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小説『東京のプリンスさま』

小説
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概要

 東京大学を舞台に、主人公・後藤春香が繰り広げるラブコメディです。春香は宇宙からやってきた黒猫・グッピーと契約し、半年以内に六人の恋人をつくれば大金を得られることになります。春香と交際していくことになる六人の主人公の視点も交えて、各々の人間模様が描かれていきます。
 サリンジャー『ライ麦畑で捕まえて』や橋本治『桃尻娘』に強く示唆を受けて、それらの現代版を展開したいと願って書きました。またボルヘス『伝奇集』からも影響を受け「評論」という文芸ジャンルに対するメタフィクションを試みています。登場人物たちが持つ伝記的なバックグラウンドが、各々が特定のフィクション作品に向ける評価にどう関わり、それをどう表現していくのかを描いています。それによって、過去のフィクション作品が持つ新たな側面に光を当て、またそれぞれの主人公の内面をも描きたいと思いました

 また深沢七郎『東京のプリンスたち』『東北の神武たち』のパロディです。

コンテンツ





2019年4月1日(月)(朝)(後藤春香) 
 
目覚まし時計はかけていなかったけれど、外が明るくなって目が覚めた。
 枕元の時計を見ると、今は朝の七時。
 冷え性なので、まだ朝は指先が冷えきって痛む。
 ベッドの近くにある電気ストーブをつけた。
 部屋が暖まるまで布団の中で待とう。
 リモコンでテレビの電源をつけて『おはスタ』にチャンネルを合わせる。よくゲームのことを特集しているから、チャンネルを合わせていつもぼんやり聞いている。
 枕元のスマートフォンを手に取って、布団の中で操作する。LINEの通知は所属しているゲームサークルのグループチャットに来ていただけだったが、既読をつけた。
 私は小さい頃からテレビゲームのオタクだ。両親は二人ともゲームが好きで、小さい頃からゲームを買い与えてくれた。『バイオハザード』や『グランド・セフト・オート』などの年齢指定のあるゲームでも、小さい頃から遊ばせてもらえた。
『春香は優しいから、どんなゲームを遊ばせても大丈夫』
父はよく言っていた。実際私は、暴力的なゲームに感化されて問題を起こすこともなかった。中学校でも成績はトップで、地元群馬の「自称」進学校、前橋女子高校に入学した。そこでも成績はトップで、現役で東京大学の文科一類に入学した。 
 大学での私の成績は、平均点が七十五点で真ん中あたりだ。私は文科一類から法学部に行きたいので、成績は必要ない。東大には前期教養学部から専門課程に移るときに進学振り分けがあるが、文一から法学部に行くのはごく簡単で、定員割れのこともある。だから法学部の内定は、ほぼ絶対に決まっている。
 もうすぐ、駒場のクラスともお別れだ。
 東大では語学でクラスが分かれているが、私の中国語のクラスは二年になった今でも仲が良く、時々連絡を取って遊ぶ。サークルは「東大ソウルライク愛好会」という少人数のサークルに入っている。どちらも落ち着いた人が多いので、陽だまりのように居心地がいい。
 そろそろ部屋の中が温まって来たようだ。
 私は布団から出る。
 最近遊んでいる『SEKIRO』をまた、やろうかな。
 私はベッドに腰掛け、PlayStation4の電源を入れる。
 『SEKIRO』は『DARK SOULS』シリーズや『Bloodborne』などを手がけたフロムソフトウェアの新作で、高難易度のアクションゲームだ。難易度は高いけれどレトロゲームのような理不尽さはないので、ゲームが下手な私でも楽しめる。すでに三十時間ほど遊んだ。
「良いなあ。やりたいな」
画面外から声をかけられる。
 体がびくりと震えた。
 思わずコントローラーを床に落としてしまう。
 それがカタンと乾いた音を立てた。
「すみません。驚かせましたかね」
 声をした方に目をやると、床の上に一匹の黒猫が座っている。
「どうも。言葉は通じていますか。翻訳機は機能しているのかな」
黒猫は、よく見ると、首にポシェットを提げている。
「通じているけれど」
「申し遅れました。私はグッピーと言います。地球から一千億光年以上離れた星から、辺境惑星調査機構の一員としてやって来ました。地球の秩序の維持のために」
「はあ」
「私の所属する辺境惑星調査機構は先進星から構成される星間連合の組織の一つで、後進世界の保護を担っているのです。私たちは主に地球のような進歩の遅れた星で大規模な混乱が起こらないよう、過度な干渉を避けつつ陰で秩序の維持を支えています。私は今回、地球管理のために情報収集の任に当たってやってきました。ここまでの話はわかりますか」
「なんとなく」
蕩々と捲し立てられて気圧されつつ、私は言った。
「良かった。そしてそのために、あなたと契約をしにやってきたんです」
「契約」
「そうです。どうでしょう。あなたが半年以内に六人の恋人をつくったら、期日に私から一兆円を贈呈します。さらに一人と一日付き合うごとに、毎日私から一万円をプレゼントします」
「一兆円」
「そうです。所得税に関してはこちらでカバーするので、全額自由に使えます」
「でもどうして」
「地球の学問でいうところの心理学の実験です。地球管理のために情報が必要なので」
「エッチするのって、必要なの」
私は訊ねた。
「可能であれば。不可欠ではありません。恋愛関係が成立しているかどうかは綜合的に判断されるので、性行為はその一つの要素に過ぎません」
「お金は本当にもらえるの」
「もちろん。契約していただいた時点で百万円を贈呈します。それで信用していただければと」
「百万円も」
「信じてもらえますか」
「嘘はついていない気がする。だいたい目の前で猫がしゃべっていたら、どんな事情があっても驚けないよ」
私は笑って言った。
「それで、契約してもらえるでしょうか」
グッピーは言った。
「考える時間が欲しいな」
私は言った。
「わかりました。しばらくこちらに居候させてもらうので、そのうちに返事をお願いします」
「ここに住むの」
私は驚いて言った。
「そうです。申し訳ないですが。契約を断られるか、あるいは満了するまでの間は、サンプルとして選ばれたあなたのそばにいるよう指示されています。ご心配なく。生活費の一切はこちらで賄います。家賃も折半で」
「それなら、まあ」
「よかった。パンフレットを渡しますからよく読んで、考えてください」
グッピーはそう言ってポシェットからパンフレットを取り出し、私に手渡した。話がひと段落すると、グッピーはゲームソフトが置かれた棚の元へ駆け寄っていった。
「素晴らしいコレクションですね。『SEKIRO』もあるのですか。いいなあ」
棚に並んだゲームを眺めながら、グッピーが言った。
「あなたの星にも、日本のゲームがあるの」
ベッドから見下ろして、グッピーにそう声をかけた。 
「いや。地球のゲームで遊ぶことは基本的にできません。ただ地球のゲームに影響を受けて作られたゲームがたくさんあります。漫画やアニメもそうです」
「そう」
「旅行者が地球で買ったものを持ち帰って個人で楽しむことは許されています。でも無断配信や複製は禁止。異文化の盗用になりますから」
「へえ」
「『SEKIRO』も情報だけ出ていて気になっていました」
グッピーが物欲しそうに言った。
「遊んでもいいよ」
私は言った。
「いいんですか」
「うん」
「本当ですか。嬉しいなあ」
グッピーが尻尾を振りながら言った。
「でもその体でコントローラーを操作できるの」
「大丈夫です」
そう言うと、グッピーの手は青い光に包まれた。すると瞬く間に、グッピーの手は人間のような、五本に指が分かれたものに変化した。
「これなら大丈夫でしょう」
「そうだね」
驚きを抑えながら私は言った。グッピーはベッドにいる私の隣へ上って来た。尻尾を激しく振って、夢中でコントローラーを握っている。
 それにしても、と私は思う。まさか私の元に宇宙人(猫?)がやってくるなんて。信じがたいことだが、猫が喋っているのを目の前で見たのだし、宇宙人というのは本当だろう、という気がする。それとグッピーから言われた契約の話。あれは真実なのだろうか。
 それも真実だろう、という気がする。なんとなくだけれど。あまりに非現実的なことが立て続けに起こって整理ができていないし、夢の中にいるようで、これが現実であるという実感が得られない。心臓は、グッピーを見た瞬間からずっと激しく脈打っている。
 契約が本当だとしたらどうしようか。一兆円もあったら一生遊んで暮らせる、どころではない。しかし、異性と付き合わなくてはいけない。私にできるだろうか。私は現在のところ、男性経験はない。高校は女子校だし、異性とほとんど触れ合ったことがない。私はあまり寂しいと思うことがないので、積極的に人と関わろうとしない。誰かを好きになったこともないから、恋愛もゲームの中でしか経験したことがない。
 ふと私は、自分が初めて遊んだ女性向け恋愛ゲーム『薄桜鬼』を思い出す。私は恋愛にあまり興味を持てたことがないので、恋愛ゲームも進んで手を出したいジャンルではない。でもゲームオタクの矜持として『薄桜鬼』はPSP版を遊んだ。これは幕末を舞台とした伝奇作品だ。主人公・雪村千鶴は父・綱道を探して京の町へやってきた少女で、彼女はそこで新撰組隊士たちと出会い、関わっていく。そして彼らと関わる中で「鬼」の一族や変若水を巡る騒動にも巻き込まれていくという物語だ。
 「鬼」の中心人物である風間千景は声優が津田健次郎さんで、私が今遊んでいる『SEKIRO』の芦名弦一郎と同じだ。『薄桜鬼』に登場するキャラクターでは、風間千景が一番好きだった。風間は「鬼」の一人で、一族の存亡をかけ子孫を残すために主人公を付け狙う。芦名弦一郎も風間千景も、滅びゆく一族を背負って戦うところは共通していて、それが津田さんの落ち着いた低音の哀愁と相まって魅力的なキャラクターになっていた。どちらも好きなキャラクターだ。
 ただ「好き」といっても私の「好き」にはいつも、恋愛感情は含まれない。それは二次元のキャラクターに対しても現実の人間に対してもそうで、性欲もあまりないし「恋」という感情がどういうものなのか、よくわからない。だから、これまで私は恋愛とは縁がなかった。
 けれども私はそれほど容姿に優れない訳でもない。顎はやや小さいが、目鼻立ちは整っているし、平均並みの容貌だと思う。女子が少ない東京大学で相手を探せばすぐ相手は見つかるだろう、と思う。東京大学は非モテ男子で溢れかえっている。必死に彼女をつくろうとして惨めな失敗を繰り返す者も多い。そういう環境だから、恋人をつくるのもそこまで手強い課題ではない、はずだ。
「赤鬼は手強いですね。崖に投げ落とされて何度もやられています」
考えごとをしていた私にグッピーが声をかけた。『SEKIRO』の序盤に登場する赤鬼に苦戦しているようだ。
「ラフなプレイをしているとすぐにやられちゃうよ。危険攻撃はステップで余裕を持って避けないと」
「黙って。アドバイスはいりません」
「そっちが声かけて来たんじゃん」
「アドバイスしろとは言っていません」
「そうかい」
私は言った。なんなのだろう、こいつは。 


 2019年4月1日(月)(昼)(井上里香)
 
 隼平と別れてから二ヶ月が経つ。原因は隼平の浮気だった。隼平とは鹿児島の鶴丸高校からの知り合いで、高校二年のときに付き合い始めた。高校卒業後、私は文科二類に、隼平は理科二類に現役で合格した。大学に入ってからも、良好な関係を築けていると思っていた。けれども去年の末に、隼平が浮気をしていることを知り合いから教えられた。
 隼平を問い詰めるとグダグダと小賢しい言い訳を続けたが、やがて渋々といった感じで浮気を認めた。そして
「俺がバカでごめんね」
とか
「自分勝手でごめんね」
とか、泣きながら何度も謝った。隼平は涙もろくて、すぐに泣くのが癖だった。私はそれを見て、離婚以来ずっと会っていない父親のことを思い出し、気持ちが悪いと思った。
 私の父も東大卒だったが、情緒が不安定でよくトラブルを起こした。多分パーソナリティ障害を患っていたのだと思う。上手くいかないことがあると、酔って母や私に暴力を振るった。浪費癖があって、ギャンブルや風俗に行って金を溶かしては親戚と口論になった。その度に
「これからまともになるから」
とか
「こんな父親でごめん」
とか言って、母や私に泣いて謝った。あの頃のことを思い出すと、今でも動機と吐き気がする。
 家庭のトラブルが原因で中学の頃から慢性的な疼痛が始まり、身体表現性障害と診断を受けた。病気のために中学校にもろくに通えなくて、いつも孤独に苛まれていた。高校のJRC部で会った隼平は、そんな私の過去や病気のことを理解しようとしてくれて、それが嬉しかった。私の愚痴をひたむきに聞いて、わがままに応えてくれた。
「辛い思いをしたんだね。だから、里香は誰よりも真っ直ぐなんだね」
とか
「何もできないけれど、俺は里香と居られるだけで嬉しいよ」
とか、私に必要な言葉を与えてくれた。隼平には、私の父にあった粗暴なところがなくて、一緒にいると安心できた。そこが好きだった。彼の隣にいるだけで気分が落ち着いた。振る舞いや口調が優雅で美しくて、いつも安らぎを与えてくれた。
 ふと、二人で初めて一緒に観た映画を思い出す。『おおかみこどもの雨と雪』だった。私の部屋で一緒にDVDを観た。あの作品は異類婚姻譚もののファンタジー映画だった。ヒロインの「花」は東京にある大学に在籍中、ニホンオオカミの末裔である「おおかみおとこ」に恋をして結ばれ、二人の子供を授かる。しかし子供が生まれて間もなく「おおかみおとこ」は死んでしまう。遺された花は「おおかみおとこ」の血を受け継ぎ「おおかみ」に変身できる二人の「おおかみこども」を育てるために、孤軍奮闘する。
 映画を観ながら、隼平は泣いていた。シングルマザーをテーマにした映画だったから、作品を観ながら自分の母のことを私は思い出していた。こういう境遇の女性に素直に共感できる人なら、結婚しても母とも上手くいきそうだな、とか隼平の隣で馬鹿なことを一人で考えていた。なんだか切なくなってきた。
 枕元でLINEの着信音が鳴り、ベッドの上でぼんやりしていた私は我に返る。手に取って見てみると、同じクラスの後藤春香ちゃんからだった。
後藤春香「里香ちゃん元気?良かったら履修組むの、一緒にやりたいな」
後藤春香「意識低いからめっちゃゆるく組むけどw」
そんなメッセージが来ていた。
井上理香「わかったー。下北のガストで三時ごろ集まって決めない?」
私は返信をした。
後藤春香「うん、それでいいよー」
井上理香「りょーかい」
さらに返信が続いた。三時に下北のガストに赴くことになった。四月五日から二年生の履修登録期間が始まるから、ハルちゃんとその相談をするのだ。
 ハルちゃんは不思議な雰囲気の子だ。いつも澄ました顔をしていて、何事にも動じない。猫のような愛くるしさがある。ハルちゃんと私は仲が良くて、ときどき一緒に遊ぶ。彼女とこの前に『薄桜鬼』という乙女ゲームが原作のアニメを一緒に観たのを思い出す。『おおかみこどもの雨と雪』と毛色は違うけれど、あれも異類婚姻譚的な要素があって、人と「鬼」との交情が描かれていた。『薄桜鬼』は、隼平も好きだった。
「『薄桜鬼』好き。こういう異類婚姻譚ものって好き。セクシャリティって多様なんだなって」
隼平が言ったのを思い出す。隼平は可愛いものが好きだった。私は、そんな可愛い隼平が好きだった。
「『薄桜鬼』の風間さん、本当に可愛い。津田健次郎さんの声に萌える」
楽しそうに言っていた隼平を覚えている。
「隼平って女の子みたいだよね。そういう趣味」
『薄桜鬼』について語る隼平に、私はそう言った。
「そうかもね」
隼平は笑って言っていた。
「私、女性向けのコンテンツって苦手。『女性性』を押し付けられている感じがして、息苦しい。でも隼平がそういうのを楽しんでいる姿って、いいなって思ってしまう」
私は言った。
「里香は真っ直ぐだから、色々な性差別に敏感に反応しちゃうんだろうね」
隼平は少女漫画に出てくるハンサムな男の子みたいに、困ったように笑って言った。隼平はいつも、私の欲しい言葉をくれた。無邪気で思慮深い隼平といるだけで、心が癒された。彼の前では、いつも自然体でいられた。
 やめよう。あいつのことを考えるのは。切り替えて、これからハルちゃんと会うのを楽しもう。今は一時半近く。最寄りの新代田駅から下北沢までは井の頭線ですぐだから、時間には余裕がある。けれど半端な時間だし、早めにガストに行って時間を潰していよう。私は身支度を始めることにした。
 

 2019年4月1日(月)(夕方)(竹田音也) 

 昼間に渋谷のTOHOシネマズでイーストウッド『運び屋』を観てきた。巨匠の安定感を感じさせるフィルムだったが、やや食い足りなくもあった。イーストウッドの最高傑作は『グラン・トリノ』である。『グラン・トリノ』こそが彼の作品における究極のバイオレンスと官能の達成であり、ペキンパー『ワイルド・バンチ』にも匹敵する。『運び屋』は老練の作家の手堅い作品ではあるがどこか停滞を感じさせ、シネフィルにとって満足のいく内容ではない。
 俺は映画や小説のオタクだ。中学一年の時に『俺たちに明日はない』を父親から借りて観たことがきっかけだった。あれは衝撃的な体験だった。ボニーとクライドが警官の一斉掃射で惨殺される場面では、体の浮遊するような感動を覚えた。それから俺は、映画に目を見開かされた。中学二年の時には蓮實重彦の著作と出会い、彼に尊敬の念を抱くようになった。俺は群馬の高崎高校に通ったあと蓮實への憧れもあって、一年浪人の末に東京大学の文科一類に入学した。映画青年の俺だが、大学では文芸サークルに所属している。高校で映画研究会に入っていたが、学生映画というのは制約が大きくて面白くないとあそこで知った。資金面での制約が大きいし、エロティシズムや暴力も描けない。だから俺は大学では文芸サークルに入ることにした。
 いま俺はTOHOシネマズを出て、渋谷にある松屋で食事をとりながら『運び屋』のレビューをフィルマークスで書き終えたところだった。

「Otoya 星3.2
 年老いた園芸家の男・アールを主人公とし、彼が仕事や家族との関係の行き詰まりから麻薬の運び屋を引き受けたことで巻き起こる騒動を描く。アールは麻薬取締局のコリンの追跡から逃れながらも、懸命に家族との関係を修復しようと図る。
 安定感はあるものの過去作品の焼き回しにとどまり、新鮮な感動を得ることはできない。『グラン・トリノ』が持っていた三隅研次『薄桜記』にも匹敵する暴力の扇動装置としてのアクチュアリティは息を潜め、細田守的な安直なファミリーメロドラマへの接近さえ感じさせる。
 現役監督では最高峰の演出力を誇る名匠であり、彼のみが到達できる高い表現の次元は必ずあると確信するが、それには次回作以降が待たれる」

 松屋を出て俺は、下北沢にある下宿先へ向う。センター街を歩きながら、カップルらしき男女と多くすれ違う。大学に入ってから、俺は異性との交流がほとんどない。サークルはインカレではあるが、同期の女子と遊びに行ったことは皆無だ。部員同士のカップルもいくつかあることを把握しているが、俺にはそうした話はない。俺は今まで一度も異性と交際したことがない。
 恋愛経験がないことは心苦しく思っている。なぜなら恋愛をテーマにする作品を論じる資格がない気がするからだ。イーストウッド監督作品を好きで色々と論じたくなるのは、恋愛要素が前面に出ていないからではないかとも思う。マッチョな男の世界が描かれ、心理や恋愛などの要素は周縁に追いやられているので、大抵居心地が良い。ただ『運び屋』はファミリーメロドラマ的な要素が強くて、少し苦手だった。
 レビューでも先ほど批判的に言及したが、細田守の作品のような「家族」がテーマのメロドラマが、俺は概して苦手だ。自分の家族は普通に仲がいいので、家族をめぐる葛藤が出てくると共感できずに辟易する。『おおかみこどもの雨と雪』は母子家庭を描くドラマだったが、観ていて虚無感を味わった。心理的な要素が前面に出てくると、俺はいつも拒絶反応を覚える。俺が興味を持っているのはエロスとバイオレンスであって、だからイーストウッドのフィルムに親しみを感じるのだ。イーストウッドの世界に俺は、自分が通っていた高崎高校のような、アットホームな空気を感じる。
 母校の話で思い出したが、大学で同じクラスに高校の後輩である来栖梓がいて、彼が俺と同じサークルの藤井明梨さんと交際していたのを知ったときには驚いた。自分だけ知人の恋愛絡みの情報をキャッチするのが遅くて、いつも蚊帳の外へ置かれている気持ちがする。恋愛だけでなく、人間関係全般において。俺は人の心が分からない。
「俺って変なのかな」
高校時代、俺は来栖にそう尋ねたことがあった。
「変って。どういう意味ですか」
来栖はその時そう言った。
「よくマイペースって言われるからさ。あんまり自覚ないんだけれど。家族からもそう言われる」
「マイペースでいいんじゃないんですか」
「迷惑じゃないかなって」
「なんで迷惑なんですか」
来栖は言った。
「空気が読めないから。ASDなのかもしれない。なんとなく病院とかにも行く気にはなれないんだけどさ」
俺は言った。
「別に嫌な思いなんてしてないですよ、全然。個性だと思いますよ」
来栖は優しく笑って言った。
「そうかな」
「うん。竹田さんのことは尊敬していますよ。僕よりもずっと本とか映画に詳しいし。人より詳しい分野があるのって、羨ましい」
 来栖から言われたことを思い出す。来栖は気の優しいやつで、俺は好感を持っている。彼は高校時代の映画研究会でも後輩で、割合長い付き合いになる。誰に対しても親切で、俺も彼の幸せを素直に喜べる。だから藤井さんと彼が別れたのを知った時には残念だった。
 そういえば学校が休みだから来栖とは、もう長く会っていない。どうしているのだろうか。
 

 2019年4月1日(月)(夜)(来栖梓)
 
 日雇いのバイトが終わって三鷹寮に帰ってきた。食事前にベッドで横になりながら『東京のプリンスたち』の続きを読んでいる。僕は普段小説を読むほうではないけれど、春休みは時間があるので駒場の図書館で借りてきた。作者の深沢七郎の作品には他に何があるのかよく知らないけれど、中学生の時に『楢山節考』を読んで読書感想文を書いたことがあったのを覚えている。あの本は父方の祖父の蔵書から借りたのだった。
 祖父は名前が深沢七郎と同じ「七郎」で、来栖七郎といった。読書家で、同じ名前だった深沢七郎のことは特に好きだった。七郎おじいちゃんは僕が小学三年の時に死んだ。針刺し事故でC型肝炎になり、それで肝臓癌になって亡くなった。祖父の死後も大量の蔵書が残っていて、図書館でハードカバーの『東京のプリンスたち』を借りたのも、そこで見かけたことがあって懐かしかったからだ。
「深沢七郎の作品はね。力みがないんだよ。だから好きなんだ。ジョン・フォードの西部劇と一緒でね。アメリカ喜劇の伝統だろうね」
祖父がそんな風に言っていたのを覚えている。祖父は西部劇も大好きだったので、よく一緒に観たのだった。
「じいちゃんは昔ものだからね。イタリアの西部劇は好きじゃなくてさ。現役監督だとイーストウッドの作品が好きなんだいね。『ペイルライダー』とか。古典的な西部劇みたいだから」
祖父が言ったのを思い出す。『ペイルライダー』は祖父が特に好きだったので、一緒に何度も観たのを覚えている。確かに祖父の言う通り、古い西部劇のように朗らかな多幸感があって、僕も好きだった。
 ようやく『東京のプリンスたち』を最後まで読み進めた。深く読めている自信はないけれど、面白かった気がする。複数の人物の視点が目眩く移る構成も面白かった。祖父が言うところの「力みの無さ」の中に、若さや人生の儚さを感じ取れた気もする。僕は本の表紙を写真に撮り、それをコメント付きでTwitterにアップロードする。
あずにゃん「文化的生活!!圧倒的成長を遂げている(鼻息を荒げている顔文字)」
「あずにゃん」というのは僕の大学用アカウントの名前で『けいおん!』の中野梓がアイコンの画像になっている。高崎高校時代からあだ名が「あずにゃん」なのでTwitterのアカウント名もそうなっている。このアカウントは高校時代からずっと使っていて、フォロワーは二〇〇〇人、フォローは一八〇〇人ほどいる。僕はTwitterで時間を潰すことが多い。Twitter経由で知り合った東大生や他大生も結構いる。
 ぼんやりとタイムラインを眺めていると、知り合いのツイートが目に入る。
キジ「履修決まりました!対戦お願いします!!」
つぶやきに時間割の写真が添えられている。十五個授業を受けるつもりらしく、びっしり埋まっている。「キジ」は僕が所属している映画製作サークルの知り合いで、本名は木嶋隆という。僕と同学年で、理科一類に所属している。
あずにゃん「プロやん。勝てへん」
返信を送る。
キジ「あずにゃん2Sは何コマ?」
「2S」とは二年次の春から夏の期間にあたる「2Sセメスター」のことだ。
あずにゃん「七コマ。よわよわ文系なので(嘔吐している顔文字)」
キジ「許せない」
あずにゃん「ア!ww」
リプライ欄で馴れ合いが続いた。
 もうすぐ春休みが終わる。僕は文科一類で、進学振り分けのために必要な単位を既に取ってしまった。だいたいの文一生がそうで、この時期はゆとりを持って過ごせる。空いた時間でみんなはインターンに行ったり、合宿で免許をとったりする。
 僕は免許を一年生の夏休みにとった。あのときは木嶋くんと岩手へ合宿に行った。同じ宿には他の東大生のグループもいて、彼らが免許合宿の経過をTwitterで実況していたのを覚えている。
たざき「合宿メイツから小松菜奈は加藤諒に似ているって言われたのがショックで仮免を落とし続けている」
彼らのグループに、マニュアル免許を取ろうとして仮免試験に落ち続けて延泊になった「たざき」という人がいた。実況の語り口が面白くて、僕も笑ってしまった。僕はああいう幼稚で朗らかなノリが好きだ。それは祖父が好きだった、古典的な西部劇が持っている能天気で優しい空気と、少し似ているのかもしれない。
 けれど一緒にいた木嶋くんは、彼らの話をすると機嫌が悪そうにしていた。
「田崎のことは、話題にしたくない」
そう僕に言ったのを覚えている。木嶋くんは僕にとっては付き合いやすいけれど、人付き合いが苦手なところがあって、サークルでも彼とは気まずい関係の人もいる。
「俺さ、実はASDなんだよね。世間で『アスペルガー』って言われているやつ。あずにゃんくらいだわ。俺と友達でいてくれるの。本当に、神」
以前、木嶋くんからそんな風に打ち明けてもらったことがあるのを覚えている。
「そうなんだね。僕の高校の知り合いも、自分はASDかもって言っていたな。竹田くんっていうのだけれど。でも彼は映画とか詳しくて。木嶋くんも勉強めっちゃできるじゃん。発達障害も個性かなって。僕は当事者ではないから、そんな風に言うのもあれかもだけれど」
僕はそう言った。
「ASDかつ知的障害の人もたくさんいるからね。俺はたまたま天才なだけなんだよ。適応できていないASDはマジで地獄だからね。我々の気持ちを考えず、簡単に個性とか言っちゃダメ」
木嶋くんはそう言った。
「なんかごめん」
僕は言った。
「いいよ」
「うん」
「あずにゃんは良い子よね。本当に神」
木嶋くんは大袈裟に僕を褒め称えてくれた。彼と一緒にいると僕は気持ちが楽で、力まずに自然体でいられる。しばらく会っていないけれど、どうしているのかな。


 2019年4月2日(火)(朝)(坂本樹) 
 
 眠れなくて朝になってしまった。井上里香のことを考えていた。彼女は僕が所属している、東大の旅行サークルの同期だ。僕は先日、彼女に告白をしてフラれたのだった。
 ずっと前から彼女が好きだった。彼女は僕と同じように不登校の経験があって似ているところが多かったし、よく話もした。彼女に恋人がいるのも知っていたが、春休みに入った頃、相手の浮気が原因で別れたことを知った。僕はその恋人が許せなかったし、里香を可哀想に思った。
 僕は春休みの中頃に、サークルの定例会の後で里香をファミリーレストランでの食事に誘った。二人だけで食事をするのは初めてで、里香が快諾してくれて嬉しかった。里香と僕はしばらくサークルのことを話したり、彼女の愚痴を聞いたりした。
 話をしながら僕は煩悶した。里香に告白したいと思っていた。告白することで内向的な性格の殻から抜け出したいと思っていたし、とにかく里香が好きだった。しかしこのタイミングで告白するのは相手の弱ったところへ付け込もうとしているようなので、思い留まろうとする気持ちも強くあった。 
 食事を終えてレストランを出て帰途に着いたが、告白するタイミングも見つからないし、そんな勇気も起こらなかった。しかし自宅に帰って僕は、彼女に電話をした。
「今日はありがとう。また一緒に遊びたいな」
僕はそう言った。
「うん」
電話の向こうで素っ気なく里香が言った。
「僕は井上さんのことが前から好きでした。よかったら付き合ってください」
思い切って僕は言った。
「無理」
彼女はつまらなそうに言った。僕は言葉が出てこなくなったが、沈黙が苦しくて何か言わなくてはと思った。
「ごめん」
僕は言った。
「またね」
彼女が冷たく言って電話が切れた。
 通話が切れた後、放心状態になった。僕はそれまで告白の経験も一度もなかった。振られたことにも、自分が告白したことにも、全く実感が持てなかった。彼女がこのことを他人に言いふらすのではないかと、不安な気持ちが次第にこみ上げて来た。
キジ「お前さん、里香ちゃんに何をした」
そんな不安の中、サークル同期の木嶋隆から恫喝の文章がLINEで送られてくるということがあった。木嶋は常にアンテナを張り巡らせて、サークル同期の女性周辺に起こった出来事を調査している。その情報を駆使していつも女性の味方をしようとするので、男女両方から避けられている。気味が悪いけれども、僕も周りからは彼と同じ枠に収められている気がして憂鬱になる。
坂本樹「関係ないでしょ。君には」
僕はその時、彼にそう返信した。
キジ「お前さんのせいで傷付いたサークルのメンバーがいることを自覚しろ」
坂本樹「悪かったよ」
キジ「俺に謝っても仕方がない。里香ちゃんに謝れ。だからお前さんとは関わりたくない」
「関わりたくないなら連絡してくるんじゃねえよ、カス」
と返信したくなる気持ちを抑えるために寿命が百日近く縮んだ。
坂本樹「あとで謝っておくよ」
僕はそう返信した。けれども僕はまだ彼女に謝っていないし、するつもりもない。わざわざ謝っても誰も得をしないことは、童貞の僕でも分かる。
 ふと、自分の好きな小谷野敦が『もてない男』で紹介していた『東北の神武たち』のを思い出す。あの作品は東北の農村が舞台で、そこでは農家の次男三男は「ヤッコ」と呼ばれて忌み嫌われ、嫁をもらうことができない習わしになっている。しかし久吉という男の死後、故あってその嫁が彼の頼みで村のヤッコたちの性行為の相手をすることになるという話だ。童貞の抱える性の煩悶が巧みに捉えられていて痛烈だった。自分も木嶋も、あのようなことでもない限り素人の異性と肉体関係に至ることが不可能な種族なのではないかと思い至って、居たたまれない気持ちになる。
 ところで、僕は深沢七郎という作家が好きだ。男性にとっての女性という存在について、その神秘性と捉え所のなさ、そして忌々しさについてユーモアを交えて巧みに描いた作家だと思う。深沢七郎の文学は、彼と親交のあった三島由紀夫と違って衒いがなくて、それでいて人生の核心を捉えている。
 とはいえ三島由紀夫は、僕の天敵である木嶋隆と我が母が好きな作家だから、そのせいで減点している部分がある。木嶋は宗教やスピリチュアルに凝っていて、それで特に三島の『豊饒の海』シリーズが好きらしい。母は低学歴ゆえにスノッブを拗らせており、三島も好んでいる。三島由紀夫が好きというよりは、三島由紀夫が好きな自分が好きというか、そんな感じだ。
「三島は文章がいいよ。濃密な文体に引き込まれる。それに、あんなに論理的な作家もいないと思うんだよね」
母が言ったのを思い出す。学歴コンプレックスを抱える僕の母はすぐに知ったかぶりをするが、そういう点ではスノッブな三島とも似ている。下品だとは思うけれど、深沢七郎『言わなければよかったのに日記』に見られる深沢のカマトトぶった振る舞いも、嫌味ではある。僕の好きな里香には、キャラをつくっている人特有の力みがなくて、だから好きだった。苦境にもめげず、ひたむきに努力を重ねていた。そんな彼女を、僕は支えてあげたいと思っていた。
 辛い。もうやめよう、彼女のことを考えるのは。少し休んで、また勉強しよう。
 
 
 2019年4月2日(火)(昼)(伊藤真斗)

 学生会館で転寝をしていて目が覚めた。僕は東大の文芸サークルの副部長を務めていて、五月祭での出店に関する手続きや、同人誌の編集・製本などの事務を担当している。今もその作業をしていた。
 僕は昔から読書が好きで、最も敬愛する作家は三島由紀夫だ。三島を初めて読んだのはラ・サールの中等部にいた頃で『鏡子の家』だった。田中西二郎が言うところの「メリーゴーラウンド方式」の理知的な構成に引きつけられるとともに、文章の端々に漂う圧倒的な教養に打ちのめされた。その後僕は、三島の作品を貪るように読んでさらに心酔を深めた。僕は、三島の考え方が強く現れたエッセイも好きで、彼のストイシズムに惹きつけられる。例えば『不道徳教育講座』で太宰を批判して言った次の一節などだ。
「やたらに人に弱みをさらけ出す人間のことを、私は躊躇なく『無礼者』と呼びます」
僕の政治思想はソーシャルリベラルだけれど、それとミクロな人間関係における人の好みは別個にあると考えている。自分を卑下して援助行動を引き出そうとする振る舞いが、僕は嫌いだ。
「いつも嫌な思いをさせてごめんね」
恋人である藤井明梨の口癖を思いだす。彼女は聖心女子大の学生で、サークル活動を通じて知り合った。
「馬鹿でごめんね」
そんなふうに言って、彼女はいつも他人の気を引こうとする。それが鬱陶しい。
 この弱者性を武器にする振る舞いへの嫌悪は、母と過ごした日々のことが影響している。
「こんな母親でごめんね」
そう言って泣くのが、あの人の口癖だった。母は美しかったが、仕事も家事も、何一つできなかった。今から思えば、あの人は発達障害(ASDとADHD)だったのではないかと思う。
「何にもできなくてごめんなさい」
家の中が荒れ放題なのを親戚から咎められると、母はそう言って泣いた。流しはいつも食器で溢れていて、床は埃まみれだった。父方の祖母が食材を送っても冷蔵庫の中で駄目にしてしまうので、よくそれを責められては泣いていた。
 泣くことしか芸のない母の、唯一の取り柄が容貌の美しさだった。輪郭がはっきりしており目鼻立ちが整っていたので、異性受けが良かった。そんな母はあるとき、恋人と出奔した。
「私が母親で、本当にごめんね」
いなくなる直前に、母からかけられた言葉を覚えている。僕は母への嫌悪から、弱さを武器にする人間を唾棄するように育った。その一方で僕は、三島やヘミングウェイのような男性的なストイシズムに惹かれ、振る舞いのロールモデルとするようになった。僕は三島のミソジニーにはついていけないが、軟弱な人間への侮蔑の感情は共有している。
「伊藤さん、お疲れ様」
不意に後ろから声をかけられた。振り返ると、サークル同期の鹿目真奈美さんがいる。背の高い、落ち着いた雰囲気の女性だ。
「お疲れ」
僕は言った。
「事務の仕事をしていたの」
鹿目さんが言った。
「うん。鹿目さんは」
「荷物を取りに来ただけ。友達の家へ遊びにいくの」
鹿目さんが鞄を叩いて示しながら言った。
「そっか」
「五月祭までもうすぐだから、大変だね」
鹿目さんは言った。
「そうだね」
「伊藤さんは、作品は書き上がりそうなの」
「一応ね。鹿目さんは」
「ちょっとピンチかも。色々と、キャパっていて」
鹿目さんは細い目を一層狭べて笑って言った。
「焦らなくても大丈夫だよ」
「ありがとう。
 それじゃ私、予定があるから行くね」
「うん」
僕は言った。鹿目さんは学生会館の出口の方へと歩いていく。ふと彼女が以前に書いた小説を思い出す。タイトルは『悠木碧のすべて』で『リリィ・シュシュのすべて』のように、地方の公立中学校でのいじめが主題の作品だ。主人公は周りに流されるままに仲の良かった同級生へのいじめに加担し、彼女を自殺に追い込んでしまう。そして彼女が死んだ後で、その子から借りっぱなしだった悠木碧のCDアルバムを聴き続けるという話だった。
 あの作品にこんな文句があったのを思い出す。
「どうして選べなかったのだろう。あなたが生きられた世界につながる選択を」
彼女の小説は、どこか明梨の作品に似ている。どちらも「自殺」のモチーフがよく作品に現れることが共通している。僕は二人の作品に見られる、他者への共感を過剰に強いるような内容が、疲れるから苦手だ。
 
