行列はどこまでも、細く長く続いていた。
「人それぞれよね」
「いつかアダルト業界で天下とるよ。家を出ていってね」
真弓さんはおどけて、鼻の下を擦ってみせた。
あの時真剣に考えることはなかったが、あれこそ真弓さんがいなくなった動機かもしれない。真弓さんは、自分を汚したくて、旅に出た。
鴉が調子外れに鳴いて、夕空に小さくなっていく。なにかをどこかへ探しにいく。
真弓さんの眼差しは、逃げていく鴉を追いかけていく。
「必ずみてね」
「ビデオ。アダルトの」
僕が訊くと、真弓さんはこくりとする。
彼は俯いて、虚ろな瞳をした。
「抜け出したい」
真弓さんの瞳は、足元で貪られる蜩の亡骸を虚に眺めていた。
死体は生きているみたいに、ときどき翅や肢を小さく動かした。
母の世話を逃れて、汚辱に浸る。もしかしたら真弓さんはそれを望んだことで、家出したのかもしれない。
今、彼はどうしているだろうか。
母の章
「江隈さんは、もう慣れました」
リサイクルショップの控室で、正面の椅子に座る松村光さんが尋ねる。
狭い殺風景な部屋に、私たち三人がいる。
「それなりに」
抑揚のない声で江隈由美さんが返す。彼女は私と同年代。髪が短く、口元に黒子がある。ときどき黒子を指で撫でて、存在を確かめている。
江隅さんは、女性にしては肩幅が広く、がっしりした骨格をしていて、声も低い。
彼女は少し前にこのリサイクルショップに来た。名札に「江隅由美」とフルネームがあるのは、江隅姓が他にもいるからだ。
「木崎さんは店長より頼りになるんで。なんでも相談してくださいね。ただし嫌われると、この職場にはもういられなくなります」
松村さんが得意の冗談を飛ばす。
江隈さんも控えめに愛想笑いをする。普段、あまり表情がない人だ。
「こらこら」
私はツッコミを入れた。
なぜか不意に切なそうな表情を作る江隈さん。
それから彼女は嘆息を漏らす。彫りが深く整った顔の中で、黄ばんだ目が潤んでいる。
「冗談がきつすぎましたか」
松村さんが困惑している。
「いやいや」
江隈さんは、手を振って否定する。
潤んだ目頭をさらに擦る。虚に窪んだ瞳が、どこかにはぐれていた。
「最近一気に歳をとったようで。思い出すんですよ。昔のことを」
江隈さんはぼんやりとした顔でいる。
松村さんは、彼女に戸惑いのまなざしを向ける。
「弟がいたんです。冗談で、場を和ませてくれた。最近、亡くなって」
江隅さんは、顔を歪めて俯く。
「そうなんですね」
恐縮する松村さん。
江隅さんは、目頭を指で押さえる。指は、小刻みに震えている。
「私は、弟を見殺しにしたんです」
江隅さんは悲痛に顔を歪める。
見殺し。窮屈で起伏のない部屋の空気を、淡い緊張が浸す。
「ずっと。ずっと」
江隈さんは、頬に涙を伝わせる。
私と松村さんは、顔を見合わせる。
「ずっと一人で抱えてきたんです」
目頭を抑えて、江隈さんが訴える。
「大丈夫ですか」
不安そうな面持ちで訊く松村さん。
うつむいて、首を横に振る江隅さん。肌に黒が滲む彼女はいつも、体調が悪そうだ。
「変なこと喋っていますね。もう歳で。勝手に溢れてきそうになるんです」
江隈さんが呟く。とはいえ私と変わらない年齢のはずだ。
「気分が悪いんですか」
松村さんは慮る。
「大丈夫」
江隅さんは潤んだ瞳を細める。
当惑した様子の松村さん。お人好しで、人に気を遣う性分だ。
「あのう」
江隅さんの瞳は、深く混濁している。
「なんでせう」
「昔話をしてもいいですか。誰にもいえなかったことなんです」
江隈さんは覇気がない調子で懇願する。
「いいですとも」
松村さんがおどけて胸を張る。
私も江隈さんの瞳を注視して、同意を示す。
虚な瞳で、曖昧に頷く江隈さん。
「弟がいたんです。松村さんに似て剽軽な。私の家族は片親で。小さい頃に、父が死んだんです。優しかった、母は変わった」
江隈さんは声を震わせる。
江隅さんの瞳が、憎悪の黒に染まっている。
憎悪は暗い渦になって、呪詛を囁きかける。
「家では無気力で塞ぎ込んでいて。不意にスイッチが入って凶暴になるんです。酒も飲むから、手に負えない。刃物を振り回して、私たちに暴力を加えて。二人を暴力で支配するようになりました。当時、誰にも打ち明けられなかった」
彼女の瞳は暗く、淀んでいる。
江隅さんは、ぐったり滲んだ、ため息をついた。
「私は、そこから逃げ出したんです」
江隅さんは、苦渋に顔を顰める。
「弟を置いて、家を出て。別人として生活していくことを選んだんです」
江隈さんの唇が、油が切れた機械のように動く。
「母に迷惑をかけたかった。それだけだったんですがね」
聞き取りにくい声で語る江隈さん。
江隅さんは、不意に泣き崩れた。断片的で要領を得ない。
「大丈夫ですか」
松村さんが不安そうにする。
松村さんは、江隅さんが体の悪そうなのをいつも心配している。
「今度、気が向いたらお願いします。気分が悪くて。すみません」
顔を赤らめ、縋る顔を作る江隅さん。
上せた彼女は悪夢をさまよって、襟までぐったり汗をかいていた。
父の章
最近、亡くなった江隈由美さんを回想する。彼女とは中学時代に塾が同じで、時々会話することがあった。弟と似た、朗らかな性格だった。
由美さんは弟と違って、口元に黒子はなかった。由美さんの方が破天荒だった。
「『蚊』っていうゲーム知っている」
塾で隣の席になった時、由美さんに訊ねられた。
「知らないよ。虫のゲーム」
僕は蚊に刺された腕の発疹を意識した。
「主人公が蚊なの。夏の間に、蓄えを作るために奮闘する蚊が主人公」
由美さんは、白いキャミソールに黒いパーカーを羽織っていた。
「面白そう」
「人を選ぶね」
苦笑を零す由美さん。
「性癖かも。蚊になってみたい」
由美さんは目を輝かせる。
僕は着ていたTシャツの襟をはためかせて、中へ風を送った。
「蚊は血を吸っている時に叩かれると一瞬で死ぬの。
それが性癖。美男美女の血を吸っている時に、叩き潰されたい」
由美さんは、自分の腕をぺちん、と叩いた。
由美さんの瞳の黒に、照明の白い光が沈んでいた。
「ゲームの中で刺されるのも美男美女なのかな」
「若い子と、あとは中年」
彼女は、教壇に座る中年の女性講師を見遣る。先生は剽軽で明るく、サブカルチャーに明るいため、生徒に人気があった。
僕と由美さんの間を蚊が飛んだ。
塾は県内中心の規模で、古い建物を間借りしていた。老朽化していて、隣も草むらだったから、藪蚊が多かった。
「蚊って、血を吸うと挙動が鈍くなったりもするのかな」
「そうだよ」
笑顔で肯定する由美さん。
「面白いね」
「木崎さんは、蚊になってみたくない」
「いや。僕は」
手を横に振って、僕は否定した。
由美さんはおちょくって、僕を指さす。
「妄想しないの。純情だから、ないか。美人の血を吸いたいみたいな。木崎さん」
由美さんは靴を脱ぎ、椅子の上で裸足になっている。
自分を縛るものが、いつも窮屈そうだった。
「あんまりないな」
「覗きたいとか」
悪戯っぽく由美さんは茶化す。
「しないって。由美さんはどうなの」
「私は、エロい妄想はしないよ」
由美さんは羽織るパーカーを着崩している。
細腕に走る青い血管が見えた。赤く小さな発疹が一つあった。
「てめえ。いま腋毛覗かなかった」
由美さんはパーカーで体を覆う。それから、僕を小突く仕草をする。
「いや」
僕は否定する。何の気なしに腕を見ただけだった。
「そかそか」
外の草むらで、夏の虫がけたたましく鳴いている。
天井の蛍光灯のノイズがそれと混じって、不協和音を奏でる。
硝子戸に張り付く小さな蛾が、建物の中を覗き込んでいる。
「でも人間観察してみたい」
由美さんは、探るような眼差しを向けてくる。
「みんなが家ではどうしているのか、気になる」
彼女のその気持ちはわかる気がした。
僕の耳元で、藪蚊が高く耳障りな羽音で囀った。
蛍光灯に、羽虫が弾かれるのが見えた。
「時々妄想するの。自分が吸血鬼になることを」
由美さんは、飛んできた藪蚊を手で払う。
「私が死んだ後で、吸血鬼になる。私が死んだ後の世界がどうなっているのか、確かめたい。知り合いが、私が死んだらどう振る舞うのか知りたい」
「ちょっと、面白そうだね」
僕はボトルの麦茶を飲んだ。夜だから、すきなコーヒーを避けていた。
由美さんはにこりとする。
「木崎さんはどう、私が死んだら」
「僕」
「泣いてくれる。君、泣黒子あるし泣くよね」
僕の目元を指差す由美さん。
僕は、気恥ずかしくて自分の泣きぼくろを掻いた。
「そりゃ、悲しいよ」
「黒子あっても、泣くほどじゃないか」
由美さんが揶揄う。
「そのときにならないと」
僕が返すと、由美さんは顔に喜色を浮かべる。
彼女は僕の顔をまた指さした。
「確かめに行くよ。吸血鬼になって」
由美さんは犬歯をのぞかせた。
由美さんはしばらくして、塾に現れなくなった。母の介護がいよいよ大変になって、学校にも来られなくなったと、噂で聞いた。
母の章
「やっぱり、他人の金で飲む酒はうまいなあ」
松村さんはジョッキのビールを呷る。
近所の全国チェーンの中華食堂に来た。テーブルには松村光さん、江隅由美さん、私の三人。私と江隅さんが隣になり、正面に光さんが座っている。
金曜日のシフトが被って、三人で帰りに夕食に立ち寄ったものの、長老の私がおごる流れになった。
「飲みすぎないでね」
私は松村さんを窘める。白い彼女の肌は、二杯のジョッキのビールで赤になっている。
「大丈夫」
彼女は赤い顔を綻ばせる。酔うと彼女はさらに人懐こくなる。
江隅さんも私も、お酒を頼んでいない。私は、基本的にあまり他人の前でお酒を飲まない。江隅さんは下戸ではないけれど、お酒が好きでもないらしい。
私はチャーハンの小盛り、松村さんは味噌ラーメンの小盛り、江隅さんは餃子とライスを頼んだ。松村さんは早食いでほとんどすぐに平らげた。私も江隅さんも、随分食が細かったので、ちっとも箸が進まなかった。
中華食堂に入ろうと誘ったのは松村さんだった。彼女は江隅さんをいろいろ気にかけていて、江隅さんも彼女に心を開いている様子だ。
中華は食が細い年寄り二人には少し重かった。私は会食が基本的に苦手で、飲食店のことには疎いから、出てくるボリュームかピンとこないときがある。
残すのも気が引けて無理に食べようと思うものの、明日の夕方まで何も食べられそうにない。
「そういえば、江隅さん、言っていましたよね。お母さんのこと」
赤ら顔の松村さんが切り出す。
「私も、気持ちわかりました。機能不全家族で育ったので。
父子家庭だったんですけど。父に殴られたり、髪を切られたり。寂しかったです」
松村さんは、紅く真剣な表情を江隅さんに向けている。
「そうだったんですね」
江隅さんは、ぼんやりとした顔でいる。
江隅さんは微笑んで、吐息を漏らす。
「本当に、私の弟に似ている」
江隅さんの手は、かすかに震えている。
「剽軽で、頭がいい弟でした。私と違ってね」
「確かに、私に似ていますね」
松村さんは、頬を掻いてふざける。
「塾に通っていて、塾でも学年でも、いつも成績はトップでした。勉強しなくとも、点が取れた。私は、勉強はからっきしでした」
濁った江隅さんの瞳は、過去の思い出を揺蕩う。
「弟は、詩が好きで。詩作」
「『シ』って、ポエムですか」
「そうそう。ポエム。私たち、二人のために、弟があるとき詩をつくってくれたんです。忘れたけれど。吸血鬼が出てきたような」
追想に江隅さんの虹彩が狭まる。
「私の母がインテリで、文学に明るくて。そこからその興味が弟にも移ってね。私は難しいことは、ちっともわかりませんでしたが」
自嘲するように、江隅さんの瞳が翳る。
「要領が悪いから、私は母に疎まれていたんです。弟は、私を心配して、庇おうとした」
「そうだったんですね」
労りの眼差しを向ける光さん。
光さんは、私の方におどけた視線を向ける。
「木崎さん。ビール、頼んでいいですか」
光さんが甘えた声音をつくる。
「いいけど。飲みすぎないでね」
「了解っす」
光さんは店員に声を掛けて、ビールをまた注文する。彼女は背が高いせいなのか、随分大食いで、食べても太らない。
「松村さんを見ていると、切なくなりますよ」
江隅さんは儚く頬を緩める。
江隅さんは餃子もライスも、ほとんど手を付けていない。体が悪そうだったし、無理に誘うのも良くなかったのかもしれない。
「私は。弟を、見殺しにしたんです」
江隅さんの皺の多い顔が、後悔を伝える。受難にあってか、年齢より、肌は衰えている。
「言っていましたよね。見殺し」
光さんが目を伏せる。
「一人で、逃げ出して。私は、ただ怖かったんです。臆病だった。いつか母に殺されるのではないかと思った。それに、自分がいつか母を深く傷つけるのではないかと恐れた。親戚も、助けてくれなかった。学校の知り合いだって、何かできるわけでもない。
児相に入ることを考えていました。けれども弟は、それに消極的だった」
江隅さんの瞳の中央に、底のない沼が穿たれている。
「お母さんのことを、気にかけていたってことですか」
「そうでしょうね。弟は、板挟みでいました。母と私の間で。弟は、二人とも救いたかった。だから家庭から逃げ出す踏ん切りがつかなかった。
正直、私はそんな弟に対して苛立ちを覚えました。優柔不断で独善的な振る舞いと映った。二人一緒でなければ、私は逃げたくなかった。
そんな苛立ちがあったから、私は土壇場で弟を裏切ったんでしょうね」
苦渋に顔を顰める江隅さん。
彼女の話すことは要領を得づらいが、地雷を踏んだら悪いので、いつも深堀できないでいる。光さんも彼女を気にかけていて、サポートしようとしている。
光さんは慈愛の輝きを目に湛える。
「結局。仕方なかったと思いますよ」
光さんは、江隅さんに共感を示す。江隅さんは、無理に愛想笑いをする。
「私は、結局、心のどこかで弟を憎み、妬んでいたんです。弟の純真さ、聡明さ。周囲から弟に向けられる眼差し。それを自分と比べていました。
私は、弟の献身を、どこか試してみたくもあった。母への献身に私を巻き込み、逃げようとしてくれなかった。それが偽善に過ぎなかった方が、私は救われたかもしれない。
私は、一人で逃げようとした。でも結局、私は弟の献身の前に敗れたんですよ」
江隅さんは顔を歪め、頬杖を突く。
彼女の後悔は、私には漠然としか伝わらない。彼女がいた状況がよくわからない。
三人の間に、しばらく沈黙がやってくる。
やがて光さんのもとへビールのジョッキが運ばれてきて、彼女は店員に会釈する。
江隅さんは、ぼんやりと光さんの姿を眺める。
光さんはジョッキの中のものを呷る。
「しんどい時はたくさん話してくださいね。お節介かもですけど」
光さんは口の端に泡をつけて江隅さんを見遣る。私もそれに頷いてみせる。
江隅さんの瞳が穏やかな喜びに染まる。
「ありがとう。今度ゆっくり話を聞いてほしいです。
いずれ、日を改めて。もう少し、整理してから」
江隅さんの双眸は、光さんの向こうに、ほかの誰かを認めていた。
しばらくして、私たちは店を出た。光さんもやっぱり、無理に誘ったことを申し訳なさそうに道中で語っていたが、江隅さんは嬉しそうで、少し救われた。
ハルカの章
「家出したことあるって言ったよね。そのとき、君はどうだった」
喫茶店で、正面の席に座る江隈さんが尋ねかける。
あれから、彼女に連れられて駅前の喫茶店に来た。独特の魅力があって、どこまでも連れて行かれそうな気持ちがする。
「どうって」
「どこへ行ったかとか、そこでどんなことしたか、とか」
彼女は僕をじっと見張っている。
澄んだ美しい瞳を向けられると、迷子のような浮遊感に襲われる。
「榛名山に逃げて。両親と距離を置きたくてですね。変なあだ名を使いながら、知り合った別の家出少年とのんびりしていました」
「やっぱりさ。家出をするのって、役割を逃げたいからなんだよね」
彼女は呟く。僕は曖昧な相槌を打つ。
江隅さんは、コーヒーカップをスプーンでかき混ぜる。
その暗い淀みに、僕は足元を掬われる気持ちがする。
「私もね。弟を残して家出をして。別人として生きてきたんだよ」
江隅さんの眼は、カップの水底に眠る昨日を浚う。
「父は早くに亡くなってさ。私の母は、もともと過干渉で寂しがりやだったんだけれどね。急に無気力になって沈み込んで、身の回りのこともできなくなって」
僕の母と、少し似ているかもしれない。
「母親に振り回されて。心が壊れてね。家を出て」
江隅さんはカップを口元へ運ぶ。どの所作にも、華がある。
花の色香に唆されて、僕はストローでアイスコーヒーを一口飲んだ。自分はパパほどコーヒーを好きではないが、甘くないものを消去法で選んでコーヒーを飲んでいる。
僕は太りやすいし、顔に肉がすぐについて、輪郭を失いやすい。
江隅さんはパパに似た、綺麗な輪郭で羨ましい。
「話は変わるけど、君はお父さんとはどう。優しいでしょ」
「ですね」
僕は控えめに同意する。
「おっとりしていて」
「思い出話とか、ありますか」
「色々あるなあ。そうそう」
彼女は思い出して、頬を緩ませる。
それから爪で、コーヒーカップを何度か弾く。
「ポーカーフェイスが苦手でしょう」
「うんうん」
「セクシー女優に憧れているって、パパに言ったんだけれど。隼平さんの表情が、本当に可笑しかったな。優しいから、言葉を選ぶじゃない。可笑しかった」
江隅さんが、追憶に目を細める。
僕は、ため息をつく。彼女は首を傾げる。
「それが辛いんですよね」
「辛い」
彼女は驚いた様子をする。
僕はストローで、いじけたふうにグラスの中身をかき混ぜる。
「何考えているか、分からないところがあって」
向こうの建物の窓にブラインドがあって、隠している。
隣の席で、高校生らしき女の子が一生懸命勉強している。
「それは、あるよね」
失笑を漏らす江隈さん。
あちらの席で、恋人同士らしき二人が向かい合っている。
「パパ、隠し事が多いんですよ」
「タチの悪い嘘をつく方でもなさそうだけどね」
「そうなんですけどね」
僕はアイスコーヒーを飲んだ。いまは心地よい苦みだ。
シーリングファンが、二人を見下ろして回転する。
壁面を水滴が伝って、グラスの底を探しに行く。
「気になっていることがあるの。知っていることなら教えるよ」
「そうですね」
僕は少し躊躇う。
江隅さんは、僕の瞳をじっと見ている。
彼女と目が合うと、催眠術をかけられる。二人の距離を、忘れさせられる。
双子の万華鏡が、私を誑かす。
「端折りつつ」
「はいはい」
彼女はスプーンをカップに泳がせる。
カップの中の黒い水たまりの底に、僕は言葉を探す。
「春香には弟がいました。留守番している時、私が目を離した隙に、死んでしまった。その日から、家族は隠し事をして、変わったのでした。さて何があったのでしょう」
僕は彼女の澄んだ水面を試そうと見返した。
彼女は、白い頬を掻いた。瞳に困惑が波打った。
江隅さんはにわかに神妙な面持をつくって沈黙する。
「難しいですよね」
「そうだね」
申し訳なさそうにする彼女に、僕も愛想笑いを返した。
やっぱり、そうなるよね。
江隅さんはきまりが悪そうに、コーヒーカップを口へ運んだ。
「隼平さんにも、色々考えがあるだろうし。私のくだらない妄想を挟んで、春香さんを余計に苦しめたくはないよね。嘘をついていても、君のためだろうなって」
彼女の答えに、僕は適当に頷いた。
彼女の手元にある、コーヒーカップの中の混沌に、僕は吸い込まれるように沈んだ。
母の章
「この間の話、覚えていますか」
江隈さんが抑揚のない調子で質問する。
リサイクルショップの控室に、また三人がいる。
「弟さんのことですよね」
松村さんが真剣みを声色に滲ませる。
「どこまで話しましたっけ」
江隅さんは小さく項垂れている。
「弟さんを見殺しにした、みたいな」
「そうでしたね」
彼女の瞳に、淡い決意の色が滲む。
江隅さんは俯いて頬杖を突いている。言葉を懸命に探している。
徐に、彼女の唇が鈍く動き出す。
「私はね」
江隈さんは呟く。彼女は指で、口元の黒子を確かめている。
「母に嫌がらせをしたかったんです。母のことは」
「家族に暴力を振るわれたとか。精神疾患とかで」
神妙な面持ちで松村さん。
緊張をこらえて、松村さんはサンドイッチを齧る。
「私と弟は、母に暴力を振るわれて、死の恐怖すら感じました。
そこから逃れ、自由になる方法を、私は思いついたんです」
江隈さんは虚な瞳で告げた。
彼女の口元に開いた穴は、どこか遠くに通じていた。
「私は、強盗に入ることにしたんですよ」
「なんですって」
松村さんは驚きを示す。
私も思いがけず、鼓動が少し高鳴る。狭い個室に、緊張が満ちる。
江隈さんの頬を、汗の玉が伝って、張り詰めた空気の桶に注がれる。
「本当に盗みがしたかったわけではないんです。私が逮捕されたら、外面を気にする母は苦しむでしょうし、私も少年院で保護されると考えたんです。
母は父を喪ってから、変わった。親戚への負い目や育児の重圧から、浮き沈みが激しく、一度スイッチが入ると手がつけられなくなってね。暴力で私たちを支配した」
江隈さんは声を震わせる。いつも振り絞るような声色だ。
「他人の家に強盗に入ることにした。そして私は『江隈由美』になったんです」
江隈さんは、萎れた目を赤く滲ませる。
その瞳は、ぼんやりと松村さんを捉えて、そこに誰かを探している。
「本当の名前は、枝野笑美子といいます。私は江隈由美として、生きてきたんです」
江隅さんは、悪夢から覚めない寝ぼけた瞳を二人に向ける。
「何があったんですか」
松村さんは真摯な表情を崩さない。江隅さんの唇が、静かに動く。
「私は江隈家に『強盗』に入ったんです。本気ではなかったから、堂々と玄関から押し入りました。すると、奥から中年の女性が出てきました。本当の江隈由美の母親、江隈由紀でした。彼女は認知症を患っていて、顔の区別がつかなくなっていたのでした。
あの日、玄関にやってきた私に、彼女がなんと言ったと思いますか」
江隈さんが悲痛な面持ちで問いかける。
沈黙が流れる。問いかけに降参するように、かぶりを振る松村さん。
私には少し、思いつくことがあった。
「お帰りなさい、かな」
私は控えめに答えた。
「そうなんです」
強く肯定する江隅さん。
「『由美ちゃんお帰り。待っていたよ』
私は、その場に泣き崩れました。その言葉があまりにも自然で、昔の母の優しさと重なったからでした。私が求めていたのは、あの温もりだったから。
『お洗濯とか頼めるかな』
彼女に無邪気に促されるまま、私は『江隈由美』として振る舞いました」
赤く淀む瞳が、かすかな喜色を浮かべる。
「でも本当の江隈由美さんは」
松村さんは不安そうにする。
「しばらく後、本物の江隈由美さんが帰ってきました。そして彼女に言いました。
『おかえり。真弓』」
「真弓」
「江隈由美の弟の名前でした。江隈由美の顔すら、彼女はよく分からなかったのです。
彼女は私と同じ中学生くらいの年頃で、パッと見の雰囲気は似ていました。並んで見るとまるで別人だし、私は彼女ほど美しくはなかった」
江隈さんは零した。私は、曖昧な相槌を打つ。
江隅さんは欠伸をした。きっとあらゆることに、草臥れていた。
目の縁から欠伸の涙が伝い、それを江隅さんは拭う。
戸惑いに揺れる光さんは、じっと眼差しを江隅さんに注ぐ。
「それから、どうしたんですか」
松村さんが問いかける。
「入れ替わりを、提案されたんですよ。江隈由美さんから」
江隈さんは覚めない悪夢にうなされて、額に大粒の玉をつくっている。
彼女の淡く濁った瞳が、まだどこかに囚われていた。
ハルカの章
「春香さんのしんどいのもわかるよ」
江隈さんは澄んだ瞳で私を視界に捉える。
まだ二人は喫茶店にいる。ストローから僕は一口コーヒーを飲む。
「私なんて、江隈由美であることをやめたくらいで」
「言っていましたね」
僕は相槌を打つ。
カップの上の湯気を、彼女は息で払う。
「突飛な話だけれど。私の家に強盗が入って、江隈由美を盗んでくれたんだよ」
江隅さんは目じりをなぞる。強盗。
向こうへトレイを学生らしき女性二人が、並んで運んでいく。
不穏な話題にも、カフェの中で誰も振り返らない。僕たちに、誰も興味がない。
「彼女は枝野さん。私と同い年。私の家に強盗に入って、自分の毒母に反撃しようとして。強盗も、ただ逮捕されたいだけだったから、本気ではなかったみたいだけど。それで母を陥れて、自分は少年院に入りたかったんだって」
「そんなことが」
僕はストローでグラスの中のものを吸う。
藪蚊にでもなったような、惨めな気持ちがする。
「彼女は母に出迎えられて、毒っ気を抜かれてね。
『お帰りなさい、由美ちゃん』
なんて出迎えて。私と勘違いして一緒に過ごしていたんだって。
そこへ私が戻ってきて。そうしたら母に
『真弓もおかえり』
って言われてね」
「真弓。双子の弟さんでしたっけ」
「嘘。ちゃんと話すね」
江隈さんは小さく下唇を噛む。
彼女の、ひとりぼっちの薔薇の香りがした。それは誘うように、私に囁いてくる。
「真弓なんて、双子の弟はいないんだよ」
「どういうことですか」
「母は私の弟を流産したの。それが真弓。母はボケてから、真弓が生きていると思い込んで。双子の弟の真弓がね。時々私を真弓と間違えたの」
桜の花弁が、窓の向こうで風に流れている。
誰かが、それを踏みつけて過ぎていく。
「それから、私のゲームが始まった」
江隅さんの視線の先で、花弁が深靴に裂かれる。
「江隈真弓として、家の中や外で振る舞うゲームね。付け黒子とかで変装して。
塾とか学校で真弓になるのは無理だけど、遊び仲間とかの間では真弓になるっていうね。校区が被らないエリアの公園で、よく真弓として遊んでいたの。
隼平さんとも、そうして仲良くしていた」
江隈さんの笑顔に、ブランコの奏でる鈍い演奏を思い出した。
「由美とは違う設定で生きるのが、ドキドキしたの」
その気持ちは、分からなくもない。
「何の話だっけ。そうそう。強盗の話。
家に帰った私は、枝野さんと出会して驚いたんだけれど、相手も危害を加えるつもりがないとわかって冷静になって。話を聞いているうちに、分かり合えるところも多かったの。家族との関係にうんざりしていたこと、今の生活から逃げたいこと、とかね」
ため息をついた彼女のコップから、湯気が走って逃げる。
なんとなく先が読めた。
「私から持ちかけたわけよ。今日から江隈由美としてここで暮らさないか、って。代わりに私は家を出て行くからって。母には、私が誰かもよく分からなかったし。同年代の子供が、みんな真弓や私に見えるみたいで」
江隈さんは失笑する。
ふと窓の外を見遣ると、駅前の景色は昔からずっと同じままだ。
「学校の人にバレたりしなかったんですか」
「これが案外。二人は、顔立ちが似ていて。並ぶと違うけど、近所の人とかにはマスクをつけたら分からなくて。元々介護で欠席多かったから、それが完全に不登校になって。
たまに職員が様子を見にきたときには顔を貸したの。彼女に連絡先を教えてね。
親戚なんかは疎遠で、様子も見に来なかったな。
二年くらいで彼女が中学を出てから、顔を貸すのも全然なくなったな」
江隈さんは追憶する。
小さく、彼女は吐息を漏らした。
「もしかして、本当に亡くなったのって」
僕は気がついた。
「そう。枝野恵美子さん。彼女が亡くなって、帰ってきたのさ。
私にとっては、双子の弟の真弓みたいな存在だったよね」
彼女はまた、コーヒーを口に運んだ。
彼女の孤高の薔薇の香りが、鼻腔へ流れた。
「これから、どうするんですか」
僕の質問に、頬を掻く江隅さん。
「こう見えて要領はいいから、同居人名義の事業とか投資とか成功していてね。身分を回収したほうが、もう楽かもって。でも踏ん切りがつかなくて。
それで死んだはずの人間がウロウロしていたのさ。吸血鬼みたいにね」
「そうだったんですね」
窓の外に、桜の花びらが、アスファルトの水溜まりから抜け出せずに浮かんでいる。
みんな、その横を無関心に通り過ぎていく。
「後悔は、ないですか」
「あんまり。でも、そうだね」
江隈さんは僕を見つめる。
深い厚みを帯びた瞳に、僕が溺れている。
「母にやっぱり、申し訳ないかな。でも、結局しかたないかな」
江隈さんは呟く。本当に、そう思う。
江隅さんは、満たされた眼を窓の外へ向ける。
春のいい日和で、微睡みそうにあたたかい。
雲一つない空に、飛行機雲がはしって道標を描く。
彼女は欠伸をした。戸惑いも、あらゆることを楽しむ余裕が、そこにあった。
「君のパパは、私を覚えていてくれるかな」
呟く江隅さんは顔をほころばせた。
瞳は蕩けた花弁のように、誰かを求めていた。
肌が淡く、桜色に染まっている気がした。
母の章
先日、バイトの同僚だった江隈由美さんが急死した。心不全らしい。江隈由美さんはパパの同級生だそうだが、職場の江隈由美さんは、本当は枝野笑美子という名前らしい。
彼女を信じるならば、亡くなったのは枝野さんで、江隈さんは別の場所で生きているのかもしれない。
『最近一気に歳をとったようで。思い出すんですよ。昔のことを』
彼女は最後に自分の過去を語ってくれた。
どうも死因は多機能不全に近かったらしい。昔から体調を管理する余裕がなく、無理もたたって、体がずいぶん衰えていたようだ。
『入れ替わりを、提案されたんですよ。江隈由美さんから』
本物の江隅さんに提案されて、枝野さんと江隅さんの間で入れ替わりがなされていたのだという。信じがたいことだが、嘘にも思えなかった。江隅さんに代わって、彼女の母の世話をしていたのだという。
本物の江隈由美さんとパパは同級生だったらしく、江隈由美さんの訃報も知っていたが、それが枝野さんのことだと、パパにも伝えた。
「職場の江隈由美さん。本当は枝野さん」
パパにそのとき、彼女の写真を見せた。