 
 2019年4月2日(火)(夕方)(鹿目真奈美)

「今度、一緒にどこかへ遊びに行きたいな」
私は隣でベッドに座るハルちゃんに話しかけた。
「家で遊ぶ方がよくないすか」
ハルちゃんが言った。ハルちゃんの家で、彼女がゲームをするのを眺めている。私も普段ゲームをするけれど、今はただ観ているだけだ。ハルちゃんは『ファイナルファンタジーⅩⅤ』を遊んでいる。私もこのゲームが気になっているのだけれど、評判が芳しくないので手を伸ばせずにいて、だからハルちゃんが遊ぶのを眺めて様子見をしている。
「たまには外へも出かけたい」
私は笑って言った。
「外に出ると頭痛になりやすいんだよね。人混み苦手なの。私」
ハルちゃんが言った。
「そうなんだっけ」
「言ってなかったっけ。だからゲームで遊ぶのが好きになったの」
ハルちゃんが笑って言った。
「じゃあドライブデートに行こうよ。私、免許を取ったの。レンタカーで」
私は言った。
「ドライブか。いいよ」
ハルちゃんは言った。
「やった。あれがやりたい」
私は顎をしゃくってテレビの画面を示す。ハルちゃんが操作するゲームの中で、主人公たち四人がドライブしながら談笑している。アメリカ南部を思わせる荒野に敷かれた道路を、黒塗りの自動車レガリアが駆けていく。
「ノクト 頭痛は平気か?」
画面の中で、イグニスという眼鏡をかけたキャラクターが言った。
「あれ。イグニスって宮野さんなの」
私はふと気がついて言った。
「そうだよ。『うたプリ』のトキヤの声。ノクトは蘭丸の鈴木達央さん」
ハルちゃんが言った。
「へえ。私は『うたプリ』だと一ノ瀬トキヤが好きなの。私の旧姓と名字が同じ」
私は笑って言った。「うたプリ」というのは『うたの☆プリンスさま』という女性向け恋愛ゲームのことだ。私も中学生のときにその手のゲームは割合広く遊んで「うたプリ」も好きだった。ヘビーな作品が苦手なのだけれど「うたプリ」は明るい雰囲気で好みだった。よしながふみとか吉田秋生みたいな、乾いた明るい作風が私は好きだ。
 そういえば、ハルちゃんが遊んでいる『ファイナルファンタジーXV』も吉田秋生の漫画に雰囲気が似ている。ドライでポップなBL風味というか。『ファイナルファンタジーⅩⅤ』の主人公四人は全員男性なのだけれど、彼らの朗らかな言葉の掛け合いが軽妙で楽しい。グッドバッドボーイの能天気なつながりに、ドキドキする。
 大学に入ってから、人間関係が苦しくなった。私は、高校はハルちゃんと一緒の前橋女子高校だった。大学では、そこに新しく男性という変数が加わって、余計に人間関係が負担になった。その分、享楽的で朗らかなBLの世界に夢を見ていたいと感じてしまう。
「いい天気だなあ」
画面の中で、主人公のノクティスが言った。仲間たち四人とふざけ合いながら、荒野を駆け抜けていく。こういうの、いいなって思う。私はフィクションに描かれる、男性同士の親密な繋がりが好きだ。ゲームだと他には、極道の世界を描いた『龍が如く』シリーズで描かれるような。
「ハルちゃんって『龍が如く』はやるっけ」
ふと思いついて私は言った。
「全部やっているよ」
ハルちゃんが言った。
「さすがすぎ。どれが一番好き」
「0かな。やっぱり」
「私も。いいよね。0」
私は言った。『龍が如く0』はシリーズの前日譚にあたる作品で、主人公・桐生一馬と、その幼なじみ・錦山彰の過去が描かれる。第一作目では衝突した二人の友情が『龍が如く0』のストーリーの主軸になっていて、私はこの二人の関係性が好きだ。二人がお互いに向ける依存に近い感情に、何度も胸が熱くなった。シリーズ一作目では仲違いしてしまったから、親友だった頃の二人の絆には切ない気持ちにさせられた。
 それと私は『龍が如く0』の舞台になっているバブルという時代の、ノスタルジックな雰囲気が好きだ。私はこういう過去の空気を感じられる作品が好きで、古いポップミュージックでノスタルジーを誘う演出には特に弱い。村上春樹『ノルウェイの森』の冒頭部分もそうだけれど、特定の曲に紐づけられた印象的な記憶というのがある。私は小さい頃に自分が好きだったアニメソングを聴くのも好きで、そうすると当時の思い出が懐かしく蘇ってくる。
「俺は『また あした』がいいと思います。静かで切ない別れの曲です」
あの日、ハヤちゃんが言った言葉を思い出す。親友だった彼女を殺したのは、七年前のことだ。授業で読んだ『夏の葬列』に、耐えがたい気持ちにさせられたのを覚えている。『夏の葬列』は少年時代、機関銃掃射から身を守るために「ヒロ子さん」という年上の女の子を突き飛ばして死なせた男の物語だった。私が突き飛ばしたハヤちゃんも、そのすぐ後に死んだ。
「どうしたの」
ハルちゃんが言ったのが聞こえて、我に返る。
「え」
私は思わずそんな声を漏らした。
「顔が赤いよ。目も充血しているし」
ハルちゃんが言った。隣で心配そうにこちらの顔を覗き込んでいる、
「何でもないの。昔のことを思い出しちゃって」
私は誤魔化して笑って言った。


2019年4月2日(火)(夜)(後藤春香)

「本当にいいのですね」
足元でグッピーが言った。
「うん」
ベッドに腰掛けながら私は答えた。
「随分早い決断ですね。助かりますよ」
グッピーは嬉しそうに言った。
「こんな機会、二度とないからね」
私は言った。
「画面に入力をお願いします。表示に従って、署名と指紋の登録をお願いします」
グッピーはポシェットから端末を取り出して私に差し出した。私はそれを受け取り、タッチペンでサインをする。それから画面に触れて指紋を登録し、グッピーに返す。
「ありがとうございます」
タブレットをポシェットにしまいながらグッピーが言った。一日考えたけれど、契約の申し出には乗るべきだいう結論に至った。グッピーの言っていることは本当だろうという気がする。契約の内容が真実だとしたらあまりにも魅力的だし、嘘だとしてもそこまでのリスクはないと思う。
「春香さん。これからよろしくお願いします」
グッピーが言った。
「よろしく。グッピー」
私は言った。グッピーは昨日から私の家に泊まっている。昨日グッピーは、卵形で銀色のカプセルの中に入って寝ていた。今も部屋の隅にあのカプセルがある。それなりの大きさがあるので、狭い部屋を圧迫している。
「ねえ、グッピー」
私は言った。
「なんです」
グッピーは言った。
「悪いけど、あのカプセルをクローゼットに入れて、そこで寝てもらえない。あれがあると狭苦しいの」
「なるほど。すみませんね」
グッピーは申し訳なさそうに言った。
「ごめんね」
私は言った。グッピーはポシェットからリモコンを取り出して、ボタンを押した。するとカプセルが宙に浮かんだ。グッピーが前足でクローゼットの戸を開けると、そこへカプセルが宙を舞って飛んでいき、中へと納まった。
「これで大丈夫ですね」
グッピーが言った。
「ドラえもんみたいだね」
私は笑って言った。
「『ドラえもん』って」
「アニメの名前。知らないの」
「知りませんでした。こっちにいる間に観たいです」
「『ドラえもん』はね、未来から来た猫型ロボットなの。それで『のび太』っていう名前の男の子を助けてくれるの。『四次元ポケット』っていう道具を持っていてね、そこからいろいろなひみつ道具を出してくれる。グッピーのポシェットみたいでしょ」
私は言った。
「確かにそうですね。このポシェットも中は異次元空間に通じているんですよ」
グッピーはポシェットを撫でながら、誇らしそうに言った。
「ああ。ところで、契約していただいたので約束の百万円です」
グッピーはそう言うと、ポシェットから札束を取り出してポン、とその場に置いた。本当だったんだ。
「ありがとう、グッピー」
私は言った。
「礼には及びません。契約ですから」
「そっか」
私は言った。札束を目の前にして、私は『龍が如く0』を思い出す。さっき鹿目ちゃんとの間で話題に上ったのだった。あのゲームはインフレーションが進んだバブルの日本が舞台だった。それを反映して、敵を殴ると札束が撒かれるエフェクトがかかるのだが、それが本当に爽快だった。お金がすぐに手に入るので、自由に高級な飲食店へ行けるのも痛快だった。
「一緒にご飯でも食べに行かない。親睦を深めるためにも」
私は言った。
「いいですね」
グッピーは嬉しそうに言った。
「でも、その姿で外食に行けるの」
私は思い至って言った、
「ご心配なく」
そう言うと、たちまちグッピーの全身は青白い光に包まれた。眩しくて思わず目を瞑る。
「どうです。ハンサムでしょう」
一瞬の後、光の中から現れたグッピーが得意そうに言った。グッピーは褐色で彫りの深い中東風の青年に変身していた。ゆったりしたローブを身に纏っている。
「うん。かっこいいよ」
私は驚きながら言った。
「ありがとうございます」
「出かけよ」
「行きましょう」
「私はなんでもいいけれど、何か食べたいものはある」
「焼肉を。この辺にはありますか」
グッピーは言った。
「渋谷にはたくさんあるよ。行ってみようか。『神戸焼肉神宮』とか、どうかな」
「行きましょう」
グッピーが嬉しそうに言った。そうして二人は食事へ出かけた。 


 2019年4月3日(水)(朝)(井上里香) 
 
 朝が来た。体が怠い。夕方から飲食店でのアルバイトがある。それまで何をして過ごそうか。勉強しようかな。でもあまりやる気になれない。
 枕元にあったスマートフォンを手にとって、アプリで時間割を出して眺める。結局、一昨日はハルちゃんと相談して、総合科目を五コマだけ入れた。私は経済学部に進みたいのだけれど、そのためには点数が七十点くらいは要る。いま私の平均点は七十九点だから、まず絶対に内定するのだろうけれどGPAを下げたくないし、点数に不安がある科目を履修するのはためらわれる。興味のある科目は、履修せずに潜ってもいいのだし。そう思って履修を組んだ私は、ハルちゃんとはジェンダー論と適応行動論と美術論を一緒に受けることにした。私は人見知りで寂しがりなので、ハルちゃんと授業を受けられるのは嬉しい。
 ところで、ハルちゃんはなんだか可愛い。見ていると小動物を眺めているみたいに心がキューっとなる。ハルちゃんと初めて会ったときを思い出す。大学に入学してすぐの、オリエンテーション合宿だった。ハルちゃんは人見知りなのか、女子グループの中にいたけれど、最初はほとんどしゃべらなかった。バスの中でもゲームを一人で遊んでいた。目がクリクリしていて、不思議な雰囲気が可愛かった。
 どういうきっかけで話したのかは忘れたけれど、話しかけてみると意外と喋りやすくて、ニコニコして話してくれた。
「里香ちゃんって、ゲームはやるの」
ハルちゃんは私にそう言った。
「小さい頃だけかな。友達にハードごと借りて。小学生の頃だけどね」
私は言った。
「なんのソフト」
「ニンテンドーDSの『神宮寺三郎』っていう探偵物のやつ」
「渋いね」
ハルちゃんは笑って言った。
「うん」
私も笑って言った。
「いくつかあるけれど、どれだろう。『いにしえの記憶』かな」
ハルちゃんが言った。
「多分、それ」
「なるほど。『神宮寺三郎』シリーズはいいよね。『ドラえもん』みたいに、お約束の安定感というか、アットホームな感じがある」
「なんかわかるかも」
私は笑って言った。ハルちゃんは独特の言語センスがあって、一緒にいて楽しい子だった。飄々とした独特の空気が可愛かった。オリ合宿の二日目には富士Qハイランドに行って、私は周りの女子に合わせて絶叫系の乗り物に乗ったのだけれど、本当は苦手で辛かった。けれどもハルちゃんは、澄ました顔でいた。あれからまた何度か、ハルちゃんや他のクラスの女子と遊びに行ったこともあったけれど、いつもハルちゃんはマイペースで何事にも動じない。だから一緒にいると癒されるし、落ち着く。
 なんとなく、ハルちゃんはドラえもんに雰囲気が似ていると思う。性格ではなくて、雰囲気が似ている。非日常的な存在なのに、あまりに自然な日常感を纏っているというか(伝われ)。ハルちゃんは、アニメのキャラクターで言ったらドラえもんの他にも『おねがいマイメロディ』のマイメロディとか『アニマル横丁』のウサギのキャラクターであるイヨに似ていると思う。毒のあるマスコットキャラクターというか。
「ハルちゃんって、宇宙人みたいだよね」
私はあるとき、ハルちゃんにそう言ったことがある。
「どうしてバレたの」
するとハルちゃんが驚いた顔をつくって言った。
「やっぱり宇宙人だったの」
私は笑って言った。
「そう。西の空に明けの明星が輝くとき、一つの光が宇宙へ飛んでいく。それが私なの」
ハルちゃんは真顔でそう言った。ハルちゃんはそんな風に時々真剣な表情で冗談を言って、こちらを笑わせてくれる。ちょっと毒のあるのが可愛い。
「『彼女は頭が悪いから』って読んだの」
一年生の夏、ハルちゃんが私にそう言ったのを覚えている。その頃、あの本が東大生の間で話題になっていた。あれは東大生の起こした性犯罪が題材になっていた。
「読んでいないよ。読んだの」
私はその時、ハルちゃんにそう返した。
「読んだよ」
ハルちゃんは言った。
「どうだったの」
「なんかね、面白かったんだけれど。週刊誌とワイドショーからしか取材してないやろ、みたいな感じ」
ハルちゃんはそう言った。「週刊誌とワイドショーからしか取材していない」というフレーズがツボにハマって、私は笑ってしまった。ハルちゃんは言い回しがいつも面白くて、それがとても好きだ。ハルちゃんは、あの時こう続けて言った。
「東大ってさ、女性にとって居心地が悪いところもあるじゃん。そういう部分をちゃんと描いて欲しい。ざらざらした性欲混じりの優しさをぶつけられるのが鬱陶しいとか。距離の取り方が気持ち悪いとか。『女子はリア充ばっかりで羨ましい』的なルサンチマンを遠回しにぶつけられるのがしんどいとか」
ハルちゃん、飄々としていて時々苛烈な毒を吐くのが面白い。小学時代の友達だった高瀬恋ちゃんに雰囲気というか、ノリが似ている。私に『神宮寺三郎』をハードごと貸してくれたのが恋ちゃんだ。彼女も面白い子だった。
「イリカ様のキャラ、マジでウケる」
そんな風に恋ちゃんから揶揄われたのを覚えている。私は小学時代のあだ名が「イリカ様」だった。「井上里香」を略して「イリカ」と呼ばれていた。その当時、映画の『クローズド・ノート』が公開されるとか、女王様キャラの「エリカ様」こと沢尻エリカが人気で、私も気の強い子だったから「エリカ様」になぞらえて「イリカ様」と呼ばれていた。その頃の私は、家庭環境のせいで刺々していた。「私って、男だから」が口癖で、異性に対しての当たりが強かった。
「この間、林真理子の『葡萄が目にしみる』っていう小説を読んでいたらね、イリカ様を思い出しちゃった。主人公の性格がイリカ様と似ていたんだよね。イリカ様と違ってブス設定だったけれど」
恋ちゃんからそんな風に言われたことがあったのを覚えている。恋ちゃんは独特な雰囲気がある女の子だった。。不思議な子だったけれど、精神年齢は高くて大人だった。トークが上手くて、男女から人気があった。私も彼女のことが好きだった。彼女からはよく揶揄われたけれど、全然嫌な気持ちはしなかった。
「『葡萄が目にしみる』の主人公はコンプレックスが強いんだよね。こんな自分のままじゃダメだっていう気持ちが強くて。イリカ様と重なっちゃった。イリカ様ってなんだかんだ言っても良い子だから、ママに心配させないように無理しているじゃん」
恋ちゃんはそんな風に笑って言っていた。恋ちゃんは私のことを頻繁にイジったけれど、加減を弁えていてフォローも上手かったし、私が褒めて欲しいところは認めてくれたので、彼女から揶揄われるのも楽しかった。
 そういえば当時の担任だった倉原先生もよく私をイジったけれど、倉原のことは嫌いだった。周りからはまあ人気のある先生だったけれど、私は生理的に受け付けなかった。その頃から私は、男性への警戒心が強かった。倉原は距離の詰め方とかキャラの作り方とか、いろいろが無理だった。
「イリカ様、結婚したら旦那さんをめっちゃ尻に敷きそうだよね。俺は現在進行形でそういう扱いをされているから分かるけれど。同じ匂いがするもん。俺の奥さんと」
倉原が言ったのを覚えている。彼は若い男性の先生で、美大の出身らしかった。派手なピンク色のファッションを好み、髪はパーマをかけていて、顎髭を蓄えていた。
「こんなファッションは教師に相応しくないって、保護者から苦情を頂いたこともあります。でも、俺は大人だからいいんです。大人は自分で考えて行動し、その責任を負うことができるので。俺は自分らしく生きたいと願っているし、そうあるための努力を重ねています。そしてそのための代償も自分で引き受けています。
 でも、皆さんはまだ子供なんです。今の君たちには、自分で考えて行動する能力も、責任を負う力もありません。だから、大人の言うことに従ってください、今は。理不尽な要求に見えたとしても、それはみんなを守るためなので。
 まだ皆さんは小学生なのでドレスコードは厳格にないですけれど、中学に入ったら制服がありますし、身嗜みについてうるさく言われます。俺が中学の先生だった時には、ブラジャーの色で指導したこともあります」
クラスのホームルームで謎理論を熱弁していた倉原を覚えている。下着に干渉することで守られる子供の権利とは何なのだろう。
「てかさ。倉原ってキモくね」
恋ちゃんの家に遊びに行ったとき、笑って彼女がそう言ったのを覚えている。
「だよね」
私も言った。
「倉原って、自分をいい先生だと思っているよね。そこがキツい。自分を『GTO』の鬼塚的な存在だと認識していそう」
恋ちゃんは言った。
「うん」
私は笑って言った。
「ブラジャーの色を注意するとか、懲役食らうべき。倉原って一応美大だし、デッサンは上手いから、生徒の裸とかを想像で描いてそう。奥さんが抱かせてくれないから、それが性の捌け口になっているとか。倉原からイリカ様って気に入られているっぽいし、被害に遭っているかもよ」
恋ちゃんが笑いながら言って、私も恋ちゃんのキツい下ネタがおかしくて笑った。恋ちゃんは悪友のような存在で、彼女といると楽しかった。でも中学校は別だったので、それきり彼女とは疎遠になってしまった。
 雰囲気が似ているから、ハルちゃんといると恋ちゃんの思い出が蘇ってきて、懐かしい気持ちがする。早くハルちゃんと、また会いたいな。


 2019年4月3日(水)(昼)(坂本樹)

 パソコンに向かいながら自慰を終えた。画面には里香の画像が映っている。サークルの食事会のときの写真だ。写真の中の里香は笑顔でチーズを頬張っていて、頬に少しマヨネーズがついている。
 あれから里香とは一度も会話をしていない。サークルで遠目に姿を見たことはある。怖くて、もう彼女に喋りかけることができない。いっそ里香を殺し、彼女の家に火をつけたいとすら思う。あるいは彼女への憎しみをインターネットにぶちまけ、その後自殺してやろうかとも思う。とにかく彼女を傷つたい。今もそんな気持ちから、彼女の写真を見て自慰をしていた。写真の中の彼女はこちらを見つめている。彼女に見られていると思うと興奮するし、彼女を汚したと思うと清々しい気もするが、少し罪悪感もある。それと、耐えがたい孤独な感情も。
 大学に入ったら、出会いがあるのだと期待していた。母からもずっと、東大に入ったら恋愛なんていくらでもできるから今だけは頑張れと言われて、嫌いな勉強も自分を騙し騙し頑張ってきた。開成に落ちて駒場東邦に入学し、そのまま高等部へ行った。そして東京大学文科二類を受けて一度は失敗し、一浪して文科二類に合格した。
 憧れのキャンパスライフだったが、少しも楽しくなかった。勉強の内容にもまるで興味が持てず、恋愛の相手も見つからなかった。東大は女子が少なすぎるから、異性と交際するにはインカレサークルに入るしかないが、インカレの旅行サークルでも、僕は相手が全く見つからなかった。
 以前『彼女は頭が悪いから』という姫野カオルコの作品が東大生の間でも話題になっていた。東大生による実在のレイプ事件をモデルにした作品だ。東大という肩書きがあれば異性の相手はいくらでも見つかる、みたいな適当なことが書いてあった。そんなのはデタラメで、半数ぐらいの東大男子は非モテだ。
 もっとも、姫野『彼女は頭が悪いから』にはげんなりしたが、彼女の『謎の毒親』は名作だった。毒親の捉え所のない気味の悪さが、巧みに描かれていた。
「樹、食事ができたよ」
下の階から母の呼ぶ声がした。昼食の準備ができたようだ。僕は今、世田谷で両親と一緒に暮らしている。
 ノートパソコンを閉じて部屋を出る。食事をするために下の階へ降りていく。下まで降りると、階段の裏にある入り口から台所に入る。
「ご飯できたよ。ラーメン」
キッチンに入ると、流しの前で母が言った。
「ありがとう。母さん」
僕は言って、テーブルにつく。醤油ラーメンとサラダと豆乳が並んでいる。
「勉強をしていたの」
母が言った。
「うん」
僕は言った。
「頑張っているね。必死に勉強しないと、すぐに置いていかれるからね」
「大丈夫だよ」
「一年遅れて入学したわけだからね。周り以上に頑張らないと。不景気だし。頑張れば必ず幸せになれるからね」
「うん」
食べながら僕は言った。流しの前に立つ母の背中を、ぼんやり見つめる。
 母は器量だけはいいが、要領が悪く中卒だった。そのために水商売で働くとか苦労したようで、僕には昔から勉強を強いる。父は東大卒で大手商社に勤めている。温厚で頭はいいが、容貌には優れない。肌が汚くて目は細く、腫れぼったい唇をしていて、僕にもそれが受け継がれている。父と母がどうやって知り合ったのかは知らないが、学歴コンプレックスを拗らした中卒と、童貞を拗らせた高学歴とで、お互い惹かれ合う部分があったのだと思う。
 小学生の頃は受験勉強が嫌だったので、それが原因で母に殴られては泣いた。父は母のそうした行動を苦笑いして稀に諌めたが、気が弱いので強く母を咎めることはしなかった。父は諍いが嫌いなようで、父から怒鳴られたことは一度もない。僕の面倒を見るのも叱るのも、ずっと母の仕事だった。
「学校はどう、楽しい」
母が言った。
「まあまあ」
僕は言った。
「私も大学に行きたかったな。自分の世界を広げて、やりたいことを探して。それで好きな仕事に就きたかった。でも私は、努力する機会も与えてもらえなかったからな。地頭が悪いから、今はもう何を学ぶのも手遅れ。樹はよかったね。羨ましいな」
「うん」
僕は言った。
「樹のために、こっちも命懸けで投資しているからね。樹も命懸けで期待に応えてね」
「うん」
僕は言った。昔から、母は僕に過度に干渉する。従わないと、暴力を食らわされてきた。
「まあ、がんばってね」
「うん」
僕は言う。最近は母に怒られることが減った。それは母の性格が丸くなったというより、母が世間知らずなせいで、受験を終えた僕に巧く説教をできなくなったからだと思う。だから最近はルサンチマンを嫌みっぽくぶつけられる。
「樹が本当に羨ましいよ。身近に命懸けで支えてくれる人がいて。恵まれている樹が頑張らないのは、持たざる者への裏切りだよ」
最近よく、母からそんな風に言われる。「命懸け」というのは母の口癖で、気が昂るとよくこの言葉を使う。興奮した母に対して迂闊なことを言うと、母は発狂して暴力を振るってくる。だから僕は母と会話するときに「はい」か「うん」しか言わないように努めている。それがお互いのためだ。
 僕は母とのそうした関係のせいで、人とコミュニケーションをとるのが苦手になった。何か言ってもそれを咎められるような気持ちがするので、他人と話すのが怖い。適当に相槌を打つことしかできない。それに母は、昔から僕の交友関係を監視しようとする。
「友達って、本当に人生を左右するからね。一番の財産。だから正しい友達を選ばないといけないの。私なんか、中学時代に悪い仲間と連んでいたから、万引きとか援助交際をするハメになった。馬鹿な仲間を作ると人生を台無しにするから」
母は幼い頃から僕にそう言い聞かせ、僕の知人の為人を報告させた。相手の性格や家庭環境、成績などが母の御眼鏡にかなわないと、付き合いを断つように命じられた。特に女性との関係は厳しく取り締まって、僕が恋愛することを阻止しようとした。
「恋愛なんて毒だからね。学歴と収入さえあれば、結婚相手なんていくらでも見つかるから。女の子とはあんまり関わったらダメだよ。男は金さえあればモテるんだから」
「女なんてろくなものじゃないからね。幻想を抱いちゃだめ。中学の時にも、女子グループで私を中傷する内容の手紙が交わされていたな。職場でもそれに近いことがあったし。私、短気だから嫌われやすいんだよね。
 女なんて醜悪で、本当につまらないんだよ。陰で交わす会話なんて、誰と寝たかとか下品なことばかり。林真理子の小説を読むと分かるよ。『葡萄が目にしみる』とかね、あんな感じ。考えているのは下半身のことばっかり」
母は僕にそう言い聞かせてきた。僕には少しミソジナスな部分があると自覚しているが、それは母からそう育てられたせいでもある。
 林真理子も母の影響で中学頃から読んでいて、かなり好きだ。『葡萄が目にしみる』も面白かった。この作品は葡萄作りが盛んな田舎が舞台で、主人公・乃里子はコンプレックスの強いブスという設定だった。高校時代、憧れの異性に淡い恋心を抱きながらも、垢抜けていないために相手にされないところなど、読んでいて切なかった。美人である僕の母も共感しながら読んでいたというのは、少し面白い。乃里子のコンプレックスが強いところや女友達から裏切られる展開に、母は共感するところがあったのだろう。
 僕は母の教育や『葡萄が目にしみる』から、コンプレックスの強い女性は性欲が強く、落としやすいのだということを示唆された。里香に引き付けられたのも、そうした認識が背景にあったからだ。
じんぐうじ「性に溺れて全てを忘れたい」
彼女が以前Twitterでそう言っていたのを覚えている。僕は里香との忘我的なセックスに憧れていた。全てを預けあって、身も心も一つになりたかった。彼女のことが、今も恋い焦がれて仕方がない。
 

 2019年4月3日(水)(夕方)(伊藤真斗)

 下北沢にある下宿先のアパートで自習をしている。勉強に区切りがついたので、少し休憩する。ポケットにあるスマートフォンを開く。明梨からLINEのメッセージが来ていたが、まだ未読のままだ。昨日、彼女と喧嘩をした。明梨は情緒が不安定なので、時々こういうことが起こる。
 明梨は母親を小学生の時になくしたそうだ。彼女を産んだ後で、以前から患っていた双極性障害が拗れて突発的に自殺したのだという。文学に惹かれるようになったのも、そうした背景があるらしい。彼女は村上春樹、中上健次、三島由紀夫、太宰治、サリンジャー、ヴァージニア・ウルフが好きだそうで、確かにこれらの作家の作品にも自殺のモチーフが現れる。中でも特に、春樹のことは好んでいるようだ。
 明梨は精神的に脆いので、僕へ過剰に依存してくる。常に些細なことで悩んでいて、傍から見ていてイライラする。精神的に疲弊するとすぐにこちらへ連絡してきて、少しでも迂闊な返事をすると癇癪を起こす。
LINEのアプリを開いて、明梨からのメッセージを確認する。
藤井明梨「昨日はカッとなってごめんなさい。いつも嫌な気分にさせてごめんね」
そんなメッセージが来ていた。
伊藤真斗「大丈夫だよ。僕も悪かった」
そうメッセージを返した。昨日の喧嘩を思い出す。彼女は女性だけの世界を理想化していて、それを少しでも否定されると傷つくらしい。前にも似たようなことがあった。
「『彼女は頭が悪いから』って読んだの」
あの日、明梨がそう言ったのを思い出す。
「一応ね」
僕はそう返した。
「よかったよね」
「ちょっと不満もあったかな」
「どういうこと」
彼女が訝しそうに言った。
「題材的には面白いのだけれど、取材不足かもって。林真理子の『下流の宴』の方が、高学歴の世界の嫌味な部分を巧く捉えていて、面白かったなって」
僕は言った。
「ふーん。林真理子なのかあ。そう」
彼女は不服そうに言った。
「林は『葡萄が目にしみる』も女同士の世界の陰湿なところを捉えていて、よかったよ」
「ほお。そうですか」
明梨は言って、その日はずっと不機嫌な顔でいた。
 昨日もそれと似た感じだった。昨日の夜、僕の家で一緒に映画を観ていた。フェミニズム映画『めぐりあう時間たち』だった。オムニバスで異なる三つの時代を生きる女性たちの生活が描かれる作品だ。一九二三年の英国でのヴァージニア・ウルフ、一九五一年のロサンゼルスでのローラ、二〇〇一年のマンハッタンでのローラの一日が交錯する構成になっている。未だに男性優位の発想の根強い一九二三年、中産階級の女性に良妻賢母の役割が押し付けられる一九五一年、形式的には男女平等が達成されたように見える二〇〇一年。それぞれの時代における、女性たち各々の苦悩が表現されていた。
「よかったあ。面白かったなあ」
映画を観終えると、明梨は言った。
「そうだね」
僕は言った。
「女性の味方って女性だよね。男性は女性の痛みを想像することはできるけれど、体験から知ることはできない。女性の辛さって、世代を超えて普遍性があるの。だから時代を超えて、相手の痛みに共感できるんだよね」
明梨は言った。
「そうかもね」
「映画の『櫻の園』も、すごく好きなの。女性だけのコミュニティって、本当に素敵。お互いの痛みを知っているから、そこには癒しが生まれるの」
明梨は言った。
「確かにあれも、まあまあ面白かったかも」
僕は言った。
「『まあまあ』なの」
明梨は不服そうに言った。
「『他者』としての異性の眼差しがないから。春樹とも似ているけれど」
「ふーん」
呆れたように明梨は言った。昨日はその後機嫌が悪くなって、しばらくして不意に泣き出したのだった。
 そもそも僕は明梨と違って、女性だけの環境があまり好きではない。それは自分の家族の事情に由来している。
「本当に、真斗の母親は酷かったよ。母親失格だよね」
父方の祖母の口癖を思い出す。僕は小さい頃から、父の親戚と母との啀み合いを見てきた。僕は当時、母のことも好きではなかったけれど、あの人を追い詰める父方の祖母と伯母にも辟易させられていた。
「こんな母親でごめんね」
そんな風に言って同情を買おうとする母にも、母にそう言わせる女同士の世界にも、僕は疲弊させられてきた。
「いつも嫌な思いをさせてごめんね」
それが口癖の明梨といるのも、とにかく疲れる。こちらには落ち度はないのに、理不尽に怒りをぶつけられる。怒りのツボは見えて来たが、それでも諍いが絶えない。
 ポケットのスマートフォンが振動したので手に取って見る。また彼女からLINEが来た。
藤井明梨「ありがとう。日曜に、早く会いたいな」
とある。日曜日には、一緒に映画を観に行く。その後は多分、本屋へ行く。二人ともアウトドアの趣味はないから、いつもそんな感じだ。
伊藤真斗「そうだね。また会いたいな」
僕はそう返信をした。明梨のことを鬱陶しく思う一方で、どこか彼女に惹かれもする。そういえば明梨は綿矢りさも好きだが『蹴りたい背中』の主人公・ハツが同級生のニナガワに寄せる感情と、僕が明梨に向ける感情とは似ているのかもしれない。
 『蹴りたい背中』はサリンジャーの現代版のような内容で、女子高生のハツを語り手とするティーンエイジスカースだった。林真理子『葡萄が目にしみる』にも似て、女性の世界の陰湿な部分も捉えていて興味深かった。主人公のハツは自意識過剰な性格で、学校のコミュニティに溶け込めない自分を自嘲しながらも、どこかそれに酔っている。そんなハツは、愚鈍で垢抜けないニナガワの存在に、心を掻き乱される。彼を見ていると、自尊心と加虐心とを擽られる思いがする。
 明梨への僕の眼差しも、それと似ている。僕が捨てざるを得なかった「弱さ」や「繊細さ」を後生大事にし、時にはそれを武器にする明梨を見ていると、名状し難い興奮が沸き起こる。もっと彼女に傷ついて欲しいし、そんな明梨ともっと一緒にいたい。背中を蹴られた彼女の、反応を見るのが楽しいから。

 
 2019年4月3日(水)(夜)(竹田音也)