「雰囲気は似ているけど、別人」
パパは写真を見つめて、少し考え込んでいた。
「話を聞いて。江隈由美さんが入れ替わりを望んでいたっていうのも、納得したよ」
パパはやがていろいろを理解したようだった。
思い出に、パパは吐息を零した。
「双子の弟の真弓さんがいたんだけれど。嘘だったのかもしれない」
「嘘って」
「真弓さんはいなかったのかなって。二人一役で」
パパの瞳が、追想に浸る。
「真弓さんが家に遊びに来たことがあってさ。そのとき、江隈さんの母親から電話が来て『由美が帰ってきた』って。あの時の真弓さんの極端な驚きぶりが印象に残って」
パパはしみじみ語った。
「江隈由美さんは、いろんな役割を試したかったんだろうな。母へのケア役を離れてね」
私は、枝野笑美子さんのことを思い出した。
『江隈由紀さんの〈娘〉になれて、幸せでした。私が求めていたのは。母からの承認だった。由紀さんは最期まで、私を拒まなかった。それがただ嬉しかった。自分の意に沿わない存在を、否定することは決してしなかった。
愛してくれる人に尽くすことこそ、私の幸せだった。弟が、ずっと心残りで』
枝野さんが求めていたのは、母親の世話役だった。蓼食う虫も好き好きというか、そんな気持ちもした。二人の状況は、各々不幸だけれど。
『枝野笑美子を捨てたこと。これも心残りだったんです。責任からの逃避に思えたから』
対照的な二人だと思った。
「納得したよ。元気でいるといいな」
パパは穏やかな表情をうかべていた。
「由美さんは、どんな人だったのかな」
「春香に似ているかな。自分の役割とかに拘りがあって、悩んでいて」
パパは、二人を慮るような面持ちをつくった。
私はなんとなく、パパと目を合わせられなかった。
枝野笑恵子さんをまた思い出していた。
『時々、思うんですよ。
もし、弟が家を逃げ出していて、母と二人、私が残されていたら、と。もしかしたら、母と私のどちらかが命を落としていたかもしれない。弟は耐えていた。母との生活に。母の最期まで介護をして、その後ぐったり疲れ果てて死んだ。
江隈由美になれて、江隈由紀の娘になれて、私はそれまでよりも幸福でした。それは、弟の犠牲の上に成り立つ幸せだった』
枝野さんは涙を流した。
枝野さんは鈍くて世間ずれしていて、その点で春香とは印象が被らないのだけれど、弟に対する眼差しは重なる気がした。
「春香と似ていてね。弟としての役割も果たしたい、みたいな願望があってね」
江隈由美さんに対する思いをパパは語った。
私もそんな印象を春香に持っている。弟に対する負い目と、弟に代わりたい欲望を。
春香をそこに追いやったのは、私だ。
「江隈さんは、いつもお母さんのことで苦しんでいたよ」
パパは、そのときさらに続けた。
「ヤングケアラーだっけ」
「母の世話に悩んでね。過干渉だったり、面倒見せられたり。振り回されて」
「逃げたくなるよね」
江隈さんも枝野さんも、母から逃げたかった。春香も。
『今でも、夢を見るんですよ。
〈私から全部奪ったのは、お前らなんだ〉
そんな風に、母に怒鳴られるんです。癇癪を起こした母に、よく言われたのでした』
枝野さんは目を潤ませていた。
淡く燃えるその瞳に、私は焼かれていた。
『私はいっそ、あの日母を。
それで一番傷つくのは弟なんです。分かっている』
枝野さんの憎悪に濁る瞳の奥に、私が映っているのが見えた。
私は目を逸らせて、彼女の口元に開いた小さな穴を虚ろに見つめていた。
第七話 緑の瞳のテディ
ハルトの章
「ひどいんだ」
土曜の夕食の席で、パパが切りだす。テーブルの上には、勿忘草の花瓶。
「どうしたの」
ペペロンチーノを食べる手を休めて、春香は笑顔をつくる。
「僕を騙していたんだ。親戚が自殺したって。梅田尊悟さん。そんな人いなかったんだ」
「ひどい」
春香が小さく笑う。二人は、ママに視線を向ける。
喜色を浮かべ、それから虚な目をするママ。
「でもね」
ママは目を伏せている。
「知り合いが自殺したトラウマは本当。中学の頃」
「本当」
パパが驚いた顔で聞き返す。
和やかな空気が、不意に萎れる。
食卓の中央で花瓶が、細く長い影をつくる。
「聞いてくれる。引っかかっていたの」
ママが求めて、二人は深く頷く。
ママは、首を擡げる勿忘草に目を向ける。
「私の学校で三人が、立て続けに自殺したの。生徒二人と先生一人」
窓の外の夕闇で、車の戸を閉める鈍い音がした。
「そういえば僕も、聞いたことあるかも。塾の知り合いから。周りで噂になっていた」
「有名人のも続いたりするよね」
春香が口をはさんだ。
春香がコップの水を飲み、つられてパパも一口飲む。
「最初に生徒二人、その後で先生が亡くなったの。変な噂があって」
ママの眼は、パパの様子を見張る。
パパは、泣きぼくろを指で確かめる。
「亡くなったのは美術の森田先生。亡くなったのも天童先生のクラスの二人。天童先生は生徒の似顔絵をクラスの壁に飾っていて。三人の瞳が緑になっていたの」
ママの瞳は、勿忘草の緑をぼんやり眺める。
「緑の瞳の生徒は他にもいたそうだけど。亡くなった三人は緑の瞳になっていたの」
ママは少し俯いて、追慕する。
庭で尾長が、悲鳴のように鳴く。
「怖かったね」
パパが共感を示す。
「なんで緑の瞳になっていたのかなって。私、謎で」
「亡くなった三人と、ママは親しかったの」
春香が質問する。控えめにかぶりを振るママ。
「喋ったことも、あまりない。天童香代さんと是枝聖奈さん。二人とも女性だね。この二人は親友。是枝さんの後に、天童さんも亡くなったの。愛称はテディ」
「緑の瞳って、何か心当たりはあるの」
団子鼻を掻く春香。
「噂があったよ」
「どんな」
「緑の瞳なんだけどね。実は最初は緑の瞳になっていなかったんだって」
ママの視線の先で、テーブルの勿忘草の緑に影が差している。
「三人は緑の瞳になっていたけれども。元は違う色だったかもしれないという噂があったの。噂だけどね。見間違いかも」
忌まわしい記憶は、ママの額の青筋を呼び起こす。
「誰かが緑にしたなら、何か意図があることになるね」
パパが考えを伝える。
春香は、緑のバジルをパスタに絡ませて頬張る。
「例えば」
春香が口元を抑えて訊ねる。
「ミステリーでよくあるのは、その事件の連続性とか事件性を偽装する、みたいな」
パパは自分の推理を語る。
「自殺を連続殺人に見せかけるために、緑の瞳に塗るみたいな」
春香が怪訝そうにパパを見遣る。
「まあ、ね」
パパが頬を掻く。ママも、やや疑問を挟むように唸る。
「三人はどんな人だったの」
春香が真剣な面持ちをする。
「最初に亡くなった是枝さんも天童さんも物静かな人だったよ。是枝さんの方が直情型で、天童さんの方が達観している感じだったかな。森田先生は、名物教師みたいな。
私は苦手だったよ。そういう人は多かったはず。元々暴走族だったらしいの。ファッション感覚でやっていた感じで、暴走族のブランドに憧れていただけで」
「性格悪いの」
「ううん」
春香の疑問に、ママは肯定とも否定とも取れる相槌を打つ。
「勘違いしている人っていうか。保護者とか周りの先生には嫌われているの。ドラマの先生みたいなキャラで。それでスクールカースト上位の不良に贔屓して、自分を囲わせていたな。あと女子生徒に贔屓する。そのせいで生徒がギスギスするの。
名前も『森田王子』っていって、王子様の王子なのね。変わった先生。ヤンキーみたいな一部の生徒には囲われていていた。長いものに巻かれろで、生徒はあの人の言いなり」
ママはときどき詰まりつつも語った。
パパが握るフォークに、パスタが芋虫のように巻き付く。
「教師になったらいけないんだよね」
ママは過去に思いをぶつける。
「どの生徒にもフェアに接することができないと」
パパは同意を示す。
「思い出すと森田先生のことは、憎んでいた人はいたかも」
窓の向こうを、恨めしそうにこちらを見遣って黒猫が歩いていく。
「先生は、誰かに殺されたのかな」
パパが探るようにママに目を遣る。
僕は、息を殺して三人を見つめる。ママは首を傾げる。
「警察が調べて事件性がなさそうなら、ないかも」
「そうだよね」
「警察も初動を間違えると、自殺で片付けちゃう時もあるらしいけど」
ママはさらに、続けようとした。
ママは流しの方に視線を投げる。今日は春香が片付け当番だ。
「心当たりがあるの」
春香が神妙な顔つきをつくる。
「噂があったの。森田先生は生徒の裸を撮影したりして、脅迫まがいのことをしていた。それで当時の校長先生が、不祥事を嫌う人で、もうすぐ任期が終わるのにキャリアにケチがつくのが嫌だから、そのスキャンダルをもみ消した。それから三人の自殺にいじめのような事件性がないことをアピールしようとして、教員に圧力をかけていた」
ママは不愉快そうにする。
「本当なの」
春香が咎めるような顔をする。
「噂。そう言われると納得できる部分も多い、みたいな」
「そういうのあるよね」
「それが本当なら、殺されていてもおかしくはないよね」
パパの意見に、ママは首肯してみせる。
向こうの家の嵌め殺しの窓に、夕陽が消え入ろうとしている。
「天童さんと是枝さんだけど。是枝さんは、森田先生に気に入られていたの。
グルーミング被害にあっていたかもしれない。噂ばかりだから、答えなんて出てこないだろうけれど。それこそリドルストーリーだよね」
ママは首を横に振った。
「そもそも、本当に自殺なのかもわからない。普通に考えればそうだろうけど。死因は生徒に学校も教えなかったし。だから抱えていたの」
ママが語って、二人は小さく嘆息を漏らす。
花瓶の勿忘草は、じっと首を項垂れている。
父の章
不意に思い出したことがある。前に読んだブログのことだ。「それからのこころ」という「ナツメ」というハンドルネームの管理人のブログだ。ママの過食と関連して記憶していた、親友のKの自殺に苦しむ女性のものだ。あのブログの内容と、ママの語った事件には、一致するところが多かった。
先ほどまた見てみると、こんな記事があった。
【Kの死
友人のKが自殺した後で、Kの友達と教師とが、後を追って亡くなった。奇妙な噂が立っていた。後追いで亡くなった生徒をTさん、教師をM先生と呼ぶ。
M先生は美術の先生で、後ろにクラスメイトの似顔絵を描いていた。その亡くなった三人の目が緑色になっていた、という噂があった。なぜなのか誰も理由はわからなかった。
M先生には、性暴力を生徒にはたらいている、という疑惑があった。M先生は不良上がりで、柄の悪いスクールカースト上位の生徒には囲われていた。そのパイプを駆使して、生徒の裸を撮影している、という噂があった。
校長先生にも疑惑があった。キャリアに傷がつくのが嫌だったそうで、三人の死やM先生のスキャンダルを大事にならないように、もみ消したらしい。本当かはわからない。
私は、M先生の性暴力事件については、やや疑わしいとも思っている。そもそも校長先生が事件化するのを揉み消した、といっても田舎の中学校の校長だ。できることに限度がある。教員に箝口令をしいて、捜査関係者やマスコミに対して、自殺にいじめや校内暴力などのスキャンダルがないことをアピールさせるくらいだろう。大規模なグルーミングがなされていたら、M先生の死後も隠し通せない。
グルーミング疑惑については、流言かもしれないと考えている。M先生は素行が悪く、よく思わない人が多かった。陥れる動機を持った人は多かったと思う。
とはいえ。当時こんな説が流れていて、否定しづらいものがある。似顔絵が緑の瞳になっているのはM先生のお気に入りの生徒ということで、緑の目というのは猫の眼なのだ。猫には女性器の象徴としての意味合いが西洋ではあって、卑猥なニュアンスがある。緑の眼をしていたKも、確かにM先生から気に入られていた。KはM先生からグルーミングの被害に遭っていた。それを苦にしてKは自殺した。Tさんはそのことを知って、自分の瞳を緑に塗ってから自殺した。それはM先生への抗議のためだった。Tさんは刹那的な性格で、死ぬことを苦と思わなかった。Tさんは自殺する前に校長先生や教師、警察にM先生のスキャンダルを通達していた。これによって、M先生は追い詰められて自殺した。この際、警察などにも自殺した生徒のプライバシーが守られるよう取り図ってもらい、大きな報道はされなかった。
こう考えると納得がいくものの、真実なのかは確かめようがない。何が真実かわからないけれども、考えることを止められない。私にとっての永久の課題だ。
このブログのタイトルは漱石『こころ』から取っているが、あの作品においてもKの過去の自殺がなぜなのか、明確にはわからないし、先生が最後にどうなったのかもわからない。しかし先生の中にはKの死は解けないパズルとして永久にのしかかっている。
その謎が探偵小説の中における謎解きと違って、明確に明かされることがないとしても、考えずにはいられない。その死に自分の責任はあったのか、別の選択肢はなかったのか、それを考え続けなくてはいられない。それこそが、答えという気がする。
解けないリドルストーリーに取り組むことが、残されたものの宿命と感じている】
そんな風に書いてあった。イニシャルも一致している。Kは是枝さん、Tは天童さん、M先生は森田先生だろう。
過去のアーカイブを見ると一〇年以上、雑記のカテゴリーにこの事件のことを書いていて、これがママによるもので、手の込んだ悪戯ということはないだろう。
ママがこの話に触発されて、前みたいに架空の話をこしらえた可能性はある。けれども今のところ僕はママの話は真実で、このブログの主であるナツメと同じ事件に接触したと考えている。
こんな記事もあった。
【テディの死
Tはあだ名をテディといった。M先生にもTにも私は接点があったが、Tは本当に変人だった。M先生もクセが強かったが、Tはもっと変だった。
私はTが死んだ時、驚きはなかった。テディにとって自殺することが自然に感じたからだ。Tは普段は感情の起伏が乏しく、大人しかった。けれども自殺のことを考えると楽しそうにした。
『いつか意味のある自殺をしたい』
Tは虚無的で、自分の将来を悲観するのとも違うが、未来に全く期待していなかった。
『人間は死ぬから、何年生きようが一緒。世界が終わるのも、自分が死ぬのも同じ』
そんな考えに、テディは支配されていた。私はM先生やKが死なないでいる未来は、あり得たと思っている。少し何かが違っていれば、二人は生きながらえていただろう。だがTは、周りがどう動いても、死ぬことをいつか選んでいただろう。
『人生は、生きるに値しない』
それがテディを支配している感情だった。死ぬきっかけを探していた。それがKの自殺であった。Kの後を追う形で、Tは死んだ。それには何か意味があったのだろうか。
Tについて、もう一つ言及するべきことがある。それは、Tの家族が暴力団幹部だったらしいことだ。Tには兄がいて、Tの死より先に、学校を卒業していた。Tの兄は学校にいつも私服で来ていた。教師が注意できなかったからだ。下手に刺激して学校と暴力団の間でトラブルになるのは嫌だろう。Tの兄は、肩で風を切って学校を練り歩いていた。
テディはそうではなかったが、虚無的な発想は暴力団の文化によるのかもしれない。親友だったKのためにTは自殺した。Tにとってそれが意味ある自殺だったのは、それによってM先生を糾弾し、Kの仇を討つからだったのかもしれない。緑の瞳の噂を利用して組の人間にM先生の加害を仄めかした。暴力団の報復でM先生は自殺に追い込まれた。
「テディとナツメって仲良いの」
Kに尋ねられたことがあった。私の家にいた、真冬の日のことだ。
「そんなには喋ったことない」
「面白いよ。変わっていて」
Kは耳が蟹のように赤らんでいた。
「闇が深い。でもいい人。冷めていて理屈っぽい。ナツメと似ている」
冷気に火照る顔でKは相好を崩す。
私は昔から理屈っぽく、マイペースだった。Kがいなくなるまでは、気分の浮き沈みもあまりなかった。
「人生で二回死にかけたんだって」
「テディが」
「生まれた時、低体重で死んでもおかしくなかった。それから、飛行機事故に巻き込まれて、胴体着陸を経験したんだって」
「大変」
「だから冷めているの、人生に。いつでも死んでもいいって」
Kはテディを讃えて語った。
「死ぬのも生きるのも、変わらないって。どうせ死ぬから。そう考えると楽かも」
Kは笑顔を見せた。気持ちはわかるが、本気でそうは思えなかった。
「かっこよくね」
「そうかなあ」
むしろ気味が悪いと感じた。
「明治の男って感じ。ジャパニーズ、サムライ」
Kは冗談を飛ばした。
私は、テディの話をするときのKに、嫌な感情を抱いた。悪い影響をKにテディが与えている気がしたからだ。Kには依存体質なところがあって、その対象がテディになりつつあった。テディからKは、確実に感化を受けていた。
自死にも、それが手伝っていた気持ちがしてならない】
ママとの話題では、あまり天童さんのことは聞けなかった。天童さんも、随分変わった人のようだ。ママともまた、話してみようか。
母の章
パパに聞いた「それからのこころ」というブログを覗いてみた。確かにそのブログの書き手のナツメさんは、私と同じ中学校のようだった。誰かはわからなかった。
過去の記事を読んでいると、是枝さんの友人だったことがわかるので、絞れそうだがわからなかった。天童さんの人となりについてよく知っていて、私も記憶が曖昧になっていたが、言われてみればそうだったかもしれない。
こんな記事があって、印象に残った。
【緑の瞳の謎
緑の瞳の事件について。あの緑の瞳には、こんな説もあった。緑の瞳とは猫の瞳を意味しているのだが、なぜ猫かというと、それは背中が曲がった不安の雰囲気を形容しているそうだ。精神的に弱っている生徒の目をM先生は緑に塗った。そんな二人が実際に自殺した。それを苦にしたM先生は、二人を救えなかった負い目から自身の瞳をも緑に塗って、自殺した。
これは一応の筋は通っているものの、M先生のことを美化している印象だ。M先生は直情的な人ではあったが、気に入った生徒に贔屓をするので、褒められた人柄ではなかった。M先生を好んでいる生徒も多かったので、そうした生徒が説を唱えたのかもしれない。私にはM先生に対する印象として、Tさんの家族からの報復を恐れたとかスキャンダルの発覚を恐れたとか、自分のために自殺した筋書きの方が、しっくりくる。他人のために、M先生が死を選ぶだろうか。
またこの説も、緑の瞳を猫の目として捉えている。緑の瞳の意味とは、猫の瞳で確定だろうか。緑や緑の瞳が象徴するものは、案外限られてくる。緑信号とか、植物とか。いくつか思いつくものの、これと言えるものもない。
そういえば緑が運動会の鉢巻の色、という説があった。うちの中学では紅組、青組、緑組に別れて運動会が行われていた。M先生とTとKは、いずれも同じ時期に緑組に所属していたことがあった。そのときに三人の間で何かがあったのかもしれない。
「運動会だるかった」
Kの家に遊びに行った時に言われたのを覚えている。運動会も過ぎた冬の日だった。
「運動苦手だもんね」
私の反応に、首を横に振るK。
Kの部屋はいつも、酒とタバコの臭いがした。
古く傷んだ本棚があって、そこには漫画ばかりがシリーズも巻数も気にせず雑多に詰め込まれていた。
「そうじゃなくって。M先生。嫌だ」
「何かされたの」
「懐かれている」
「どんな風に」
「私ばっかりいじられたり、揶揄われたり」
Kは小さく舌打ちした。聞こえないくらいの音量だった。
「気持ち悪い」
顔を歪めるK。Kは表情に感情が強く出る性分だった。
Kは小さく唸った。何か言おうと、彼女は口元を動かせた。
「それとね」
神妙な面持ちを作るKを、私は注視した。
Kは手を横に振って、否定する。
「やっぱり、なんでもない」
「何かあったら相談してね」
私が伝えると、Kは頷いた。
あの頃、Kは少し塞ぎがちだったのを覚えている。緑組にいた時、何かあったのだろうか。緑の瞳と関係するのだろうか。
また事件とは関係ないだろうが、緑で連想するのは村上春樹の『ノルウェイの森』だ。あの作品の下巻のハードカバーは緑一色のカラーになっていた。Kも村上春樹を好んでいた。小学校の卒業文集にも、好きな作品に『ノルウェイの森』を挙げていた。
「ナツメは『ノルウェイの森』って読んだことはある」
Kの家に遊びに行った冬のあの日、そうも尋ねられた。
「ないよ」
当時、村上春樹の名前くらいしか知らなかった。
「主人公が、最初の場面で思い出すの。自殺した知り合いを」
赤らんだ顔のKは、目を擦る。彼女は目が乾きやすい質だった。
「覚えていてくれる人が欲しい」
私の記憶の中のKは、いつも酩酊したように笑う。
「悲しい。私が死んだ後で、誰も悲しんでくれなかったら」
彼女は零す。私は胸が痛んだ。
「私は、悲しいよ」
部屋の隅に、寂しく座る熊のぬいぐるみが目に入った。
Kの勉強机は埃をかぶって、ほとんど使われていなかった。
「すぐ忘れるよ」
Kはぼやく。私はかぶりを振る。
外で降る雪が見えた。Kも葬儀の後で、雪になって、壺にしまわれた。
いまでもずっと、忘れられない。
「人間に、二つの死があるんだって。普通の死と、他人に忘れられる死。二つ目の死が、怖いの」
「死んだ後のこと、気にすることないよ」
私の反応に、Kは少しすねたような顔をした。
「ナツメは忘れられても、嫌じゃない」
「そうだね」
どうでもよかった。
「強い。偉い、偉い」
彼女は私の頭を撫でた。彼女の癖だった。
白くささくれ立っていて、死人のように冷たい指だった。
「人間、いつかは死ぬじゃん」
Kはさらに続けた。
「死んだ後にも残るものが、全てかもって」
「死後忘れられる人生は、意味がないってこと」
「そんな感じ」
「どうなんだろう」
私は窓の外の、溶け残った醜い雪を意識した。
Kの考えも理解はできたが、共感はできなかった。
あの時の言葉は、Kの死の原因として、まず思い至る。Kが本当に恐れていたのは、死よりも、忘れられることだったのかもしれない。私はKに対する弔いの意味合いも込めてこのブログを執筆している。自分や周りが忘れないよう、記録をつけている。
とはいえ。あれは誇張された気持ちだった可能性も高い。思春期には、誰しも情緒が不安定になる。自分の気持ちや信念を整理できていないことがある。時々極端な発想に取り憑かれる。
テディに関しては自然な形で死へと惹きつけられていた。だがKは死に執着していたと思えない。人並みに死ぬことも恐れていた。一方でKは昔から構ってちゃんというか、突飛な言動で注目を向けようとする癖があった。先述の発言も、それかもしれない。
けれどもあれが真実だったとしたら。あの自殺の動機は、私に覚えていてもらうこと、だったのかもしれない。私の心に消えない傷を残して命を落とすことで、自分の記憶を後まで残し、自己実現を図ろうとした。テディの死は、その後追いということで意味のある自殺だった。Kは消えない記憶を周りに残すことを望んでいた。テディの自殺はKの自殺のインパクトを強める意味合いにおいて、理由のある自殺だった。
考えすぎかもしれないが】
そんな内容の記事だった。天童さんや是枝さんの性格について、色々と符合する印象ではある。緑の瞳の謎については、やはりわからないし、単なる噂だったのかもしれない。
今の記事を読んで、不意にこんな仮説を思いついた。緑の瞳に塗られていたのは、ミステリーを演出して後まで記憶に残すためだった、という真相だ。意味のある自殺をしたかった天童さんか、あるいは名前を後まで残したかった是枝さんの気持ちがあって、緑の瞳に塗った。そうすることで、後まで生徒の記憶に残る。残された生徒たちはさまざまな推論を働かせて、謎を解こうとする。それこそが、二人の望んだことだったのではないか。
そうなると森田先生の自殺の理由が謎になるが、あれは実は事故だった、という説が当時からあった。森田先生は、何か抽象的なことに思い悩んで死ぬタイプではない。それで森田先生には窒息プレイなどの特殊な性癖があって、それを実践している時に事故死した。セクシャリティに絡むセンシティブなもので故人の名誉にも絡むし、それを報道することに公益性はなく、生徒の情操教育にも良くない。そこでマスコミに対して当時の校長が、過度に報道しないように取り計らった。教師たちには、死因は伏せて伝えさせた。
二人の死と森田先生の死は、実はあまり関連性がなく、偶然連続したという説だ。確かにこれは、しっくりくる。生徒の自殺というトラブルの中で、森田先生の衝動がエスカレートし、危険な行動へと走らせた。そんな中で森田先生は事故死した。
件のブログにも、森田先生の事故死説は載っていた。
【M先生の事故死説とKの家族
M先生には、事故死疑惑がある。信憑性は低くないと考えている。事故死説には色々バリエーションがあって、過激な自慰行為や飲酒による事故で死んだとか、色々だ。
私にも一つ、思い当たることがある。昔、M先生が、顔に痣を作って学校に来ていた。決まりが悪くてはぐらかしていたが、酒に酔って階段から転落したせいだったらしい。
Kを通じて、そのことを知った。これも冬のことだ。
「M先生。めっちゃ酒癖悪いらしい」
彼女の家で遊んだ時のことだ。その日もKは、顔を火照らせていた。
「パパとそっくり」
自棄のようにKは吐き捨てた。
Kは家庭環境が悪かった。正確なところは、よく知らない。
一度Kの顔に大きな痣ができたことがあったが、父親のせいと聞いた。
「酒癖が」
「性格全般」
「どんな」
「外面だけのクズなところ」
Kは嫌悪に顔を顰める。
Kの部屋には夭折した女性歌手の壁紙が貼られていた。その下に大きな穴があった。
「M先生も、嫌だよね」
私は、M先生が嫌いだった。学校の王様気取りだった。
「私のパパも、酒癖最悪なの。ストレスが溜まると、酒に逃げる」
Kは苛立たしそうにする。
「迷惑だよね」
「離婚したときは酷かった」
Kは口元を引き攣らせて嘆いた。
Kは父子家庭育ちだった。母はKに愛情があまりなく、Kの父のDVに悩んでいた。Kには母から捨てられた気持ちが強く、それが寂しがりな性格を形成していた。
「前に言っていたよね。K」
DVはKの心を蝕んでいた。家に遊びにいった時、家の中のものが随分壊れていた。けれども、Kの父は私をにこやかに出迎えてくれた。
「ママのこと、憎みきれない。私と似ている」
「どんなところ」
「クズに惹かれるところ」
Kは顔を歪める。
Kは自分の足先を見遣った。
黒いソックスの指に、ぽっかりと孤独な穴が開いていた。
「クズにドキドキするの」
Kは赤い顔を俯かせた。
沈黙があった。Kは誤魔化すような、わざとらしい欠伸をした。
頭を掻く彼女の指の爪は、紫に染まっていた。
冷えた彼女の耳が、泣き顔のように赤らんでいた。
「将来は結婚失敗して、垂れ死ぬか、殺される」
Kは無理な笑顔を浮かべた。
「Kは違う」
「遺伝だもん」
「変われるし」
私は否定した。
Kは儚く喜色を浮かべ、私の瞳をじっと覗き込んだ。
「ナツメは大丈夫かな」
「私」
自分を指差す私。
私の頬をKはパシパシと軽く叩いた。
その手は雪よりも白くて、冷たかった。
Kの孤独が、私の頭蓋骨まで染みた。
「恋とかわからない」
私は他人に恋したことがない。人懐こい性格とは言われるけれども。
「そんな感じ」
Kは楽しそうにする。
Kは、悴んだ指を吐息で温めた。ずいぶん冷え性だった。
空調の効いた部屋は、私には少しも寒くなかった。
「ナツメは強いから」
私はマイペースでその頃悩みもなかったから、そう見えたかもしれない。
「いっそ死んでくれたらなって」
「お父さんのこと」
「一回、泥酔して階段から落ちて大怪我して。M先生と一緒。そのままいなくなれって」
そんなことがあった。だからM先生は泥酔して事故死したのかもしれないし、家族のことが原因でKは亡くなったのかもしれないと考えてもいる。
M先生は、生徒の死のスキャンダルからストレスが溜まり、無理な飲酒をした。それが、先生の事故死につながった。飲酒に関する情報だし、教育によくないので、生徒に死因を避けて伝えた。それが先生の死の原因かもしれない】
ハルカの章
だいぶ前のことだが、パパから「それからのこころ」というブログについて、存在を聞かされた。ママと同じ学校の出身らしい。ナツメという名前の女性のブログで、過去のトラウマを綴っていた。
更新をやめる旨を書いたきり、停止してしまった。
【アンチミステリーと後期クイーン問題
最近知ったが、世の中には読者が犯人になっているミステリーがある。ネタバレ回避のために、具体的な名前は出さない。その作品では、探偵の推理プロセスにおけるその野次馬根性が風刺され、それを煽る読者も同様に糾弾される。探偵まがいのキャラクターたちの野暮な推理は文字通り、空虚なものでしかない。
私はその作品を読んで、嫌な気分にさせられた。自分を糾弾されている気がした。私の場合、このブログにおける探偵ごっこは、好奇心を満たすためではなく、トラウマを解消したい気持ちに基づくものだ。それでも自分が嫌になったのは、一番不都合な真相から逃げながら探偵ごっこをしていた気持ちがしたのだ。記事が読まれることを意識して、自分を誤魔化し自己憐憫に浸りつつ、読ませるものを生産していた。
ここで読者が犯人だと八つ当たりするわけではないが、ノートに認めるのと同じ要領ではブログを書けてこなかった。読者に期待される振る舞いを意識して、素直に書けなかった。とはいえいつも反応をいただいている方には、感謝しています。
私は以前、M先生のグルーミング疑惑は怪しいと書いた。それは願望だったかもしれない。私が恐れている真相は、M先生のグルーミング疑惑が本当で、あの日Kからきた