「作品は、五月祭には間に合いそうなの」
テーブルを挟んだ正面の席で、藤井明梨さんが言った。
「わからない」
俺は言った。
「私も」
藤井さんが笑って言った。渋谷の蒙古タンメン中本で、藤井さんと食事をしている。大学に寄ったついでに部室へ忘れ物を取りに来たら、彼女がいた。お互い暇だったので、藤井さんに誘われて一緒に食事をする運びとなった。藤井さんは中本には来たことがなかったので、誰かと一度来てみたかったらしい。
「どんなのだっけ」
藤井さんが言った。
「中上健次みたいなやつを」
俺は言った。
「私も中上は好き」
藤井さんが言った。
「意外。中上って、男向けな感じがする」
俺は言った。
「そうかもね。でも好き。『岬』とか」
「『岬』はいいね」
「私、知り合いが自殺したから、近いものを感じるんだよね。彼はお兄さんが自殺したんでしょう」
「なるほど」
俺は言った。藤井さん、苦労したんだな。俺は辛い体験をせずに育ってしまったから、他人の痛みに鈍感だ。気をつけないといけない。
「だから春樹も好きなんだ。私」
藤井さんが言った。
「そうなんだね」
俺は言った。
「『ノルウェイの森』は、読んだことはあるの」
藤井さんがふと思いついたように言った。
「一応」
「ヒロインの直子がさ。寝室で横になっている主人公の側に来て、服をはだける場面があるじゃん。それを読んだとき『ああ、私もこういうタイプだ』って思って」
藤井さんが笑って言った。
「どういうこと」
俺は言った。
「ボーダー気味なんだよね。いつも虚無で。不安だから、人間関係の強度を試したくなる、みたいな」
藤井さんは慎重に言葉を選ぶようにして言った。
「へえ」
俺は言った。意味が分からない。
「春樹、俺は好きじゃないや」
少しの沈黙の後、俺は正直に言った。
「なんでよ」
藤井さんは笑って言った。
「内向的で破綻がないから」
「そっか。最近、似たような理屈で真斗くんにいじめられた気がする。みんな、意地悪だよね。泣いちゃう」
藤井さんが笑って、目を擦りながら言った。彼女は頼んだ北極ラーメンが辛いようで、目が紅く潤んでいる。厚い唇が、赤く腫れている。
「辛い。涙が出ちゃう。食べ切れないから、食べてくれない」
藤井さんが言った。俺はもう頼んだものを食べ終えてしまったが、彼女の器にはまだかなり麺が残っている。
「いや。いい」
俺は言った。恥ずかしい。
「ところで、どうしよう。書き上がらなかったら、真斗くんに怒られちゃう。また泣かされる」
藤井さんが言った。
「伊藤に」
「そう。怖いから。モラハラ気質」
藤井さんが笑って言った。
「そうかもね。ハンサムだけど、強面だし」
俺は言った。いま伊藤と藤井さんは付き合っているのだった。伊藤は長身で西洋人のように整った顔立ちをしているから、意地悪だけれど女性にはモテそうだ。
「俺、伊藤に嫌われているよ」
俺は言った。
「なんで」
「Twitterでブロックされているから」
「へえ。竹田くんって、私と似ているからかもね」
「どこが」
「鈍臭くて、我が強いところ」
藤井さんが笑って言った。そうだろうか。
「なんか『蹴りたい背中』みたいなね。見ていて、イライラさせられるのだと思う」
藤井さんは言った。
「うーん。分からない」
俺は言った。
「綿矢りさって好きなんだよね。私も拗らせているから、いろいろ共感しちゃう」
藤井さんが笑って言った。
「そうなんだ」
「綿矢りさに『亜美ちゃんはかわいい』っていう作品があってね。周りから可愛い、って言われすぎて育ったせいで、モラハラ気質な人に惹かれる女の子の話。それでダメンズと結婚しちゃうの」
「へえ」
「私ね、ブスだから可愛いって言われたことはないけれど、親戚から心配されて育ったから、そういう心理わかるんだ。自分を傷つける人に惹かれちゃうの」
「そうなんだね」
俺は言った。別にブスではないと思う。円い目も愛くるしいし、ボブカットも似合っている。
「『彼女は頭が悪いから』って小説があったじゃん。名作。高学歴の人って、心が麻痺しているよね。平気で他人を傷つける」
藤井さんは言った。
「俺もそうかも。マイペースって言われるから」
俺は言った。自分のことを言われているのかと思った。
「えー、違うよ。竹田くんは良い子だもん。小動物みたいで可愛い。だから大好き」
藤井さんが悪戯っぽく笑って言った。


 2019年4月4日(木)(朝)(来栖梓)

 床の上で目が覚めた。体が痛い。昨日は映画サークルの撮影で遅くなって終電を逃し、新代田にある荻野隼平くんのアパートに泊まったのだった。荻野くんは
「ベッドで寝ていいよ」
と言ってくれたけれど、厚かましいので断って、床で寝た。床に布団を敷いてくれたけれど、やっぱり硬くて寝苦しかった。
 何時だろう。スマートフォンを開いて時間を確認すると、七時半。ベッドの上で荻野くんはまだ寝ている。荻野くんは理科二類の二年生だ。僕も所属している映画サークルでは、俳優としてあちこちの撮影班に起用されている。背が高く輪郭が整っていて、韓流アイドルのような雰囲気がある。黒いマッシュカットも似合っている。
 ピピピピと音が鳴った。荻野くんのスマートフォンの目覚まし時計のようだ。
「んんん」
唸りながら荻野くんがアラームを止めて、ベッドの上で体を起こした。荻野くんは大きく伸びをして、目を擦る。
「おはよう」
笑って荻野くんが言った。
「うん」
僕は言った。
「なんか食べる。生ラーメンがあるけれど作ろうか。そんなのでいいなら」
荻野くんが言った。
「じゃあ、お願い」
「何がいい」
「醤油で」
「うい」
そう言うと、荻野くんはベッドの上に立ちあがって、もう一度大きく伸びをした。そしてストンとベッドから降り、悠々とキッチンへと歩いていった。荻野くんの借りているアパートは広くて、二人暮らしにちょうどいいくらいだ。部屋の中は小綺麗に整えられていて、中央に四角いテーブルがある。
 テーブルを挟んだ向こう側に本棚があって、そこに中上健次『岬』の文庫本があるのが目に入る。あれは高校時代の映画研究会の先輩だった竹田音也くんが好きだった作品で、彼があれを映画化したのを思い出す。僕もその撮影に協力したのだけれど、思い出すと笑ってしまうエピソードがある。『岬』には主人公・竹原秋幸の兄が自殺する場面があったのだけれど、それを部室で撮影したときのことだ。
「吊るせるものが、これくらいしかなかった」
竹田くんは首吊り死体として使えそうな人形を見つけられなくて、布で巨大なてるてる坊主を作ってそれを天井から吊すことにした。
「なるべく生々しい感じにしたいんだよね」
竹田くんはそう言って、床にカップラーメンを溢した。食べたものを吐き出したということにしたかったらしい。
「うーん。なんか違うなあ」
けれども竹田くんは苦戦を強いられた。てるてる坊主を吊るして床にラーメンを撒いたところで、自殺の場面には全然見えなかった。
「邪教の儀式みたいですね」
思わず僕は言った。まるでラーメンをてるてる坊主の神様に捧げて、晴れ乞いの儀式をしているかのようで、シュールな笑いを醸していた。
「確かになあ。うーん。難しいねえ」
竹田くんは困ったように笑って言った。彼はマイペースで天然ボケなところがあって、一緒にいると和めて楽しかった。
「どうしよう。撒いたラーメンが勿体ない。庭に撒いちゃおうかなあ。蟻が食べてくれそう」
竹田くんは困ったような顔でそう言っていた。
 手持ち無沙汰なのでスマートフォンを操作していると、少しして荻野くんがラーメンの入った器を二人分持ってきてくれた。
「ごめんね。こんなので」
荻野くんが、テーブルに皿と箸を並べながら言った。
「全然。ありがとう」
僕は言った。
「機材は部室に戻しとくわ」 
荻野くんが言った。
「本当。ごめんね」
「いいよ」
荻野くんは笑って言って、テーブルを挟んで僕の正面に座った。ラーメンを食べながら、辺りを見回す。大きな液晶テレビがある。その脇にある棚には、DVDやゲームソフトが置かれている。
「ゲームやるんだね」
僕は言った。
「時々だけどね。忙しいから」
荻野くんは言った。 
「そうだよね」
「彼女がいたとき、よく一緒にやったけれど、別れちゃったな」
荻野くんは笑って言った。
「そっか」
僕は言った。
「高校から付き合っていたんだけどね。誤解されてさ」
「誤解」
「俺が浮気したと勘違いしたらしい。それで、別れちゃった」
荻野くんが言った。
「分かってもらえなかったの」
「うん。だんだん説得するのに疲れちゃった。最後には、俺の悪口を触れ回るようになって。ストーカーみたいに」
「そうなんだね」
僕は言った。
「ところで、あずにゃんも藤井さんと付き合っていなかったっけ、前に。訊いてもいい」
荻野君がニコッと笑って言った。
「ああ。うん」
僕は言った。不意に訊かれてたじろぐ。
「あの人、ちょっとサークラ気質よな」
荻野くんが言った。
「どうだろう」
僕は言った。
「いつも酔っ払っているみたいなテンションだよね」
「そうかもね」
僕は笑って言った。
「それといろいろ辛そうだよね」
萩野くんは言った。
「うん」
僕は言った。
「『ノルウェイの森』で自殺した直子みたい。見ていて心配」
荻野くんが言った。
「たくさん抱えているんだよね」
僕は言った。
「あずにゃんは優しいからな。振り回されて疲れちゃいそう。俺もそうだったな」
荻野くんが笑って言った。確かに僕も彼女には、振り回されてばかりだった。
「あずにゃんは『ノルウェイの森』って、読んだことはあるの」
藤井さんと喫茶店で過ごしていたときに、そんな風に言われたのを覚えている。
「読んだけど、あまり覚えていないな」
僕はそのとき言った。
「あずにゃんも、ワタナベくんみたいだよね」
藤井さんは言った。
「どういうこと」
「軸がしっかりしている。タフで長生きしそう」
藤井さんはウェーブのかかった髪を撫でながら、笑って言った。
「そうなのかな」
「うん。私なんて、今にも井戸へ落っこちそうだもん」
藤井さんはそう言ったのだった。彼女はいつも芝居がかったような振る舞いをした。僕にそんな話をしたのは『ノルウェイの森』の「直子」と自分を重ねて、自殺を仄めかしていたのだと思う。どう応じたらいいのか、分からなかった。
「あずにゃんって、みんなから可愛いって言われているよね。良い子だから、人気者」
そんな風に藤井さんから言われたこともあった。
「そうかな」
僕は言った。
「そうだよ。綿矢りさに『亜美ちゃんはかわいい』っていう作品があってね。周りから可愛いって言われすぎたせいで、自分を傷つけるダメンズに惹かれちゃう亜美ちゃんの話」
「そうなんだね」
「私ね、亜美ちゃんの気持ちが分かるんだ。あずにゃんって、八方美人だからさ。優しくされても不安。肝心な時には公平ぶって、私に冷淡になったりもするのかなあ、みたいな」
藤井さんはそんな風に笑って言っていた。彼女から向けられるそうした言葉には、しばしば戸惑わされた。冗談めかした投げかけに迂闊な返答をしてしまうと、彼女は泣き出したり、数日無視されたりすることもあった。
「あずにゃんはいい子だから、依存されて困っちゃいそう。俺も元カノからそう扱われて、疲れちゃったもん」
荻野くんがテーブルの向こうで言って、我に返る。
「どうなんだろうね」
僕は笑って言った。
「依存されているってことは、相手から雑に扱われているってことなんだよね。応えようとしても、潰れちゃうから。一種の暴力だよな。申し訳ないけれど」
荻野くんは言った。荻野くんの言う通りなのかもしれない。
「結局、お互い傷ついちゃうからね。寄り添うのも、難しい」
僕は言った。
「暗い話になっちゃった。ごめんね。
まあともかく、一緒に幸せになろうな、あずにゃん」
荻野くんが悪戯っぽく笑って言った。

 
 2019年4月4日(木)(昼)(鹿目真奈美)

 アパートのベッドに横になりながら、ハヤちゃんのことを思い出していた。あの日から、もう七年が経つ。
 彼女と初めて会ったのは、小学校の入学式の日だった。新しい環境に不安を覚えていた私に、初めてできた友達がハヤちゃんだった。
「マナちゃんって、なにか夢はあるの。将来の夢」
あの日屈託なく笑って、彼女が私にそう言ったのを覚えている。
「ないよ。まだ」
私は彼女にそう返した。
「俺はね、声優になりたいの」
彼女は笑って私にそう言った。「ハヤちゃん」は早瀬桐花という名前で、ハスキーな声が印象的な女の子だった。彼女の一人称は小さい頃からずっと「俺」で、自分のことは「ハヤちゃん」か「ハヤト」と呼んで欲しいと周りに言っていた。「ハヤト」というのは「ハヤセトウカ」の略で、男らしいそのあだ名を彼女は気に入っていた。彼女とは一年生の頃は親友だったのに、その後は一度も同じクラスにならなかったせいで、いつの間にか疎遠になってしまった。けれど地元の公立中学校でまた、一緒のクラスになった。その頃もまだ、ハヤちゃんはあの夢を捨てずにいた。
「絶対声優になりたいの。悠木碧さんみたいな」
中学一年のとき、同じクラスになった彼女がそう言ったのを覚えている。ハヤちゃんは昔からマイペースで協調性のないところがあって、小学校ではそれでもどうということはなかったけれど、中学では周囲に避けられるようになった。それとハヤちゃんは呼吸器に疾患を抱えていて学校を休むことが多かったので、クラスでとても目立った。そんなハヤちゃんは、クラスの中でずっと一人だった。
「マナちゃんと一緒になれてよかった。また親友になりたいな」
彼女はそう言って、私に近づこうとしてきた。けれど私は、それが鬱陶しかった。私の通っていた中学校は、本当に息苦しい場所だった。少しでも目立つ生徒は、いつでも無視や陰口の標的になった。私は自分がいじめの標的になるのが怖かった。だから、クラスで避けられていたハヤちゃんと関わることが嫌だった。
 あの頃、綿矢りさの『蹴りたい背中』を読んで印象に残ったのを覚えている。あの作品の舞台になっていた高校も、私のいた中学校と似た息苦しさがあった。社交が洗練されていない生徒は容赦無くコミュニティから疎外され、惨めな思いをさせられた。『蹴りたい背中』のハツがニナガワに感じていたようなもどかしさを、私もハヤちゃんに対して抱えていた。ハヤちゃんの背中を、私は蹴り飛ばしたかった。
「先生の背中って、俺のお父さんと同じ匂いがする」
担任だった男の先生に抱きつきながら、彼女がそう言ったことがあった。ハヤちゃんは先生に対してもタメ口で話した。そんなハヤちゃんの天真爛漫な振る舞いを、周りの生徒は白い目で見ていた。私もその一人だった。ハヤちゃんの背中に、いつも私は切ない苛立ちを覚えていた。
「俺は『また あした』がいいと思います。静かで切ない別れの曲です」
「卒業生を送る会」で合唱する曲をクラス会議で決めていたとき、そんな風に手をあげて言ったはやちゃんを覚えている。『また あした』は『魔法少女まどか☆マギカ』のエンディングテーマだ。Hanawayaによる作詞作曲で、主人公・鹿目まどかのキャラクターボイスを務める悠木碧が歌っている。
「どんな曲か、聴かせてあげます」
 会議中に立ち上がってハヤちゃんは、あの曲を熱唱してみせた。そのときの教室の、ひりひりするような白けた空気が忘れられない。ハヤちゃんはオタクで、深夜アニメやボーカロイドが大好きだったから、その趣味も馬鹿にされていた。クラスで許されたのはメジャーなアニメの話くらいで、マニアックなアニメを話題にすると角が立った。私はオタクだったのだけれど、目立つのが嫌でその趣味を隠していた。ハヤちゃんもオタクだったから、私に対して必死にアニメの話題を振ってきた。
「私、鹿目真奈美。魔法少女になる」
ハヤちゃんがあのアニメのセリフを真似て言ったのを思い出す。私の名前が「鹿目まどか」に似ているから、ハヤちゃんはそれを面白がっていた。
「真奈美は俺の嫁になるのだあ」
ハヤちゃんが、あの作品の美樹さやかを真似て言って、私に抱きつこうとしたことがあったのを覚えている。
「やめて」
不意にハヤちゃんに抱きつかれそうになって、私は思わず彼女を突き飛ばした。
「痛い」
ハヤちゃんはそのまま倒れて、廊下の窓の縁に頭をぶつけて蹲った。
「鬱陶しいの。もう別に仲良くないじゃん」
どうしてあんなひどいことができたのか、どうしてあんなにひどいことを言えたのか、今でもわからない。私は自分を守るのに必死で、愚図なハヤちゃんの背中に身勝手な苛立ちをずっと抱えていた。
 ハヤちゃんは、あれから少しして死んだ。飛び降り自殺だった。団地の屋上から飛び降りて、ハヤちゃんは死んだ。最後に彼女の背中を蹴ったのが、私だった。
「どうしたの。顔が赤いよ。目も充血しているし」
この間、ハルちゃんが声をかけてくれたのを思い出す。前から思っていたのだけれど、ハルちゃんは、ハヤちゃんに似ている。雰囲気とか声が。
「俺の声って、悠木碧さんに似ていると思うんだよね」
ハヤちゃんが誇らしそうに言っていたのを覚えている。独特のハスキーな声が、ハヤちゃんとハルちゃんでよく似ている。それから背の低いところや、マイペースな性格も。
 マイペースなハヤちゃんは、小学校の卒業文集であった「長生きしそうな人ランキング」で第一位だった。そんなハヤちゃんの時間が、すぐに止まってしまうことなんて、誰も思ってもみなかった。もう謝ることも、一緒に遊ぶことも叶わなくなってしまった。
「今度どこかへ遊びに行こうよ」
この間、ハルちゃんにそう言ったのを思い出す。ハルちゃんと一緒にいると、私はいつも切ないような、懐かしいような気持ちがする。ハルちゃんと一緒にいると、ハヤちゃんがまだ生きているような気持ちになる。だから、ハルちゃんとずっと一緒にいたい。もうあんな悲しい別れを、繰り返したくないと思うから。
「また、明日」
ハヤちゃんに言えなかった言葉が、不意に溢れた。

 
 2019年4月4日(木)(夕方)(後藤春香)

 部屋で寝転がってスマートフォンを操作している。出会いを求めてマッチングアプリをやっていた。自分の所属しているコミュニティでは、トラブルになりそうなので相手を探したくない。気楽に付き合える恋人を見つけたい。 
 マッチングアプリはどれでもそうだけれど、女性だと引っ切り無しにマッチする。ただ、相手はほとんどが体目当てだ。私が探しているのは、恋人なのだ。遊び人に引っ掛けられてセフレにされたら、契約を果たせない。だからモテなさそうな人を標的にしている。垢抜けなくて、でも切実に恋人を必要としている人こそが、さっさと付き合うためには一番いい相手だろうと思う。
 O.Tという人とマッチして、やりとりが続いている。彼を今、ターゲットにしている。彼は東大生であるらしく、プロフィールには
「O.T 20
 東京大学に通っています。趣味は映画鑑賞と読書です。趣味が合う人と仲良くなりたいです。よろしくお願いします。恋人いません」
とある。写真は自撮りと、何かの食事会での写真が載っている。眼鏡を掛けておりボサボサの黒髪で、肌はニキビだらけで汚い。結構太っている。
Haruka「O.Tさんこんにちは!マッチありがとうございます」
まず私からそうメッセージを送った。
O.T「はじめまして!こんにちは」
するとすぐに返信が来た。
Haruka「東大なんですか?」
O.T「そうだよ」
Haruka「私もなんです笑」
O.T「へー、女子は学内で出会いがありそうなのに」
Haruka「サークルクラッシャーになりたくないので笑」
O.T「なるほどね」
Haruka「映画とか小説が好きなんですか?」
O.T「そう」
Haruka「おすすめとかありますか?」
O.T「好みがわからないとおすすめするのは難しいね。好きな映画とかある?」
Haruka「あんまり観ないんですよね汗『バタフライ・エフェクト』とか、昔に観て面白かったかも」
O.T「なるほど。じゃあ『オール・ユー・ニード・イズ・キル』とかは。あれもタイムトラベルものだし」
Haruka「なんかきいたことあります!観てみます。私、ゲームオタクなんですけど、本とか映画とかは全然で。そういうのが詳しい人に憧れます笑」
O.T「いや、詳しくても何にもならないけどねww」
Haruka「よかったら、今度一緒に映画館とか行きたいです!観る作品はなんでもいいので!」 
O.T「こちらこそ。じゃあ、何か考えとく」 
そんなやりとりが既にあった。見た目も振る舞いも野暮で、ちょろそうだ。グッピーとの契約も、割合すぐに果たせそうかもしれない。
 不意にクローゼットが開かれて、中から人間の姿のグッピーが出てきた。このアパートはペット禁止なので、外出するときは人間の姿でいさせている。
「今は何をしていたの」
私は声をかけた。グッピーのいる暮らしにも、かなり慣れてきた。グッピーはクローゼットの中にモニターとゲーム機を持ち込んで、そこで遊んでいる。発電機を持っているので、コンセントは要らないようだ。
「アニメを観ていました。『まどマギ』を。今はコンビニへ行くところです」
グッピーが言った。「まどマギ」と言うのは『魔法少女まどか☆マギカ』のことだ。友達の鹿目ちゃんがこのアニメを好きだった。
「そう言えば、タイムリープもののアニメとかゲームって多いよね。『まどマギ』もそうだけれど」
私はふと思いついて言った。軽く雑談がしたい。
「そうですね」
グッピーが言った。
「不思議なんだけどさ。タイムリープものって、どうして感動できるんだろうね」
「どういうことですか」
「ほら。人が死ぬ時って『悲しい』って思うから、フィクションの中で人が死ぬ展開に感動するのはわかるの。でもタイムリープって現実にはありえないじゃん。どこに感情移入できる要素があるんだろうって」
私は言った。前から少し気になっていた。
「なるほど、興味深いですね」
グッピーは言った。
「どう思う」
私は笑って言った。グッピーは髭を撫でながら、宙を見つめて考えている。
「少し心理学の本を読んだだけなので、思いつきですが。『あの時、ああするべきだった』みたいな思考をするのが、人間の特性なのかもしれませんね。『あの時、ああするべきだった』という演算を絶えず繰り返して、振る舞いや行動パターンを適切に調整していく。それが人間の習性なのかもしれません」
少し考えてグッピーが言った。
「へえ」
「例えば『ロミオとジュリエット』のすれ違いに悲劇性を感じるのは、人間が『あの時、ああするべきだった』を頻繁に演算する動物だからだと思うんですよ。それと同じように、タイムリープものに潜む『あの時、ああするべきだった』にも、情動が刺激されるのでは」
グッピーは言った。
「分かるかも。ゲームでもそういう展開は多いよね。『ライフ イズ ストレンジ』だと、プレイヤーの選択次第で主人公の同級生が自殺しちゃうけれど、フラグ管理を失敗した時の辛さって『あの時、ああするべきだった』のやりきれなさだよね」
私は言った。
「そういう経験ありますか」
グッピーが言った。
「あまりないかもね」
私は笑って言った。
「でも、マッチングアプリは気が楽だなあって。選択肢を間違えても匿名性が担保されているし。『あの時、ああするべきだった』とは無縁でいられそう」
私は言った。
「なるほど。
 ごめんなさい、買い物に行くので失礼します」
グッピーは言った。
「うん」
私は言った。グッピーは部屋を出て、玄関へと向かっていった。
 ポケットの中でスマートフォンが振動する。マッチングアプリの通知が来たようだ。見るとO.Tからメッセージが来ている。
O.T「今週の日曜日でもいい?授業前だし、今なら割と暇だよね。『ダンボ』でもいい?」
そんな風に来ていた。
Haruka「うん、オッケーです!いつも暇なので笑」
返信をした。
O.T「時間はいつがいい?」
Haruka「じゃあ、お昼でお願いします」
O.T「オッケー」
Haruka「ごめんなさい。LINE交換しておきたいのですが、いいですか汗」
O.T「わかった。Id送る」
そのメッセージの後、しばらくしてidが送られて来た。それを検索すると「竹田音也」と表示された。アイコンは『郵便配達は二度ベルを鳴らす』という映画のポスターのようだ。そのアカウントを友達に登録する。
 ところで私は今、相手を探すにあたってLINEのプロフィールからクラスとサークルの名前を消し、アカウント名を「後藤春香」から「Haruka」に変更している。念のため。
Haruka「こんにちは。マッチングアプリの方から来ました。よろしくお願いします」
私はそう、メッセージを送った。
竹田音也「よろしくー」
Haruka「お会いできるのが楽しみです」
私はそう返信した。
 
 2019年4月4日(木)(夜)(竹田音也) 

 自宅のアパートで風呂に入っている。シャワーは毎日浴びるが、湯船に浸かるのは数日おきだ。湯船の中で「Haruka」さんとのことを考えていた。
 俺は去年にもマッチングアプリをやったがマッチせず、最近気まぐれでまたインストールしてみた。そして今日の昼間にHarukaさんとマッチした。彼女は東大生らしく、写真を見ると少し地味な感じだが、顔立ちは整っているようだ。プロフィールには
「Haruka 19
 真剣に交際できる人を探しています。真面目な目的の人だけでお願いします。体目的NG」
とあった。Harukaさんのお眼鏡に叶うかどうか不安だったが、向こうは積極的に俺に話しかけてくれた。なるべくフランクに話そうと努めたが、少し横柄な感じが出てしまったかもしれない。いきなりタメ口ではない方が良かっただろうか。
 俺は少し天然ボケというか、コミュニケーションをとるのが下手なところがある。他人の気持ちがよくわからない。藤井さんにも「鈍臭くて我が強い」と言われたが、その通りではある。ASDを他人から疑われたこともあり、そうかもしれないとも思うが、そこまで困ったことがないから検査をしたことはなく、よくわからない。病院へ行くのはなんとなく怖い。
 けれどもそんな俺でも相手と連絡先を交換し、会う約束をすることができた。しかも今週の日曜日だ。ティム・バートン『ダンボ』を観に行く。俺は異性と交流した経験がほとんどないため、なかなか接し方がわからない。何か失敗をしないか、不安で仕方がない。『ダンボ』はデートに適当な映画であろうし、まだ失敗はしていないはずだ 。
 しかし、と俺は湯に浸かりながら思う。デートにふさわしい映画とは一体なんなのだろう。デートにはジブリかディズニー映画が推奨されると、誰かから聞いたことがある。しかし『もののけ姫』以降のジブリ作品はデート向けと言えるのだろうか。『風の谷のナウシカ』以来の生の哲学の主題に加えて、中上健次や大江健三郎に倣ってアナール学派の知見を作品に盛り込んだ近年の作品は、万人向けとは言い難い。『ハウルの動く城』や『崖の上のポニョ』など特に難解で、反応にもしばしば困惑する。また『千と千尋の神隠し』などは花街がモデルであるというし、性的な要素が現れるのはデートに相応しくないかも知れない。
 ならばディズニー映画ならば大丈夫だろうか。そうとも言い切れない。なぜならば、相手にジェンダーステレオタイプを押し付けることへの懸念があるからだ。すなわち「女子はディズニーで喜ぶだろう」みたいに思っていると解釈されて、浅はかな人間だと見做されてしまうのではないか。同様の危険は『プラダを着た悪魔』や『ゴースト/ニューヨークの幻』のような、チック・フリックと呼ばれるジャンルの作品にも付き纏う。「女だからこういうので喜ぶのだろう」という意図を読み取られてしまうリスクがある。
 ならばいっそ、芸術志向の高い作品を充てがうというのはどうだろう。芸術性が高いと言っても、ゴダールとかタルコフスキーみたいな、映画に興味がない人が観たら面白くない作品ではなく、黒澤明やデヴィッド・リーン、ヴィスコンティ監督作品などの、芸術的かつ間口の広い作品が望ましいのではあるまいか。
 そうかヴィスコンティか。いいかもしれない。俺はヴィスコンティが好きで、中でも『ルートヴィヒ』と『郵便配達は二度ベルを鳴らす』が好きだ。概して俺は実存主義、不条理文学タッチの作品が好きで『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の根底に流れるニヒリズムに惹きつけられる。
 ヴィスコンティ『郵便配達は二度ベルを鳴らす』では、主人公・ジーノがレストランの店主の妻・ジョヴァナに惹かれ、二人で謀って夫を殺す。しかし新しい生活をスタートした二人の間にはたちまち気まずい雰囲気が流れる。二人はやがて指名手配され、それによってジーノはジョヴァンナからの密告を疑い、疑心暗鬼に囚われる。しかし、ジーノはジョヴァンナの直向きな想いと、彼女が妊娠している事実を知って、二人の関係をやり直すことを決意する。だが、そんな覚悟を決めてすぐ、ジョヴァンナは事故死してしまう。 
 俺はこの作品の中にある、実存主義の作家カミュが『シーシュポスの神話』で捉えたニヒリスティックな循環の図式に、人間という存在にとって本質的なものを感じる。それは例えば、現代で言ったら「タイムリープもの」にも共通したイズムが潜んでいると思う。すなわち、悠久の円環と停滞を目の前にしてなされる絶えざる苦心であって、それは人間にとって本質的な意味を持つものなのだと思う。
 そう言えば、さっきHarukaさんとのやりとりで話題にした『オール・ユー・ニード・イズ・キル』もタイムリープものの有名な作品で『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』でも紹介されていた。あの作品の主題は、絶望的な状況を目の前にしても空虚なループを続けようとする、生への意志であるのだと思う。空虚な結果しかもたらさないことを半ば知っていたとしても、なお停滞の中で足掻き続けようとする覚悟こそが生の根源なのであって、あのループ構造が描こうとするのはそこなのであると思う。
 そして、ヴィスコンティ『郵便配達は二度ベルを鳴らす』において描かれる、日常の繰り返しが齎す倦怠感は、ジョイスが「エピファニー」と形容したような人生の本質の現前であると思う。倦怠感の中でなお足掻き続けていたとしても、外部から齎される暴力によって過去に築いたものが一瞬にして容易に失われるところにこそ、儚い生の実相が捉えられている。
 ところで俺がそうした題材に惹かれるのは、将来への不安に由来しているのかもしれない。
「おとやんは本当にマイペースだよね。社会に出てやっていけるのかな」
母がよく、俺をからかってそう言うのを思い出す。俺はマイペースで他人の気持ちがよくわからないので、人と関わるのが苦手だ。自分を客観的に捉えるのが苦手で、とにかく自分は人付き合いが苦手だということしか認識できていない。どこをどう改善したら良いのやら、全然わからない。
「おとやんって、性格が子供の頃からずっと変わらないよね。のんびりしていて」
そう母に言われたこともあった。確かに、俺の体感でも自分の精神年齢は小さい頃から成長していない気がする。
「めちゃくちゃ将来を心配しちゃうんだよね」
母が笑って言ったのを思い出す。俺も自分の将来をとても心配している。就職しても、うまく仕事上の人間関係を円滑に築ける自信がない。その恐怖が、俺をバイオレンス描写に惹きつける。社会人としての生活のループへと投げ込まれることへの恐怖と怒り。それが俺にとって暴力がアクチュアルなものたりうる所以だ。
 今度のデートも不安だ。どうなるのだろう。心配だが、のぼせる前に風呂から出よう。
 
 
 2019年4月7日(日)(昼)(伊藤真斗)

 渋谷駅を出てすぐの渋谷マークシティの一階で、明梨と待ち合わせをしている。この後食事をしてからTOHOシネマズ渋谷で映画『ダンボ』を観にいく。明梨からLINEでメッセージが来た。
藤井明梨「いま改札を出たところ!汗 遅くなってごめん(お辞儀している絵文字)」
伊藤真斗「全然大丈夫。慌てなくていいよ」
返信をした。僕は十分前に来たが、明梨は待ち合わせの時間に少し遅れている。
 明梨がエスカレーターを降りてくるのが目に入る。小さく僕が手を振ると、明梨は申し訳なさそうな顔をつくって、ぺこりと頭を下げた。明梨はこんな風に待ち合わせに遅れることが多い。睡眠障害があるので、朝が苦手なようだ。
 下まで降りると、明梨は僕の元へ駆け寄ってきた。
「ごめんね」
明梨が息を切らせて言った。顔が汗ばんで紅潮し、髪も少し乱れている。
「大丈夫。食べに行こうか。何でもいいけど」
僕は言った。
「食欲ないから、喫茶店とかがいいな。私も何でもいいよ」
「公園通りのサンマルクカフェでもいい。体調悪いのかな。大丈夫」
「平気。そこでいいよ」 
明梨が言った。僕たちは駅から公園通りの方へと並んで歩いていく。
「『ダンボ』って、ディズニーのアニメは観たことあるの」
隣で明梨が言った。
「小さいころに観たけど、よく覚えていないな」
僕は言った。 
「『ダンボ』は昔から好き。ダンボが可愛いし。私はマザコンだから、お母さんと会うところも感動する。
あ、ネタバレしちゃった」
明梨が笑って言った。
「『ダンボ』はティム・バートン監督なの。知っているの」
明梨が言った。
「名前はきいたことがある」
僕は言った。
「『シザーハンズ』とか『スリーピー・ホロウ』とか『チャーリーとチョコレート工場』とかの人」
「『シザーハンズ』は観たことがある。面白かったかも」
「映画に詳しくはないけれど、バートンは好き。オシャレな雰囲気がいい」
「セットの醸す空気が、僕も好きかも知れない」
僕は言った。三島由紀夫が映画狂なので『三島由紀夫映画論集成』や『三島由紀夫、左手に映画』などを参考に、三島の好んだ作品を努めて観ることにしている。三島由紀夫は特にルキノ・ヴィスコンティの作品を好んでいた。ヴィスコンティでは『地獄に落ちた勇者ども』が面白かった。退廃的で絢爛豪華なセットが醸す、熟れすぎた果実のような腐臭に酔わされるところがあった。『シザーハンズ』もそれとムードが似ていて、ボードレールや足穂を思わせるような、極度に人工的なイメージが蠱惑的だった。
「いいよね。ああいう儚い空気。『ガラスの動物園』みたい」
明梨が言った。
 そういえば『ガラスの動物園』は、僕の母が好きだった作品だ。母はあの作品の影響で、虫の埋め込まれた人工琥珀を集めて琥珀の昆虫園を拵えていた。
「不思議だよね、琥珀って。この中に一瞬が、永遠に閉じ込められているんだよ。一瞬が永遠に繰り返されているの」
母が言っていたのを思い出す。母とはもう長く会っていないけれど、とにかく奇妙な考え方をする人だった。
「琥珀の虫の死に様を見るとね。清々するのよね。昔、私のことをいじめてきた人たちが、虫と重なって見えるのよ。あいつらもこんなふうに殺して閉じ込めてやりたい。死んだあいつらをずっと眺めていられたら楽しいだろうね。琥珀の中で永遠にね、死の苦しみを味わい続けて欲しいのよね」
母はそんな風に言っていた。母の嗜虐的な性質は、僕にも少し受け継がれている。僕が好きな三島の文学は、そんな欲求に応えてくれる。
  サンマルクカフェに入ると、僕はトーストサンドセットにコーヒー、明梨はクロワッサンとコーヒーを注文した。店の中はまだ十一時前だからか、割合空いている。
「『パルプ・フィクション』は観たことってある」
注文したものを持って席に着くと明梨が言った。
「あるよ」
「カフェに来ると冒頭の場面を思い出すの。レストランにカップルのギャングが強盗に入るシーン」
「そうだったね」
僕は言った。僕はタランティーノ監督が好きで『パルプ・フィクション』も好きだ。作品にしばしば見られる過激な暴力描写に惹きつけられる。『パルプ・フィクション』では、薬物の過剰摂取で失神したミアの心臓にアドレナリンを注射する場面が好きだった。観ていて興奮した。
「タランティーノも、バートンに似て面白いよね。おしゃれなサブカル映画」
明梨が言った。
「そうかもね」
僕は言った。
「でもちょっと嫌な感じもしない」
明梨は言った。
「どういうこと」 
「ミソジニーな感じがする。女性に苛烈な暴力を振るうもの。『イングロリアス・バスターズ』とか、苦手。女の人の首を絞めて殺す場面あるじゃん」
明梨は言った。僕はあの扼殺シーンが好きだった。サディスティックな官能を擽られる部分があって『地獄に堕ちた勇者ども』のレイプシーンとも似た興奮があった。
「僕は好きだったけどね」
僕は言った。
「映画の中で女性がそういう扱いをされても、傷つかないの」
怪訝な顔をして明梨が言った。
「フィクションだからね。別に暴力を肯定的に描いているわけではないし、普通に娯楽として楽しめるよ」
「そう」
拗ねたように明梨が言った。待ち合わせに遅刻しておきながら、良い根性だと思う。


 2019年4月7日(日)(夕方)(竹田音也)