『明日、どうしても相談したいことがある。話だけでも聞いてほしい』
というメッセージがそのグルーミングに関する事柄だった、というものだ。私はそれを無碍にし、Kは死んだ。そのせいで私にはKに対する負い目と、自己正当化の感情、Kを追って死んだテディへの嫉妬が生まれた。全てはそのバイアスに基づいて、紛い物の探偵ごっこを膨らませていた気持ちがする。それに思い至った。
緑の瞳のテディに、自分がなれなかったコンプレックスに気がついた。本当はずっと、知っていた。
それに。もしもKがグルーミング被害で死んでいたのがわかったとして、それでどうなるのだろう。もしもKが私に責任のない形で死んでいたと分かったとして、どうなるだろう。私は結局変われないだろう。その答えが私にとって不都合でも、口当たりが良いものでも。その真相を否定したいからなのか、それとも信じられないからなのか、信じたくないからなのか、わからない。でも私はまた、探偵ごっこを始めるろう。手にした真相を疑って、終わりのない探偵ごっこを始めるだろう。これを終わらせるのは、真実や真実に見えるものではなく、覚悟なのだ。
それから後期クイーン問題というものの存在を、最近知った。これはざっくり言うと科学哲学における真理探究プロセスに対する見通しを推理小説に当てはめたもののようだ。探偵の推理は真理とは限らない、故に探偵が自身の推論モデルを根拠に他者を追求する行為は正義たりうるか、というものらしい(不正確かもしれない)。
探偵小説における探偵の推論が真理とは限らない、というのは実際そうだ。一般的に探偵小説における探偵の研究は、あくまでも推論だ。社会科学、人文科学における因果推論と近く、数学や論理学などの形式科学におけるトートロジーや規約による必然性に裏付けられた論理的な世界ではない。
探偵の推論は所与の経験的根拠の中では合理的推論かもしれないが、前提となる経験的根拠が新たな捜査で変遷すれば、推論モデルの改訂を促される類のものだ。それでもフィクションにはフィクションの慣習があるから、語りの構造や作者の意図に照らして、探偵の推論が真理でない可能性が示唆されていないと解釈するのが合理的ならば、作品内の事実に対する穿った推理は不合理だと言える。
だが、それはあくまでもフィクションの話だ。現実に起こった事件の解釈においては、推論の根拠となる経験的根拠について、捜査関係者に情報が制限されるなど、一般人に推論のために十分な手がかりが与えられるわけではない。警察や司法も時には判断を間違いうるが、事実解釈において、一般人よりは正確な推論を展開しうるだろう。
現実世界において、一般人は創作における探偵と違って非力だ。中には警察や検察の杜撰な姿勢を遺族や弁護士が暴くケースもある。とはいえあの連続自殺事件のように、警察も事件性がないとして片づけ、傍目にも事件性があるとは確信できない案件では、どうしようもない。名探偵なんておとぎ話の存在だ。警察が動かなければ、何も始まらない。
私も事件の関係者やその遺族、周辺人物から、さまざまに取材を試みようとしてきた。でもアポイントメントすら得られないことばかりで、話せても要領を得ない答えしか、手に入れられなかった。
推論のための根拠の収集すらままならないのだから、私の探偵ごっこはおままごとだ。妄想の範囲を出る考えは出てこなかった。結局、ただ自分を傷つける作業にしか、ならなかった。私の推理はいっそフォニィ、偽物だ。
このブログの更新はしばらく控えます。私はこれまで、Kへの追悼と自分の感情の整理、真実の追求、似た境遇の人に対して何か提供したいという気持ちで記事を書いてきました。けれども、私は真実から逃げていたかもしれないし、悪い手本になっていたかもしれません。
探偵ごっこなんて、するべきではなかったのかもしれません。同じ状況に置かれている人に伝えたいのは、私の真似はしないでほしいということです。まず生きることを目標にしてほしい。足掻いても、推理小説のように真相が完全に明かされることはないし、自分や周りを傷つけるだけでした。
何をやっても遺されたものの自己満足にしかならないのなら、消化不良のままでも、自分を守るしかないと思います。
『何をやっても遺されたものの自己満足にしかならない』
『消化不良のままでも、自分を守るしかない』
あの日から私が周りに諭されてきた言葉でした。私はそれを受け入れようとはしなかった。それがKに対する背信や怠慢に感じられたから。
このブログをやっていて気がついた。自分と同じ境遇の人が、私の真似をしたら嫌だ。そんな人を捕まえてあげたいから、繋ぎ止めてあげたいから、このブログを始めたのだ。だから嫌だ。読者には、私を追い込む犯人役も、私に追い立てられる被害者役も、背負ってほしくない。私の今の結論はこうだ。
しばらくお休みします。最後に、短い間でしたがこれまでこのブログと付き合ってくれてありがとうございます。
Kにも、感謝を伝えたいと思います。私と出会ってくれて、私と友達でいてくれて、短い間だったけれど本当にありがとうございます。
あなたと別れてから、もう二十年以上経っています。それでも私のこころから、いつもあなたのことが離れません。
あなたと二人の将来について話したのを覚えています。穏やかな春の日でしたよね。
あなたが私の部屋に来ていました。綺麗好きな私の部屋は殺風景で寂しかったけど、あなたの輝きがいつもそこに潤いを注いでくれました。
「ナツメは、将来の夢は何かな」
あなたは私に訊ねたのでした。
「エンジニアとか士業とか。コスパ良さそうなの」
「そんな感じ」
「Kはどう」
「働きたくなあい」
「そんな感じ」
二人で顔を見合わせて、笑ったのでした。
ココアみたいな、甘い温もりに包まれていました。
この時間が永遠に、続くと信じていました。
「仕事はね、夢ではないな」
あなたは切り出します。
「どういうこと」
「将来の仕事の候補はあるけど、夢とは違う」
あなたは楽しそうに、微笑みます。
「大切な人が周りにいて、一緒に過ごせれば、それでいいの。ナツメとか」
あなたの言葉に、私も照れ笑いしました。
あなたは、鼻の下を指で掻いて恥ずかしそうにします。
「ナツメは要領いいから。将来は差がついてそう」
「そうでもないけど」
手を横に振って否定する私。
あなたは、私に何かを託すように、じっと瞳を覗き込んできます。
あなたの眼の奥に流れ星のような光が見えて、どこか不安になりました。
あなたは何かをあきらめたように、小さく吐息を漏らします。
「頑張れ。一生、応援しているぞ。
お前は、本当に。絶対大丈夫だから」
あなたは、私の頭を撫でました。そうするのが、あなたの癖でした。
冷たいけれど、誰よりもあたたかい、優しい手でした。
あなたの温もりは、私のこころをいつも包んでくれました。
あなたの時間はもう中学時代から、止まったままです。
あなたに要領がいいって褒めてもらったけれど、あの日から、私も少しも変われずにいます。将来のこと、応援してもらっていたのに、ごめんなさい。
私の将来の夢。それはあなたと同じだったと気がつきました。かけがえのない人と過ごすかけがえのない時間こそ、私の夢でした。
遠い、遠い、夢のまた夢。
あなたといられた時間は、私にとってずっと宝物です。あなたに巡り会えて、私の人生は幸せでした。名探偵なんてどこにもいなくても、それだけが、私にとって大切な真実です。それだけが本当なんです。
こんなことを続けていたら、それすら疑いそうで。あなたと出会えたことを、後悔したくないんです。だからもう終わりにします。
不甲斐ない友達でごめんなさい。いつかどこかでまた巡り会えたら、また友達になって、あなたと話がしたいです。だってまだ、たくさん話したいことがあるんです。話せていないことがあるんです。
もうゆっくり休んでください。
私ももう、休みます。おやすみなさい。
またどこかでお会いしましょう】
それからそのブログが更新されることは、もうなかった。
それぞれ思うところがあって、私たち三人はその話をするのをやめた。
【第八話 木崎春香の修業時代
母の章
パパがいなくなってから、母子の関係は変わった。破局を避ける最後の枷が損なわれた。パパが死んだその日から、春香は自分を名前で呼ばせることすら許さなくなった。二人は一緒に住んでいるだけの、他人になった。
「どうしたの」
隣を歩く娘が訊いてきた。
娘のハイヒールが乾いた足音を立てる。
黒のパンツに、白いカーディガン。モノトーンの装いは、娘の趣味だ。
「なんでもない」
「そう」
退屈そうにする娘。
冷たい大理石のタイルの上を、二人で歩く。
駅前のデパートへ買い物に来ている。
隣にいる私の娘は、免許を持っていない。私が買い物の時は車を運転してあげる。彼女は地元で就職して、今は実家にいる。
「免許取らなきゃな」
娘は隣で呟いた。
「学生時代、合宿に行っていればな、私」
地元で就職するかわからなかったから、娘は免許取得が先延ばしになった。
「今度行くんだっけ」
「十月ごろね。長い休みとれそう」
娘は長い癖毛を指で梳かす。
外で蜩が鳴くのがここまで聞こえる。
もうすぐ秋になる。これからだんだん、寒くなる。
「もうすぐ出て行くかも」
娘は携帯をずっと見て、目も合わせない。
「恋人とね、出ていくかも。私」
前からその存在は聞いていた。
『春香は、どんな相手に巡り合うのかな』
パパと話したのを思い出す。夏、アイスコーヒーを飲みながら、キッチンで二人、まったりしていたときのことだ。
『想像できないな。一人でいるのがむしろ好きでしょ』
私はそのとき、パパに話した。
『案外、免許合宿で知り合った相手とゴールインするかもしれない』
パパはおどけていた。
その背中越しに見えるカレンダーに、東京タワーが冷たい針のように聳えていた。
「相手は都内だっけ」
私は隣を歩く娘に視線を向ける。
「そうだよ」
「免許いらないかもね」
「身分証になるし」
娘は退屈そうに携帯の画面を眺めている。少し浮腫んで疲れた顔をしている。
小柄な娘はハイヒールに乗って、目いっぱい背伸びしている。
「もうお払い箱かあ」
私がぼやいて、控えめに娘が頷く。
『備えているよ。春香が親離れするのに。隠居して、他人と思って生きた方が、楽』
パパがあのとき、さらに言っていた。
「その方が楽でしょ」
娘のハイヒールが、冷えた爪を大理石に突き立てる。
喫茶店の横を通り過ぎる。
そこに疎らに人がいる。縁もない人たちが、同じ屋根の下に過ごしている。
娘はその様子を、横目でぼんやり眺める。
「お互い、干渉しない方がいいと思うんだよ」
娘は切り出した。
「引っかかる。相手。マザコンかもって。私も人のこと言えないけれど」
娘は小指で目じりを掻く。
私も娘も、ファザコン気質で依存体質なのは似ている。
主張の強い、パンクで派手な服装の女の子とすれ違う。
隣では、同じ系統のファッションの男の子が並んでいる。
「いつも一緒にいるのかな」
「ちょっと違うな。言語化しにくい」
娘はもどかしそうにする。
娘は嘆息をこぼす。説明を考えるのが億劫そうだ。
「べったりではないの」
私が質問すると、娘はかぶりを振る。
「義理堅いタイプなの。育ててくれた親には感謝していて。義理を立てる感じ」
少しわかる気がした。
「恋人より、親の方に義理を立てそう、みたいな」
「そうだね」
娘の履きなれない黒いハイヒールが、強く床を叩く。
その隣で様子を窺いながら、私のスニーカーの足が懸命に追いかける。
「気にしているの。そのお母さんが、相手の家のこと。仲悪くないかって」
娘のハイヒールの踵が、拗ねた舌打ちを鳴らす。
凍った響きに、私は負い目を感じて俯く。目を合わせられなかった。
「心配。どうしようもないし」
娘は冷淡に私の足元を見遣る。
「そういうの要求する義母と、うまくいく自信がない」
伏し目がちに、娘は愚痴を吐く。
私は無言でいることしかできない。
パパを殺したのは、私。石の下に、パパは眠っている。
二人の靴が乾いた響きで床をノックする。
冷たい大理石の下に、誰かの気配を感じた。
ハルカの章
「春香さんにも、私のドライブテクニックを見せてあげたかった」
斉藤光さん、今は松村光さんが隣で自慢げに語る。
二人で、免許合宿に来た。光さんとは、母を通じて関係が復活した。
「私も相当うまいよ」
張り合って、隣で布団に横になる光さんに話した。
「私なんて、教官に『君のは運転じゃない』って言われましたから」
楽しそうにする光さん。彼女の潤んだ横顔の線が月光を纏う。
「私なんて、『女性の生徒に怒鳴ったのは十年ぶりだ』とか変なセクハラ言われたから」
私も負けじと言い返す。
二人ともマニュアル車の合宿に参加して苦戦している。申請時、マニュアルとオートマの違いがわからなかったからだ。
窓の外で、虫の合奏が聞こえる。青森まで来て、今いる旅館の周りは田んぼと畑ばかりだ。北の方なので、この時期でも随分寒い。
少し歩くと農家が多くて、獣の匂いがして、蚊柱にぶつかる。
「春香さん、あのジーって虫の鳴き声、何か知っている」
「なんだっけ」
聞いたことがあった気がする。電球の燃えるような音。機械のノイズのような音。
「ミミズですよ」
「本当に」
「嘘ですよ」
暗闇の中で楽しそうにする光さん。
「嘘じゃん」
「クビキリギスっていう虫です」
「物騒な名前」
「これは本当」
「嘘じゃないんだ」
「噛むと、放さないんです。無理に放すと首が抜けちゃう。だからクビキリギス」
光さんが教えてくれた。
気持ちは分かる。私もずっと、そうだったから。
マツムシが闇に囀り、風鈴を鳴らす。
「虫さんの言葉、春香さんは分かる」
「わからないでしょ」
「あれは求愛の歌です」
「メスに、とか」
「春香さんに向けているみたいですよ」
光さんが楽しそうに私を指差す。
「私に」
微苦笑を漏らす私。
藪蚊が腕にとまる感覚があって、それを私は払いのける。
「通訳しますね。
『春香。また来たね。この指が、君のことを覚えていたよ』」
「ちょっと」
私は吹き出した。
川端『雪国』のパロディだ。光さんは、偶に下ネタで場を凍らせる。
「『また君の甘い鳴き声を聞かせてくれよ。草むらで他の虫たちも待っているよ。一緒にオーケストラを奏でよう。今から練習すれば、お正月にテレビ出られるかもよ』」
「やめろ」
私は声を上げて笑った。
クビキリギスの声が、闇の静寂を染めていく。
「どうします。春香さん」
「どうって」
「クビキリギスの女になりますか」
「考えとく」
「恋人とかもういるんですか」
光さんが私をじっと捉える。
光さんの澄んだ透明な肌は、闇の中でも輪郭を帯びるほどに細やかだ。
「内緒」
「意地悪」
光さんが頬を膨らませる。
天井に、暗い電球がぽつんと黙っている。
窓の外で、星は汚れを知らないまま無垢に煌めく。
「やべえ。完全に修学旅行」