 ヴィスコンティ『地獄に堕ちた勇者ども』のスタッフロールを眺めている。ベッドで隣には春香さんが腰掛けている。信じがたいことが起っている。
「面白かったあ」
春香さんが笑って言った。
「よかった」
俺は言った。ほっとして、ため息が出そうになる。今日はマッチングアプリで知り合った春香さんと『ダンボ』を観る約束をしていたのだが、映画を観た後で彼女が俺の家に来たいと言い出した。それで一緒に俺のアパートで『地獄に堕ちた勇者ども』を観た。
 俺はこの映画にレイプシーンがあるのをうっかり忘れていた。当該場面のときはハラハラして、彼女の表情を横目で伺っていたが、楽しそうに画面を見つめてはいた。
「エロもグロも大丈夫だからね」
とは彼女から観る前に言われたけれど、不快な気持ちにさせたかもしれない。少し罪の意識を感じる。
「『ペルソナ2 罪』っていうゲームがあるの。ごめんね、ゲームの話しかできなくて。この映画を観ていたら、思い出しちゃった。ナチスがモチーフだから」
春香さんが隣で言った。
「どんなゲーム」
俺は言った。
「うん、学校の怪談ブームの頃に作られたゲーム。噂が現実になるっていう世界観だけれど、噂の力でヒトラーが復活するの」
「面白そう」
「面白いよ。雰囲気が好き。ティーンの世界特有の、インモラルな瑞々しさがあって」
春香さんが言った。
「映画だと大林宣彦にはそういうのがあるかも」
俺は言った。
「気になる」
「『ふたり』とか『セーラー服と機関銃』とか」
「『ふたり』はパパと観たことがある。いいよね。ノスタルジックな雰囲気があって、ムードだけで泣ける。『ペルソナ2』もそんな感じ」
春香さんが言った。
「大林のフィルムってさ。喪われた少年時代への強い憧憬があってね、そこに惹きつけられるんだよね。彼のフィルムには幼稚な映画研究会のノリというか『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』のように、ずっと文化祭をして遊んでいたい、みたいな主題があるんだけれど。それは『地獄に堕ちた勇者ども』とも重なる、日常の憂鬱への絶望に基づくものなんだと思う」
俺は言った。
「分かるかも。大学に入るとさ、自分の立ち位置が見えてくるよね。自分の人生って、この程度に収まるだろう、みたいな。そうすると、大人になりたくない、ずっと子供のまま遊んでいたいのに、みたいな気持ちになる。甘えた感慨だけれどね」
春香さんが隣で笑って言った。
「そうだね」
俺は言った。
「私も、もっと遊んでおけばよかったなあ。恋愛とか、してみたかった」
春香さんが言った。
「そうなんだ。モテそうなのに」
俺は言った。
「モテないよ。ただの引きこもりオタクだもん」
春香さんが笑って言った。
「そうなんだ」
「竹田くんは、恋人とかいるの」
春香さんが隣で俺の方を見つめて言った。なんだ、この流れは。
「いないよ」
「そうなんだ。可愛いから恋人いそう。話も面白いし」
春香さんが言った。息が荒くなりそうになるのを抑える。
「そうかな」
声が震えそうになりながら、俺は言った。
「そうだよ」
「ありがとう」
俺は言った。何とも形容しがたい沈黙が流れる。
「ねえ」
春香さんが言った。
「ん」
「竹田くんって、可愛いね」
春香さんが、物欲しそうな表情で言った。
「え」
「可愛いよ。竹田くんって」
「そうかな」
「可愛い、竹田くん」
「うん」
「ねえ」
「え」
「キスしてもいいかな」
春香さんは懇願するように、俺を見つめて言った。
「はい」
俺がそう言うと、春香さんは俺に抱きついてきた。彼女の顔が俺の前に迫り、口に舌が入ってくる。体が熱くなり、顔に血が集まって痛いくらい火照る。ザラザラとした、生暖かい感覚が口の中に伝わってくる。眼球の白と黒と、肌の色が迫って視界を覆う。温かいとろみが、少しして口の中から離れていく。春香さんの顔がこちらを見つめている。
「エッチしよう。したことないの。してみたいな」
春香さんが上目遣いで言った。
「あの」
血圧が上がって頭が痛くなってきた。 
「シャワー、浴びよ」
春香さんが言った。
「ゴムは」
「持っているよ」 
「ああ」
何が何だかわからない。
「じゃあ、先にシャワー浴びるね」
「はい」
俺は上擦った声で言った。

 
 2019年4月7日(日)(夜)(伊藤真斗)

「そういえば竹田君も、この辺りに住んでいるんだよね。あの子も下北沢の住みでしょう」
隣を歩く明梨が言った。
 さきほど「イル コンソラーレ」というイタリアンレストランで明梨との食事をすませた。今は、明梨がこの辺りを見て回りたいというので散歩をしていて、下北沢駅の南口がある通りを歩いている。
「竹田。サークル同期の」
「うん。真斗くんは、竹田くんが嫌いなの」
「別に。どうして」
僕は訊いた。彼のことを嫌ってはいないし、そもそもほとんど話したこともない。
「竹田くんが、真斗くんから嫌われているって言っていたよ」
「どうして」
「Twitterでブロックされているんだって。泣いていたよ」
明梨が笑って言った。
「していないはず」
少し驚いて僕は言った。全然記憶にない。
「何かのはずみでブロックしちゃった感じかな」
「そうみたい。謝らなくちゃ」 
僕は言った。
「よかった。竹田くん、いい子だよ」
明梨が笑って言った。
「喋ったことがないんだよね」
僕は言った。外見もほとんど思い出せない。
「イカ東で天然っぽくて。一緒にいると落ち着く。野暮ったくて可愛いの。小動物みたい」
明梨が面白そうに笑って言った。
「そうなんだ」
僕は言った。明梨には、精神年齢の低くて大人しい人間を周囲に置いて自尊心を高めようとする傾向がある。それが被害妄想から逃れる方便なのだろう。
 闇の中で、ヒールを履いた彼女のぎこちない足音が、乾いた響きを立てる。気まずさを誤魔化すように、明梨が小さな声で鼻歌を歌う。
「なんだっけ。それ」
僕は言った。
「知っているの」
明梨が隣で言った。
「聞いたことがある」
「映画『ふたり』の主題歌。大林宣彦監督の」
「観たことがある」
僕は言った。
「スタッフロールであの主題歌を大林監督が歌うの、ズコッてこけるよね」
明梨が笑って言った。
「確かに」
僕は笑って言った。
「あの映画、本当に雰囲気が良くてね。ノスタルジックな空気だけで泣ける。ちょっと『こち亀』みたい」
明梨が言った。
「うん」
「散歩中だから思い出したけどさ。『ふたり』にマラソン大会の場面があったのを覚えている」
明梨が言った。
「あったね」
僕は言った。赤川次郎原作の『ふたり』は、主人公の北尾実加と、死んだその姉・千津子の幽霊の交流が描かれる作品だ。実加が千津子の代わりを努めようとして、姉の得意だったマラソン大会に参加するエピソードがあった。
「あの場面で、お姉ちゃんの霊も歩いているじゃん。私も一人で歩いているときに、お母さんから後ろで見られている気がするの」
明梨が言った。
「そうなんだね」
「霊とか信じていないけれど。でもお母さんに呪われている気がして」
「そっか」
僕は言った。
「いつか私も、お母さんみたいになっちゃうのかなあ」
独り言のように、明梨が言った。潤んだ彼女の瞳が、ほのかに光を湛えている。
「私も少女のままでいたかったな。大林監督の映画に出てきそうな、無垢な瞳の少女のままで」
明梨が言った。
「そうなんだね」
「私、第二次性徴期に差し掛かった時期から憂鬱になってね。これからずっと『女』を社会から押し付けられるんだ、ずっと『女』の身体に囚われて生きていくんだ、って思ったらさ。嫌になった」
「そっか」
「股の間に毛が生えたときも、絶望して。これでお母さんと同じになるんだって」
「辛かったね」
「真斗くんはそういう気持ち、しなかったの」
明梨が言った。
「特には」
僕は言った。
「そう。うらやましいな」
恨み言のように明梨が言った。二人の足音が暗闇で時々重なって、ほとんど揃わない。

 
 2019年4月8日(月)(朝)(井上里香)

 頭痛と腹痛がひどい。私は中学時代から慢性的にこうした体調不良が多く、身体表現性障害の診断を与えられている。今もだるくて、ベッドから起き上がるのが億劫だ。
 何もできない。することがないので枕元のスマートフォンを手に取る。YouTubeを観るかTwitterでもするか。私はTwitterの大学用のアカウントを「じんぐうじ」というハンドルネームで持っている(名前の由来は恋ちゃんから借りた『神宮寺三郎』のソフトだ)。Twitterを開くと、あずにゃんという人の呟きが目に入る。
あずにゃん「すべて計算通りの人生なんて面白くもなんともないだろ!」
 あれ。これはなんのセリフだっけ。一瞬の後、思い出す。そうだ「こちら葛飾区亀有公園前派出所」だ、多分。私は小さい頃から「こち亀」が好きで、母がよく図書館やTSUTAYAでDVDを借りてきてくれたのを覚えている。私はこち亀の主人公である両津勘吉のキャラクターが好きだ。見ていて安心感がある。軸がしっかりしていてバイタリティがあって面白い人なので、友達にしたいタイプだと思う。
 それと、私は「こち亀」という作品に漂う東京下町独特のノスタルジックな風情が好きだ。私は東大に入学して上京するまで鹿児島で育ってきたから、東京という土地に憧れを持っていた。そして東京という場所のイメージを「こち亀」によって培っていた。大学に入ってから、葛飾の寺社や公園を巡ったりして「こち亀」のエピソードを懐かしく思い出した。フィクションって、土地の名所とか土地に纏わる記憶を描くことができるのも、一つの魅力だと思う。
 そういえば青山七恵『ひとり日和』を読んだときにも、それと似た感慨を持った。女子向けコンテンツが嫌いな私だけれど、女性作家が書いた小説は好きで、ブックオフで小説を立ち読みしたり買ったりすることがある。それで去年『ひとり日和』に触れて、すごく良かった。舞台が京王線沿いのあたりなのだけれど、作品の中に自分が住むこの地域の雰囲気が写とられていると感じられた。下北をよく隼平と歩いたこととか、読みながらしみじみと思い出した。
 主人公である二十歳の女性・三田知寿の心理描写もきめ細やかで、読んでいて切ない気持ちになった。それと作品に登場するイトちゃんという女の子が好きだった。イトちゃんは知寿と、その恋人である藤田くんの共通の知り合いだ。イトちゃんは二人の交際を知りつつも、三人でときどき一緒に遊びに出かけていた。次第に藤田くんは知寿に飽きて、イトちゃんのことが好きになってしまう。けれどもイトちゃんは優しいから、知寿たちに申し訳ないことをしたと感じて、二人と距離を置こうとする。だから知寿もイトちゃんに怒れなくて、ただやり場のない虚しさと自己嫌悪を感じるのだった。
 私はこのイトちゃんが、友人の鹿目真奈美ちゃんに似ていると思った。鹿目ちゃんとは大学が一緒だけれどクラスは違っていて、バイト先のガストが一緒だったので知り合った。
「荻野さんね。別に付き合っている人がいるみたいだよ」
そう教えてくれたのが鹿目ちゃんだった。鹿目ちゃんは、隼平と同じ映画製作サークルに所属しているらしい。私は鹿目ちゃんの、いつも慎重に言葉を選んでいて物腰が丁寧なところが好きだ。
 隼平も、そういうところが好きだった。朗らかで能天気なようでいて繊細なところもあって、私が欲しい言葉をいつも上手に選んで与えてくれた。
ななしねこ「夫からの誕生日プレゼント!(ケースに入ったイヤリングの画像)」
 またスマートフォンの画面をぼんやり眺めていると「ななしねこ」という人の呟きがタイムラインに流れてくる。彼女は二年生で「あずにゃん」とも仲が良く、よく二人のリプライがタイムラインに流れてくる。彼女らは東大文系二年のTwitter界隈における中心的なメンバーだ。私はこの人たちのノリというか、絡み方が好きではない。それというのは、隼平や鹿目ちゃんとは対照的だ。
ななしねこ「絶起っ起ーの起!アイアイアイwww(落単の音)」
そんな風に彼女たちは、スラングや内輪ネタで繋がろうとする。自分はそういう仲良し演出アピールが苦手で、見ていて疲れる。私はうるさい人が嫌いなので、ああいう馴れ合いの中に身を置きたくなる心理が理解できない。ああいうコミュニティ特有の、偽善的な同調圧力が苦手だ。
ななしねこ「絶起したから、アルバムにある夫の写真を見て口直し」
また彼女の呟きが流れてくる。東京大学にはキツい人が多いのだけれど、この「ななしねこ」という人はその筆頭で、いつも惚気た呟きで幸せアピールをしている。「夫」というのは彼女の恋人のことだが、この「夫」は私が知っている限り、大学に入ってから四人目なので、累計「バツサン」以上が確定している。彼女の惚気アピールは、自分は幸せな人間なんだと必死に自己暗示をかけているようで、見ていて痛々しい。
あずにゃん「ア!ww(某氏の惚気で失明した顔)」
それと「あずにゃん」のように、あわよくば後釜に座ろうとななしねこの周りに集まってくる東大生男子の姿を見るのも地獄絵図だ。けれどもなんとなく、怖いもの見たさで彼らからは目を離せずにいる。こういう手合いって、最終的に性欲を隠せなくなりながら玉砕して、相手のストーカー的なアンチになるまでがデフォルトな気がする。
「鹿目さんね。それストーカーだから。前に俺のことが好きだって、言い寄ってきたんだよね。断ったら、俺の悪口を触れ回るようになって」
浮気のことを隼平に問い詰めたら、そんな風に返されたのを不意に思い出す。それを聞いときにはただ呆れて、ぐったり疲れた。私は隼平のことを信頼していたけれど、鹿目ちゃんは絶対にそんなことをするはずがないという確信を持っていた。あんな真っ直で優しい人が、そんな自分勝手な嘘をつく訳がないと思った。
 私は「優しい人」には二つのタイプがあると思っている。一つは自分のために優しさを身に纏う人。すなわち利己的な理由から、利他的な人間としてのキャラクターを演出する偽善者タイプだ。自分のために「優しさ」で武装するタイプ。
 旅行サークル同期の松村葵さんが、このタイプだと思っている。
あおい「素面でも酔っ払いみたいなポンコツだと指摘されて涙を流している」
松村葵さんはお茶大理系の二年生だ。Twitterのアイコンが森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』の文庫本の表紙なのだけれど、そのヒロイン「黒髪の乙女」のような天然ボケのゆるふわキャラクターを演出している節がある。黒髪の乙女は酒豪設定だったけれど、彼女もアルコールに異常に強くて、どれだけ飲んでも顔が赤くならない。
「全然酔えないんだよね。だからいつも、飲みの席では酔っ払ったふりをしている」
彼女がそう言ったのを聞いたことがある。そんな彼女は酒の席ではいつも饒舌になり、スキンシップが多くなる。特に異性に対して。普段から彼女は思わせぶりなそぶりが多くて、男性受けを狙った振る舞いが多いのだけれど、飲みの席ではそれが特に顕著になる。
 私は彼女の人間性が好きになれない。もしかしたら色々な噂から、私が勝手に悪く解釈しているのかもしれないけれど。彼女は垢抜けない男子にわざと気があるような素振りを見せて、相手から告白されるとそれを同性の友達に「相談」という名目で告げ口する癖があるようだ。
松村葵「里香ちゃん、聞いて。ちょっと困っている。告白されちゃって」
彼女から、私も二回ほど相談を持ちかけられたことがある。旅行サークルには「何某が松村さんに告白して玉砕した」という情報が無数に転がっている。多分彼女は、男性の心を弄んでいるのだと思う。敢えて何とも思っていない異性の気を引いて、向こうからアプローチがあると「相談」という名目で同性の友達に言いふらす。その手の話ってすぐに尾鰭がついて拡散されるから、それで男子を陥れて遊んでいるらしい。
松村葵「前にストーカーされたことがあって。今回の件も怖かったの。でも里香ちゃんに相談できて良かった!本当にありがとう」
彼女への「ストーカー容疑」がかかっている人がサークル同期に二人いるのだけれど、彼女が言いふらしたのだとしたら胸糞悪い。ともかく「偽善者」というと真っ先に私は、彼女の顔が思い浮かぶ。私の中では、利己的な「優しい人」の代表格だ。
 そしてもう一つの「優しい人」のタイプは、本当に他人の利益だけを考えている人。私の分析では多分、鹿目ちゃんはこのタイプだ。優しすぎるせいで自分に課した信条で雁字搦めになって、いつも自分を傷つけるタイプの人。それが鹿目ちゃんだと思う。
 隼平は二つのタイプのうちの、ちょうど中間だと思う。彼の優しさは自分のためでもあり、他人のためでもある。隼平の「優しさ」にも私は信頼を置いていたけれど、ときどき狡いところがあるのは認識していた。例を上手く挙げられないけれど、なんとなくそんな印象を持っていた。だから鹿目ちゃんと隼平の言っていることが食い違った時には、鹿目ちゃんの言うことを自然に信じた。
 それに、鹿目ちゃんが隼平にストーカーをしたことが本当でも嘘でも、いっそどっちでもよかった。自分が浮気を疑われているときに、その矛先を別の人間に向けさせようとする。そういう姑息な真似をする人を好きでいたことが情けなくなって、ぐったり疲れた。言い訳をするにしても最初から「それは誤解なんだよ。その子とは単なる友達で?」的なことをそれらしく語ってくれた方が遥かに印象はよかったし、いっそ「ごめん。もうしないから」と言って笑いながら謝られでもした方が、まだマシだった。とにかく鹿目ちゃんに疑いの目を向けさせようとしたことが許せなかった。そのせいで、隼平からもらった言葉も思い出も、全部が傷付けられてしまった。そのことに、ただもうくたびれた。


 2019年4月8日(月)(昼)(来栖梓)
 
 学生会館にある映画製作サークルの部室へ行くと、荻野隼平くんが中で寝ていた。僕がドアを開けると、荻野くんはそれに気がついて体を起こした。
「あずにゃんか。お疲れ。授業なの」
荻野くんが言った。僕は靴を脱いで敷物の上にあがった。
「図書室で自習していただけ」
僕は言った。
「単位は大丈夫」
「うん、進振りに必要な単位はもう平気。総合科目をちょっと取れば進級もできるっぽい」
「いいなあ。俺、もうほぼ留年確定だよ。再履落としたら即降年の授業が、三つもある」
荻野くんが笑って言った。荻野くんは優しくて面白い子だけれど、遊んでいて成績は悪い。僕は床に座った。
「頑張って」
僕は笑って言った。
「昨日はセフレの家に泊まったんだけど。スマホが入ったままズボンを洗濯されて、画面がバキバキになっちゃった。人生、ハードモードすぎる」
荻野くんが言った。
「へえ」
僕は言った。セフレがいるなんて、すごい世界だ。東大の中にも容姿や家柄や出身校などによって分けられる、色々な階級がある。荻野くんと僕は、少し違う世界に属している気がする。
「今年は新入生、どれくらい来るかなあ」
荻野くんが言った。
「うん、楽しみ」
僕は言った。僕はこのサークルのことが好きなので、活動が盛り上がってくれると嬉しい。僕は人と一緒に何か活動して過ごすのが好きだし、逆に一人だと辛い。だからこのサークルが居場所になってくれているのがありがたい。僕は一人でいると、嫌なことばかり考えてしまう。Twitterをよくやるのも、一人でいるのが苦手だからだ。
「もう恋愛一筋でいきたいわ。愛のために生きて、愛のために死ぬ。それで学位取りたい」
荻野くんが笑って言った。
「頑張ってよ」
僕も笑って言った。荻野くんは大きく一つ、伸びをした。
「いのち短し 恋せよ乙女」
横になったまま天井を眺めて、不意に荻野くんが小さく歌った。
「それ、なんだっけ」
「『ゴンドラの唄』だよ。黒澤明の映画で有名じゃん。『生きる』で」
荻野くんが言った。
「僕のおじいちゃんが好きだった」
僕は思い出して言った。
「あずにゃんって、おじいちゃん子なの」
荻野くんが言った。
「まあね。もう死んじゃったのだけれど」
「そっか」
少し申し訳なさそうに荻野くんが言った。
 『生きる』は七郎おじいちゃんの大好きだった映画で、一緒に観たことがあったのを覚えている。祖父は『ゴンドラの唄』も好きで、よく鼻歌を歌っていた。『生きる』は、無気力で平凡な日々を送っていた役所勤めの初老の男・渡辺勘治が末期の癌を患ったことで、自分の身の回りのことに向き直らせられる話だった。一人息子との交流や、最後に何かを遺そうとして公園をつくろうと奮闘する勘治の姿が、印象的な物語だった。公園が子供たちに遺されたことに、勘治の死におけるささやかな救いを見出せた気がする。
「ごめんな。じいちゃんがやめろと言ってな。梓にも伝えるべきだったよな」
祖父の葬儀の日、父が言ったのを覚えている。祖父の死は、僕にとってはあまりに突然にやってきた。祖父が癌を患っていたことを、誰も幼い僕に教えてくれなかった。
「黒澤明は脚色や脚本がうまいんだよな。小国英雄に支えられているのだけれど。初期から中期の作品は、とにかくドラマのつくりが端正で、隙がない。『生きる』もそうだけれど。トルストイの『イワン・イリイチの死』からの頂きでね」
そんな風に楽しそうに語ってくれた祖父のことを覚えている。幼い僕は、博識で話好きな祖父のことを、どこか神秘的な存在として捉えていた。そして「依存」や「崇拝」に近い、強い愛着を祖父に対して抱いていた。
「いのち短し 恋せよ乙女」
祖父が幼い僕を背負って、そう歌ったことがあったのを覚えている。
「どういう意味なの」
僕は祖父に問いかけた。
「人生は短いから、好きなことをして楽しく生きよう、っていう歌だよ」
祖父は言った。
「おじいちゃんは何歳まで生きるの」
僕はふと、祖父にそう問いかけた。
「おじいちゃんは、あんまり長くは生きられないかなあ」
「どうして」
「どうしても、だよ。丈夫じゃないからね」
苦笑いして祖父が言った。
「約束してよ」
僕は言った。
「約束って」
「長生きするって、約束して」
「-わかった。じゃあ梓が結婚して、曽孫ができるまでは長生きするよ」
「指切りだよ」
「うん」
祖父が言って、二人は小指と小指を合わせた。
「ゆびきりげんまん 嘘付いたら針千本飲ます 指切った」
二人は言った。大きな硬い手の温もりを、今も覚えている。
「おじいちゃん、もう意識はないけれどね。梓が手を握っているのは、ちゃんとわかるんだよ」
集中治療室で最期を迎えようとしている祖父の前で、母が僕に言ったのを覚えている。あんなに大きかった祖父の手は痩せ衰え、触れただけで壊れそうだった。冷たくて、針のようだと思った。あの日から僕の中にはずっと、大切な人が突然いなくなることへの強い不安がある。
「ごめんね。なんか」
考え事をしていると、不意に荻野くんから神妙な面持ちで声をかけられた。
「全然。気にしないで」
僕は笑って言った。
 そういえば、と僕は思う。荻野くんは、どことなく祖父に似ている。博識で朗らかなのだけれど、人の心をわかっていて繊細なところとか。少年漫画の主人公のようだと、いつも思う。
「そっか。よかった」
荻野くんが、あの日の祖父のように苦笑いして言った。

 
 2019年4月8日(月)(夕方)(坂本樹)

 21KOMCEE棟の教室で旅行サークルの定例会が開かれており、それに参加している。定例会は毎週月曜の夕方に開かれる。インカレサークルだが、定例会には合宿前を除いて他大生が来ることは稀なので、普段はあまり人がいない。今は新入生歓迎の説明会を兼ねているので割と人が集まっている。里香はいないようだ。よかった。会うと気まずい。
 教室の前で副サークル長の田崎克典が活動の概要について話している。田崎は中学受験で僕が落ちた開成に合格しながらも、筑駒の受験にも受かって開成を蹴って筑駒に行き、バスケ部に所属しながらそこでも成績は上位で、理三の合格者平均点を超えた点数を現役で取って理一に入学し、大学では旅行サークルの他にもテニスサークルに所属して遊んでいるが、僕より成績は遥かにいいという、存在自体が僕への嫌がらせみたいな奴だ。愛想はいいが、時折他人を馬鹿にした内心が透けて見える、ような気がする。というより、そうであって欲しい。
 あたりを見回すと、向こうのテーブルに松村葵さんがいる。松村さんはお茶大の理系の学生で、顔が中条あやみに似ているとみんなが言っている。田崎克典と現在交際しており、お洒落で性格もいいので、男女両方から人気がある。Twitterの投稿など、フォロワーが三〇〇人くらいなのに何を呟いても毎度四〇以上の「いいね」がつく。インスタグラムの方でも、Twitterよりさらに多くの「いいね」がつく。
 ただ松村さんはキラキラしすぎていて、近寄りがたい印象がする。それにある種の胡散臭さを感じる。うまく言語化できないけれど、消しゴムを落とした時にはいつもニコニコしながら拾ってくれるのに、本当に困っている時には苦笑いして突き放しそうな感じがする。伝わるかなあ。
 彼女はTwitterのアイコンの画像を角川文庫の『夜は短し歩けよ乙女』の表紙にしている。なんとなくだけれど、彼女はあの小説のヒロインのような、天然ボケのゆるふわキャラクターを演出しようとしている感じがする。
「私ね、よく『不思議ちゃん』って呼ばれるんだよね」
彼女はそれが口癖で、しばしばドジっ子アピールをする。『臨死!!江古田ちゃん』にもそういうキャラクターが出てきたがそれと一緒で、好かれるためにキャラをつくりすぎている感じがする。
「この間ね、トイレで便座に座ったら『バキッ』て音がして。何かと思ったら、蓋を閉じたまま座っていたの」
彼女が以前、コンパでそんな風に言ったのを覚えている。
「やば。可愛すぎでしょ、松村ちゃん」
あの時、僕の「親友」木嶋隆がそんな絡みを炸裂させたのを覚えている。僕は、松村さんのああいう異性受けを狙ったような下ネタや、思わせぶりな振る舞いも苦手だ。「営業モード」という感じがする。なので僕はそういうところのない里香に、ずっと惹かれる。
 新入生説明会が終わると、一部の人は教室を出て行く。定例会の後には、残った人数次第で時々コンパが開かれる。今日は新入生もいるのでコンパがあるようだ。僕も一応顔を出そうかな。
「コンパ参加者は手をあげてください」
前で田崎が言った。僕も手を挙げる。見回すと三〇人くらいが来るようだ。どこへ行くのだろう。前の方で田崎たちが何か話している。ビュッフェとかファミレスかな。新入生は無料だが上級生はそうではないから、千円以内で済むところがいいな。
「今回は焼肉にしたいと思います」
田崎が言った。焼肉か。高いかなあ。まあ、いいか。渋谷か下北あたりの店だろうか。
「教室を出るので、新入生も付いてきてください。下北に行きます」
田崎が言った。下北か。着いていこう。
「お前さん、来るのか」
突然後ろから声をかけられる。振り返ると木嶋隆がいて、丸い出目をギョロつかせていた。
「そのつもりだけれど」
僕は言った。
「来てはならん」
木嶋が言った。何が「来てはならん」だ。『千と千尋の神隠し』のハクにでもなったつもりか。
「なんで行っちゃいけないんだよ」
僕は言った。
「サークルの評判を落とすことになる。新入生がいるのに。お前さんがいると」
腹立たしそうに木嶋が言った。じゃあ、お前も来るなよ。
「なんで君に命令されなきゃいけないんだよ」
僕は言った。
「僕はサークルメンバーの総意を代弁しただけだ。これはお前さんのためでもある」
木嶋が言った。わけがわからん。
「頼む。行かせてくれ。僕だって部費を払っている」
「お前さんがこのサークルにいると里香ちゃんも困るんだがな。お前さん、ちゃんと謝ったのか」
「まだだけど」
「やはり来てはならんな」
木嶋が言った。このコントみたいなやりとり、早く終わりにしたい。こっちを見ている人もいるし、恥ずかしい。
「今度絶対謝るから。頼む」
僕は言った。
「本当だな。嘘は五戒でも禁じられている。こざかしい真似をするとカルマを溜めることになるんだぞ。今度、里香ちゃんに確認するからな」
木嶋が言った。木嶋は仏教系の神秘主義に傾倒していて、何かにつけてこの手の話を投げかけてくる。頭がおかしくなりそうだ。
「神仏に誓うよ」
僕は言った。
「許してやる」
「ありがとう」
「ただ、お前さんから目を離すわけにはいかないからな。俺が見張らせてもらう。いいな」
木嶋が言った。もう、好きにしろ。そうして、僕たちはコンパに向かう列の最後尾に近いところに加わった。
 駒場東大前駅から井の頭線に乗って下北沢へ着き、東口を出てしばらく歩くと目的地の焼肉店に着く。みんなバラバラに入って、適当に席に着いた。僕は松村さんと田崎がいるボックス席に座った。正面に田崎と松村さんの二人と新入生女子二人、僕の右隣に新入生の男子二人と木嶋隆が座った。
「どんどん頼んでね。新入生はタダだから。タダで食べられるのは新入生の特権だからね」
メニューを見ながら田崎が笑って言った。
「お前らが仲よさそうなのを見せられているんだから僕もタダにしろ」
というセリフが頭に思い浮かんで、それがおかしくて僕は一人で吹き出しそうになった。しかし耐えた。
「俺は野菜しか頼まないんだ。殺生は五戒で禁じられているからね」
誰にともなく木嶋が言ったが、誰も反応しなかった。
 店員が注文を取りに来た。隣の女子二人が控えめに、しいたけとかかぼちゃとか肉を頼んだ。前の席の男子新入生は、ニコニコしながらロースやらタンやらホルモンやらをたくさん頼む。高校時代に運動部にでもいたのか、筋肉質な体格で背が高く、ハンサムの部類に入る顔だ。二年生たちも注文を告げ、訊き終えた店員は厨房の方へ行った。
「遠慮しないでね」
田崎が言った。
「二人は東大なの。同じ高校かな」
松村さんが女子二人に訊いた。
「東大です。二人とも桜蔭から理一。クラスは違うけれど。私は佐々木で、この子が山口です」
奥に座っている女子が言った。
「そうなんだ。私、松村葵って言います。お茶大です。いいな、東大。私も現役の時に理一を目指していたけど、途中で志望をお茶大に変えたんだ。えっと、君は」
松村さんが僕の隣に座っている新入生男子に言った。
「北沢って言います。理二。筑駒出身です」
「そうなんだ。じゃあ、かっちゃんと同じだね」
「うん。僕も筑駒。田崎克典って言います。後輩なんだね。そういえば見たことあるかもな」
「宜しくお願いします」
北沢が言った。
「あれ。木嶋ちゃんと坂本ちゃんも、筑駒じゃなかった」 
松村さんが言った。
「いや。木嶋はそうだけれど、僕は駒場東邦」
僕は言った。出たよ、天然ボケアピール。あるいは僕への嫌がらせなのか。
「筑駒なんて、無理に決まっているでしょ。坂本、めっちゃ馬鹿だもん」
木嶋が笑って言った。僕の中のアトラスが「恐縮だが、こいつをやってくれないか」と告げている。
「筑駒と駒場東邦って違うんだね。兄弟校みたいな感じなの」
松村さんが言った。
「近所にあるだけ。筑駒は日本トップの国立。駒東は普通の中高一貫私立だよ」
僕は言った。
「可愛いかよ、松村ちゃん」
木嶋が愉快そうに言った。
「ごめんね。本当にポンコツで。
 昨日、友達の女の子が家に泊まりに来ていたんだけど、あの子のズボンをスマホが入ったまま洗濯して壊しちゃった。荻野ちゃん、優しいから許してくれたけれど。後輩ちゃんにも迷惑かけちゃうかもしれないから、今のうちに謝っておきます」
松村さんが笑って言った。
 楽しくないなあ。新入生が来る新しいコミュニティで疎外されたくなかったから、コンパに顔を出してはみたけれど、帰ればよかった。

 
 2019年4月8日(月)(夜)(鹿目真奈美)

 ブログの更新を終えた。私は高校時代から、ゲームレビューのブログを書いている。収益を見込んだものではないけれど、備忘録を兼ねて趣味として書いている。タイトルは『午後からは、ちゃんと頑張ります』だ。ノリと勢いでつけたので、特に深い意味があるわけではない。プロフィール欄に「限界喪女ゲーマーのお気持ちレビューを垂れ流していきます」とあって、それがこのブログについての全てを物語っている。今日は一本、記事を載せた。もっとも、サークルの同人誌に寄せた文章のほぼコピペなのだけれど。


 2019/04/08(月)21:28:35「『キャプテン・ラヴ』についての覚書」


 ※以下の記事には『バイオショック』のネタバレが含まれています。未プレイの方は、先にプレイされてから読まれることを推奨します。

 1 序論
 
 『キャプテン・ラヴ』はRit’s制作、東芝EMIより一九九九年三月十一日発売のプレイステーション用ソフトです。すでに発売から二十年の時を経ている作品ですが、それが捉えた題材には今も輝きが損なわれない部分があります。マニアには有名な作品であって取り沙汰されることも多いですが、今回はこの作品を論じることを通じて、ビデオゲームにおける美学的批評や、そのテーマを巡る比較文学的批評を展開していきます。

 2 ジャンルパロディとしての『キャプテン・ラヴ』

 「恋愛シミュレーションゲーム」の歴史は長く、その定義にも解釈の分かれるところです。ここでは「ジャンルはその歴史性に基づき概念史によってしか定義できない」という立場をとり、以下に示す特徴が「恋愛シミュレーションゲーム」というジャンルの十分条件でも必要条件でもないことを前提としつつ『同級生』シリーズ『ときめきメモリアル』シリーズ『アマガミ』『うたの☆プリンスさま』シリーズには「代替可能性」とでも呼ぶべき共通点があると指摘できます。それはすなわち「ルート選択可能なキャラクターが複数いる」ということです。そして『キャプテン・ラヴ』はこの「代替可能性」に対しての批判的意識を有する、ジャンルパロディとしての側面があると言えます。
 ここで簡単に『キャプテン・ラヴ』のプロットとシステムについてのあらましを書いていきます。『キャプテン・ラヴ』の主人公は大学生の男性で、異性から魅力のある存在として設定されています。しかしそれが原因で恋愛絡みのトラブルに巻き込まれることが多く、恋愛から逃れるために「愛の共産化」を唱える「ラブラブ党」に身を置いています。しかし主人公は「ラブラブ党」の首領である永堀義光の娘・永堀愛美と知り合い、彼女と交際することとなります。自身の生き方がラブラブ党のイデオロギーとは乖離するところとなったため、激しく葛藤します。やがて主人公はラブラブ党からの脱退を決意するのですが、永堀義光は愛美と主人公の仲を引き裂くために奔走し、ラブラブ党から刺客を差し向けてきます。このラブラブ党の刺客との口論がゲームシステムの中心となるアクションです(口論で戦うという設定には『ラサール石井のチャイルズクエスト』笙野頼子『レストレス・ドリーム』などの類例があり、影響関係が気になるところですが、今回は筆を置きます)。そして、ラブラブ党の刺客と口論で戦いつつ、魅力的な複数の女性とも巡り合うこととなり、そうした中で主人公は愛美との愛を守り切れるのか、というのがこの作品の主題です。愛美以外のヒロインのルートへと進んでしまうと、バッドエンド扱いとなります。
 ここで指摘しておくべきことは、ゲームのシステムが「プレイヤー」に言及し「第四の壁」を突き崩す構造となっている点です。そしてそれは「代替可能性」を批判するジャンルパロディとしての性質と関わっています。すなわち、恋愛シミュレーションゲーム内部で往々にして演じられる「真実の愛」に共感しながら、その実「代替可能性」を有するゲームを消費しているに過ぎない「プレイヤー」について批判的に言及する構造となっているのです。ゲームにおける「プレイヤー」の位置づけについては、述べておくべきことが数多くあるので、次章ではビデオゲームにおける「プレイヤー」についての試論を展開していきます。
 