楽しそうに光さんは、布団の下で足をバタバタさせている。
「本当に」
蒲団の下で足の指先が、ちょっぴり寒い。
悪戯っぽく笑う光さん。
「どんな人がタイプなの」
光さんは、得意そうな顔で私を指さす。
「わかんない」
私はかぶりを振ってみせる。
『春香は、どんな人がタイプなの』
不意に、パパの言葉を思い出した。もうどこにもいないパパ。
『内緒』
私はそのときも適当にはぐらかした。
他人に恋したことなんて、一度もなかった。周りから他人が離れていくのが、怖かった。ハルトが死んでから、ずっと。ハルトを殺したのは、私。
パパを殺したのも、私。だから一人で。
「ごめんなさい」
私が一瞬沈黙して不安に思ったのか、急にしおらしくなって光さんが謝る。
「どうして」
「私、アセクアロマなんですよ。恋とかわかんなくて。他人のが気になって」
光さんが真剣な表情をつくる。
光さんは道化っぽい性格で、他人の感情の浮き沈みに敏感だ。
「変に訊いたら良くなかったかも」
申し訳なさそうにする光さん。
私は首を横に振る。彼女のこういうところが、すごく好きだ。
「平気」
私が返事をして、無言で光さんは頷いた。
クビキリギスの鳴き声が、暗闇に燃える蛍光灯のように染みていく。
「一応、いるよ。でもお前だけには絶対に教えない」
私は光さんをからかう。
「もう、意地悪」
また頬を電球のように膨らませる光さん。
彼女の澄んだ肌が、闇に潤んでいた。
ハルトの章
「合宿さ、免許。光さんと行くの。さっきも言ったけど」
春香が隣を歩くママを横目で見遣る。
ママと春香の二人でデパートに買い物に来ている。春香が衣服を買うので、ママが連れてきた。ママも日用品を買う序でだ。
パパが死んだ日から、二人の溝は深まった。春香は自分を名前で呼ばせなくなった。
大理石の上を踏み鳴らす足音が、目に見えない亀裂を広げていく。
「松村光さんだよね。元気かな」
「元気だよ」
「いい子だったな、本当に。リサイクルショップ、懐かしい」
ママの頬は、愛でるように緩む。
「フリーランスでエンジニアやりながら、東大通っているの。理一」
「頭いいね」
「昔からね。中卒から高認とってそれだから。根性がすごい」
春香は嘆息をこぼす。
春香は地元で就職した。就活がうまくいかなかった訳ではないが、将来へのビジョンを持たずに生きてきた春香だから、職場でも違和感を持ったままだった。光さんとは、随分人生に差がつき始めている。
足元を見る余裕もないまま、春香はこれまで歩んできた。
不意に、春香の足音が乱れる。
「危な」
春香は慣れないハイヒールによろめく。
「大丈夫」
ママが声をかける。
バランスをとる春香。ハイヒールの爪が、乾いた音で大理石を噛む。
「平気」
「それで来たんだね」
ママが春香の足元を見遣る。
「間違えた」
普段私用で出かける時、スニーカーだった。今日は間違えた。春香はそそっかしい。
「私も、ヒール慣れなかったな」
ママは颯爽とスニーカーで歩いている。自宅でも、春香と違ってママは静かに歩く。
「思い出す。パパのこと」
ママが追慕のセピア色に瞳を染める。
「ハイヒールで」
「女性に強制するのおかしいよねって。ヒール」
ママがしんみり零す。
『春香は、ハイヒール苦手だろうな』
僕は春香が、パパから言われたことを回想する。
『春香は昔、竹馬も乗れなかったからな。運動苦手だし』
冗談だった。春香がハイヒールを嫌がるのは、女性性の押し付けと感じるからだ。僕にこだわる春香には、女性であることすらコンプレックスだった。二人とも、知っていた。
『運動得意だよ。持久走とかは』
春香は苦笑を漏らす。
『我慢は、得意だからな』
『さっきのことかな』
春香はおどける。「さっき」パパが、春香の指にうっかりココアをこぼした。それでも春香は声も上げないくらい、体の痛みに鈍かった。
「またさっきの話」
春香は、ママに切りだす。
「恋人のこと。マザコンって言ったでしょ」
「そうだったね」
「そのお母さん。話聞いていると、昔の人だなって」
「どんなの」
「九州の人らしいけど。家事は女の仕事、みたいな。家事できない女はだめ、とか」
二人が通り過ぎるアニマルカフェの前に、行列ができている。
ママも春香も、人込みは苦手だ。他人と離れて過ごしていたい性分だから。
「距離を置きたい」
春香は不安そうな面持ちを作る。
「干渉されそうなのかな」
慮るようにママが訊く。
「そんな気がする」
「難しいよね。結婚って。知らない人と家族になるから」
ママが憂慮に吐息を曇らせる。
途切れがちな二人の会話は、誰かの音に紛れていく。
夕方で、店内に人が増えてきた。
二人の足元に、誰かの細長い影が伸びている。
「私も結婚は、しんどかったな。親戚のことで」
「あんまり仲良くないもんね」
春香が俯き加減で託つ。ママの父母の家族は、相性が悪かった。
デパートの中に、他人の足音が増えてきている。
鋭い誰かの靴音は断続的に、開けた空間に突き刺さる。
二人が歩くたびに目に映らない破れ目は、もっと遠くまで走っていった。
ハルカの章
「話したいことがあるんですけど。いいですか」
隣の布団に横になる、光さんが切りだす。二人とも、免許取得に苦戦中だ。
外の闇で私の愛人のクビキリギスが鳴いている。
燃える電球のような、無機質なノイズが聞こえる。
「どうしたの」
「父が、死んだんです」
光さんは父親からDVを受けていた。別居して、婚約相手と暮らしていたとか。
「死んだら清清すると思っていました」
「違ったの」
「違った。違ったんです」
彼女は遣る瀬無い表情を作る。ずいぶん、重荷を背負っている。
ふと部屋の隅に目をやると、二人のスーツケースが並んで置いてある。私のが青、彼女のが銀。彼女のスーツケースは、何度も凹凸を噛んだために、車輪の一つが欠けている。私のは新品同然で、使うことが少ない。
「ショックだったの」
私は光さんの輪郭を、視線でなぞる。
「違う。ショックではないし、同情もしてないんです。でも。よくわからなくって」
光さんは困惑を瞳に湛える。
「うまく言語化できないんですけれど。燃え尽き症候群、みたいな」
光さんは小さく唸る。
「憎んでいた相手がいなくなって。心のバランスが壊れた、みたいな。憎しみの対象が消えても、憎悪だけは燃え残っているから」
光さんはさらに続けた。
天井の灯は、今は消えている。
煌めきの痕は、黙り込んで私たちを見下ろしている。
「春香さんは、あんまり誰かを憎むとかは、なさそうですよね」
「どうなんだろう」
星と月が、暗い部屋にほのかな灯りを与える。
甘く気怠い、眠気を誘う光。何も感じず、眠っていたい。
「それに、怖いんです。男性に、すぐ幻滅しちゃうから」
光さんは肩をすくめる。
「『ナイン=ストーリーズ』に『ド・ドーミエ=スミスの青の時代』があって。春香さんも好きですよね」
「青年が、異性への執着を失う話」
確かに、私も好きな作品だった。
その作品の中で、語り手の青年は医療器具店で脱腸帯をつけようとする肥満の女性を目にする。その後に、燃える太陽が迫るような悟りを得て、シスター=アーマという修道女への執着がなくなる。
「私も、悟っちゃうんですよ。男って、みんな父親と変わらないなあ、みたいな悟り」
光さんは、ほのかな失意に表情を曇らせる。
窓の外で、羽虫がガラスに阻まれる。乾いた羽音を、何度か鳴らす。
それでも虫は、あきらめず、何度も窓ガラスを叩き、拒まれていることを悟れない。
「お父さんが、最初にいるから」
「春香さんは、ファザコンじゃない」
彼女は、まだ私の父の死を知らなかった。
「結構、そうだよ」
微苦笑を漏らす私に、楽しそうにする光さん。
「そんな感じ」
「ファザコンだし、ブラコン」
「弟いたの」
「もう、いないけどね」
その命の灯火は、不意に消された。
闇の中で、顔を暗くする光さん。
「ごめん」
慌てて謝る光さん。
「こっちが話題にしたんだし」
私はかぶりを振って否定する。
彼女は顔にかかりそうになった前髪を、手で整える。たおやかな、癖のない曲線。
「だから、私もわかるってことだよ」
「わかるって」
首を傾げる光さん。小動物のようで、愛くるしい。
「私にとって、最初の男性はパパと弟だった。だから、怖いの」
「春香さんも、怖いの」
「失うのが怖い。恋愛も無理気味。不意に光が消えてしまいそうで」
おどけを交えて私は託つ。
真剣な表情を光さんは向けてくる。
月の淡い光を、彼女は頬に受けている。
闇の中で、私は彼女をじっと見返す。
「わかりますよ」
彼女の瞳は、決意のような輝きに燃えている。
「過去に囚われて、今を生きられない気持ち」
光さんはしんみりと告げた。
光さんの顔の線は、闇の中でも存在を確かに描いていた。
暗闇の中で彼女は小さくため息を吐いた。
彼女の瞳には、小さな炎が燻っていた。
母の章
「結構、美味しい」
後部座席で娘は、新発売の柑橘味の炭酸飲料を飲んでいる。
「炭酸、苦手じゃなかったっけ」
買い物から帰る車を運転しながら私は、後ろの娘に声をかける。
「慣れた」
「成長したね」
「まあね」
苦笑いする娘が、鏡越しに見えた。
信号を待つ私の足が、ハンドルの下で暇をもてあます。
「結婚とか付き合ってから。冷めそうになったときってある」
炭酸を堪えているのか、娘は小さく口元を抑えている。
「どうして」
「恋人が、前に炭酸飲んだ後、大きなゲップをして。そのときは笑ったけど。あとから蛙化というか、キツかった。積み重なったら、無理になりそう」
道が渋滞して、足踏みしている。あの日も、確かそうだった。
車内では、ショパンの『別れのワルツ』が流れている。クラシックは、私の趣味だ。
「冷めるエピソード知りたい。こっちもやらかさないように」
そういわれても、何かあったかな。
私は、少し思い出し笑いをする。
「お手洗いは、男女で手入れの仕方が違って驚くのを聞くけど、人にもよるからね」
「蓋とかかな。聞いたことある」
鏡の中で娘が相槌を打つ。
「あと、歯磨き粉。歯磨き粉は、共有じゃない方がいいよねっていう」
「他人の家の、気持ち悪い」
「歯磨き粉。チューブの口につける人とつけない人がいて。後者は前者にドン引きする」
「いやだわ」
下唇を噛み、顔を顰める娘。
「友達が歯ブラシを家族共用にしていて震えたことがある。節約で。小学校の時」
娘が呆れつつ思い出す。
歩道を中年の女性が歩いている。彼女はときどき肩のタオルで汗を拭っている。
居酒屋の壁面に、晩夏を締めくくる夏祭りのポスターが貼られている。
歩道に歩きたばこをする老人がいて、尾を引いて白煙が流れている。
「その人、お手洗いも流していい回数に制限があって。嫌だったな。家庭のローカルルールってドン引きするのがある」
娘が続ける。
とはいえ私たちの家族も、そうだったかもしれない。ずっと、異常な規則をまわりに課してきた気持ちがする。
「そういう家庭の事情が、正面衝突したら、しんどそう」
小さく嘆息を漏らす娘。
信号を待つ前の車と、距離が近くて圧迫感がある。
接触事故を起こしたことはないけれど、いつも距離が気にかかる。
「何か、あったの」
「わかんないけども。不安」
進行方向を見遣って、娘は呟く。
陽炎が立ち上って、見通しを悪くする。
「育ちもあるから、結構保守的な人かもって。大きな衝突はないけど、違和感がある」
娘が俯いているのが見えた。
フロントガラスにしつこく纏わりつく、ユリノキの葉が鬱陶しい。
前の車のミラーが刺すような陽光を弾いてくる。
「デリカシーがないのかな」
「そうかも。弱者に厳しい、みたいな」
「弱者に」
「心療内科に通ったりしているでしょ。疲れやすいし。若干理解がないの」
思案しながら娘はぼやく。
メーターに目を遣ると、そろそろ給油が必要だ。
「気持ちの問題だ、って。気にしすぎなければいいのに、みたいに」
「態度で透けちゃうもんね」
私は共感を示す。車内の空気は適温でも、こもって息苦しい。
隣の車から、チワワが見ている。犬は私の瞳をじっと覗いて、バナナを連想させる。
「被害妄想かもしれないけどね。下に見られている感じ。それとなくバカにされている」
娘はさらに続けた。
「わかっちゃうもんね」
「比べちゃう」
娘は切なそうな顔をする。パパのことだ。
『これ結構美味しい』
あの日。パパは新発売の炭酸飲料をリビングで飲んでいた。
パパは二人にとって、理想のパパだった。時には他人を見透かす鋭敏な瞳は薄気味悪くもあったけれど、理想の父だった。
私が殺した。窓の向こうに見える、かつての私たちのマンションで、パパは死んだ。
『炭酸、苦手じゃなかったっけ』
私はあの時、パパに訊ねた。
『慣れたかも』
返事をしたあと、パパは咽込んだ。
『パパ、大丈夫』
『平気』
泣きぼくろの上で、パパは目を潤ませた。
また、パパは大きく咽込んだ。
それは私を耐え難く不安にさせた。私の中のブレーキを壊した。
赤信号が緑に移って、私は強くアクセルを踏み込んだ。
ハルトの章
「速い」
アクセルを踏み込んだママに、春香が咎めるように声をかけた。
急発進した、車が揺れる。
「ごめん」
ママは春香に詫びる。春香は、炭酸飲料を一口飲む。
「考え事していて。ごめん」
「事故のこと」
春香が訊いて、ママは首肯する。パパの転落死のことだ。
「私も、いつもそうだよ」
「あんまり、急だったから」
ママは声を震わせる。
アスファルトの凹凸を噛む車体が、小刻みに揺れる。
「あんなこと、まさか」
春香が遠くを眺めている。パパは、マンションから転落して死んだ。
「本当に、急で」
ママは悲痛な面持ちをつくる。
凭れたベランダのフェンスが、脆くなっていた。フェンスが外れて一緒に落ちた。
背中を押したのは、春香だ。僕はママと春香の顔を見比べる。
「比べちゃう。いつも」
春香が零す。
「恋人のことかな」
ママの問いかけに、春香はこくりとする。
「丁寧だった。言葉とか、振る舞いが」
「そうだったよね」
ママはハンドルを小さく切った。
ママは几帳面で、普段は丁寧な運転をする。車体が揺れることは、いつもはなかった。
「あの日のこと、離れない」
春香が言うのは、パパがいなくなった、春の日のことだ。
「穏やかな日だと、思っていた」
晴れた暖かな陽気だった。パパも気分を良くして、ベランダで外を眺めながら、ジュースを飲んでいた。
「目の前で」
春香は悲痛に顔を歪める。パパは、春香の目の前で墜落した。
「辛かったよね」
「しんどい。また、失っちゃうかもって」
僕が死んでから、春香は失うことが恐ろしくなった。他人との間に、壁を作るようになった。失う時に備えるためだ。ママを「ママ」と呼ぶことも、なくなった。
信号の青を待つママの指が、ハンドルの上で踊る。
「みんな同じ。私を置いていってしまう」
春香は、不貞腐れた顔で漏らす。
信号が緑に移ろって、また車が進み出す。
「寂しいよね」
「本当に」
春香は、車の窓に指を走らせる。
通り過ぎる電線の上で指を走らせるのは、子供の頃からの癖だった。
「なんで、二人なの、って。早すぎる」
春香はママに思いを告げる。
『ママはせっかちだなあ』
僕は不意に、パパの言葉を思い出す。お盆の頃、僕の墓参りの時のことだ。
パパとママと春香の三人で出かける時、いつもママが一人前を歩いた。ママは歩くのがはやくて、何事も手際が良い。そんなママの背中に、パパが呼びかけた。
春香は歩くのが遅かった。パパは、そんな春香にいつも歩調を合わせていたものの、運動ができないわけでも、歩くのが遅いわけでもなかった。
『パパと春香が、遅いんだよ』
『お墓で転んだら危険だからね。僕たちは、お墓での歩行ペースに調整しているのさ』
『ハルトが、待ち侘びているよ』
ママは後ろの二人を急き立てる。
『ハルトだって、急かさないよ。いい子だし』
パパは空を仰いだ。
油蝉が鳴くのが聞こえた。けたたましいけれど、盛りは短く儚い響き。
『ハルトはいま、どこで何をしているのかな』
『見守っているよ。春香を』
パパは春香の隣で追想する。
それから不意に表情を曇らせる。
『もしも、だけど。僕がいなくなっても、お墓参りもあまりいらないよ』
パパはおどけた調子で伝える。
不意打ちに、遣る瀬無い表情をつくる春香。
『なんでそんなこというの』
僕を失ってから、冗談でも春香は嫌だった。
『何があるか、わからないしさ』
『パパは、元気でいてよ』
『心配なんだ。飲み込めないかもなって』
パパは諭そうとする。確かに、その通りだった。
パパは春香から向けられる強い感情に、いつも不安を覚えていた。このときもただ、それを窘めたつもりだったのだろう。死を仄めかす意図など、きっとなかった。
『心配さ』
パパは、春香が団子鼻の汗を拭うのを眺めた。
春香の頸に、汗の玉が走った。
『競争しようよ』
ママが、後ろの二人の不穏な話題に割って入る。
『家にある小豆最中。もう残り二個しかないの。だから最下位にはアイス抜き』
ママは小走りで駆け出した。
『ずるい』
パパは春香をおいてけぼりにして、走り出した。
『置いていかないでよ』
春香は楽しそうに、二人を追いかけた。
ママと春香とは違う真っ直ぐの髪をたなびかせて、パパは駆けていく。
パパの背中に追いつこうと、春香は精一杯走ろうとした。
「置いていかないでよ」
唇を噛んで、外を眺めながら春香は呟いた。
ひとりで春香は、また窓の上に指を走らせた。
ハルカの章
「将来の夢とか、春香さんありますか」
隣で暗闇の中で横になる、光さんが話しかける。
「未定」
私は子供の頃からそうだった。
二人の免許合宿も、もう終わりが迫っている。
寝室の畳の青臭さも案外嫌いでもなくて、少し名残り惜しく感じる。
「光さんは、どう。夢」
「私もわからない。エンジニアしているけどね」
「昔から頭良かったもんね」
「うん。じゃあない。そんなことないですよ」
光さんがおどけてみせる。
闇の中で顔を見合わせて、笑い声を上げる。
欠伸がのぼってきて、私はそれをかみ殺す。
眠そうな眼を、光さんは指で擦る。
「スキルだけでいける業種選んだんです。でも夢とは違うなって」
「できることと、やりたいことは違う、みたいな」
「そうそう。夢って、そうかなって」
端正な光さんの横顔が闇に閃く。
「人生を捧げたい仕事じゃない、のかな」
「そうですね。一生これを追求したい、もの」
光さんの眼は暗闇の中に何かを求める。
煌めく星の淡い光が、窓の外から差し込んでいる。
ほのかな光も、今の自分の目をくらませる。
「自分の未来、どうなっているんだろ」
私は誰にともなく呟いた。本当は、心の底ではどこか、悟っていた。
私は闇の中で、腕を伸ばす。
その手は遠くに見える照明の影を掴めずに、何もない場所を惑う。
「尼さんになっていそうです。春香さん」
「なんでよ」
「癖毛がコンプレックスで。尼そぎに憧れて」
「ひどいよ」
「真面目で慎ましいから、僧侶向いていますよ。春香さん」
「褒めているの」
「もちろん」
光さんは私をいじめて、楽しそうにする。
眠そうに欠伸をする光さん。疲れ気味だ。
私も、泊りがけは負担だ。一人だったら辛かったろうが、彼女と一緒でよかった。体力的に厳しいので、旅行が嫌いな性分だ。
ママもパパも、家族はみんなインドアで似ている。
「パパにも昔、言われたっけ。尼寺に入ってそうって。将来」
「みんな思うんだ」
吹き出す光さん。
『春香は将来、尼寺へ入ってそうだね』
あの日、パパがおちょくった。クビキリギスの鳴く春のことだ。
『なんでそう思うの』
『異性に触れるのが、怖いからかな』
パパは冗談めかした。
実際、私はそういう傾向があった。異性に触れるのが、怖かった。傷つけられるのも、傷つけるのも。触れることを恐れてきた。
私は、パパが転落死したあの日。背中を押した。失う恐怖に耐えられなかったから。
「異性アレルギーあるからかな」
隣で布団に横になる光さんに話す。
「そんな雰囲気ありますよ」
光さんが揶揄ってくる。
『そんなことする年齢か』
パパが茶化したのを思い出す。
尼寺へ入りそうと言われた高校生の頃の私は、反撃してパパに後ろから抱きついた。
パパの背中は、温かく柔らかかった。
家族の中で疑心暗鬼に囚われた時でも、その背中に気分が安らいだ。
『意地悪するから』
パパの背中を失うと想像するのが、怖かった。
いつくるかわからない、その日に怯えていた。離したくなかった。
その恐怖が続くなら、いっそ。あの日、私はパパの背中を押した。
あの日、パパの泣き黒子が笑ったのが見えた。
「春香さんのパパは、どんな人です」
光さんが楽しそうにする。パパが亡くなったことを彼女には話さないつもりだ。
「穏やかで、包容力のある人。オアシスみたいな」
家族の中で、パパが私の心の拠り所だった。乾いた心を満たせてくれた。
「いいな。交換したかった」
「駄目、駄目」
オアシスにはいつも不穏な影があった。
『僕がいなくなっても、墓参りもあまりいらないからな』
そんなこと、考えたくもなかった。
『大丈夫』
飲み物に咽せ込んでいたあの日のパパを思い出す。
怖かった、ただ失うのが。だから自然と、背中に手が伸びた。
「くすぐったい」
光さんが吐息を漏らす。
私は、彼女の背中に手を伸ばし触れていた自分を発見する。
何かを試すように、私は大きく、息を吐こうとした。
喉の奥から、乾いた砂漠の風が流れるのを感じた。
母の章
パパが死んだあの日から、木崎春香は母に名前で呼ばせなくなった。母親を「ママ」と呼ぶことすら、なくなった。人との間に、一層壁を作るようになった。
「ねえ、ママ」
後部座席から、娘の湊が私に声をかけてきた。
私は、木崎春香は、心の中でも娘との間に壁を作る。あの日から、母にしたように。
「さっき機嫌悪くなかった。疲れていて。ごめん」
娘が鏡の中で恐縮するのが見えた。
「新社会人の時って、みんなナーバスだよ」
私はハンドルを握りながら、娘に返事する。
交差点で待つ私たちの車の前を、若い女性が頭を下げて、慌てて通り過ぎていく。
「湊は、パパには伝えたの。恋人のこと」
「まだ。女同士の方が話しやすかったし」
「パパも、物分かりいいけどね」
「本当に。可愛いし優しい」
娘は顔を綻ばせる。
「パパ」、すなわち私の夫である瑞樹は、お人好しでいつも娘を気にかけている。笑窪と輪郭が、隼平パパ、私の父に似ている。
時には、パパと比べる時があるけれど、二人の生活はうまくいっている気持ちがする。
『春香は、悪くないんだよ』
以前、父のことを打ち明けた時に、瑞樹に言われたことを思い出す。
『怖かったの』
私は声を震わせた。
あの日、私はパパの背中を押した。パパを失うことが不意に怖くなって、それが続くのに耐えられなかった。
押した、といっても、力を込めてはいなかった。恐怖のせいで無意識に、その背中に自然と手が伸びた。自宅のマンションにいて、ベランダのフェンスにもたれかかる、パパの背中を小さく押した。
轟音がして、空間が広がった。悲鳴の一つも漏らさなかった。
困り笑いのような表情が見えた気がした。小さくパパが吐息を漏らすのが聞こえた。
泣きぼくろの上で、その瞳が何を捉えていたのかわからなかった。
『偶然だよ』
瑞樹は私を宥めてくれた。そう理屈の上ではわかっている。
それでも私はパパが死ぬことを、どこか願った。それに呼応して、パパは転落した。
『不安なの。また傷つけるのが。家族を』
それが怖かった。だから他人との間に距離を作った。母のことをママと呼ぶことも、名前で呼ばせるのもしなくなった。傷つけたくなかった。
「パパ、傷つくかな。私が親離れしたら」
後ろの席で、娘が訊く。
「寂しがりはするだろうね」
「干渉もしなそう」
「いい人だよね」
私にとって、瑞樹は大切な存在だ。失うのは怖い。自分のことも。
ハンドルを握る重圧に、ときどき耐えられなくなる。
「ママにもプレッシャー与えちゃったよね。家族の仲が良くないと、って」
娘は萎れて伏し目がちになる。私の両親のことだろうか。
「ママには仕方のないことなのに」
「お母さんとは、どうしたらいいのかわからなくて」
私は託つ。母とは、父の死後から距離を置いて疎遠になっている。
「そうだよね。昔から、いろいろあったみたいだし」
娘は呟く。本当に。今でも気持ちを整理しきれない。
整理できないまま、時間だけが過ぎていく。
私は変われないし、変わらない。それでも周りの景色だけが、移ろっていく。
窓の外には、あのマンションが見える。三人で暮らしていたマンション。そこから落ちて、パパはいなくなった。
みんな、私の横を通り過ぎていく。
「免許取ったら、家族みんなで出かけたいな。私の運転で」
「取れそうかな。大丈夫」
私は、ミラー越しに後ろを見遣る。娘の湊は、私に似て運動神経が悪い。
「ママの子だし、厳しそう」
娘は冗談を飛ばす。
「私も苦労したな」
光さんと一緒に合宿に行ったことを覚えている。二人とも、うっかりマニュアルの免許に申し込んで、大変に苦戦した。遠い、遠い昔の話だ。
「今はだいぶ上手だよね」
「もう慣れたよ」
窓の外には、見慣れた景色が流れていく。
もうすぐ、三人の家に帰り着く。私、木崎春香と瑞樹、それから湊の。
「何事も、慣れだよね」
「本当に」
私はハンドルを強く握りなおす。
慣れた風に振る舞って、通り過ぎるのを待っていれば、やり過ごせる。
そうして果てまで、一人で走りきればいい。追い風に流されるまま。
私はまた、アクセルを踏んだ。帰ろう。家族をしよう。
足元で車輪がメリーゴーランドのように、変わらぬ軌道で回転するのを振動で感じた】
ハルカの章
ジャーン。今のは、私が小説修行として手がけた短編集『ここのつのはなし』の八章「木崎春香の修業時代」だ。この「修業」は、花嫁修業のことを意味している。
作中に登場するのは、私の周りにいる人たちになっている。私たち家族がマンションにすんでいるとか、一部虚構を交えた設定になっている。
叙述トリックの仕掛けもあって、実は「ハルカの章」と「母の章」の語り手が、共に木崎春香として設定されている。「母の章」は、春香の未来の姿を描いていて、一人二役のトリックになっている。「ハルト」の章に描かれるのはおよそ「ハルカの章」と同時期の過去だ。
その伏線としては、母の章の春香が「娘」と呼ぶことなどから、そこに叙述トリックを疑う余地があるのと、十月に免許合宿へ行くと母の章で娘が言っているのに、ハルカの章で描かれる合宿の章は、クビキリギスが鳴いているとか、春であることが示されている。また、私の知り合いは知っているだろうが、私は炭酸が好物だから、湊と一致しない。
この作品に描かれているのは、私の父に対する拗れた感情と、母との性格面におけるシンパシーだ。そこを表現するために、語りの実験も展開している。それから私の自分の将来に対する、不安と諦念が背景になっている。
あとがきなので、手短にこの辺で。
最終話 ライ麦畑で鉢合わせ
ハルトの章
パパが居間でココアを飲みながら作業していると、春香がきて談笑している。
「残念だったな。バナナのこと。大丈夫か」
パパは神妙な面持ちで、春香を見つめる。
「平気じゃないけど、大丈夫。まあ、高齢だし」
「弟、だったのにな」
僕は端末を操作する。フォルダのなかの動画のサムネイルを見回す。
気になった別の動画を再生する。
春香が夕方、リビングのソファでコクトー『恐るべき子供たち』を読んでいると、不意にパパが現れる。部屋に赤い光が差し込んでいる。
「春香、お疲れ様。何をしているの」
「読書。コクトー『恐るべき子供たち』だよ」
春香が振り返って、一瞬僕と目が合う。
「兄弟の話だね」
「僕と春斗みたい」
「どういうこと」
「共依存っていうか。いや、むしろ僕の一方的な依存かも。春斗に対する」
春香は指を顎に当てる。
「コクトーの作品は、サリンジャーの『対エスキモー戦争の前夜』にも出てくるね。『美女と野獣』ね」
「コクトーはあと、『オルフェ』とか」
「大学時代に観たよ。鏡の中に死者の世界があってね。そこから死神がやってくるの」
「時々ね。春斗が僕を見ていてね、鏡の中から僕を攫いにくるような気がするの」
「春斗が。なんで」
「憎まれているから、かな」
春香の言葉に、僕は小さく頷く。
動画を一時停止する。
春香。忌まわしい名前。ずっと、ずっと、あの日から。自分が一番、嫌いな名前。
団子鼻、黄ばんだ肌、下膨れの顔。
あの日のことが、頭から離れない。
あの日、パパとママが留守から帰ってきたあの日。パパは、最初に、ママだけを連れて、近所の病院へと駆け付けた。しばらくして、パパだけが戻ってきて、僕を連れて、近くのパスタ屋に出かけた。
パスタは好物だった。店は県内中心のチェーン店で、落ち着いた雰囲気が好きだった。
『なあ、春香』
あの日、パパは僕の正面に座り、話しかけた。
テーブルに、サラダだけが運ばれていた。
『本当に、本当に』
パパは、悲痛な面持ちを作った。
二人のサラダには、まだ一口も手を付けていなかった。
『どうしたの』
僕は、事情を呑み込めなかった。
空っぽの胃の中に、違和感が膨らんだ。
『本当に、急で。どう伝えたらいいか、わからない』
パパの瞳は、何度も躊躇いに光る。
『春香にとって、春斗は大事な弟だよな』
パパが確認するように問いかける。
車でそこへ連れられる道中から、不穏な緊張感が伝わってきた。
『春斗が、な』
『どうしたの』
『春斗が、死んだんだ』
『死んだ』
僕は、パパの言葉を呑み込めないまま、反芻した。
でも車に乗ったときから、そんな予感がしていた。
『積み木を飲み込んだんだ』
パパはじっと俯いて、目を合わせなかった。
右手に壁があって、印象派風の、暗い絵画が飾られていた。孤島を描く、その絵の名前がベックリン『死の島』だと、後で知った。
『悪い夢みたいで。僕もママも、まだ受け入れられない』