 
 3「プレイヤー」はどこにいるのか

 ここで、ゲームにおける「プレイヤー」のモデルについて検討していきたいと思います。ゲームにおける「プレイヤー」のあり方を考えるにあたっては、受容理論が提示した能動的な「読者」のモデルが参考になりそうです。しかし、ゲームの「プレイヤー」と小説の「読者」には相違があります。
 最も重要な相違点は、ゲームのテクストがその起源に基づいて二種類に分類されることによって生じます。ゲームの二種類のテクストとはすなわち、ソフトウェアに収蔵されたデータ(=「原テクスト」)と「プレイヤー」の操作によって綴られるテクスト(=「プレイヤー・テクスト」)です。ゲームに特徴的なのは「プレイヤー・テクスト」の存在であって、ここに「プレイヤー・テクスト」の創造者としての「プレイヤー」の特異性があります。「プレイヤー・テクスト」はそれ自体が一定のオリジナリティを持ちます。「ゲーム実況」のような形の文化が存在するのもそこに由来するのではないでしょうか。
 では、この「プレイヤー・テクスト」に着目して「プレイヤー」という存在についての考察を進めていきます。これを考えるにあたって『バイオショック』という興味深い作品がありますので、まずそのあらましについて述べていきます。
 『バイオショック』は一人称視点のシューティングゲームで、ジャックという男が主人公です。彼は旅客機の事故によって水中都市ラプチャーに迷い込みます。そしてラジオから聞こえるアトラスという男の指示に従って、天才科学者アンドリュー・ライアンの支配するラプチャーからの脱出と、ライアンの殺害を試みます。主人公によるラプチャーの探索において、キーとなるのがリトル・シスターの存在です。リトル・シスターは主人公の強化に必要となる重要なエネルギー・ADAMを唯一生成し、利用可能な形に加工することのできる存在です。主人公はラプチャーで遭遇したブリジット・テネンバウムより、彼女たちの保護を依頼されます。「プレイヤー」は、自らの選択により、リトル・シスターを保護して少量のADAMを得るか、殺害して大量のADAMを得るかを決めることとなります。
 この作品はアイン・ランドの他、ジュール・ヴェルヌやロバート・A・ハインラインなどの、リバタリアニズム的なイデオロギーを内包するSF作品に対するパロディになっています。『バイオショック』が風刺の矛先を向けるのは、リバタリアニズムの根幹となる「自由」です。このゲームは一本道のシューティングゲームなのですが、そうしたシステム上の制約が伏線となっています。物語の終盤にライアンと遭遇し、主人公・ジャックは衝撃的な事実を告げられます。ジャックはライアンの宿敵であるフランク・フォンテインにより洗脳を施されており、全ては彼により仕組まれたことだというのです。アトラスという男は存在せず、その正体はフォンテインだったのでした。そして主人公は「恐縮だが」という文言つきで指示をされると、それに強制的に従わされるため、フォンテインであるところのアトラスの指示通りに動かされていました。すべてはフォンテインによって仕組まれたものであり「プレイヤー」もジャックも、フォンテインに誘導されていたに過ぎなかったのです。
 リトル・シスターを保護する選択をしていたことがグッドエンドへの分岐条件となっており、そのルートにおいてジャックはフォンテインの洗脳を逃れ、彼を打ち破ります。グッドエンドにおいてはジャック並びに「プレイヤー」に対して、リトル・シスターへの対応を選択する「自由」が与えられ、彼女の「自由」を尊重する決断を下したということが希望として捉えられています。
 しかし、ここにおいて一つの疑問が浮かび上がります。果たしてジャック=「プレイヤー・キャラクター」は「自由」を獲得しているのでしょうか。すなわち「プレイヤー」による支配(=決定論)からは逃れられているのでしょうか。ここに「プレイヤー」が操作する「プレイヤー・キャラクター」と「プレイヤー」との関係を考察する余地が生まれます。
 ところで「プレイヤー・キャラクター」とは、どのような存在なのでしょうか。「プレイヤー・キャラクター」は、ナラトロジーにおける「語り手」の類型とも、性質を異にするようです。それはゲームのテクストの特殊性に由来します。ゲームにおける物語られるテクストとは「プレイヤー」の選択によって紡がれる「プレイヤー・テクスト」です。そうであるから「プレイヤー・キャラクター」は物語る行為のごく一部を背負うものでしかありえず、どの種の小説の「語り手」とも同一視できるものではありません。
 そして、こう言いうると思います。「プレイヤー」とビデオゲームが相互作用の中で「プレイヤー・テクスト」を物語る行為において「プレイヤー」のメタファーとしての役割を便宜的に与えられた存在、それが「プレイヤー・キャラクター」であると。テクストの中で一定の役割を与えられた「プレイヤー・キャラクター」は「プレイヤー」から全的に把握され支配されるわけではなく、両者が所有する情報には非対称性があります。また「プレイヤー・テクスト」内部での「プレイヤー・キャラクター」の「自由」な振る舞いは「プレイヤー」の「自由」によって担保されているものであります。
 「ジャックは『プレイヤー』の一方的な支配から逃れられているのか」という問いに戻るならば、この問いかけ自体が本質を捉え損なっているのだと思います。「プレイヤー」のメタファーとしての「プレイヤー・キャラクター」の「自由」は「プレイヤー」の選択の「自由」によって獲得されるものであるのでしょう。そしてそれを『キャプテン・ラブ』に敷衍するならば「代替可能性」という選択の「自由」を所有していることに対して異議申し立てをされるのは「プレイヤー」でありそのメタファーたる「プレイヤー・キャラクター」であるのでしょう。

 
 4「代替可能性」と恋愛をめぐる作品群
 
 「代替可能性」が風刺の対象となっていることから「プレイヤー」ならびに「プレイヤー・キャラクター」に突きつけられることは何でしょうか。「代替可能性」の否定を考えてみるならば「ルート選択可能なキャラクターが一人、もしくは存在しない」となります。このような恋愛の類型はロマン主義ならびに写実主義の文学作品に見出すことができます。すなわちゲーテ『ファウスト』のごとき「唯一絶対の相手との、無垢の永遠の愛」と、写実主義における「望む相手を持てないことの孤独」です。逆に「代替可能性」を有することの類例を考えてみるならば、社会生活上の実利に基づく「リアリスティックな恋愛」と遊郭における「色」のような「遊戯的恋愛」が挙げられるのではないでしょうか。ここで、それぞれの恋愛の具体例となる現代文学のテクスト『好き好き大好き超愛してる。』『夜は短し歩けよ乙女』『下流の宴』『ノルウェイの森』における「代替可能性」について考察をしていきます。
 『好き好き大好き超愛してる。』は舞城王太郎による作品で、二〇〇四年八月に単行本が講談社より刊行されています。この作品は小説家である主人公・治と、その恋人で既に他界した柿緒との恋愛関係を巡る内容になっています。そして主人公と柿緒の章の間に、恋愛を主題とするSF小説三編(「智依子」「佐々木妙子」「ニオモ」)が挟まれる形式になっています。
 この作品は片山恭一『世界の中心で愛を叫ぶ』高村光太郎『智恵子抄』堀辰雄『風立ちぬ』檀一雄『リツ子 その愛・その死』村上春樹『ノルウェイの森』などを参照しているように見受けられます。方法面ではコンセプチュアルアート、ポップアート、ポストモダン文学に倣っている部分が大きいようです。コラージュを用い『世界の中心で愛を叫ぶ』というポップカルチャーにおける作品をロマン主義や象徴主義、モダニズムの系列に属する古典と並べて配列することで「古典」や「文学」のコードを相対化してみせます。そして舞城は「唯一絶対の相手との、無垢の永遠の愛」を諧謔混じりに肯定してみせます。それは素朴にそうした恋愛のあり方を称揚しているというよりも、むしろ「純文学」を素朴に信仰し「純愛」「真実の愛」といったテーマにシニカルな視線を向ける俗物的な「読者」に対する異議申し立てなのではないでしょうか。
 そうしたコンセプトは『キャプテン・ラブ』とも通じるところがあります。特撮ヒーローのパロディの枠組みの中で「真実の愛」についてコミカルに、かつ真摯に描こうとする『キャプテン・ラブ』の主題には、舞城の作品との共通点が見出せるでしょう。それらは共に「読者」「プレイヤー」に対して「唯一絶対の相手との、無垢の永遠の愛」が困難かつ尊いものであることを「読者」「プレイヤー」のあり方への批判的言及によって突きつけているのです。
 次は『夜は短し歩けよ乙女』です。これは森見登美彦による作品で、二〇〇六年に角川書店より刊行されています。この作品は、坪内逍遥の『当世書生気質』以来のリアリズム小説から発想の多くを頂いているようです。また「語り」の部分では獅子文六や佐々木邦、中野実などのユーモア小説の文体を参照としているように見受けられます。テクストは(おそらくは)京都大学に在籍している男性「先輩」と、その後輩「黒髪の乙女」の二人により物語られます。物語の中心となるのは「先輩」が寄せる「黒髪の乙女」に対する片想いです。四迷、漱石やゴンチャロフ、ドストエフスキーを思わせる、インテリ青年の苦悩と孤独が描かれています。「先輩」は所謂「非モテ」で、肥大化した自意識を抱えながらも、ドストエフスキー『罪と罰』のラスコーリニコフのような衝動的な行動力さえ持ち合わせません。「先輩」がひたすらに内向的な性格と孤独とをこじらせる様子が、ユーモラスに描かれます。
 『罪と罰』『地下室の手記』もそうですが「孤独」は傍から見たら喜劇ですが、本人にとっては悲劇です。『夜は短し歩けよ乙女』の主人公が感じる孤独の苦痛がどこに由来しているかといえば、異性に恋愛感情を向けてもらえないことです。『地下室の手記』では主人公が承認欲求をこじらせて、歪んだ支配欲から娼婦に説教をする場面がありますが、孤独は時に他者へのそうした暴力的な振る舞いとして現れます。『夜は短し歩けよ乙女』において、片思いとそれに伴う孤独はファンタジックかつユーモラスに描かれていますが「先輩」の思考や行動は森見『太陽の塔』の主人公と同様に、ストーカーじみてもいます。
 恋愛弱者の味わう疎外感の苦痛や、それに由来する性加害のことを考えれば『キャプテン・ラブ』において主人公が戦うラブラブ党の唱える「愛の共産化」の主張にも、一理あると言えるのかも(?)しれません。加えて、現実の恋愛を逃れて「代替可能性」を有する「恋愛シミュレーションゲーム」に没入する「プレイヤー」のあり方にも、積極的な意味が与えられるかもしれません。
 続いて『下流の宴』です。これは林真理子による作品で二〇一〇年三月、毎日新聞社より単行本が刊行されています。ある平凡な中流家庭・福原家が舞台です。母・由美子は息子である翔のことを心配しています。翔は姉・可奈と違い何事にも熱意がなく、高校も中退しています。あるとき翔は、フリーターの宮城珠緒と結婚することを由美子に告げます。家の格に傷がつくことを危惧して、由美子はこれに断固として反対しますが、それにさらに玉緒が反発します。そして玉緒は、自分が国立医学部受験に合格して医者になってみせると断言します。こうして玉緒の受験勉強がスタートし、その顛末がドラマの中心に据えられています。そして、それを取り巻く人々の恋愛模様も細かに描かれていきます。
 この作品は早くはモリエール、シェイクスピア、近代においてはフローベール、ゴンチャロフ、ドストエフスキーが展開した風習喜劇の現代版と言えます。八十年代に鋭敏な時代感覚によって村上龍とともに異彩を放った林真理子の筆は健在で、受験業界や高学歴の世界の描写には確かな取材力を窺い知れます。
 またオースティンや漱石の文学同様に「結婚」のモチーフがリアリスティックに描かれています。オースティンの小説においてもそうですが『下流の宴』で恋愛を繰り広げる翔と可奈はどちらも恋愛に冷めた視線を持っています。二人において共通しているのは「恋愛の相手は代わりがいる」という認識です。性格や将来性を基準に相手を値踏みし、基準に見合うものであれば恋愛に踏み切ります。それは「代替可能性」を有する恋愛シミュレーションゲームを消費する「プレイヤー」のあり方と重なるのでしょう。
 最後に『ノルウェイの森』です。村上春樹による作品で、一九八七年九月に刊行されています。六〇年代の東京を舞台にワタナベと直子の関係が描かれる恋愛小説です。ジョイスやフィッツジェラルドに倣い、実在の文物がモチーフとして効果的に取り入れられています。徳田秋声や武田麟太郎の文学の系譜に連なる、一時代の風俗を記録したものとして魅力的な作品と言えるでしょう。
 さて『ノルウェイの森』は時代風俗の資料として興味深い作品ですが、その中の一つとしてカジュアルなセックスが見受けられます。ワタナベと永沢は二人でナンパに出かけて、誘った女性と一夜限りの肉体関係を持ちます。『ノルウェイの森』にあるのは、春樹が『若い読者のための短編小説案内』で好意的に言及した「第三の新人」の一人・吉行淳之介にも似た「回避的な遊戯的恋愛」であると言えます。すなわち相手との深い精神的なつながりを避け、肉体のみの結びつきに留まろうとしているように見受けられます。それは他者と関わることで傷つくことを恐れているかのようです。
 春樹の作品にはしばしば「自殺」のモチーフが現れますが、作者の抱いている何らかの「自殺」に纏わるトラウマ、そしてそれに基づく登場人物の回避的な傾向こそが、春樹の文学の本質であるのかもしれません。春樹の文学に通底する個人主義を決定づけているのは、人のあらゆる選択の「自由」が奪われる「自殺」への強い忌避感情と、他人が「自殺」を選択する意思決定に自分が与することへの強い回避的な傾向であるのかもしれません。
 『キャプテン・ラブ』の主人公も、恋愛絡みのトラブルから逃れるために、ラブラブ党に身を置いていました。そうした在り方は「代替可能性」により心理的留保を置いて「純愛」をたやすく享受しようとする「プレイヤー」のあり方と重なるのでしょう。
 これまでの話を綜合するなら「プレイヤー」は「プレイヤー・キャラクター」である主人公と選択の「自由」を共有し「真実の愛」のために争うことで「代替可能性」に逃避する回避的なあり方を批判的に捉えることが可能になるのでしょう。「真実の愛」を追求することは困難であり、時には自他を傷つけさえするものです。それでも尚「真実の愛」を追求することは、尊重するに値する「自由」なのでしょう。

 
 参考文献

ロバート・ステッカー著、森功次訳『分析美学入門』(勁草書房、二〇一三)
ルイス・ジアネッティ著、堤和子ほか訳『映画技法のリテラシーⅡ 物語とクリティック』(フィルムアート社、二〇〇四)
秋葉剛史ほか著『現代形而上学:分析哲学が問う、人・因果・存在の謎』(新曜社、二〇一四)
村山匡一郎編『映画史を学ぶクリティカル・ワーズ』(フィルムアート社、二〇一三)
土田知則・青柳悦子・伊藤直哉『現代文学理論-テクスト・読み・世界』(新曜社、一九九六)
斎藤美奈子『文壇アイドル論』(岩波書店、二〇〇二)
大谷晃一『評伝武田麟太郎』(河出書房新社、一九九七)
さわやか著『僕たちのゲーム史』(星海社、二〇一二)
小谷野敦著『「男の恋」の文学史』(朝日新聞社、一九九七)
高階秀爾監修『西洋美術史』(美術出版社、二〇〇二)


 2019年4月9日(火)(朝)(後藤春香)

 ブログの更新を終えた。私は高校時代からゲームレビューのブログを書いている。タイトルは『風雲!御春城』で『風雲!たけし城』からタイトルを拝借した。収益化を見込んだものではなくて、ストレス発散のために書いている。だから誇張や脚色を交え、キャラをつくりながら言いたいことを言っている。文体は斎藤美奈子や金井美恵子に影響を受けているかもしれない。
 


2019/04/09(火)08:02:48「『ペルソナ5』採点9/10  -現実とフィクションのあいだ-」


 現実とフィクションのあいだ

 『ペルソナ5』において特筆すべきは、まずグラフィックです。3Dアニメーションで構成された渋谷の景観のディテールには圧倒されます。実在の人物や文物がフィクションの世界に取り込まれている演出には、近代文学にも早くはラファイエット夫人『クレーヴの奥方』やウォルター・スコット、アレクサンドル・デュマの作品があり、フィクションのベーシックな演出の一つと言えるのかもしれません。
 私がこうした演出に初めて接したのは、ファミリーコンピューターの『マイクタイソン・パンチ アウト!!』によってでした。これはボクシングを題材にしたアクションゲームで、敵選手としてマイク・タイソンも出演するのでした。
「マイク・タイソンって誰」
幼い私は、パパにそのときそう問いかけたのでした。パパはあの頃からずっと、私の趣味友達であり親友のような存在です。
「プロボクサーだよ。実在する」
私の問いに、パパはそう答えました。
「強いの」
私はさらに尋ねました。
「強いんじゃないの。パパは格闘技が嫌いだから、全然観ないけど。そんな僕でも名前は知っているから」
「どうして格闘技が嫌いなの」
「血が出るから」
「ゲームだって血が出るよ」
「それは話が別。フィクションの中では血が出ても、本当に人が死んだり怪我をしたりしているわけではないだろう。スポーツだと本当に怪我をしているからね」
「マイク・タイソンは実在の人でしょ。それがゲームの中で殴られているのは大丈夫なの」
「面白いことを訊くなあ。それは平気だよ。でも言われてみればかわいそうかもなあ」
ボサボサの髪を掻いて笑って、パパは言いました。
「難しいね」
私は言いました。
「映画でも『戦争もの』は苦手。あと実話系の暗いやつ。だって作品の向こうには本当に悲劇が控えているから」
 パパはそう言いました。折に触れてパパとのそのやりとりを懐かしく思い出します。あの日のパパの言う通り、フィクションの内部での事実に引き起こされる情動と、現実の事実に喚起される情動というのは別種のものなのでしょう。そこから考えると、実在の文物がフィクションに登場することの妙味とは何かが見えてきます。
 実在の人物や文物が登場することで、そこがフィクションと現実を結ぶ接点となり「第四の壁」が突き崩される。そしてその「虚実の入り混じった虚構の持つもっともらしさ」が、ある種の情動を引き起こすのではないでしょうか。日本には「私小説」「伝奇ロマン」と呼ばれるジャンルがありますが、それらもまた、フィクションと現実の狭間から情動を刺激してくれるように見受けられます。そして、それに関連して思い出す父とのやりとりがあります。
「『ペルソナ4』が日本神話をモチーフにしているから思い出したけれどね。ハルが幼稚園に入る前くらいかな。神話をモチーフにする作品が流行っていた。中上健次なんかも、僕の周りで流行っていたっけ。伝奇とか私小説の作家なんだけれど」
私が中学生の頃、パパが私にそう語りかけたのでした。一緒に『ペルソナ4』で遊んでいたときのことです。
「あの頃『千と千尋の神隠し』がヒットしたり、ジャパニメーションが注目されたりしていてね。タランティーノとかジャームッシュとかの東洋テイストも流行っていたのだけれど。そういう中で『伝奇』が注目されていて。中上健次もそれで注目を浴びていたんだよね」
パパは続けて言いました。
「伝奇って『俺の屍を越えてゆけ』とか『天外魔境』みたいなやつ」
私は言いました。
「そうそう。あの辺りのやつは、八〇年代に幻想文学とかラテンアメリカ文学のブームがあって、それに乗っかった感じ。中上も『千年の愉楽』あたりからラテンアメリカ文学風味になる」
「中上って面白いの」
私は言いました。
「うん。怪談みたいな味わいがあるんだよね。語り口が」
「ホラー風なの」
「ホラー風っていうか、フォークロアの魅力かな。ゲームで言ったら『学校であった怖い話』みたいな。話の内容そのものというより、いろいろな語り手による話芸の面白さ」
「そっか」 
「それとホラーと言えば、九〇年代ごろから『Jホラー』が流行り出してね。ゲームだと『serial experiments lain』も流行っていたっけ」
「有名だけど、内容を知っているだけ」
「プレミアソフトだしね。僕も友達に借りただけ。あの頃はポストモダン文学、不条理文学、実存主義文学が流行っていてね。認識論やマルクス主義、カルスタなんかにコミットして『現実と虚構』とか『夢と現実』の二項対立の図式の境界を転倒させる演出がブームだったんだよね。『serial experiments lain』とか『リング』とかもそういうコンセプトだし。観るとメディアの側から加害を受ける。観ると呪われる系」
父が言いました。
「小学校でも『知ったら呪われる』タイプの怪談が結構流行っていたな。『紫の鏡』とか『カシマさん』とか」
私は思いついて言いました。
「懐かしい。僕が子供の頃からあったわ。『Jホラー』ブームの頃は『学校の怪談』も流行っていたな」
「『ペルソナ』シリーズも、一作目は『学校の怪談』ブームの頃だよね」
「そうそう。『学校の怪談』の映画は全部リアルタイムで観たのだけれど、面白かった。僕の体感だけれど『学校の怪談』ブームに、それまでのいろいろな表現史の流れが合流していく感じがするんだよね。中上健次にあった民俗学的方法の文学的実践。『赤頭巾ちゃん気をつけて』とか『桃尻娘』とかのティーンエイジスカース。大林宣彦のノスタルジックなジュヴナイルホラー。不条理演劇やポストモダン小説にあった『現実と虚構』の転倒。それらがみんな『学校の怪談』に受け継がれたと思う」
父がそう言っていたのを覚えています。『学校の怪談』ブームの頃にスタートした『ペルソナ』シリーズも、そうした表現史上の文脈のなかにあると言えるのではないでしょうか。そして冒頭で説明した『ペルソナ5』が持つ現実世界との接点には、参照先になった既存の作品群並びに、それによって構成される表現史上の文脈も含まれるのでしょう。父は続けて言いました。
「『ペルソナ』シリーズも最初はピンとこなかったけれど、三作目から化けたね。あそこからメジャーになった。ボーカル曲をBGMに取り入れてスタイリッシュになって。でも三作目に至っても、それまでのシリーズにあった良さは損なわれていない気がするんだよね。正当に進化している。作り手側が過去の作品をよく勉強しているんだよね」
私が『ペルソナ5』に感銘を受けたのは、父があのとき言っていたような、既存のテクストへの批判的な姿勢が垣間見えたことでした。システム、UI周辺におけるシリーズ過去作品の欠点が『ペルソナ5』では軒並み解消され、表現としてより高い次元に昇華されていました。そんな表現史への批評意識こそが『ペルソナ5』を佳品たらしめていると思います。

 
 ギャルゲーと呼ばないで

 正直なところを申し上げますと、私は「エロゲー」「ギャルゲー」と呼ばれる恋愛シミュレーションゲームを蔑視しております。オタクの願望を具現化したキャラクターもグロテスクですし、時々現れるアフォリズムもアフォみたいで寒々しいですし、何よりUIやシステムの不備に辟易します。そんなわけですので、私は『ペルソナ5』を「ギャルゲー」と揶揄する風潮に嫌悪を覚えます。
 加えて「エロゲー」や「ギャルゲー」をゲームの最先端のように扱う界隈にも反吐が出る思いであると宣言しておきます。特に嫌いなのが『沙耶の唄』です。これは「カルト映画」ならぬ「カルトゲーム」とでも形容しましょうか。とにかく通人ぶった人たちからは人気のある作品です。この作品に関連して思い出すやりとりがあります。
「サドの小説とかトリアー監督の映画が、俺は嫌いでね」
先日、知人の「おとやん」がそんな風に言ったのでした。おとやんはずんぐりした映画マニアの男の子で、趣味について熱く語るのが得意な方です。
「トリアーって誰」
私は言いました。
「陰惨な映画ばかり撮る映画監督。ああいうノリが嫌い。無闇に表現が過激で」
「そうなんだね」
「彼の表現には詩情がない。でも『狂気』とか『心の闇』とかって、コテコテに描かないと大衆には届かないからね」
「そうかも」
「インディーズ映画もアート映画も、隙間産業だから。『いかに低予算で、何かあるように見せるか』が主眼になるわけ。それでエクスプロイテーション映画路線が有効性を持つの。過激なエログロナンセンス。ああいうのは下品で好きじゃないんだよなあ。イーストウッドと違って、暴力が持つ高尚な官能を捉え切れていないからね」
「そっか」
「安っぽい『狂気』や『心の闇』で衒いを出す『アート映画』が嫌なんだよね。大島渚とか若松孝二とかが最たるものだけれど。『アートエクスプロイテーション』とでも呼ぶべきかな。アート風のガワだけあって、表現史への批評精神がない」
そんな風に憤っていたおとやんを覚えています。映画にそれほど興味がない私が言うのも難ですが、おとやんの激憤も尤もです。私も『沙耶の唄』にある「狂気」のバーゲンセールが嫌で嫌で。だってよくある演出なんですから別段ありがたいものでもないのに、それをゲームの最高峰のように崇め奉っている方たちが哀れで。狭い趣味の愛好家ならそれらしく縮こまって自分の趣味を楽しんでいれば良いのですが、如何せん彼らは作品よりも「高級な趣味を持っている自分」が好きなものだから、ああいう下品で野暮な振る舞いになるんでしょう。困ったものです。
「それから俺は、哲学風味を効かせるのも嫌いでね。映画だとゴダールっていう監督あたりから特に始まるけれど。難解さでハッタリを効かせるのはフォニィだから嫌いなんだよね。核心に迫らない」
あの日、おとやんはそんな風にも言っていました。
「私もネットの考察文化は嫌いかも。フロムソフトウェアのゲームとか。すぐギスギスするから」
私はそのとき言いました。
「非線型の語りで何かあるように見せるのはドイツ表現主義あたりが先駆で『新世紀エヴァンゲリオン』もエポックメイキングな試みだったけれど、飽きられやすいって言えば飽きられやすい演出だよね。『エヴァ』はインターネットの黎明期にああいう企画を構想して、ネットの考察を低コストの広告に仕立てたのが庵野の卓抜した手腕だったけれどね」
「そうだよね」
「結局、そういうのってビジネス上の戦略に過ぎないわけでさ。あまりそこから何か深遠なものを読み取ろうとしても不毛なわけ。受容理論的な『深読み』なんて、いくらでもできちゃうんだから」
得意そうに語っていたおとやんを思い出します。確かに、彼の言う通りなのです。私は「難解さ」の安売りが嫌で。なぜならそれに付き合うのがかったるいからです。私が惹かれるものとは表現史への批評精神や表現史上の必然性であって「狂気」や「難解さ」の押し売りではないのです。
 そんなわけですので、私は「エロゲー」や「ギャルゲー」を好む一部のコミュニティの人たちのノリも嫌ですし、また恋愛シミュレーション要素を巧みに取り入れている作品に対して侮蔑的に「ギャルゲー」と呼ぶのも嫌いです。『ペルソナ5』は「ギャルゲー」要素を採用していますが、それが「エロゲー」とか「ギャルゲー」とか呼ばれるのは辛いのです。
 
 
 歌物語としての『ペルソナ5』
 
 ただ私は、恋愛シミュレーションゲームを全て嫌っているわけではありません。例えば『うたの☆プリンスさま』シリーズは好きです。ストーリーのテンポが良く、UIのもたつきも感じさせないからです。このシリーズに関連して、親友の「マナフィー」とちょっとしたやりとりがあったのを覚えています。マナフィーは朝ドラの主人公のように、真っ直ぐな心を持った女の子です。
「『うたプリ』ってありそうでなかった枠だよね。ポップスの歌詞に沿ってメロドラマが展開される『乙女ゲーム』って」
あのとき、マナフィーは言いました。
「ボーカル曲って、ゲーム音楽では少ないものね。芸能界を描いたゲームも当時はあまりないし」
私は言いました。
「深沢七郎って知っている」
マナフィーは言いました。
「『楢山節考』だけ読んだ」
私は言いました。
「深沢七郎ってポップミュージックと物語の結びつきを、歌物語の系譜上に蘇らせた作家だと思うんだよね。『うたプリ』もそれに通じる演出を感じて好き」
マナフィーが言いました。
「歌って物語性あるよね。歌詞とかメロディーに」
私は言いました。
「そうそう」
「歌詞と物語の繋がりを考えるのも好き。『メタルギアソリッド3 スネークイーター』の『Snake Eater』とか」
私は言いました。
「いいよね。『Snake Eater』はナンバリングの四作目まで遊ぶと、歌詞の意味が違って聞こえるのが好き。叙述トリックみたい」
マナフィーが言いました。
「わかる。『逆転裁判3』のゴドー検事のテーマもそんな感じ」
「わかるわかる。その手のやつだと『魔法少女まどか☆マギカ』の『また あした』が好き」
「アニメ観たのに、忘れちゃった」
「うん。主人公のまどかが感じる孤独を伝える歌詞なのだけれど、アニメの終盤まで観ると、本当の意味がわかるの」
マナフィーは言っていました。彼女の言う通り『うたの☆プリンスさま』には歌物語としての魅力があるように思われます。歌の持つムードや物語性が、物語の魅力と相互に影響するのです。『ペルソナ5』にもそれと近い部分があります。ボーカル曲の持つ物語性が、物語との相乗効果を醸します。マナフィーはあのとき続けて言いました。
「音楽って、記憶と密接に関わっている気がするんだよね。春樹の『ノルウェイの森』も、そういうところを描いている」
「そうかも」
私は言いました。
「昔好きだったアニメの曲とか、聴くと思い出が蘇ってくる」
マナフィーは言いました。
「わかる。心が虚無のとき、好きだったアニソンを聴くとメンタル癒される。『しゅごキャラ!』のオープニングの歌詞とか、今になって身に沁みる。『悲しい日はお腹いっぱい食べればいい たまにヘコんだら昼まで寝てればいい』って」
私は笑って言いました。マナフィーの言う通り、音楽が喚起する記憶があります。そしてゲーム音楽は、ゲームと触れ合ったプレイヤーの記憶をも呼び起こします。『ペルソナ5』を彩る魅力的なボーカル曲は、その歌詞とメロディーの持つ物語性が物語と絡み合うと同時に「ゲーム体験」にまつわるプレイヤーの記憶を呼び起こし、プレイヤーの情動を刺激するのです。


ささやかだけれど、もやもやするところ

 このゲームには一つ大きな瑕疵があります。それはストーリーです。このゲームでは『ペルソナ4』に引き続いて、敵キャラクターに「シャドウ」という存在が登場します。『ペルソナ』シリーズは精神分析、とりわけユングが設定の下敷きになっていて「シャドウ」もその一つです。「シャドウ」は『ペルソナ4』にも『ペルソナ5』にも重要な存在として登場します。しかし『ペルソナ4』における「シャドウ」が元の人間の抑圧されていた感情が具現化された存在であるのに対し『ペルソナ5』における「シャドウ」は当人の歪んだ認知が具現化したものになっています。『ペルソナ4』においては、登場人物たちが自己の「シャドウ」と向き合うことで心の力である「ペルソナ」に昇華させるのに対して『ペルソナ5』において「シャドウ」は主人公たちに討伐されるだけの存在です。主人公たちは「シャドウ」を倒すことによって、現実世界で不当な手段によって私利私欲を満たす悪人たちの認知の歪みを矯正し「改心」させていきます。ここには「シャドウ」の持ち主が「シャドウ」と向き合う過程は存在しません。
 『ペルソナ5』における主人公たちの正義を留保抜きに肯定することは難しいと思います。『ペルソナ4』における主人公たちの活動を認知行動療法の隠喩として捉えるならば、それが自己のトラウマやコンプレックスを意識化することを促しているように解釈できるのに対して『ペルソナ5』においては、主人公たちは強制的に登場人物の人格を修正します。ここにおいて元の人間の主体性や自由が尊重されているとは言い難いでしょう。主人公たちの「正義」にはある登場人物から疑問が投げ掛けらますが、それに対して有効な反論を主人公たちが見つけられたようには思われません。この点は、やはり無視できない大きな瑕疵ではないでしょうか。
 少し脱線するようですが、これと関連して思い出す友人の「神宮寺」ちゃんとのやりとりがあります。神宮寺ちゃんは裏表のない女の子です。
「私、少女漫画が苦手なの。というより、女子向けコンテンツ全般が」
神宮寺ちゃんはそのとき言っていました。
「そうなんだね」
私は言いました。
「『女性性』を押し付けられている感じが、息苦しい」
神宮寺ちゃんは言いました。
「ちょっとわかるかも」
私は言いました。
「男子向けコンテンツも苦手なときはあるけれどね。男の子のセクハラは健康的だから無罪、みたいなノリ。でも女子向けコンテンツの方が苦手率は高い」
「私も女子向けコンテンツの、恋愛万歳みたいなノリが苦手かも。恋愛に興味がないから」
私は笑って言いました。
「わかる。私は『花より男子』が死ぬほど嫌い」
「そうなんだね」
「あれってスクールカースト頂点のDQNグループと恋愛する話じゃん。それがもう、倫理的に無理。他人をいじめで陥れて不登校にする人たちとか、軽蔑の対象でしかない」
神宮寺ちゃんは言いました。
「そりゃそうだよね」
「私、少年漫画だと『ハンター×ハンター』が好きなんだけれど。あの漫画はアウトローへの距離の取り方は絶妙だと思う。セクハラみたいなノリもないし、好き」
「わかるかも。ゲンスルーたちとか、田舎のDQNみたいなメンタリティだよね。平気で暴力を振るうのに、妙に仲間に義理堅いところとか。まあ私、その手の人と関わらずに過ごしてこられたから、憶測だけれど」
私は笑って言いました。
「私は地方公立中学校にいたけれど、荒れていたな。DQNもいたけれど、あんな感じだよ。妙に仲間意識強くて、独特のルールで生きていて」
神宮寺ちゃんは言いました。
「面倒臭そう。でも『ハンター×ハンター』はアウトローとの距離の取り方は上手いけれど、主人公サイドの描写は倫理的に危ういよね。キルアも殺し屋だった過去が簡単に許されていいのかな、とか」
私は言いました。
「それはあるよね。でも連載が長期化して作品の方向性が変わると、キャラの行動とか正義に一貫性がなくなってしまう部分が出てきちゃうのは、仕方がないのかなあ。難しいよね」
神宮寺ちゃんはしみじみ言っていました。制作が長期に渡った『ペルソナ5』もその過程で様々な紆余曲折があったでしょうし、作品にいくつかの欠点は不可避的に伴うものなのかもしれません。好きな作品なので、批判するのは心苦しい部分もあります。しかし、それでも『ペルソナ5』が物語において抱える大きな欠陥を看過することはできません。
 『ペルソナ5』が歴史的文脈の上に優れた表現的達成を成し遂げたことを私はこれまでに指摘してきました。しかしストーリーに関しては、前作である『ペルソナ4』において制作側が何を成し遂げ、また何を成し遂げられなかったのかを批判的に検討することがやはり求められたのではないでしょうか。
 

 参考文献                                           
                                        
渡辺茂・石津智大著『神経美学:美と芸術の脳科学』(共立出版、二〇一九)
村山匡一郎編『映画史を学ぶクリティカル・ワーズ』(フィルムアート社、二〇一三)
石原孝二著『精神障害を哲学する:分類から対話へ』(東京大学出版会、二〇一八)
アンドレ・モーロワ著 菊池映二訳『アレクサンドル・デュマ』(筑摩書房、一九七一)
東雅夫、石堂藍編『日本幻想作家辞典』(国書刊行会、二〇〇九)


 
 2019年4月9日(火)(昼)(竹田音也)

 Filmarksのレビューを書き終えた。中上健次原作の映画をまとめて消化したので、その感想を投稿した。


「『千年の愉楽』 星1.0
 
 問題外の愚作。若松孝二は大島渚と並んで、エクスプロイテーション映画ばかりを撮りながら『巨匠』と見做されている作家監督だ。両者共に軒並みどの作品も愚作だが、これは輪を掛けてひどい。遺影が話しかけてくる場面のイメージの貧弱さ、発想の浅ましさには目を覆わしめるものがある。キャストも原作のイメージとは程遠く、高岡蒼佑のみかろうじて評価できる。中上健次への冒涜と言える内容。
 
                                       
『軽蔑』 星2.0

 凡作寄りの駄作。廣木隆一はプログラムピクチャーの優れた職人と言えるが、これはそもそも原作が悪い。中上健次は純文学においては鋭敏な批評精神を保ち続けた作家であったと言えるが、娯楽小説においては三島由紀夫とは対照的に愚作ばかりをものした。それはもっぱら本人の怠慢に由来している。すなわち「純文学」と同様に、漫画や通俗小説にもそれぞれの表現史や創作のコードがあるという事実から目を背け、娯楽の創造という作業に真摯に向き合おうとしなかった。マイク・タイソンが登場することでも知られる珍作『南回帰船』など、愚作の中の愚作と言える。
 『軽蔑』の原作もスタンダール流の心理劇を中間小説的に展開しようと試みたものの、失敗に終わっている。劇画やアメリカン・ニューシネマを強引に活字に押し込んだような、油ぎった駄作であった。その映画化の『軽蔑』も愚作で、脚色が健闘したとも言えないところが尚救い難い。
 

『十九歳の地図』 星3.0

 中上健次原作の作品では、相対的にはこれがもっとも優れている。ドストエフスキー『地下室の手記』ポー『群衆人間』などのように『都会の孤独』を主題とした作品で、都市に暮す若者の内部に巣食う暴力的な衝動が活写されている。迷惑電話のモチーフは印象的で、都市における関係の刹那性を描くのはモラヴィアやゴダール、あるいは吉行淳之介や村上春樹の作品とも重なる。及第点の内容。

                                         
『青春の殺人者』 星2.8
 
 『父殺し』『母殺し』のモチーフなど、精神分析やキャンベル神話学の影響が窺える作品。『ヒミズ』『共喰い』など、近年の作品にも中上健次が描いたエディプスコンプレックスの主題は受け継がれているが、既にそうしたモチーフの鮮度は失われていると見るべきであろう。エディプスコンプレックスなるものは、近代の幼稚な空想に過ぎない。
 中上健次のもっとも優れた文学的達成は『重力の虹』『奇蹟』であった。『重力の虹』においては谷崎潤一郎の語りの手法に倣い『語りもの』や『歌物語』の伝統を創作民話として蘇らせており、それは深沢七郎の『楢山節考』とも重なる。また『奇蹟』において中上は、血に塗れ穢れた周縁的土地の歴史を老いたる語り手の意識の流れにより捉えてみせた。これらの優れた表現的達成が映画の画面に掬い上げられたことは未だかつてなく、それを歯痒く思う。
 現役の映像作家で、中上健次のエッセンスを映像化するポテンシャルを秘めているのは、宮崎駿であろう。二人を結ぶ接点として『母』と『記憶』というキーワードがある。宮崎駿は『風の谷のナウシカ』に見られるような、地母神のアーキタイプとしての女性像を追求した。中上も同様に『千年の愉楽』において、オリュウノオバという男たちの神話を物語る『母』のアーキタイプを描いた。中上は主にプルーストやフォークナーからの影響を受け『奇蹟』において、老いたる語り手の連鎖的な記憶により紡がれる、意識の流れを描いた。宮崎駿は、初期から喪われた過去へのロマンチックな眼差しを持ち続け『風立ちぬ』においては老監督の分身たる堀越二郎を主人公に据え、その意識の流れにより『神曲』『ファウスト』的な絵巻を創造した。『風立ちぬ』においては失われた過去へと遡行する宮崎の意識が、過去と現在と未来、彼岸と此岸との間を縦横に飛び交う様が活写される。宮崎の今後の活動には期待が持たれる。                      

                                        」
 
 感想を書き終えて改めて思うが、俺は精神分析に関心が持てない。精神分析には科学的エビデンスが不十分なのは一般常識だが、だから興味が持てないというのでもない。そうではなく、俺は思想としての精神分析に惹きつけられる部分が少ないのだ。
 そもそも俺は両親のことが普通に好きだ。特に親に対する感情を拗らせていない。だから「エディプスコンプレックス」とかピンとこない。俺が中上健次に魅力を感じるのは、そのバイオレンスの湛えるアクチュアリティや「語り」の卓越性であって、中上のミソジナスな部分や肉親への憎悪には共感しづらい。
「中上健次もね。好きなのだけれど、苦手な部分があるの」
この間、藤井さんと食事を一緒にしたとき、彼女が言っていたのを思い出す。
「どこ」
俺はあのとき、彼女に尋ねた。
「ミソジナスなところかな、やっぱり。それに女性の描き方が薄っぺら」
「へえ」
「オリュウノオバくらいしか印象に残っていない。ホモソーシャルな作家だよね」
藤井さんは笑って言った。
「そうかも」
「でも私もね、そういう気持ち、わからなくもない」
藤井さんは言った。
「どういうこと」
「私も結局、男性にしか心が揺さぶられないから」
「へえ」
「中上もそうだよね。ファザコン拗らせ女子校メンタル。結局、オリュウノオバっていうキャラクターが、中上健次に一番近いんだと思う。男の人を過度に理想化して、依存するタイプ」
「そうなのかも」
「私にとって『女性性』って、自分にとっては『呪い』で、他人が持っているそれは『癒し』なの。中上もそうだと思うんだよね。『女性性』は癒しで、自分を脅かす『男性性』にだけ惹きつけられるの」
藤井さんは笑って言っていた。確かにそうかもしれない。しかし俺は、自分の性のことがよくわからないから、藤井さんの言うことも少しピンとこない。彼女と違って、これまでそういったことにコンプレックスを抱かないまま育ってしまった。男性に精神的に強く惹きつけられるというのも、俺にはよくわからない。俺は女性だけに精神的にも肉体的にも強く惹かれるし、恋人である春香さんのことが好きだ。ジブリ映画に出てくる少女のように、清純で愛くるしい。
「私ね。ジブリ映画の女性も苦手」
あのとき藤井さんはそうも言っていた。
「どうして」
俺は訊ねた。
「昔の人だなあって、感じがするじゃん」
「そうかな」
「聖母タイプと肝っ玉お母さんタイプと、純潔な少女タイプしかいない。認識が戦前」
藤井さんは言っていた。俺はそのときドキリとした。自分も異性を認識するにあたって、それくらいのざっくりした基準しか持っていないかもしれない。例えば、俺は藤井さんのことは「純潔な少女」タイプとして見ている。春香さんのことは「純潔な少女」タイプと「肝っ玉お母さん」タイプの中間、お母さんのことは「聖母」タイプと「肝っ玉お母さん」タイプの中間として見ている。俺は異性に対する解像度が低い。俺は宮崎駿の映画が好きだが、それは女性観が似通っているからなのかもしれない。
「竹田くんはどんな人がタイプなの。作品のキャラクターで言ったら、誰」
藤井さんはあの後で、そうも言った。
「ナウシカかなあ」
俺はそう答えた。
「私がジブリ嫌いだから、遠回しな嫌がらせなの」
藤井さんは笑って言った。
「違うよ。お母さんみたいで、一緒にいて落ち着けそうだから。自然体でいられそう」
俺は言った。もしかしたら俺は、春香さんのことも母親と重ねているかもしれない。飄々としていて軸がしっかりしていて、一緒にいて落ち着けるところが似ている。だから春香さんの前では、俺は自然体でいられる。俺は男というものは大抵母親に似た人を好きになるのだと思っていて、それは普通のことだと思う。その点では俺も、精神分析的発想に共感できるのだ。
 俺が精神分析を題材にした作品のうちで一番刺さったのが藤子・F・不二雄の「やすらぎの館」だ。これは精神分析における「退行」を題材にした作品だった。ある大企業の社長を務める男が主人公で、彼はリーダーとしての卓越した手腕を持ちながらも、常に神経をすり減らせて虚無感を抱えている。そんな彼は友人の薦めで「やすらぎの館」と言う会員制のクラブに通うことになる。そこで主人公はクラブの女性と、母親とその幼い息子としての擬似的な交情を持つことになる。そこでのつながりに依存しきった結果、主人公は幼児のような性格に退行してしまう。
 俺はこの作品を読んだとき、ヒヤヒヤした。俺は普段から大人になるのが怖いと思っているし、母親にずっと甘えていたいと願っている。だから自分のことを風刺されているような気持ちがした。
「なるほど。でも女の人の側はめちゃくちゃ疲れるよ。お母さん役」
理想の女性に「ナウシカ」を挙げた俺に対して、藤井さんは笑って言っていた。
「創作のヒロインで言ったら誰って話じゃん。現実の女性にそういう振る舞いを求めているわけではないよ」
俺は言った。
「さすがあ。紳士だね」
藤井さんが楽しそうに言った。しかし俺は本当のところ紳士ではなくて、母親的な存在が欲しいし、ずっと子供のままでいたい。藤子・F・不二雄という漫画家の作品は、宮崎駿やその先駆となるジョージ・ロイ・ヒルの作品と根本的な主題が似ていると思う。それは喪われた少年時代への激しい憧憬だ。ロイ・ヒル『明日に向かって撃て!』の有名な自転車遊びの場面も、俺は泣いてしまう。俺は人間関係が苦手なので、ずっと子供のままでいたいと常々思っている。そして俺はずっとお母さん的な存在に支えてほしいと願っている。だから少年時間がもう失われてしまった事実が、とても辛い。俺が宮崎駿や藤子・F・不二雄の作品に惹かれるのは、そうした実感が背景にあるのだ。
 そして俺が中上健次の『千年の愉楽』や『奇蹟』のような、老人の回想ものに惹きつけられるのも、そうした過去へと向かう強い気持ちがあるからだ。俺が老人になった時には、両親はもう死んでいるのだろう。それがとても悲しい。老人になったとき俺は、一人過去の思い出に浸り続けるだろう。そんな確信が、俺を中上の文学に引き付けてやまない。

 
 2019年4月9日(火)(夕方)(来栖梓)

 寮の自室にいてFilmarksで知り合いのレビューを眺めている。僕はあまり映画を観る方でもないので感想を書くのも苦手だけれど、他人のレビューを見るのは好きだ。そういう捉え方もあるのか、と思って参考になる。
 竹田くんが『青春の殺人者』という作品についてレビューを書いていて、そこで『ヒミズ』に言及しているのが目に留まる。僕はこの原作を知り合いに勧められて読んで、その後で映画も観た。
鹿目真奈美「原作の方が特に好きなんだよね。『普通』っていう言葉の暴力性が描かれていて」
映画製作サークルの知り合いである鹿目真奈美さんがLINEでそうメッセージを送ってくれたのを覚えている。鹿目さんは僕が書く映画脚本の参考になりそうな作品を色々教えてくれたのだった。
来栖梓「『普通』の押し付けって、確かに危ないよね」
僕はそのとき、そう返信をした。
鹿目真奈美「『ヒミズ』の原作ってね、主人公がすごく『普通』っていう言葉にこだわるんだよね。自分は『普通』だと思い込もうとするし『普通』から逃れようとする他人にも病的に反発するの。
鹿目真奈美「私ね、九〇年代の栗本薫とかの、個人のミクロな苦悩を矮小化しようとする批評が苦手なんだよね。実存主義とか『純文学』への反発から来るのだろうけれど。『お前は特別な存在じゃないんだ。自分は平凡な存在なんだ』ということを押し付けようとするの。自分にも他人にも。けれども能力的には平均的でも、個々人の抱える苦しみとか痛みって、本当に色々な要因によって複雑に構成されるし、個別的なものだと思うんだよね。その個別的な苦しみを過小に評価してしまって、自分の痛みを受け入れられないことが『ヒミズ』の主人公の辛さにつながっていると思うの」
鹿目さんはそう言っていた。僕があのとき書いた脚本は青春群像劇もので、そこに性別違和のモチーフを絡めて展開したかったのだけれど、あまり上手くつくれなかった。鹿目さんはいくつか作品を勧めてくれて、その中で特に参考になったのが、シドニー・ポラック監督の『トッツィー』だった。
 『トッツィー』はダスティン・ホフマン主演で、セクシャルマイノリティを描いた作品だ。ホフマン演じるマイケル・ドーシーは俳優だが仕事に困っていたため、あるとき女装してドロシー・マイケルズとしてテレビドラマのオーディションを受けたところ合格してしまう。そしてそこで出会った女性・ジュリーに惹かれる。マイケルは、ときにはマイケルとして、時にはドロシーとしてジュリーと関わり、それぞれのペルソナのもとで二つの人間関係が構築されていく。性別によって相手から期待される振る舞いであったり、自発的な振る舞いであったりが異なっていることが、僕にはとても興味深かった。
 僕は「男性」であることによって社会から期待される「普通」の振る舞いに、違和感を感じている。それは亡くなった祖父との関係に由来している。目の前で祖父が突然失われたとき、僕は強い後悔に囚われた。もし自分が女性に生まれていたら、祖父の体の不調に気がついて、祖父にずっと寄り添ってあげられたのではないかと思った。女性的な感性があれば、祖父の不調に気がついてあげられたのではないかと、幼い僕は思った。あの頃からずっと僕の中には、女性になって男性の側に寄り添いたいという感情がある。
鹿目真奈美「『明日に向かって撃て!』とか『ディア・ハンター』もおすすめだよ。ニューシネマって、ボーイズラブのご先祖様。だから大好き笑」
性別違和のモチーフを脚本に取り入れたいと言っていた僕に、鹿目さんがそう言ってアメリカン・ニューシネマを勧めてくれたのを思い出す。僕は『明日に向かって撃て!』も『ディア・ハンター』もどちらも観たが、面白かった。
 『明日に向かって撃て!』を観て、僕は自分が高崎高校で過ごした時代を思い出した。高崎高校は生徒同士の仲も良くて、人間関係も落ち着いていて穏やかな場所だった。異性の目がないおかげで、男性同士ののびのびとした繋がりが持てた。でも結局あそこにいられる時間はもう終わってしまった。「ホモソーシャル」という言葉があるけれど、男子校の朗らかで能天気なノリが許されるのは子供の頃だけだと思う。そうした実感と『明日に向かって撃て!』という作品が持つ、ノスタルジックでセンチメンタルな空気は似通っていた。
 『明日に向かって撃て!』では、特に『雨に濡れても』が流れる自転車遊びの場面が印象的だった。あのシーンは、若い時代の儚さの象徴だと思う。夢のように優しい時間は本当に一瞬のものでしかなくて、気がついたら既に失われている。大切な人と過ごしたかけがえのない時間はいつの間にか、夢の中でしか戻れない場所になっている。気がついたら、僕の隣に祖父はいなくなっていた。
 七郎おじいちゃんと、自転車に乗る練習をしたことがあったのを覚えている。初めて補助輪無しの自転車に乗ったとき、公園での練習に手伝ってくれたのが祖父だった。運動神経が鈍いから、あの日の僕は何度もふらついては転んだ。
「大丈夫か。梓」
倒れた僕の自転車を立ち上げて、祖父はそう声をかけてくれた。
「立てるか。大丈夫か」
祖父は言って、転んだ僕に手を差し伸べてくれた。
「ありがとう」
僕は言って、差し伸べられた手を握った。硬くて大きな、温かい手だった。
「一度コツを掴めばすぐに乗れるようになるからな」
祖父は言った。
「うん」
「いつか、一緒にサイクリングに行こうな」
祖父は笑って言った。そんなふうに祖父と過ごす普通の時間が、ずっと続くと思っていた。でもそれが、突然終わってしまった。僕は祖父を救うことができなかった。
来栖梓「『ディア・ハンター』も切ない映画だったな。特にラスト。ロシアンルーレットの場面がね。大切な人を助けられなくて」
勧められて観た『ディア・ハンター』について、そんな感想を鹿目さんに送ったのを思い出す。主人公・マイケルは、賭場でロシアンルーレットを続ける親友・ニックを助けようとした。けれどニックの命は、マイケルのすぐ目の前で失われてしまう。
「おじいちゃん、もう意識はないけれどね。梓が手を握っているのは、ちゃんとわかるんだよ」
集中治療室での、母の言葉を思い出す。体に無数の管を繋がれた祖父を目の前にして、僕は何もしてあげられなかった。
鹿目真奈美「大切な人のために何もできないのって、悲しいよね」
鹿目さんはあの時そんな風に言ってくれて、なぜかそれが少し嬉しかった。 
 
 
 2019年4月9日(火)(夜)(鹿目真奈美)

 暇を持て余して、部屋で文芸部の作った同人誌を眺めていた。同期の伊藤真斗さんが三島由紀夫について書いていたので、それを読んでいた。こんな風に書いてある。


「 三島由紀夫の作家としての最良の部分の後継者は、村上龍と橋本治であった。双方とも鋭敏な時代への眼差しは共通しているが、龍が三島のジャーナリストとしての才覚を受け継いでいるのに対して、橋本治は娯楽作家ならびにエッセイストとしての才覚を継承している。
 村上龍『愛と幻想のファシズム』を見てみよう。そこにおける文章のスタイルは、ジャーナリストとしての才覚に裏付けられている。その無駄のない端正な文体は行動主義文学のスタイルを受け継いでおり、優れたドキュメンタリー映画のように荒々しく事実を掴み取って圧倒的なビジョンを突きつけてみせる。それは『青の時代』『宴のあと』に見られる、センセーショナルな事件に果敢に飛び掛かる三島の脚力を彷彿とさせるとともに、その優れて映像的な表現は『潮騒』における即物的かつ絵画的なタッチを連想させる。
 加えて『愛と幻想のファシズム』において村上龍は「クーデター」のモチーフを三島由紀夫から受け継いでいる。三島の文学は、敗戦国の視点から「アメリカ」を強く意識するところに起点を持つ。アメリカとの対比の中でネーションのアイデンティティを批判的に捉え直そうとする試みには、早くはヘンリー・ジェイムズやブレヒトの文学があり、戦後はジャンリュック・ゴダールのフィルムがそうした批評意識に基づく画期的な作品として現れた。
 ゴダールの映画は「アメリカ」の侵入によって揺らぐフランスのアイデンティティを描いた。一方、三島は「アメリカ」との対決のなかで、敗戦によって奪われた日本の民族的アイデンティティたる天皇を再生しようとする。三島は『文化防衛論』などにおいて、宗主国「アメリカ」に対する「クーデター」を扇動し、聖なる王たる天皇の復活を試みようとした。村上龍も同様に『限りなく透明に近いブルー』に見られるように、米軍基地のモチーフによって「アメリカの影」を描く。そして『愛と幻想のファシズム』『希望の国エクソダス』では「クーデター」により「アメリカ」への従属以外の道筋を模索する勢力の活動を描く。三島の創作が優れて「日本的」な美を追求しながらも、欧米の本格小説を血肉化することで実践されたのと同様に、村上龍の「反米」的なクーデターもアメリカン・ニューシネマと連動して展開されたことは注目に値する。
 次に橋本治『桃尻娘』に移ろう。『桃尻娘』は三島『鏡子の家』に似た青春群像劇である。複数の主人公たちの視点からそれぞれの物語が展開され、ときに交錯していく。橋本文学の魅力を下支えするのは、サブカルチャーにも精通する豊富な教養と、それに裏付けられた鋭利な批評眼であって、同様のことが三島の文学にも当てはまる。その豊潤な知識によって二人の作家は、時代風俗とその中で生きる人々の猥雑な息遣いとを文章の中に掬い取っている。そしてこの二人の作品において、活字に写しとられた人間の生活はエンターテインメントとしての比類ない魅力を湛えており、そこに確かな才覚が窺い知れる。
 また橋本治『桃尻語訳』の先駆けとして、三島由紀夫『近代能楽集』がある。二人は現代の口語と伝統芸能の中の文語との共通性を見出して、古典にウィットを効かせて当世風に翻案する。三島と橋本に共通するのは、大衆文化を軽視しない姿勢である。権威の上にあぐらをかこうとせず、ひたむきに他人を楽しませようとする大衆文化を評価し、その内に潜む本質的かつ普遍的な魅力を読み取ろうとする。そうした二人の「古典」や「伝統」への相対化意識は、ポストモダン文学へと受け継がれていく。
 橋本治と村上龍は、アイドル作家としての三島由紀夫のあり方をも継承している。そうしたパフォーマンスを創作の中で相対化してみせたのが、ポストモダン文学の作家・島田雅彦であった。アイドルとしてのパフォーマンスには、時代への批評眼が求められる。自意識過剰な戦後日本というネーションのパロディとして、三島は一個の道化師の闘争とその破滅を演じてみせた。島田雅彦は『仮面の告白』のパロディ『僕は模造人間』において起源を批判的に捉える立場から、創作におけるオリジナリティを相対化することで本質主義的自己概念を相対化し、ネーションがフィクションに過ぎないことをも活写してみせた。三島文学に見られる誇張的かつステレオタイプな「日本」を批判的に捉えることで島田雅彦は、三島という作家がそのパフォーマンスによって揶揄してみせた「日本」という共同体が抱える自意識過剰なナショナリズムを風刺した。
 島田雅彦は近代ロシア文学、特にドストエフスキーから着想の多くを頂いている。ドストエフスキーはロマン主義のパロディとして、ラディカルな個人主義や改革思想を批判的に捉えてみせた。『地下室の手記』においては、自意識過剰な青年が他者からの承認を追い求め右往左往しながらも、それが叶わず孤独に苛まれる姿が描かれる。『罪と罰』では、主人公が英雄願望を募らせた果てに咎なき老女を殺めるドラマを描いた。また『悪霊』によって、急進的な青年革命家たちがコミュニティ内部での暴力により破滅する姿を描いた。ドストエフスキーは近代ロシアにおける「余計者」の孤独を戯画的に描いてみせた。
 七〇年代における新左翼による内ゲバを踏まえて、現代における「余計者」の姿を描いたのが三田誠広であり、彼は庄司薫と並んで島田雅彦の文学の先駆だった。三田誠広『僕って何』では、主人公は学生闘争に巻き込まれ周囲に翻弄されながらも、どこか運動に溶け込めず自己のアイデンティティに悩む。『僕って何』は新左翼の活動を批判的に捉え、現代の「余計者」の孤独を描いてみせた。
 『優しいサヨクのための嬉遊曲』により三島由紀夫のパロディとして登場した島田雅彦は、三田の文学を継承して処女作から新左翼を批判的に捉え、それとは別の改革のあり方を模索する若者の肖像を描いた。『僕は模造人間』では、自意識過剰な主人公・亜久間一人の青春の回顧録という形で、既存のテクストのパッチワークにより構成される饒舌な自意識の孤独をシニカルに描いた。
 そして島田『自由死刑』は三島が注目した、鴎外『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』『堺事件』などから連なる「殉死」をめぐる小説だった。『自由死刑』においては死を決意した青年・喜多喜男のニヒリスティックで孤独な放浪が描かれる。この作品では自殺による他者からの承認という、自死のエゴイスティックな側面が描かれる。喜多喜男は作中でキリストのアンチテーゼとしても描かれているが、キリストと同様に永劫の名誉を「殉死」によって勝ち得た三島由紀夫のパフォーマンスをも、それによって問い直している。そして外部からの承認を絶えず求め続ける、内向的で自意識過剰な「日本」というネーションの孤独を風刺の俎上に上げていると言えるだろう。

 
 参考文献

木村彰一ほか『ロシア文学史』(明治書院、一九九七)
村山匡一郎編『映画史を学ぶクリティカル・ワーズ』(フィルムアート社、二〇一三)
岩淵達治『ブレヒト』(清水書院、二〇〇〇)
斎藤美奈子『文壇アイドル論』(岩波書店、二〇〇二)
三田誠広『深くておいしい小説の書き方』(集英社、二〇〇〇)


 なるほど。なかなか的を射ているかもな、と思う。私は、伊藤さんほど熱心なファンではないけれど、三島由紀夫という作家が好きだ。何というか、萌えてしまう。石原慎太郎『三島由紀夫の日蝕』は、伊藤さんが言うところの三島の「アイドル作家としてのあり方」を揶揄した文章として読めるけれど、私はその三島の痛々しさに惹かれてしまう。それは多分、父との関係に由来している。
「真奈美。三島由紀夫っていう作家、知っているか」
幼い私に、父が問いかけたことがあったのを覚えている。
「知らない」
私はそう答えた。
「俺の目標にしている存在なんだ。命懸けで人生と格闘した人だよ」
父はそのときそう言った。私の父は、三島由紀夫の影響でボディビルをしていた。県の大会で入賞したこともあって、父の部屋にはそのときの写真がいくつか飾ってあった。父がボディビルを始めたきっかけは、小さい頃から太り気味だったせいでよくいじめられていたので、そのコンプレックスを乗り越えようとしたのだそうだ。
「俺はな、弱い自分が本当に許せなかったんだよな。でもさ、あいつらを恨んでも変われないと思ったんだよな。それより自分が強くならなくちゃって、思ったんだよ。自分を鍛え上げて、誰よりも強くなって、そしてあいつらを許せるようになったとき、初めて俺はあいつらに勝てたと言えると思ったんだよな。今では俺は、あいつらに感謝しているよ。俺に生まれ変わるきっかけを与えてくれたんだからな」
誇らしそうに語っていた父を覚えている。幼かった私は、そんな父をかっこいいと思った。幼い私は、父の病的な部分をそれと分かることができなくて、父を純粋で真っ直ぐな人間だと思っていた。
「痛い。痛い」
庭で足を抱えて蹲っていた父が、私を見上げてそう言ったのを覚えている。父はしばしば自傷行動に走る癖があった。
「大丈夫」
悶えている父を心配して、私は声をかけた。
「ああ。大丈夫だよ」
父はか細く笑って言った。
「良かった」
「こんなくらいで根を上げちゃダメなのにな」
父は言った。
「何があったの」
「飛び降りたんだよ。屋根から」
「どうして」
「強くなるためだよ」
「強くなるって」
「『痛みなくして得られるものはない』って、言葉があるんだ。もっと痛みを味わって強くなりたいんだ」
「どうして」
「真奈美とママと美波のことを守りたいからだよ」
父は言った。美波と言うのは私の一つ下の妹のことだ。
「俺は誰よりも痛みを知ってな、誰よりも強くなりたいんだ。三島由紀夫はな、切腹した時にはもっと痛かったと思うんだよ。でもそのお陰でな、彼は今でも世界中で認めてもらえているだろう。だから俺もたくさん痛みを味わってな、世界で一番強いパパだって、認めてもらえるような人間になりたいんだよ。そして家族を守りたいんだ」
父は笑って、そんな風に言っていた。傍から見たら狂気としか思えないだろうけれど、当時の私は父のひたむきさに心を打たれた。少しでもそんな父を支えたいと思っていた。父の苦痛を、少しでも私が取り除いてあげたいと思っていた。
 父は、よく部屋にいて一人で泣いていた。父の部屋には「誠」と書かれた書が掛けてあって、模造刀が飾られていたのを覚えている。うまくいかないことがあったときには、部屋で刃物を使って自分の体を斬り付けていた。
「パパ。大丈夫」
血を流している父を心配して声をかけたことがあった。
「大丈夫だよ。心配かけてごめんな」
父は小さく笑って言った。
「どうしたの」
私は尋ねた。
「自分に裁きを下したんだよ」
「裁きって」
「俺のせいで家族に嫌な思いをさせるからな。不甲斐ない自分に罰を与えたんだ」
父は言った。
「そんなことないよ」
思わず私は言った。
「え」
「パパのせいで嫌な思いなんてしたことないもん」
「そうか」
「そうだよ」
私は言った。
「真奈美は優しいな。お前だけだよ」
父は目を潤ませ、声を震わせて言った。私の言葉で父が喜んでくれたのが嬉しかった。私は、自分のために命懸けで闘っている父を支えたいと願っていた。ずっと父のそばにいたいと、そう思っていた。
 両親が離婚したのは、私が小学三年生のときだった。当時のことはよく覚えている。両親の仲が良くないのは子供ながらに察していて、いずれは別れる時が来るのだろうと思っていた。母方の家族や母と、父はよく喧嘩をした。父はそのたびに自傷を繰り返したので、私には父が、母たちから虐げられているように見えていた。
「これから真奈美と美波は、ママのおじいちゃんの家で暮らすんだよ」
母がそう言った時にも、父が心配で仕方がなかった。
「パパはどうするの」
私は母に訊いた。
「地元に戻って暮らすみたいだよ。鹿児島に」
母が言った。私たちは、両親が離婚する前には高崎にある母の実家近くにアパートを借りて住んでいた。二人は東京で出会ったそうで、父の地元は九州の鹿児島だった。二人は結婚してから、母の地元の群馬で暮らすようになっていた。
「パパは変わっているけれど、いい人だよ」
私は言った。
「うん。でも、ちょっと普通の人じゃないんだよ」
母は困ったような顔をして言った。
「『普通』って何。『普通』じゃなくてもパパは良いパパだもん」
「真奈美にとっては大事なパパだよね」
「パパが心配」
「大丈夫だよ。パパは地元で元気にやっていくと思うから。真奈美は何も心配しないでね。本当にごめんね。全部、私が悪いの」
母は悲しそうに言った。私と妹は、母の実家に移ってから苗字が「一ノ瀬」から「鹿目」になった。母の実家に来てから、よく父の悪口を聞かされた。
「本当にね。あの娘も箱入りだったからね。真由美も馬鹿な男に引っかかったよ。あんな狂人。ああいう人には罰が当たらないものかね」
祖母がそんな風に言ったのを覚えている。真由美というのは私の母のことだ。父の悪口を耳にする度に、私は酷く傷ついた。父のために、自分が取り得た別の選択肢はなかったのだろうかと思った。私のために命がけで闘おうとしてくれた父の気持ちに、どうして応えることができなかったのだろうと、強い後悔に苛まれた
 あの頃から私は、孤立している人に強く惹かれるようになった。私が救うことのできなかった父の姿を孤独な誰かと重ねて、その背中を追いかけるようになった。三島由紀夫が好きなのも、そのせいだ。だからハヤちゃんが死んだときにも、本当に苦しかった。私は、また救うべき人を救えなかったのだと思った。
「痛い。痛い」
ハヤちゃんが死んでから、私はよく同じ夢を見るようになった。その夢の中で、私は両親と暮らしたあのアパートに住んでいる。私が玄関から外へ出ると、庭で父が血を流して蹲っている。
「助けてくれ。真奈美」
父は言って、私の方を見上げる。こちらを向いた父は、ハヤちゃんの顔をしている。
「痛い。助けてくれ。真奈美」
ハヤちゃんの顔で父の声が言う。私が殺したハヤちゃんが、じっとこちらを睨んでいる。そこで私はいつも、夢から覚める。そして罪悪感だけが、夢から覚めた後にもずっと尾を引いている。
 私が三島由紀夫に共感する理由は、ダメンズが好きなこと以外にももう一つある。それは、遺されてしまったという意識だ。三島の文学は『英霊の聲』もそうだけれど、戦死した武士への負い目と劣等感に満ちている。パパとハヤちゃんの夢を見るたびに、どうしたら赦してもらえるのだろうと思う。遺された私には、一体どんな償いができるのだろうか。二人から認めて欲しくて「自殺」という選択が時々頭をよぎる。それが苦しくて病院にもずっと通っているけれど、あの悪夢がずっと、取り憑いて離れない。

 
 2019年4月10日(水)(朝)(伊藤真斗)

 暇を持て余して、サークル同期の鹿目さんが同人誌に寄せた「『キャプテン・ラブ』覚書」という文章を読んでいた。ビデオゲームにおけるナラトロジー的分析や、恋愛を主題とする比較文学的な批評を展開したエッセイだった。
 ところで、ゲームの「プレイヤー・キャラクター」に似た特性を持つ小説の語り手がある気がすると、それを読みながら思った。すなわち川端康成『浅草紅団』村上龍『希望の国のエクソダス』ビュトール『時間割』のように、語り手や視点人物が没個性的であったり内的独白に乏しかったりしていて「読者」のメタファー的な役割を割り振られているケースだ。そこでは語り手や視点人物は往々にして、五感によるオーディオプレイヤーとしての役割を割り当てられている。そして彼らの内的現象を経由して「読者」は作中の世界への接点を持つ。
 そういえば、村上龍や川端康成のそうした演出を母が好んでいたのをふと思い出す。もう十年近くも会っていないが、母は奇妙な小説の読み方をする人だったのを覚えている。
「私は小説に出てくる『土地』に関心があるんだよね。『人の心』には興味がないのよ。小説に土地が出てくるとね、そこが自分の本当の居場所なんじゃないかって気がするのよね」
母はそう言っていた。川端『浅草紅団』や村上龍『長崎オランダ村』など、土地の風物の描写が印象的な作品が母は好きで、特に村上龍のドキュメンタリー映画のような作風を好んでいた。母は並外れて怠惰だったので外出することは嫌ったが、観光地のガイドブックを読むことを好み、小説もその延長線上で読んでいた。土地を描く作品の中でも母はとりわけ、谷崎『吉野葛』後藤明生『吉野太夫』を好きだったのを覚えている。
「いつかこんな風にね、どこかで取材旅行をしてみたいのよ。漫然と、調べごとをしながら旅をしたいの。でも書くために旅行するんだけれど、何も書かずに終わりたいの。書くのは面倒になるでしょう。書かなくちゃって思うと、逃げ出したくなるんだよね」
母はそう言っていた。母はとにかく奇妙な考え方をする人だった。読書好きには、通人ぶって風流めかした自分の読書の趣味や流儀を語る人もいるけれど、母の場合は別にそういうものでもなかったと思う。母はただ単に、ズレた考え方をする人だった。母の好きだった『吉野太夫』の作者である後藤明生のように、意図してズレを駆使しているのではなくて、ただ根っからズレている人だった。
 ところで谷崎『吉野葛』のパロディである『吉野太夫』は、僕も高校時代に読んで面白かったのを覚えている。吉野太夫について調査していくその過程を小説としたものだ。手法的には大江健三郎や古井由吉、それからコンラッドやゴダールの作品とも似ている。すなわちアナール学派的なフィールドワークの手法を小説において実践した作品だと思う。後藤明生が一人の読者として『吉野葛』という既存のテクストと能動的に関わろうとする中で『吉野太夫』は綴られている。そうした作者のあり方は、ゲームでいうところの「プレイヤー」と重なるのかもしれない。テクストと能動的に関わるならば、そのテクストと自分の間には「ズレ」が浮かび上がる。「プレイヤー・テクスト」がオリジナルなものであるように、体験としての読書にも「ズレ」に由来するオリジナルな部分がある。批評、パロディという営為によりテクストと能動的に関わることによって、原典となるテクストが置かれた歴史的文脈は編み直される。そして「ズレ」によって「読者」の性質もまた、炙り出しのように浮かび上がってくる。『吉野太夫』が捉えるのは、そうした部分ではないのだろうか。
「小説のね、心理描写が苦手なの。漱石の『こころ』とか。学校で読まされたけれど、訳がわからなかった。ふわふわした心の描写が苦手なのよね。ぐるぐる巡って、意味がわからなくなる」
そんな母の小説に対する感想から、僕は母の独特な内面を読み取ってきた。
「私は『土地』にだけ興味があるのよ。小説の中に、自分の本当の居場所がある気がするの」
母が言っていたのを覚えている。
「どこかに本当の自分の居場所がある気がする」
というのが、母の口癖だった。
「ママは他人の気持ちがわからないから、子供の頃から浮いていたのよ。真斗にそれが遺伝したらどうしようって思っていたけれど、大丈夫だったから良かったよ」
母は昔からコミュニケーションが苦手で、他人の気持ちがわからなかったらしい。そのせいで、母の中には慢性的な疎外感が培われたようだ。
「小学生の頃、友達が一人しかいなくてね。知っているでしょう。真代ちゃん。あの子もいつも一人でいたのよね。教室の隅で本を読んでいたの。それでママはなんとなくね、真代ちゃんが読んでいた本を取りあげたのよ。そしたら真代ちゃんは怒って私を叩いてきて、喧嘩になったのよね。でも先生に言われて仲直りしたの。それからよ。真代ちゃんと仲良くなったのは。
 真代ちゃんは本とか映画が好きでね。私も真代ちゃんと仲良くなってから、色々本とか映画をみるようになったのよね」
母がそう言ったのを覚えている。母は映画も好きで、よく自宅でビデオを観ていた。母はホラーとメロドラマ、特にホラーが好きだった。
「『十三日の金曜日』が好きなのよね。殺される人たちが、私をいじめてきた人と似ているから、スッキリするの。日本のホラーはジメジメ暗くて嫌いなのよね。殺される人たちに同情しちゃう。それにアメリカの田舎の空気が好きなのよね。ホワホワしていて気持ちが良さそう。行ってみたいな、って思うのよ。
 ママはね、よく『十三日の金曜日』の新作を頭の中で考えて映像にするのよ。私をいじめてきた奴らがジェイソンに殺されるの。楽しいことをしているときにやっつけるのがいいと思うのよ。それが一番すっきりするからね。手足を刃物で切断してね、たっぷり苦しめてからやっつけたいのよ」
母が楽しそうに語っていたのを覚えている。
「自分で話を作るのは楽しいのよ。映画を観ているとね、納得できない展開ってたくさんあるからね」 
母はそう言っていた。創作に関心がある点において、僕と母は似ているかもしれない。母は創作によって、自分を傷つけた存在へ復讐を遂げたかった。僕においてもそうなのかもしれない。僕は正直言って、母と明梨のことが好きだ。だって、笑えるから。
「私のせいで、嫌な思いをさせてごめんね」
そんな風に泣いて同情を求める二人を見ていると、興奮を覚える。僕は、二人のために自殺をしてみたいと思う。僕に甘え切った二人の表情が、それでどう歪むのかが知りたい。僕が三島由紀夫に惹かれたのも「自殺」というモチーフに惹きつけられたのが一つの理由だ。だからきっと、太宰治と三島由紀夫のように、僕と明梨は同族なのだと思う。
「霊とか信じてないけれどね。でも、お母さんに呪われている気がするの」
明梨の言葉を思い出す。僕もずっと、母に呪われているのだと思う。呪詛に囚われていつも疎外感があって、それが他者からの眼差しを求めさせる。だから明梨に、僕は惹かれる。
 