パパは、ぼんやりとテーブルを見ていた。
テーブルの中央に、食器の入った箱があって、二人とも手を伸ばそうともしない。
『申し訳ない。春香』
パパは項垂れて、謝った。
『春香に、重いものを背負わせた』
パパは、僕と目を合わせない。留守番のことだ。
『私が、みていなかったから』
僕は呟いた。パパは、かぶりを振った。
『責任は、僕と、ママにある』
パパは、じっと俯いたままでいる。
『春斗にとって、春香は大事な姉だった。春斗の死に、何の責任もない』
パパは、言葉を慎重に選んでいた。
そのうち、パスタが運ばれて、それは何の味もしなかった。味のない骨を食べている気持ちがした。二人はほとんど無言でそれを口にした。ちっとも食べきれなかった。
喉の奥にあの言葉が引っ掛かっていた。
『春斗の死に、何の責任もない』
本当に、そうだろうか。僕は、あの日のパパの振る舞いに、違和感を覚えていた。少しも目を合わせよとしなかった。パパは後ろ暗いとき、目を合わせられない性分だ。必ずでもないけれど、傾向として、無意識にそうするところがあった。
僕は疑った。二人は、何かを隠そうとしていた。バナナが死んだときだって、そうだ。絶対に、何かを隠していた。いつも、二人は本当のことを教えようとしない。
そのくせときには、しらないままでいる僕に憎悪や苛立ちをぶつける。
知りたかった。ここで、探したかった。
僕はまた、モニターを見遣る。
画面には、春香とパパの姿が固まっている。あの日からずっと、大嫌いな顔。
『春香』
パパは声を掛けようとしていて、口がその形に開きかけている。
春香、春香、春香、春香、春香、春香、春香、春香。
「春香」
後ろで、誰かが強く呼びかけた。
モニターを注視していた僕は体を震わせて、振り返った。
ハルカの章
「何をしているんだ」
部屋の前に、パパが立っている。
不安そうにこちらを見ている。鼓動の高鳴りを意識する。
「ノックしたんだけど」
パパは申し訳なさそうにする。私は過呼吸になるのを抑える。
窓を雨が叩く。雨音に、パパの足音もかき消されていた。
「カメラ」
パパが私の後ろにあるパソコンのモニターを顎で示す。
そこには、台所に設置された隠しカメラで撮影された私とパパの姿が映っている。
「どうして」
パパが私をじっと見張る。
「だって」
私は呆然として、言葉が出てこない。
困惑に潤む眼で、私を見据え続けるパパ。
「わからなかったから」
『ハルトの分も、私がなんとかしなきゃって、思っていたかも、ずっと』
かつての自分の言葉が脳裏を過ぎる。
私はずっと、家族を繋ぎ止める役になりたかった。私はもっと、鏡を見たかった
「自分が、誰なのかわからなかった。探していたの」
自然と言葉が溢れた。
「春香」
パパが少し落ちつきを取り戻した声色で名前を呼ぶ。
私は、唾を飲み込む。口の中の荒地が、水を求めて疼く。
『やっぱりさ。家出をするのって、役割を逃げたいからなんだよね』
江隈さんの言ったことを思い出す。
違う。私は、自分に求められる役割を探していた。でもわからなかった。家族を繋ぎ止める役になりたかった。でも自分を見つめるための鏡がなかった。だから作ることにした。ここが鏡の中の世界だった。
「説明してくれ」
パパは、私にまっすぐ視線を向けた。
「あの日」
私の声が震えた。
「ハルトがいなくなったあの日。家族が変わった。私は、家族を繋ぎ止める役になりたかった。崖から落ちていきそうな私たち家族を繋ぎ止める術を、探したかった。
だけど、私は自分が誰なのか、わからなかった。どうあることを期待されているのか。パパとママが何を隠しているのか、わからなかった。鏡が欲しかった。自分と家族を見つめるための」
とめどなく震える言葉が溢れた。
サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』では、語り手のホールデンには夢がある。ライ麦畑の捕まえ役になる、ということだ。幼い子供は、しばしば危険と隣り合わせに生きている。崖がそばにあるのを知らないで、ライ麦畑で遊んでいる。そんな子供たちをホールデン少年は助ける役になりたいと願う。ライ麦畑の捕まえ役。それに私もなりたかった。
「春香」
パパは俯いている。瞳の色は、困惑と共感のはざまで揺れている。
『ハルカノセイデ、コロシタノハハルカナノ』
いつも何処かで、そんな呪詛が聞こえた。私の中のハルトは、ずっと春香を憎んでいた。
「ここは、鏡の中の世界だったの。ハルトの幽霊として生きて、家族の中にいる自分を見つめ直す場所。それがここだった」
『春香さんも気をつけて。ストーカーの盗撮とか盗聴が流行っているらしいから』
早瀬さんの言葉を思い出す。あの時は後ろめたい気持ちがした。理由はどうあれ、私も盗撮行為をしていたからだ。自分の家族に対して。
「パパとママが、何を隠しているのかわからなかった。だから」
息苦しくて、言葉が出てこなくなる。
パパの瞳が、憂いた眼差しを向ける。
私はそれに、頷いて応える。
『ジュリエットだけ過去へ飛んでいって、耳元で囁いてほしい』
『過去に何があったのか、とか。両親に』
かつての自分の言葉を思い出す。私の求める答えはどこにも見つからなかったし、ハルトはどこにもいなかった。誰かに教えて欲しかった。
「ここで探していたの」
私はパパを凝視する。パパも私をじっと見つめ返す。
『少しでもKに近づきたかった』
少しでも、ハルトに近づきたかった。ハルトになって、謝りたかった。
パパの泣き黒子が、優しく笑った。
「ずっと、傷つけていたのかもな」
パパは嘆息をこぼす。
雨が遮って、窓の向こうがよく見えないし、聞こえない、わからない。
「わからない」
私はかぶりを振る。
「わかったよ」
パパが頷いて、私は、乾いた唇を舐める。
「ちゃんと話すよ」
パパが呟く。顔が火照り視界が滲むのを感じた。
滲んだ瞳に、泣きぼくろが二重に見える。
雨が鼓動より早く窓を叩いて、二人を急き立てる。
「パパもママも、わからなかったんだ。苦しめたくなかったし、責任もないから」
パパの口元が、何かを言いかけて、一度口をつぐむ。
鈍く重く、唇が動く。
「ハルトが死んだあの日。ハルトは、春香があげたバナナが喉に詰まって死んだんだ」
パパは、静かに告げた。
私は深く、ため息をついた。ずっと、そんな気持ちがしていた。
「やっぱり私が、殺した」
「それは、違うんだ」
パパはハルトではなく、ただ私を見ていた。
「悪いのは、僕と、ママなんだ。子供の監督は、親の責任だから。
春香に背負わせるものじゃない。そう思っていた」
パパは肩をすくめて、頬を緩めた。
「春香と一緒さ。僕もママも、何が正解なのか、わからなかった。今もね」
パパは微苦笑を漏らす。
私もつられて、泣き笑いを浮かべる。
パパの瞳が、私を優しく包む。
「春香って名前はね。『四月はいちばん残酷な月』というエリオットの『荒地』にちなんだものなんだ。残酷な運命にも、立ち向かえるようにって。
僕もママも、春香の勇気を信じてあげられなかったのかもしれない」
春なのに、雨で随分今日は寒い。
足の指先が、悴みそうになる。
「春香を守りたかった。そのために嘘や誤解や、お互いの不満がエスカレートしていって、破局を迎えそうな気持ちがしていた」
雨の音が、二人の間に注がれていく。
「家族を繋ぎ止める役。崖から転落していきそうな家族を捕まえる役。
そんな存在に、家族みんながなりたかったんだよ」
パパは穏やかな笑みを浮かべた。
ハルトの章
「聞けてよかった」
自室で春香が呟いた。
「私が親だったら、どうしたかはわからない。何が正解なのか」
「春香」
「もう終わり。ハルトごっこも」
春香の言葉が聞こえた。僕の役割も、これまでだ。
不意に、事件の日の夜を思い出す。
『これで正解なのかな』
ママはあの夜に、居間で二人語らって、パパを睨んだ。
庭で、雨が降っていた。今日と同じくらい、無慈悲に注がれていた。
『春香と春斗って名前はさ。残酷な真実に立ち向かえるようにって、つけたでしょう』
ママは問い詰めて、パパを射すくめた。
『隠していてもいいのかな』
『別に春香が春斗を殺したわけではないからね』
パパは、ママと目を合わせない。
『むしろ春香を傷つけるかもしれない。変に隠し事をしたら』
『そのときは、考えよう』
パパは悩む素振りをする。
『私が子供の頃の話だけどね。両親の家族同士の仲が悪かったの』
ママは徐に切りだす。
『きっかけがあって。くだらないんだけど。母方の家族。みんなマイペースで。
私の小さい頃、何かのプレゼントに、私にケーキを送ったんだって。父方の家族が。母方の祖父がそれを黙って食べちゃったの。それが、後でわかって。
コントみたいだけれど、父方の家族は呆れ返って。前から性格が合わなかったんだけどね。ずっとギスギスしていた。
でも私に隠していたの。私の情操教育に悪いって。仲が悪いのを隠した。怖かったよ』
『そうだったんだね』
憂いた様子でパパは反応する。
『家族が隠し事しているって、わかるから。不穏な空気だけは感じるの。その理由がわからなかった。一生懸命、そのせいで悩んだよ』
ママはパパを見据えている。
雨の庭で尾長が、何かを仄めかすように鳴いた。
『春香も』
パパはそれに思い至る。
『八つ当たりみたいだけれど。春香だって、同じ思いをするかもしれない』
ママが懸念を示す。パパも、静かに頷いた。
雨は、庭の土を執念深く叩いた。埋もれたものを掘り返そうとしていた。
『そのときは、考えよう。正解は、時と共に変わる。でも殺したのは春香じゃない』
パパが思うことを伝えた。
「ママは、私が殺したと思っているの」
二人で部屋にいる春香が、パパに向けて訊く。
「半々だろうな」
パパは小さく漏らす。
「自分が死なせたという気持ちと、春香への責任転嫁の気持ち。両方だな」
「ママには、私が伝えるよ」
春香の声は、強い決意を帯びていた。
もう、大丈夫だ。きっと、大丈夫だ。
「パパから聞いたって。ハルトのこと」
「わかったよ」
「これで、全部整理できそう」
春香は、小さく吐息を漏らす。それはたおやかな覚悟に潤んでいた。
これで、もう大丈夫。僕は、手の震えを意識した。
【O, Jenny’s a’ weet, poor body,
Jenny’s seldom dry:
She draigl’t a’ her petticoatie,
Comin thro’ the rye!】
《ジェニー、ずぶ濡れかわいそう。ジェニーはいつもびしょ濡れで
ジェニーが下着を引きずって ライ麦畑をやってくる》
【Gin a body meet a body
Comin thro’ the rye,
Gin a body kiss a body,
Need a body cry?】
《ライ麦畑で出会えたら 二人はきっと キスをする
泣くことなんて ないでしょう》
知らず、口笛を吹いていた。「ライ麦畑で出会えたら」だ。そうするのがずっと、自分の癖だった。
了
「死者の目覚める季節 シノプシス 葉崎詩織」
木崎春香、父、母の三人を語り手、主人公とする日常の謎ミステリー。春香の弟のハルトは、家族と春香が目を離した隙に、誤嚥事故で死ぬ。その日から家族の関係に亀裂が走る。三人はお互い思うところがありつつ、それぞれ絆の再生のために奮闘。
全九話で、サリンジャー『ナイン=ストーリーズ』オマージュ。ハルトの幽霊の章は基本的に春香が盗撮した映像を見ている場面で、残りは春香の作中作か、父か母である可能性が示唆される。春香が盗撮しているのは、ハルトの死のトラウマにより、家族が壊れそうになる中で、自分の存在を相対化し、役割を探しているため。各話は「役割期待」「すれ違い」「心的外傷」「承認欲求」「利他的行動」をテーマとして、終章に繋がる。
一話では、ハルトとペットの犬バナナの死が描かれる。ともに事故だが、春香が死の原因になっており、父がそれを隠している。春香はそれを知らず、自覚のない犯人でいる。父のモノローグや、過去の事件が、真相の伏線。父としての役割期待のドラマ。
二話は梅田尊悟、通称「梅ちゃんおじさん」の過去の自殺の謎。これは母がこしらえた嘘。名前が「嘘だごめん」のアナグラムなこと、ハムスターが色盲で弱視であることが伏線。父と春香は、母の話と性格からそれぞれ性加害にまつわる誤った推論で多重解決。父の色盲のモノローグはミスリード。母の承認欲求とすれ違いの話。
三話は鹿目美緒の、母と弟の死の心的外傷の話。「夢でもう一度弟に会いたい」と「夢に見て全部夢で終わらせたい」が、トラウマとなった事件に似た状況を美緒が目に焼き付けようとする、その自傷的な行為の動機。夢にまつわる会話や春香の作中作などが伏線。
四話は殊能『ハサミ男』オマージュで、過去の斉藤光の「困り男」創作動機の謎。「困り男」こと斎藤光の性別誤認と、斉藤光と松村薫の二人一役、誤認トリック。叙述トリックは斎藤光の変化を強調。「困り男」創作の理由は、松村葵からパスワードを知ること。「困り男」の暗号の正体は斎藤光の誕生日。作中作「困り男」も含め役割期待のドラマ。
五話では、春香の昔の家出を描く。「ハルカの章」の語り手のジュリエットの正体が、三話に登場していた美緒の弟の鹿目遥。ズボンとワンピースの違いが伏線。
六話では父の旧友江隅由美の失踪の謎。時間の前後を誤認させる叙述トリック、双子の入れ替わりに見せかけた江隈由美による一人二役と、江隈由美と枝野恵美子による二人一役トリック。父が語っている時間は、枝野の死後。母の章の江隅は枝野恵美子。
七話はリドルストーリーで、母やナツメの中学時代の連続不審死の謎。『虚無への供物』的な主題(「読者=犯人、被害者」)の自殺の心的外傷のドラマ。緑の目になっていた関係者の似顔絵にはグルーミング疑惑、猫の目、報復などさまざまな解釈が当てられるが、推理による自傷と加害の連鎖から逃れるべく、ナツメは推理をやめる。そして死者との思い出が大切であるという真実を守る。
八話は父の死を描く作中作。ハルカの章と母の章がともに木崎春香の語り。二つの章は時間的に離れている。春香と母の章の類似は、春香と母の性格的近接を示す。また作中作で、ここのハルトの章は真相のミスリード。タイトルの「【」も伏線。
九話はハルトの章の種明かしと、父か母も同じことをしていた可能性を示唆する。
参考文献
・寺沢美紀『Nursery Rhymes of Mother Goose』(IBCパブリッシング,2012.4.1)
・ Robert BurnsPoems and Songs(Dover Publications ,2012.8.15)
・飯城勇三『エラリー・クイーン完全ガイド』(講談社,2021.11.26)
・ケネス・スラウェンスキー (著)田中啓史 (翻訳)『サリンジャー ――生涯91年の真実』(晶文社,2013.8.1)

コメント