 
 2019年4月10日(水)(昼)(坂本樹)
 
 珍しくマッチングアプリでマッチが成立した。それも二人も。一人は「Haruka」という名前の東大生だ。写真から判断するに、かなり可愛い。もう一人は「マキ」という名前の女の子だ。写真はかなり加工されているので、実際の容姿は良く分からない。プロフィールには
「 マキ 19
 中卒。アルバイト。一期一会。趣味は音楽、ドラマ、映画。水樹奈々さん。アニソンが好きです。尊敬する人は相田みつをさんです。同性のお友達も募集しています。よろしくお願いします。
一様、車の免許持っています笑」
とあった。
マキ「こんにちは。東大なんてすごいですね。よろしくお願いします」
マキさんは向こうかメッセージを送ってくれた。
なつき「こちらこそ、よろしくお願いします。別に特別すごくないですよ」?
僕はまずそう返信をした。「なつき」というのが僕のアカウントの名前だ。
マキ「そんな、とても尊敬できます!『東大王』とか時々みるけれど、みんな頭が良くてすごいです。私はバカなので笑」
なつき「いえいえ、みんなそれぞれ良いところがありますよ」
マキ「ありがとうございます(泣き顔の絵文字)。私、中学の時にいじめられて不登校になったんです。それで中学を出た後は、通信制の高校に行こうか迷ったけど、結局それもダメで
だから継続して頑張れる人って、とても尊敬できます!」
なつき「そうだったんですか。大変ですね。
でもきっとそういうのも財産になると思います」
マキ「ありがとうございます!なつきさんは一人暮らしですか」
なつき「実家です。世田谷に住んでいます」
マキ「そうなんですね、私も世田谷住みです!」
こんな感じで世間話が続いた後
マキ「よかったらお会いしてみたいです。予定空いていますか?」
と向こうから尋ねてきた。
なつき「今月は暇ですよ。土日はいつでも」
僕はそう返した。
マキ「じゃあ、十四日でも良いですか」
なつき「良いですよ」
マキ「場所はどうしよう。新宿か渋谷でいいですか?」
なつき「じゃあ、渋谷でお願いします」
といった運びで、相手と会う約束をした。
 期待が有りつつ、不安でもある。もしかしたら付き合えるかもしれないが、相手の容姿が想像できない。すごくブスだったらどうしよう。
 一方でもう一人の「Haruka」という女子は、プロフィールの写真は加工されていないようなのに、かなり可愛い印象だ。プロフィールのコメントには
「真剣に交際できる人を探しています。真面目な目的の人だけでお願いします。体目的NG」
とあった。真剣な出会いを探しているハイスペ美人が、なぜ僕なんかに。彼女とも連絡が続いて、四月二十一日に会うことになった。しかし、とんとん拍子で進みすぎて怖い。もしかしたら宗教とか投資の勧誘かもしれない。東大生というのも疑わしいので
なつき「授業は何を取っていますか」
と訊いてみた。すると
Haruka「2Sセメスターは全然授業をとっていなくて、ジェンダー論とか適応行動論を友達と履修しているだけです笑」
と、それっぽい返事がきた。本当に東大生なのかもしれない。色々と探りを入れてみようと考えて
なつき「趣味はなんですか」
と尋ねると
Haruka「ゲームですね」
と返ってきたので
なつき「好きなソフトはなんですか」
と尋ねたら
Haruka「ホラーゲームですね。『SIREN』とか」
と返ってきた。そこそこマニアックなソフトを知っているなと思った。
なつき「僕もホラーゲームは好きですよ。『黒ノ十三』とか」
僕が返信すると
Haruka「すごいの知っていますね。私、トラウマです笑。『羽音』が」
と返ってきた。ディープに趣味の話をできるのは、業者ではなさそうな印象もある。
 ところで、僕も『黒ノ十三』の「羽音」には憂鬱な気持ちにさせられた。『黒ノ十三』は綾辻行人監修のサウンドノベル形式のアドベンチャーゲームで、十三の短編のオムニバスから成る。タイトルにも「13」という数字が入っているが『13日の金曜日』などのスプラッター映画からは強い影響を受けているように見受けられた。
 「羽音」はオムニバスの中の一つだ。主人公・今中多恵子は、学校で同級生からいじめを受けている。それがエスカレートして、ゴキブリを食べさせられてしまう。多恵子は精神に限界を迎えるが、自殺する勇気もなかった。そうした中で多恵子の母親も心を蝕まれ、大切な娘の苦しみを取り除くべく多恵子を殺してしまう。その後、多恵子の死体は自室の壁に埋められてゴキブリに食べられながら、その魂は過去のいじめを回想し続けるという、陰惨な内容だった。大好きだった母親に殺される展開には居た堪れない気持ちにさせられた。
 話は変わるが、僕の母は教育ママであるのに、僕がゲームで遊ぶことを咎めなかった。母はゲームよりも「悪友」とつるむことの方が遥かに有害だと認識していた。だから交友関係と違って、僕がゲームで遊ぶのを制限するのはごく稀だった。それに母は「ゲーム脳」を似非科学だと言って、馬鹿にしていた。
「『ゲーム脳』なんて信じているのは情報弱者だけだからね。あんなのは詐欺だから」
母が得意そうに言っていたのを覚えている。母は所謂「意識高い系」で、学歴もなくてまともな勉強の仕方を知らないから、時代に対する肌感覚だけを鍛えあげようとしている節がある。何年か前までは新自由主義的な発想が強くあって「システムは弱者を搾取するためにある」「競争で勝利することが人生の価値」が口癖だった。最近はリフレ派になったようで「価値観のアップデート」「消費によって平等に豊かに」「右左でなく緊縮か反緊縮か」が口癖になっている。多分母は、大学にいたら最前列で教授の講義をウンウン頷きながら聞いているのに、試験ではギリギリで単位を落とすタイプだと思う。
 ともかくそんな母だから「ゲーム脳」という概念には否定的で、僕は自由にゲームで遊ぶことを許されてきた。ゲームは読書と並んで、僕にとっての生きがいの一つだ。おかげでHarukaさんとも共通の話題ができて、よかった。
 Harukaさんの顔がタイプだから、彼女が業者でないことを願っている。Harukaさんは、僕の母と顔立ちが似ているのだ。二人ともすごく整っているわけではないけれど、狸顔で可愛らしい顔をしている。Harukaさんの顔に強く魅力を感じるのも、そのせいだろう。僕はいつも、母の代わりを探している。母の代わりになってくれる女性を追い求めている。
「樹、もう死んだ方がいいよ。あんたはママと同じで馬鹿だもん。生きていても意味がないよ。私も一緒に死んであげるから」
「羽音」の母親からの連想で、癇癪を起こした母によく言われることを思い出す。母からそう言われると、少し興奮する。僕はそう言われる度に、僕のために死んでくれる異性の必要性を意識する。僕だけを見てくれて、僕だけのことを考えてくれる。そして僕が望めば僕と一緒に死んでくれるし、僕のために死んでくれる。そんな存在を僕は必要としているのだと、強く意識させられる。。
「もう死のう。一緒に死のうよ」
そんな風に泣き喚く母を冷たく見つめながら、僕はいつも一緒に死んでくれる異性の存在を思い描いていた。
「いろいろ辛くてね。誰か一緒に死んでくれないかなって、いつも思っている」
里香が誰かとそう話しているのを立ち聞きしたことがあった。僕が彼女に恋をしたのも、その言葉によってだった。お互いの命まで預けあって、共依存ができる存在。そんな異性を、僕はずっと探し求めている。マキさんやHarukaさんとの出会いが、そんな素敵な出会いであって欲しい。
 
 
 2019年4月10日(水)(夕方)(後藤春香)
 
 アパートにいてベッドの上で横になっている。さきほどマッチングアプリで「なつき」という人とやりとりをしていて『黒ノ十三』の話題が出てきた。ふと私は、父と一緒にあのゲームで遊んだときのことを思い出す。私が高校生の頃だ。
「もし私が学校でいじめられていて『もう死にたい』って言ってきたら、パパはどうする」
私は冗談のつもりで、そのとき父に言った。
「まずは春香に謝るかな。春香が追い込まれるまで、何も気づいてあげられなくてごめんねって」
父は真剣な表情で言った。そのとき私は不意打ちを食らって感動して、割と泣きそうになった。
「僕は春香と一緒に、一秒でも長くいたいからね。だから春香がしたいようにして欲しいなって思うよ」
父は続けてそんな風に言ってくれた。私は両親に恵まれてよかったと、いつも思う。親との関係が拗れて追い詰められている人が、同じ大学には結構多いから。友達の井上里香ちゃんもそうで、前に話してくれたことがあった。
「『震える舌』っていう映画があってね。知っているの」
あのとき里香ちゃんが私に言ったのを思い出す。
「知らない。ホラーなの」
私は言った。
「まあ、ホラーかな。あの映画を観て、私の家と似ているかもって。あの映画だとね、核家族で女の子が破傷風に罹っちゃうの。それでその子の看病のために家族がギスギスしてしまって。
 私も、父親のDVのせいで身体表現性障害になってしまったんだよね。高校の時から。もうその頃は母子家庭だったのだけれど、私の治療のためにお母さんがいろいろ親戚から借金して。本当にあちこちに私を連れて行ったから、そのせいで私の親戚の人間関係がギクシャクしちゃって。身内に病気の人がいると周りがそれに振り回されるのってありがちなんだな、ってあの映画を観て思った」
里香ちゃんは言っていた。
「そうだったんだね。辛かったね」
私は言った。
「それでね。私のお母さん、自然派ママみたいなところがあって。漢方とか東洋医学に凝っていてね。『薬は毒。飲まないに越したことはない』って言っていて。それで抗精神薬があまり効かなかったから、東洋医学とか民間療法とか、あと宗教の方面まで私を連れ回したんだよね。そのせいで親戚と揉めて。
『里香の病気を治すためならどこへでも連れて行くからね。それが私にできる里香への償いだからね』
って、いつも言っていたな。それで本当にあちこち私のことを連れ回したんだよね。護摩行にまで連れて行かれたの。 
 護摩行だよ。信じられる。護摩壇に火をくべて、その周りに並んで真言を唱えるの。不動明王の真言。頭がおかしいけれど、私も病気のせいでヤケクソになっていたからね。どうでもいいや、って思っていた。炎の前にいるとね、熱いというより痛いんだよね。体に炎が染みていくみたいな熱さ。あれも一つの自傷行為だったのかもな。このまま焼け死にたいって思っていた。
 でもお寺に通っていたのも、思い出かな。人生経験にはなった。お寺ってね、社会からドロップアウトした人が多くて。いろいろ面白い話が聞けはしたんだよね。私より五、六才年上の女の人がいたの。村山さんっていう人。金髪でパンクなファッションで独特な雰囲気のある人で。私と一緒で、鹿児島の出身なんだよね。その人もね、精神疾患で疼痛があって。身体表現性障害と、あと境界性パーソナリティ障害があったらしいの。
 村山さん、トラウマがあったらしくて。小さい頃に変質者から性暴力を受けたんだって。小学校の通学路で露出狂の人に出会って、体を触られて。それから男性が無理になって、体調も悪くなったらしいの。外出するのも怖くなっちゃったっぽい。私も電車で痴漢にあったことが何度もあるし、そういう辛さがどれほどのものなのかは、ちょっとわかる。
 それで村山さんの場合はね、他人に裸を見せなきゃっていう衝動が生まれたんだって。自分が裸を隠していると男性から攻撃されるから、自分から裸を見せることで自分を守りたいっていう気持ちができたんだって。自分の裸には価値がないんだって知らしめて、自分を守りたいって思うようになったんだって。そのせいで異性関係が乱れて。抱かれるのが自傷みたいな感じだったんだって。カウンセリングとか投薬でも症状が改善しなくてね。村山さんの家は不動産屋で、金銭的には余裕があったからあちこちに行ったけれど、よくならなくて。
 それでね、村山さんは写真家になりたくて美大に通っていたのだけれど、そこの友達からお寺を勧められて。お寺に行くとインスピレーションが湧くから、一度行ってみたらって言われたんだって。そうして誘われて行ったお寺で、法主様と出会ったのね。法主様は八十過ぎの、大柄な男の人なのだけれど。お寺では人生相談もやっていて、自分の体の不調とか悩みをそこで打ち明けたらしいの。そうしたら法主様はね、村山さんにこう言ったんだって。
『あんたの辛さはよくわかったよ。世の中にはそういう人がたくさんいるんだよね。それはね、霊の仕業なんだよ。霊障っていうのだけれどね。あんたにひどいことをしてきた男の人からね、因縁をもらったんだよね。僕はその因縁を取ってあげられるから。だから、今日の護摩行のあとで僕の家に来なさい。僕の家の二階はお堂になっていてね、毎日加持祈祷をやっているのよ。信者さんもたくさんくるから。何度か来れば霊は取れるよ。なんも心配せんでええよ』
法主様の話を聞いてね、村山さんは直感的に『この人なら信頼できる』って思ったんだって。村山さん、勘の鋭さには自信があったから。この人を信じてついていこう、って思ったんだって。
 それでその日の夜、法主様の自宅の二回に行ったんだって。そこが仏堂になっていて、加持祈祷を受けるために信者さんが集まっていてね。でもいざその場に着いたら、村山さんはパニックを起こしちゃったんだって。そして裸になって暴れ出したらしいのね。それには法主様の付き人も驚いて、必死に落ち着かせようとしたんだけれど、村山さんに蹴り飛ばされて。だけど、法主様は落ち着いていてね。村山さんの頭に優しく手を置いて、一心に念仏を唱えたの。それを聞いたら村山さんも落ち着いたらしくて。加持祈祷が終わったら法主様はポン、って村山さんの頭に手を置いて、言ったんだって。
『もう、大丈夫だからね』
って。それを聞いた途端、村山さんは涙が止まらなくなったらしくて。法主様は続けて言ったんだって。
『加持祈祷が終わるとね。そうやって泣き出す人がおるのよ。それはね、霊が喜んでいるのよね。あんたに悪さした男の人がいたよね。あの人が背負っていた霊が、これまであんたに取り憑いていてね。今、成仏したのよ。だから、ここへ連れてきてくれてありがとうねって、あんたに霊が感謝しておるのよね。あんた、これまで本当に辛かったね。よくここまでがんばったね。あんたは何も悪くないんだからね』
って。それを聞いたら、涙が一層止まらなくなったんだって。そしてその日からね、体調が本当によくなったんだって。それからずっと、法主様を信頼して生きているのだって。みんなに語って聞かせていたな。
 私ね、霊とか神様とか信じていないけれど、法主様に出会って村山さんが立ち直れたのって、わかるんだよね。村山さんが言っていたのだけれど
『自分の裸を見せてもそれには視線を向けないで、こちらの目だけを優しく見つめてくれた男の人に、初めてそのとき出会えた』
って。私もそういう経験あるんだよね。前に付き合っていた人。私も彼から温かい言葉を与えてもらえてね、本当に嬉しかった。多分、村山さんが必要としていたのはね、自分の存在価値を認めてくれる異性だったと思うんだよね。それも性的な価値ではなくて、一人の人間として、自分を認めてくれる存在。だから法主様に出会えて、前に進めたと思うんだよね」
里香ちゃんはそんな風に言っていた。
「そうだったんだね。いろいろな人がいるよね」
私は言った。
「うん。もうお寺には通わなくなってしまったけれど、村山さんとは今でも仲良しなの。村山さんってパッと見は怖いけれど、結構ポンコツなところもあって、癒し系。人から愛される性格をしている人。
 村山さんは蜷川実花に憧れていたから美大で写真を勉強していて、だから映画も好きでね。いろいろオススメを教えてもらって。『震える舌』も村山さんから教わったんだよね。あと『復讐するは我にあり』とか。私、ノンフィクションとか後味の悪い話が好きなの。そういうのでオススメを訊いたら教えてくれたな。
 そういえば、ハルちゃんも何かオススメのゲームってある。暗い話とかノンフィクションで。私、ゲームあんまりやらないけど、実況動画とかは観るの好きだから」
里香ちゃんは、あの時私にそう訊いてきた。私は『黒ノ十三』を勧めようか迷ったけど、なんとなく躊躇われた。母子家庭育ちでマザコンな女の子が主人公の話だから、もしかしたら里香ちゃんには地雷かもな、と思ったから。

 
 2019年4月10日(水)(夜)(井上里香)

 体調が悪くてできることがないので、ベッドに寝転んでいる。スマートフォンでWikipediaを開き、過去に起こった殺人事件についての情報を調べている。
 私は殺人事件について調べるのが好きだ。精神的に弱っているときってゴシップ的なものか児童向けのコンテンツしか楽しめなくなる気がする。事件について調べていると、アドレナリンが分泌されるのか少し痛みが紛れるように思う。それに殺人事件を起こす人の家庭環境は大抵悪くて、自分の家族と比較していろいろ興味深い。
 その趣味の延長線上で、私は実録犯罪系の作品も好きだ。そうしたジャンルの中で、私が特に好きなのが『復讐するは我にあり』だ。これは西口彰事件を元にした作品で、映画にもなっている。映画も観たけれど、個人的には原作の方がずっと好きだった。私が最初に観たのは映画の方で、知人の村山さんに薦められたのだった。
「映画も面白いけれどね、原作はもっと面白いよ。犯人の男はケチなチンピラなのに、粗暴なところが魅力に見えるのか、女性にモテるんだよね。私もつまらない男に引っかかってきたから、それがリアルに感じてしまう。病んでいると、ヤバイ男にのめり込んじゃうんだよね」
村山さんが笑って言ったのを思い出す。私はそういう粗暴さを売りにする人を警戒する方だから、ダメンズには引っかかりにくタイプだと自負していたけれど、隼平の件があってその自信をなくした。隼平は「弱さ」や「優しさ」を武器にするのが上手くて、父とは対照的だった。
「俺がいなくちゃ、お前らはやっていけない癖に」
そう怒鳴り散らしていた父を覚えている。父はよく、酔っては私と母に暴力を振るった。暴れて家具を壊して回った。父は人間関係を構築するのが苦手だったようで、仕事でうまくいかないことがあると、すぐ家族への暴力に頼ろうとした。私と母を虐げて服従させ、自分の力を確認しようとした。
「お前らは俺のこと、馬鹿にしているんだろう。俺がいなくちゃ生活できない癖に」
顔を赤らめてそう怒鳴る父のことを覚えている。父は被害妄想の傾向があって、こちらの物言いや表情から勝手に悪意を読み取って、身勝手な怒りをぶつけてきた。
「ママも里香も一緒なんだよ。俺を馬鹿にする会社のクズどもと」
父が家の中で暴れるたびに、私は恐怖に慄いた。呼吸ができなくなったり、トイレで吐いたりしたこともあった。今でも私は、男性が苦手だ。特に、暴力で自分の強さを誇示しようとする人が。
「ごめんな。こんな父親で本当にごめんな」
父は暴れた後、よくそんな風にしおらしくなって泣いた。そうやって、私たちの注意と同情を買おうとした。隼平もよく泣いたけれど、隼平はもっと、泣くのが上手かった。
「めっちゃ感動した。やばい」
『フォレスト・ガンプ/一期一会』を隼平の家で一緒に観たとき、彼がそう言って泣いていたのを覚えている。あの作品は、知能指数の低い青年・フォレストの視点を通じて、五十年代から八十年代のアメリカ合衆国の歴史を綴るヒューマンコメディだった。フェイクドキュメンタリー風の演出が面白くて、それがフォレストやヒロイン・ジェニーの存在に説得力を増していた。ジェニーがストリップ劇場で『風に吹かれて』を演奏していたところ、彼女はミュージシャンになれたのだとフォレストが勘違いする場面があった。そのシーンを見て、隼平は泣いていた。
「どうして泣いているの」
私はそのとき隼平に訊いた。その場面の泣き所がわからなかった。
「悲しくないの」
隼平は言った。
「どうして」
「悲しいじゃん。相手の痛みに気付いてあげられないことって。フォレストは、大切な人の苦しみに気付いてあげられない。それが、本当に悲しい」
隼平は言った。隼平は私の父とは違って、自分のために泣くことは少なかった。でも、他人のためにはよく泣いた。
「俺にもきっと、気付いてあげられていない他人の痛みとか、たくさんあるんだろうな。それが、本当に悔しい。里香のことも、俺の無神経な言葉でたくさん傷つけているんだろうな。本当に、それが悲しい」
隼平はそう言って泣いていた。私はそのとき、感極まって泣きそうになった。父と違って、他人のために涙を流せる人が自分のそばにいる。そして彼は、私のために涙を流してくれる。それが、とても嬉しかった。そんな人に巡り合えたと思えたことが、幸福だった。
 不意に、手の中でスマートフォンが震えて我に返る。母からの電話だ。電話に出る。
「もしもし。里香。大丈夫なの。LINEも返信ないから心配していたよ」
電話の向こうで母が言った。疼痛がひどいので、耳元で声がすると頭がズキズキ痛む。母からの通知は切ってあるので、メッセージが来ていたのには気がつかなかった。
「大丈夫だよ。頭が痛くて寝ていたの。もう寝たいんだけど」
痛みを堪え、イライラしながら言った。
「起こしちゃったのか。ごめんね。ゆっくり休んでね」
「うん」
「たまには連絡入れてよ。里香が私の生きがいだから」
「ごめんね。負担かけて」
「いいんだよ。全部、私とパパのせいだもん。里香は私が幸せにするからね。何にも心配しないで」
「ありがとう。もう切るね」
「バイバイ」
母がそう言うのを聞いた後、私はこちらから電話を切った。母も、私のために涙を流してくれる人だ。
「パパとママのせいで苦しめてごめんね。私は、自分の人生を里香への償いに捧げるからね」
それが母の口癖だ。私の母は、渡辺淳一の『遠き落日』に描かれている野口英世の母親に似ていると思う。私は小説をあまり読まないけれどノンフィクションは好きで、割合広く読んでいる。『遠き落日』は野口英世の生涯を描いた小説で、努力家でありつつ金や異性にだらしがない野口の人柄が印象的だった。作品に描かれる野口の母親は私の母と同じように、自分のせいで子供が障害を持ったことに、強い負い目を感じていた。
「私は里香に恨まれても文句を言えないの。本当にごめんね。一生をかけて、償わせて」
母はよくそんな風に言う。母は昔から人に尽くすことが好きだそうで、看護師の仕事をしている。私にとっての曽祖母の世話をするのが小さい頃から好きだったそうで、異性との関係においても相手に尽くしたいと思うようになったらしい。そのせいで、父のような男に引っかかった。
「パパも悪い人ではないけれどね。本当に、全部私が悪いの」
母はあれだけ父から虐げられたのに、離婚してからも父の悪口を言うことはなかった。でも母は、一度好きになった人に対しては従順でありながら、結構頑固なところもある。
「ママのおばあちゃんから言われたのだけれど、薬って言うのは本来毒なんだよね。なるべくなら、使わない方がいいの。だから里香にもね、薬は使って欲しくないかな。人間は誰でも、病気を自然に治す力を持っているからね」
母はそう言って、私をなかなか精神科へも行かせようとしなかった。母は世間からは「自然派ママ」とか呼ばれる存在だと思う。生理が重いのに、低容量ピルもなかなか使わせてもらえなかった。血栓のリスクがあるから危ないとか言って、使わせることを渋った。身体表現性障害と生理痛の相まった激痛によって、私がベッドの上で悶え苦しんでいるのを見ることが続いて、ようやく使わせることを決断してくれた。
 母のことは好きだけれど、世間ズレした頑固なところと、愛情の重さがときどき苦しくなる。母には感謝しているけれど、ときには母といることが息苦しくなる。共依存してしまう傾向があって、そのせいでよく喧嘩にもなる。
「力不足かもしれないけどさ。俺にいっぱい甘えてよ。出来る限り、応えるからさ」
だからそんな風に言ってくれた隼平と出会えたことが、嬉しかった。心の支えができたおかげで、母との間の息苦しさが和らいだ気がした。結局もう、終わってしまった関係だけれど。
 

 2019年4月11日(木)(朝)(伊藤真斗)

 自室にいて、出会い系サイトで知り合った女性から送られた陰部の写真をスマートフォンで眺めている。
 僕には一つ性癖がある。それが性器を見せ合うことだ。そうすると性的に興奮する。性欲は人並みで、明梨と性交渉を持てないことも苦にはしていないが、この性癖はどうしようもない。ストレスがたまると、特にこの欲求が強まる。僕はマッチングアプリや出会い系アプリで相手を探して、画像の送り合いをよくする。僕のパソコンの中には、送ってもらった局部の画像が多く保管されている。それを見ると性的に興奮する。
 この快感は、母や明梨のブログを見るときの興奮と似ている。母のブログは、何の気なしに母の名前をインターネットで検索して見つけた。母の名前で検索すると「川浦聖」と実名で登録されているTwitterのアカウントがヒットした。アイコンは正面からの顔のアップの画像で、あの人らしいと思った。しかし写真の母は未だに若く、美しかった。そしてTwitterのプロフィール欄にリンクが貼ってあって、そこから母のブログに飛べた。タイトルは『シャトウルージュ』だ。ブログのプロフィール欄には
「読んだ本や観た映画、出会った人について書いています。いつまでも男性から愛される素敵な女でいられますように」
とあった。ブログには鑑賞した作品の感想の他、SNSを通じて出会った男性たちとの情事が綴られていた。例えば、こんな具合に。

 「先日、ここで知り合ったコンサルの人と会ってきました。四十代で既婚者の人。色白でハンサムでした。
 出会ってまずはスタバに行って、好きな映画のことをお話ししました。彼は『失楽園』が好きだと言っていました。不倫を描いた作品で、有名ですよね。私も渡辺淳一という作家が大好きです。私はエロチックな描写が好きなので、渡辺先生の作品に惹かれます。それと私は、不倫をする展開が好きです。背徳感があって、すごく興奮します。 
 いろいろな意見の人がいると思うけれど、私は不倫には肯定的です。どうしてかと言うと、人生は一度キリだし、たくさんの出会いを楽しまなかったら損だからです。自分の本当の場所って、世界中のどこにあるのか分からないですよね。だから私は、一生自由にあちこちを飛び回っていたいなと思っています。
 実は私はバツイチなんですけれど、一度結婚して本当に懲りました。一つの場所にいるのは、イライラするので苦手です。でも一つだけ心残りがあって、それは息子を置いてきてしまったことです。かわいそうだなって、思っています。私が好きな渡辺淳一さんの本に『遠き落日』という野口英世の生涯を描いた作品があるのですけれど、野口英世の母親に私は共感します。彼女はすごく息子想いなのですけれど、私もとても子供のことが気掛かりだからです。
 スタバで話した後にホテルへ行きました。裸になった彼は筋肉質で、カッコ良かったです。私はどちらかと言うと経験の少ない年下の人とする方が好きです。そんな男の子を一から育ててあげたいという願望があります。自分は育児を放棄しちゃったから、それをやり直したいという願望が強いからなのかもしれません。でも彼とも体の相性が良くて、とても気持ちがよかったです。
 今回の出会いはそんな感じでした。彼ともまた会いたいな、と思っています」
 
 初めて母の日記を読んだ時、内臓を擽られるような興奮を覚えた。そんな自傷的な行為によって、気分がハイになるのを感じた。明梨のブログを初めて見た時にも、同種の高揚を味わった。あのブログの存在を知ったのはTwitterのダイレクトメールに匿名のアカウントから垂れ込みがあったからだ。送られてきたリンクをクリックすると、明梨のものらしきブログへ飛んだ。タイトルは『王子様のいないシンデレラ姫』だ。プロフィール欄にはハンドルネームが「A.H」と記されていた。ブログに関する一言説明として
「いつか若さを失う、その日に慄いて」
とあった。文体や明梨の好む作家への拘りから、これは確かに明梨が書いた文章だと推察された。そこには、出会い系サイトを通じて出会った相手との交情が記されていた。こんな風に。

「数日前に、東大院生の人とお会いしてきました。理系の方です。横顔の綺麗な人。出会ってからまず、私の好きなサンマルクカフェに行きました。そこで相手の専攻や趣味のことをお話ししました。彼は理系だけれど美術館や映画館へ行くことが好きだそうで、共通の趣味の話ができて楽しかったです。
 彼との会話の中で谷崎潤一郎の『鍵』が話題に上りました。これは読ませるために書いた日記をお互いに盗み見させる夫婦を描いた心理劇です。ラクロ『危険な関係』などのフランス心理小説の影響が伺えます。
 谷崎は巧みな実験作家であり、幅広い作風の小説を手掛けていますが、しばしば共通して見られるモチーフとして、異物を触媒にしてそれを取り巻く人々の動態を捉える演劇的な構造があります。おそらくは細君譲渡事件などの実際の三角関係から霊感を得たものでもあり、またオスカー・ワイルドやトマス・ハーディに倣った部分も大きいでしょう。例えば『痴人の愛』においては、ナオミを取り巻く男たちの心理の揺らぎが印象的です。ナオミという異物に反応する男たちのプライドや愛欲が交錯していく様は、三浦大輔『愛の渦』を思わせます。また『鍵』においても、日記という異物を触媒にした巧みな心理合戦の展開が大きな魅力です。
 ところで私は、谷崎の作品に登場する女性が好きで『鍵』の郁子にも『痴人の愛』のナオミにも魅力を感じます。彼女たちが、いずれも強烈な自我を持っているからです。男性優位の社会の中で、男たちの思惑に翻弄されながらも尚、一人の個人として懸命に生きようとする女たちの姿に心を打たれます。そうした女性が運命と争いながら男を手玉に取る谷崎の心理劇は、本当に小気味よいものです。
 出会った彼との話は、谷崎潤一郎から発展してそのフォロワーである河野多恵子の話題となり、そこから富岡多恵子などのフェミニズム作家について語り合ったのでしたが、その時彼が印象的なことを口にしたのでした。
『富岡多恵子の「波打つ土地」だと思うけれど、女性と性行為に及んだ後で相手のことを所有したような気分になる男性が出てくるんですよね。すごく傲慢で浅はかだと思って』
彼はそんな風に言ったのでした。それが、とても嬉しかった。結局女性って、誰と関係を持っても、誰と交際しても、ひとりぼっちなのだと思います。女性の痛みがわかるのって、女性だけ。だから男性ができうる、女性に寄り添うための一番冴えたやり方は、女性の痛みを知ったうえで、一人の他者として相手を尊重することだと思うのですよね。私は彼に、そうした温かな眼差しを感じました。
 カフェを出て、その後は彼とホテルで楽しい時間を過ごしました。相性がいいのか、すごく気持ちの良いセックスでした。いつかまた彼と会いたいな、と思っています」
 
 あの匿名のアカウントの正体は、明梨だったのかもしれない。あえて自分の情事についてひけらかして、僕を試そうとしている。明梨のやりそうなことだ。そうだとしたら、嬉しい。僕はさらに、自分の局部の写真を明梨に送りたい衝動にも駆られる。もっと自分の弱みを明梨に握らせたい。それををネットに晒しあげて欲しい。
 少し話が変わるが、他人に隠部を見せる欲望を持つ人間は多いようで、以前Twitter上でそれを原因に炎上した東大生がいた。彼のハンドルネームを「ゼロ」と言った。地方の非進学校から二浪して理科一類に合格したことを誇っていて、大学入学前からアカウントのフォロワーが数万人もいた有名人だった。
ゼロ「僕は何も持っていない、ゼロからスタートしてここまで来ました。だからきっと、誰にでもできることだと思います。僕は受験生の皆さんに努力の天才になって欲しくて、微力ながら情報を発信しています」
そんな彼が、あるとき炎上した。受験相談にかこつけて未成年と淫行した事実を「なつき」というアカウントに暴き立てられた。
なつき「ゼロくんの衝撃的な真実。受験相談と装って、女子高生を毒牙にかけていた」
なつきのそんな扇情的な呟きには、ゼロが女性に性器の画像を送りつけているLINEのメッセージのスクリーンショットが添えられていた。
ゼロ「もう良い加減にしてください。僕は中学時代にいじめに遭い、何度も自殺を考えそれでも生き抜いてきました。ようやく東京大学理科一類という光を掴み取ることができたと思ったら、この仕打ちです。もはや僕には自殺しか残された道はないのでしょうか」
ゼロ「画面の向こうには生身の人間がいるということを、どうか忘れないでください。そして、ネットの情報を鵜呑みにして他人を攻撃するとことの浅はかさを知ってください」
ゼロ「もう耐えられません。自ら命を断とうと思います。なつきくんや他の皆さんが、僕への攻撃をやめないならば。これはもう、僕に対する性暴力ですよ。今も僕は、血を流しながら懸命に発信しています」
そんな風に身勝手な自己憐憫に浸る彼の姿は実に醜悪で、羨ましかった。僕もあんな風に、敗北した姿をみんなに見て欲しい。
「一人で歩いているときに、お母さんから後ろで見られている気がするの」
ふと明梨の言葉を思い出す。僕はそんな明梨が妬ましかった。母が僕に眼差しを向けてくれたことは、一度としてなかったから。
 僕が三島由紀夫に惹きつけられるのも、眼差しへの渇望に共感するからだ。三島『仮面の告白』には「私」が女装したところ、母親から目を背けられる場面がある。僕にはそれが、切なかった。僕も母から、あらゆるペルソナを認めて欲しかった。弱さも醜悪さも、全て見つめて欲しかった。僕を一人の個人として尊重する、そんな温かな眼差しが、ずっと欲しかった。

 
 2019年4月11日(木)(昼)(来栖梓)

 自室の洗面所の鏡に映った自分を見つめる。ウィッグをかぶり化粧をした自分の姿がそこにいる。
 僕には女装への拘りがある。自覚したのは高校の時だった。僕は地元の「自称」進学校である公立の男子校・高崎高校に通っていたが、そこでは女装男子が競い合うミスコンテストが文化祭で行われていた。僕はそのミスコンに二年と三年のときに参加した。参加したのは周りの生徒から自分の容姿を「可愛い」と言われて、それでミスコンに出るように勧められたからだ。ミスコンを経験して以来、僕の中に女装癖が芽生えた。時々一人で女装して楽しんでみることがある。
 女装のまま洗面所を出て、部屋のベッドで横になる。そこでスマートフォンでTwitterをする。すると「なつき」という人の呟きが目に入る。
なつき「東大生界隈(笑)の女装を押し付けあうノリ
    『少林少女』より寒々しくて好き」                 
Twitterには東大生同士のコミュニティが複数あって、そうした界隈のいくつかにおいては、同級生に女装を勧めうあう風潮がある。男性に対して「可愛い」とか「女装が似合いそう」とか言うことは、女性に「可愛い」とか「女の子しているね」と言うことに比べるとハラスメントになりづらいために、そんな馴れ合いが生じるのだと思う。男性に「可愛い」とか「女装して」と言っても、嫌な気持ちをする人が生まれにくい。そんな中で生じる馴れ合いを「なつき」さんは揶揄している。
 ところで、この「なつき」と言う人は東大生らしいけれど、素性が分からない。Twitterに入り浸る東大生の中には僕のように馴れ合いを好む人たちの他に、この「なつき」のように、斜めに構えてコミュニティから距離を置く人もいる。僕たちのような馴れ合いのノリは、この「なつき」さんなどからしばしば揶揄される。
 ただ、女装を他人に勧めることをネタにするのはよくないのかもな、とは僕も思う。それと男性に「可愛い」と言うことも。なぜかと言えば「女装」することが切実である人たちもいるのだから、それを人に押し付けることを「冗談」にしてはいけないと思う。「女装」をしたい人が「女装」をするということが、誰にとっても普通な社会が望ましいのだと、僕は思う。
 それに「可愛い」という言葉を男性に向けるのも、よくない気がする。女性に対して「可愛い」と言うことがハラスメントになるのはそれが容姿への言及だからだと思うけれど、男性にそう言うときだって、容姿への言及になっていると思う。
 Twitterのタイムラインを眺めていると、また知り合いの呟きが流れてくる。
ななしねこ「東大生界隈に冷笑かますノリ
      Janne Da Arcより中二病こじらせていて好き」
「ななしねこ」さんは本名を斎藤奈々と言って、僕と同じ映画製作サークルに所属している文科一類の二年生だ。僕ともよくTwitter上で馴れ合いをするし、まあまあ仲が良い。気が強いところもあって、何か言われるとすぐ相手にやり返す。さっきの呟きは、直接なつきさんに送信したものではないけれど、なつきさんを揶揄して言ったものだろう。
 でも僕はJanne Da Arcが好きだから、ちょっと悲しい。Janne Da Arcといえばアニメの『ブラック・ジャック』で使われていた『月光花』が有名だけれど『妖逆門』と言うアニメのオープニングテーマ『メビウス』で僕はJanne Da Arcを知った。中性的でエロチックな歌詞の世界観に、小学生の頃の僕は引き込まれた。 
 僕は今でもそうだけれど、その頃からヴィジュアル系バンドやグラムロックが好きだ。特にデヴィッド・ボウイが好きで、映画をあまり観る方ではないのに、ボウイ関連の映画は結構観ている。その中で特に印象に残ったのがトッド・ヘインズ監督の『ベルベット・ゴールドマイン』だ。ボウイをモデルにした架空のミュージシャンであるブライアン・スレイドの生涯を描く映画だった。『地球に落ちてきた男』のパロディで宇宙人が出てくるとか、色々とヘンテコな映画で面白かった。オスカー・ワイルドのあり方を受け継ぐものとして、ボウイやゲイカルチャーが描かれていることが特に印象的だった。
 オスカー・ワイルドについては、駒場で受けたクイア論の中で調べたことがある。そのときに手に取ったのが宮崎かすみ『オスカー・ワイルド-「犯罪者」にして芸術家』だった。同性愛差別の根強く残る世紀末のイギリスにおいて、オスカー・ワイルドが男色を理由に投獄されたことが書かれていた。セクシャリティにまつわる葛藤というものは、いつの時代も社会的な要因と個人的な要因が絡み合う中で複雑に構成されるものなのだと思った。
 僕には自分の「男性性」への嫌悪感がある。なぜなら社会的に「男性性」が加害的とみなされているからだ。僕は祖父とのことがあって、他人の痛みに敏感でありたいし、他人を傷つけたくないと思っている。他人の痛みに早くに気づきケアをしてあげることで、祖父との間に起こった別れが生まれないようにしたい。そんな思いが、僕の内なる「男性性」を拒否する。
「あずにゃんって、本当に可愛いし優しいよね。私よりずっと、女子力高い」
以前、サークル同期たちと一緒にカラオケに行ったとき、斎藤奈々さんから言われたことを思い出す。
「Janne Da Arcを好きなのが意外だった。もっと、ほわっとした曲を歌うイメージだった。『風になる』とか」
斎藤さんは笑ってそう言った。それを聞いたとき、僕はもやもやした。僕にとってJanne Da Arcが好きなことは、自分のセクシャリティと分かち難く結びついていたので「らしくない」と言われるのは、少し辛かった。他人や社会から特定の性規範を押し付けられたとき、拒否反応が起こることって、結構誰にでもあるのかなと感じる。
 だから僕は「可愛い」という言葉を男性に向けるのも良くないな、と思ってしまう。ルッキズム的な発想を含むから嫌というのもあるし「かわいい」という言葉に振り回されて、自分が何者なのかを見失ってしまうことがある気がする。僕は他人から受けるそうした評価を気にするタイプの人間だから、特にそう思う。
 そういえば、駒場で受けたクイア論のレポートを書くために『ブロークバック・マウンテン』という映画を観たけれど、あれもセクシャルマイノリティが自己のアイデンティティと居場所を見失い、苦悩する話だった。主人公のジャックとイニスの二人は、ブロークバック・マウンテンでの季節労働を通じて知り合う。二人はそこでの労働を通じてつながりを深めるのだが、ある夜二人は衝動的に肉体関係を持ってしまう。その後イニスもジャックもそれぞれ女性と結婚して家庭を持つのであったが、イニスとジャックの繋がりが原因で、二つの家庭は破局を迎える。そしてジャックは事故で死に、イニスは一人ブロークバック・マウンテンでの二人の思い出を回顧する。
「私は『ブロークバック・マウンテン』って嫌い。女性が周縁に追いやられているんだもの。ゲイの孤独もわかるけれども、これじゃあ女性が悪者みたいじゃん。ゲイ二人が不倫したのが原因なのにさ」
以前に交際していた藤井明梨さんが、そんな風に言っていたのを覚えている。確かにその批判もわかるけれど、僕はあの作品を違う意味に読み取っていた。『ブロークバック・マウンテン』が描くのは、セクシャルマイノリティが自己のアイデンティティを否定されてそれを見失うことで、自分や他人を傷つけてしまうという事実だと思う。この作品において女性は悪者というよりむしろ、セクシャルマイノリティへの偏見による犠牲者の一人なのだと思った。自分が何者か分からず苦しんでいる人がいて、それに寄り添おうとしたところで傷つけられてしまうのだと思う。どこかに居場所を見つけられさえすれば、お互いに救われるのだろうけれど。
 僕がデヴィッド・ボウイやJanne Da Arcなどのグラム系のミュージシャンに惹きつけられるのは、彼らの存在がセクシャルマイノリティにとっての道標となるからだ。ソンタグが言うところの「キャンプ」美学とも関わるけれども、ああしたファッションというのは、自分たちの周縁性を認めながらも、自己の特殊性を積極的に捉え直してアピールしていくクイアの精神に通じると思う。彼らは実際『ベルベット・ゴールドマイン』が描くように、オスカー・ワイルドが社会に対して繰り広げた闘争を引き継ぐ存在だと思う。自分が何者なのか分からずに苦しんでいる人にとっては、彼らの存在が救いなのだと、僕はそう思う。
 
 
 2019年4月11日(木)(夕方)(坂本樹)

 自室でTwitterをやっていた。僕には複数Twitterアカウントがあって、その内の一つのアカウント名が「なつき」と言う。これはストレスを発散するためのアカウントだから、好きなことを言っている。朝井リョウ『何者』で描かれているのと近いかもしれない。あの作品では主人公・拓人が「何者」というTwitterの匿名アカウントで知人を監視したり中傷したりする展開があった。僕の「なつき」というアカウントの運用方針も、それと似ている。冷笑的な言動で「いいね」を稼いで、適当に承認欲求を満たしている。ヘイトも集めているけれど、匿名だから別に嫌われても構わない。
 このアカウントには一つ明確な攻撃対象があって、それは恋人がいる東大女子だ。さっきも「ななしねこ」という東大女子と一悶着があった。僕はななしねこが嫌いだ。例えば、こういう呟きが気に入らない。
ななしねこ「童貞をこじらせた東大生が抱えている、モテさえすれば人生はeasyだという妄想のことを『ファイナルファンタジー』と呼ぶのはやめろ」
これに腹が立つのは、ななしねこは女であるからモテない男の辛さがわからない癖に、こちらのことを馬鹿にしてくるからだ。弱者男性の孤独を無視する人がジェンダー絡みの案件について正論ぶって物申すのを見るのは片腹痛い。
ななしねこ「朝から夫の横顔を見て惚れ直している」
それにこういう惚気ツイートも腹が立つ。女性というのは性的魅力があるから異性を引きつけ易く、社会的に孤立しづらいのだ。ななしねこは女性であることの特権を謳歌し尽くしているのに、弱者男性を馬鹿にするからイライラする。
あずにゃん「朝から某氏の惚気に胸焼けしている」
それと「あずにゃん」とか、ななしねこの取り巻きみたいな奴らにもイライラさせられる。ああいう手合いがいるから、ななしねこが付け上がるのだ。
 東大という環境は女子が少ない。だから、多くのコミュニティにおいて女性が大切にされる。多少なりとも魅力的な女子の周りにはそれを囲う男子たちが集まってくる。ななしねこもそんな感じで、彼女の周りには男が絶えることがない。男を取っ替え引っ替えしながら年中惚気ている。
 僕は、彼女のことが心底羨ましい。モテないことの何が辛いかと言えば、誰も自分を必要としてくれないという、その事実が辛い。誰も、自分に価値があると認めてくれないのだという、その事実が辛い。
「樹、あんた生きている価値ないよ。だって馬鹿だもん」
幼い頃から母に投げかけられ続けた言葉が、僕の脳裏にこびり付いている。中学受験の頃のことを、僕はよく夢に見る。夢の中で、いつも僕は自室に閉じ込められている。机に向かう僕の後ろには母がいて、睨まれながら勉強をしている。僕は懸命に問題を解いていて、なんとか課題を解き終えると、恐る恐る母に見せる。すると母は顔を赤らめ、泣いて僕を怒鳴りつける。
「どうしてこんな問題もできないの。どうして悪いところばかり私に似るの。どうしてあんたが生まれてきたの」
母は泣き喚いて、僕を何度も殴る。
「ごめんなさい。叩かないで」
僕は泣いて許しを乞う。
「早くやり直しなさい」
母は冷たく言い放ち、殴る手を止めて先ほどの問題集を僕に投げつける。
「早くしなさい。時間は限られているのだから」
「はい」
僕は言って、また課題に取り掛かる。すると、母が後ろで言う。
「私が母親で、本当にごめんね」
そこで僕は、夢から覚める。母が夢の終わりに放つその言葉は、目覚めた後も耳に焼きついて、僕を切ない気持ちにさせる。あの優しく哀しい声は、僕がごく幼い頃の、まだ優しかった母のことを思い出させる。
 母も、僕がずっと小さいころは優しくて、怒ることも少なかった。母が僕に辛く当たるようになったのは、中学受験を控えて勉強が本格的になった小学三年の頃からで、それ以前は優しかった。母と一緒にゲームをしたこともあった。僕が幼稚園の年長の頃、一緒に『ファイナルファンタジーⅩ』を遊んだことが特に記憶に残っている。僕はまだ小さくて、一人でゲームを遊ぶことができなかった。だから母が僕の後ろにいて、コントローラーを操作するのを手伝ってくれた。
 『ファイナルファンタジーⅩ』は「親殺し」の物語だった。主人公・ティーダと、その父・ジェクトの関係がドラマの中心にあった。ジェクトとティーダは、ティーダが幼い頃に生き別れてしまっている。愛情表現が下手でぶっきらぼうな父のことを、ずっとティーダは好きになれずにいた。ティーダはヒロインのユウナたちとともに「シン」という名の怪物を倒し、世界を救うために旅をするが、旅の過程で「シン」の正体が生き別れた父であることを知る。ジェクトは平和のために「シン」にならざるを得ない事情があった。「シン」との決戦の場面で、母が泣いていたのを覚えている。
「どうして泣いているの」
僕はそう、母に訊いた。
「うん。私のパパもね、怪物になっちゃったの」
母は涙を拭いながら言った。
「怪物って」
「怪物。お酒を飲むとね、怪物になってしまったの」
「どうして」
「私のことが、嫌いだったのかもね。『お前なんか死ねば良いのに』って、よく言われたな」
「おじいちゃんは、悪い人だったの」
「どうなんだろう。優しいところもあったかもね。当時のママはそう信じていたかった。本当はいい人なんだって」
「そうなんだね」
「うん。おじいちゃんからね、言われたことがあったの。『俺が父親でごめんな』って。泣きながらね。私はね、あれが本当のパパだと思っていたの。怪物になってしまった時でもね、また優しいパパに戻るから大丈夫なんだって、いつも自分に言い聞かせていたな」
そう母は言っていた。そんな母と一緒に聞いていた、テレビに映るジェクトのセリフは今でも覚えている。
「もう歌もあんまし聞こえねえんだ。もうちっとで俺は心の底から『シン』になっちまう。間に合って助かったぜ。
んでよはじまっちまったらオレはこわれちまう。
手加減とかできねえからよ!!
すまねえな。」
「シン」に姿を変えたジェクトは、ティーダたちに敗れた後で、再び人間の姿に戻る。人間の姿に戻ったジェクトは、ティーダを優しく励ましてくれる。受験が始まって母が怪物になったとき、母もすぐに元に戻るのだと信じようとした。優しい母が本当の母親で、受験が終わればすぐに優しい母が帰ってきてくれるのだと、そう信じたかった。
「樹、あんた生きている価値ないよ。だって馬鹿だもん」
そんな言葉は嘘だって、いつか母に言って欲しかった。脳裏に焼き付いて離れないその言葉を掻き消したくて、自分のことを満たしてくれる女性をずっと探している。それが叶わないから、異性から引く手数多の東大女子が妬ましい。

 
 2019年4月11日(木)(夜)(後藤春香)

「春香さんは、小説とか読まないのですか」 
私が『ファイナルファンタジーⅩⅤ』で遊んでいると、横で猫の姿のグッピーが話しかけて来た。
「なんで」
私は尋ねた。
「地球の文化に明るくなりたいので」
「そう」
「今遊んでいる『ファイナルファンタジーⅩⅤ』も小説版がもうすぐ発売ですよね。買いますか」 
「一応読むとは思うよ。でも『ファイナルファンタジーⅩⅤ』はストーリーがめちゃくちゃすぎるよ。制作事故レベル」
「そうですよね」
「プロデューサーの意向に開発陣が振り回されて迷走しちゃったのかな」
「人間の組織って、いろいろ大変ですね」
「そうかもね」
私は言った。組織というのは概して面倒くさい。特に恋愛絡みはそうだと、大学に入ってから実感した。私も面倒なことを避けてきたけれど、これからはグッピーのせいでそうもいかない。
「小説の話に戻りますが、何かオススメってありますか」
グッピーが言った。
「漱石の『こころ』とか谷崎の『卍』は。人間関係は面倒臭い、みたいな話だよ。些細なすれ違いで大変なことになっちゃうの。シェイクスピアにも通じる普遍的なプロット。国民的作家の作品だから、ミーハーな君は読むべき」
私は笑って言った。喋りながらも『ファイナルファンタジーⅩⅤ』のダウンロードコンテンツ『エピソード アーデン』を遊んでいる。これは本編の主要キャラクター・アーデン(名前の由来はシェイクスピアなのか、あるいはテニスンなのか)の過去を描いたサイドストーリーだ。本編で消化不良気味だった部分を補完し切れているとは言い難く、なんとも言えない内容である。
「結局よくわからないことだらけですね。『ファイナルファンタジーⅩⅤ』は」
画面を見つめながらグッピーが言った。
「そうだね」
私は言った。
「なんで主人公のノクティスはスマートフォンを持っているのに、ヒロインのルナフレーナと文通しているんでしょう」
グッピーは言った。それはネットでもよくネタにされている。
「あれじゃない。ノクトにスマートフォンを覗かれたせいでルナフレーナの浮気が以前にバレかけたんだよ。それ以来、ルナフレーナが連絡手段を文書に制限しているの。鈴木達央さんが声優やっているキャラってモラハラ気質っぽいし、平気でノクトは恋人のスマートフォンを覗いてLINEで男の名前を探していそう」
私は笑って言った。ふと私はスマートフォンを手にとってLINEを確認する。タイムラインに通知があるのに気がつく。見てみると、今日は竹田くんが誕生日のようだ。
 どうしよう。ここは「お誕生日おめでとう」と連絡して、プレゼントをあげようか。でもそれだと相手をぬか喜びさせて、後で傷つけてしまうかな。すぐ別れちゃうのだし、じわじわ自然消滅させたい(一日付き合うごとにグッピーから一万円が贈与されるので、彼のことは一応キープしている)。
 でもどうしよう。申し訳ない気持ちもあるし、プレゼントくらい送ってあげようかな。お金には余裕があるし、一万円くらいなら出してもいい。
Haruka「竹田くん、誕生日おめでとう!(クラッカーの絵文字)」
私はそんな風に送った。
竹田音也「ありがとう春香ちゃん!これからもよろしくね」
直後にそう返信が来た。
Haruka「こちらこそ!欲しいものとかあるかな?」
竹田音也「無理しなくていいよ。気持ちだけでうれしいし。もらえるならなんでも大切にするけど」
Haruka「無理していないから大丈夫だよ!どうしよう。食べ物でいいかな」
竹田音也「うん。なんでもうれしいよ。本当に無理しなくていいからね 笑」
Haruka「りょーかい 笑」
竹田音也「それと、近いうちにまた会いたいんだけど、会えるかな」
そう返信がきた。どうしよう。
Haruka「うーん、ちょっとまだ予定がわかんない!わかったら連絡するね!」
適当にはぐらかした。
竹田音也「わかった!今度どこで会いたいとかある?」
と返信が来た。「家でまたエッチしたい」と言って欲しいんだろうな。どうしよう。竹田くんの部屋って、他人の部屋特有のヌメっとした臭いが強いから、あまり行きたくない。でも私は外へ出かけるのも苦手で、それも億劫だ。そして私の家の場所は教えたくない。
Haruka「じゃあ、また竹田くんの家に行きたいな!一緒にまた映画とか観たい」
と送った。やむを得ない。
竹田音也「わかった!楽しみにしているね(ニコニコした絵文字)」
Haruka「(無料のクマのスタンプ)」
私は返信を済ませた。面倒くさいけれど、仕方ない。日給一万円のバイトだと考えよう。あと五人、頑張らなくちゃ。
 

 2019年4月12日(金)(朝)(伊藤真斗) 

 サークルの同人誌に寄せるための文章を書いていた。まだ書きかけだが、北野武の映画について論じたものだ。


 「北野武-その殉教の美学」
 
 フィルモグラフィー総ざらい
 
 まず北野のフィルムを制作年順に追っていく。処女作である『その男、凶暴につき』(1989)からみてみよう。これは象徴主義、実存主義、精神分析に加え、ヌーヴェルバーグやATGのフィルム群から発想の多くを頂いていることが見て取れる。荒削りで佳品とは言い難いが、この作品からすでに北野のフィルムにおいて広範に見受けられる主題がある。それはタナトフィリアと隣り合わせのマゾヒズムで、三島由紀夫の文学とも共通性を見いだせる。北野と三島に共通するのは、自身の死を演出することへの耐えがたい欲求である。その欲求は『異邦人』のムルソー同様、他者の眼差しへの渇望に由来している。北野や三島の作品を覆うペシミズムと実存の不安が齎す空虚な感情が、他者からの眼差しによる承認を貪欲に求めさせ、二人は視線の刃を自らの肉体に突き立てようとする。
 『3-4X10月』(1990)はデイヴィッド・リンチやデイヴィッド・クローネンバーグを思わせる、精神分析をモチーフとしたドイツ表現主義タッチの作品である。処女作と比してコミカルなテイストが強い。これもまだ若書きといった印象で、演出も冴えない。演出家としての要領を掴むのは『あの夏、いちばん静かな海。』(1991)からであろう。『あの夏、いちばん静かな海。』はトリュフォー『突然炎のごとく』(1962)を思わせる青春劇で、儚い若さのインモラルな官能を巧みに捉える点では三島由紀夫の『金閣寺』にも通じる。
 ところで『金閣寺』と言えば、北野と同時期に監督としてデビューした岩井俊二の代表作『リリィ・シュシュのすべて』(2001)も『金閣寺』のパロディとしての性質が強かった。岩井と北野という二人の映像作家に共通するのは、カットの構成とモンタージュのリズムにおける洗練されたスタイルである。この両者は映像のスタイルという点では小津安二郎のような巨匠にも匹敵する才覚の冴えをキャリアの初期から誇った。『ソナチネ』(1993)において、そのスタイルは完全に完成された観を呈する。
 一方で『みんな?やってるか!』(1995)は、北野の欠点が如実に現れている。北野は映像のスタイルにおいて高い達成を見たものの、企画やドラマの引き出しの少なさには終始悩まされ続け、特に喜劇やパロディを手掛けることは苦手とした。喜劇が苦手であるのはコメディアンとしての経歴が足を引っ張っている部分がある。喜劇映画を手がけるに当たっては、北野の俗なコメディアンとしての才覚と、スタイルの冴えを誇るアーティストとしての才覚が噛み合わなかった。『みんな?やってるか!』以後、創作の低迷期に入る。『キッズ・リターン』(1996)は佳品ではあるものの『あの夏、いちばん静かな海。』の焼き回しにも映る。『HANA-BI』(1998)に至っても『ソナチネ』から演出の深化があったとは言い難い。『菊次郎の夏』(1999)においてスクリューボールコメディを手掛け、一定の水準には達しているものの、食い足りないような印象を受ける。『BROTHER』(2001)も低迷期の作品ではあるが、その後のノワールタッチの娯楽活劇路線を準備したとは指摘できる。
 『Dolls』(2002)はエドワード・ヤンのフィルムから影響を受けたものと見られるが、これも成功作とは言い難い。ヤンは北野と並んで、九〇年代を中心に確かなスタイルを持って活躍した作家であった。九〇年代はヤン、北野、ウォン・カーウァイなどに見られるように、古典的な米仏のノワール映画が再注目された時期であった。その点において三者ともヌーヴェルバーグの映像作家に倣った部分が大きく、カーウァイ『恋する惑星』(1994)もゴダール『勝手にしやがれ』(1960)のパロディであったと言える。そしてヤン、北野、カーウァイの三者のうちで最も表現の上で高い達成を見たのはエドワード・ヤンであろう。
 ヤンのフィルムはノワール映画に広く原作を提供したダシール・ハメットの心理劇から多くを学んでいる印象を受ける。ハメットはヘンリー・ジェイムズから強く示唆を受けていることが知られるが、モダニズムの先駆的作家・ジェイムズの心理劇はハメットを経てヤンへと受け継がれている。ジェイムズの心理劇の主題とは、登場人物の各々が心の理論、志向的姿勢に基づき他者の行動を解釈し、それを自身の行動へとフィードバックすることが繰り返される中で生じる、総体としての人々の動態であると言えるだろう。ジェイムズの影響が強い漱石の『こころ』『明暗』や、谷崎『卍』横光「機械」にも共通した構造が見受けられる。ヤンは『エドワード・ヤンの恋愛時代』(1994)において、モダニズムの作家が駆使した「意識の流れ」を映像のモンタージュに導入したスタイルによって、人々のアクションが連鎖する流れを描く心理劇を展開した。他者の行動を解釈し、それを自身の行動の選択に反映していくことが繰り返される中で生じるドラマを描いた。
 翻って『Dolls』を見てみると、これはヤンのフィルムの極めて表面的なエピゴーネンに終始していて、成功作とは言い難い。北野はヤンのフィルムの巧みな心理劇のプロットをものにすることはできなかった。北野において傑出していたのはカットの構成やモンタージュのリズムにおける詩的感性の鋭敏さ、並びにアクションの発想の豊潤さであって、その点において北野は小津安二郎やアンゲロプロス、エリセといった巨匠に勝るとも劣らない。一方で北野が抱えていた欠点は(オーソン・ウェルズ、ゴダール、キューブリック、タランティーノ、コーエン兄弟、ポン・ジュノといった器用な作家主義の監督たちと比較して、相対的に)映画史の体系的な知識の不十分さ、それに由来する企画やドラマの引き出しの少なさだった。また北野のコメディアンとしての俗な笑いの感性は、バイオレンスを描くときにはスパイスとなり一層の乾いた生々しさを演出したが、喜劇を組み立てられるほど洗練されていなかった。『座頭市』(2003)『TAKESHIS’』(2005)『監督・ばんざい!』(2007)『アキレスと亀』(2008)にはそうした欠陥が顕著に現れている。『座頭市』はバイオレンス部分には見応えがあるものの、その後の三つのコメディは松本人志の作品と代わり映えがせず、ゴダールのフィルムを湯で蕩けさせたかのようである。
 長いスランプに終止符を打ったのが『アウトレイジ』(2010)だろう。『アウトレイジ』を準備したのは『BROTHER』と『座頭市』であった。『座頭市』はマカロニウェスタンやその影響で制作された『必殺』シリーズから多くの示唆を受けていることが見て取れる。『必殺』シリーズの構成に、北野は自身の活路を見出した。すなわち、誇張的で外連味溢れるバイオレンスシーンを軸に活劇を組み立てることである。『アウトレイジ』は物語の要所に組み込まれた印象的な殺害シーンによって、画面の緊張感が途切れることがない。北野が誇るスタイルとアクションの発想の豊さが『アウトレイジ』には遺憾無く発揮されている。その後の『アウトレイジ ビヨンド』(2012)『龍三と七人の子分たち』(2015)『アウトレイジ 最終章』(2017)も高水準に纏まっており、北野はマカロニウェスタンテイストのヤクザ映画の中に、娯楽作家としての活路を見出したと言えるだろう。
 
 
 死者たち
 
 『アウトレイジ 最終章』に至っても処女作と同様に、作家自身の死を演出することへの欲望が見て取れる。北野のフィルムは村上春樹の小説と、コインの裏表である。北野が自分の死を演出したいと希うナルシズムに囚われる一方で、春樹は自殺によって遺された者がセンチメンタルなナルシズムに囚われる様を描く。
 そして、この両方のナルシズムを兼ね備えた作家が三島由紀夫であった。三島はその最期に至るまで、自身の死を演出することに執着した。そして三島は、日本に散った戦死者たちへ遺された者としての負い目を持ち続け、その自意識を肥大化させた。二つのナルシズムを拗らせた果てに、彼は自決を遂げるより他はなかった。
 そうまでして三島が求めたものとは、他者からの承認であった。自死によって、三島は生者からの賞賛のみならず、殉死した武士からの承認をも得ようとした。三島由紀夫にとって「殉死」とは一種のイニシエーションであった。「殉死」を経ることによって、彼は戦死者の魂との恒久的な繋がりを獲得せんとした。
 北野においてもそれと似た構造が指摘できる。北野がノワールというジャンルにスタイルで影響を受けたのは、男性に対するロマンチックな眼差しを北野が抱えていたからである。フレンチノワールに見られる男同士の絆と裏切りの主題に、北野は惹かれた。北野は自らの死を演出することで三島と同様に、死んだ男たちからの承認を求めた。殉死によって紡がれる死者との絶対的な絆を、三島や北野は渇望した。
 一方で春樹の作品において、主人公は知人の自殺によって永遠の存在を獲得し、それを自尊心の拠り所としつつも、そうしたあり方を自嘲してみせる。『ノルウェイの森』においてワタナベは直子の自殺により、ベアトリーチェの如き永遠の女性を得る。自殺によって絶対的な位置を獲得した女性。彼女から絶えず向けられる眼差しこそが、主人公の男性としての自尊心と自己嫌悪の根源となっている。
 春樹の文学はゴダール『気狂いピエロ』やメンデス『アメリカン・ビューティー』(1999)と同様に、ノワールのパロディである。『気狂いピエロ』はノワールをパスティーシュすることで、アメリカ資本と文化の流入により「フランス」のアイデンティティが揺らぐ有り様を捉えた。ハンフリー・ボガートを崇めるフランス人青年・ミシェルの破滅を描くことで「フランス」というネーションが抱えるマッチョな自尊心が批判的に捉えられる。『アメリカン・ビューティー』は、フィルム・ノワールの代表作を手掛けたビリー・ワイルダーのフィルムをサブテクストに据えている。冒頭の死者によるナレーションは『サンセット大通り』のパロディで、プチブル中年男性の浮気のモチーフは『七年目の浮気』から拝借している。『アメリカン・ビューティー』が風刺の矛先を向けるのは「アメリカ」の病んだマチズモである。「アメリカ」に巣食う、ゲイフォビックでミソジナスな男性中心主義の病理を、男性中心主義的なジャンルであるフィルム・ノワールのパロディによって揶揄する。
 そして春樹の文学では、処女作の『風の歌を聴け』から日本人である「僕」が「アメリカ」に向ける眼差しが描かれる。共同体主義的発想が根強い日本文壇の左翼や伝統保守の思想には馴染めず、アメリカ合衆国のリバタリアニズムに共鳴し、欧米の文化に自己のアイデンティティを持つ作者自身のあり方が、そこには反映されている。そうした個人主義的な発想の根拠には、自殺のトラウマの存在が指摘できるだろう。
 ノワール作品に漂うペシミスティックでマッチョなスタイルを過剰に様式化することによって、春樹は自身のナルシズムを自嘲してみせる。自殺のトラウマを引き摺りながらも、それによって絶対的な存在を手に入れ、それを自尊心の拠り所とするあり方。トラウマに苛まれているために、過剰なポーズによって他者から内面に踏み込ませぬように構える自意識過剰なあり方。そうした自己愛の特性をモダニズム文学やポップアート、ヌーヴェルバーグの運動も踏まえて、ノワールのフォルマリスティックなパロディとして諧謔的に描いてみせる。
 
 

 参考文献

中条省平『フランス映画史の誘惑』(集英社、二〇〇三)
四方田犬彦『日本映画史110年』(集英社、二〇一四)
村山匡一郎編『映画史を学ぶクリティカル・ワーズ』(フィルムアート社、二〇一三)
秋葉剛史ほか著『現代形而上学:分析哲学が問う、人・因果・存在の謎』(新曜社、二〇一四)
信原幸弘編『心の哲学:新時代の心の科学をめぐる哲学の問い』(新曜社、二〇一七)
佐々木英昭『夏目漱石:人間は電車ぢやありませんから』(ミネルヴァ書房、二〇一六)
校條剛『ザ・流行作家』(講談社、二〇一三)
斎藤美奈子『文壇アイドル論』(岩波書店、二〇〇二)
デイヴィッド・ロッジ著 柴田元幸、斎藤兆史訳『小説の技巧』(白水社、一九九七)
ルイス・ジアネッティ著、堤和子ほか訳『映画技法のリテラシーⅡ 物語とクリティック』(フィルムアート社、二〇〇四)
ダイアン・ジョンソン著 小鷹信光訳『ダシール・ハメットの生涯』(早川書房、一九八七)




 2019年4月12日(金)(昼)(坂本樹) 

 自室にいて、息抜きにブログの更新をしていた。タイトルは「那月の本棚」という。このブログは異性からモテたい僕が、現代文学やアート映画好きの東大生という設定で運営している。「那月」という名前は「春樹」を文字ったものだ。Twitterにも読書用アカウントとして「那月」を持っていて、そのプロフィール欄に「那月の本棚」のリンクが貼ってある。Twitterの読書アカウントの界隈には女性も多くいるから、彼女たちをターゲットに涙ぐましい努力を僕は展開している。


2019/04/12(金) 11:06:22「『海辺のカフカ』について」

 田村カフカのように僕も子供の頃、母の呪いから逃れるために家出をしたいと思っていました。母から僕はこんな風に言われたものでした。
「那月、あんたは生きている価値ないよ。だって馬鹿だもん」
僕の母は中卒で、強い学歴コンプレックスを抱えています。そして僕にエリートコースを歩ませることで、自分の人生のリベンジを図ろうとしました。僕は、そんな母から教育虐待を受けて育ってきました。
 でも僕は、カフカ少年のように家出する勇気もなくて、ただ母からの暴言や暴力に耐えるばかりでした。僕が都内の進学校に通っていた頃、心の支えになっていたのが学校の図書室でした。カフカ少年が図書館に寝泊まりしていたように、当時の僕の居場所となってくれたのが図書館でした。僕はそこで内外の古典を読みあさって、苦境を生き抜く糧としました。フランツ・カフカの作品も、そのとき広く読んだのでした。
 とりわけ心に残ったのが『失踪者』でした。「火夫」の章に始まるこの長編はカフカの代表作の一つですが『海辺のカフカ』とも多くの共通点が見受けられます。『失踪者』の主人公であるカール・ロスマンは、故郷ドイツで年上の女中と交わり子を宿させたために、両親によりアメリカへ追いやられます。ロスマンはカフカ少年のように、異郷をさすらいボヘミアン風の生活を送ります。そう言えば『海辺のカフカ』にはミミという猫が登場しますが、これは十九世紀の欧米において「ボヘミアニズム」という概念と表象の定着に大きな役割を果たしたミュルジェール『ボヘミアン生活の憧憬』とそのオペラ化であるプッチーニ『ラ・ボエーム』に登場する女性・ミミからとっているようです。『失踪者』も『海辺のカフカ』も、そうしたボヘミアニズムを主題とする作品の系譜上に位置すると言えるのではないでしょうか。
 『失踪者』や『海辺のカフカ』もそうですが、カフカや春樹の作品にしばしば共通して見られるモチーフは「孤独」「疎外感」です。アメリカは個人主義的な発想が強く根差す風土です。自由で孤独なアメリカを舞台にする『失踪者』と、アメリカ文学にルーツを持つ春樹が手掛けた『海辺のカフカ』においては、一人の少年が当て所なく異郷を彷徨い、孤独の中で自立していく構造が共通しています。
 しかし『失踪者』と『海辺のカフカ』の間には大きな違いもあります。『海辺のカフカ』には、精神分析から発想の多くを頂くファンタジー作品としての特徴があるのです。『海辺のカフカ』は北野武『3-4X10月』やデイヴィッド・リンチ、デイヴィッド・クローネンバーグのフィルムとも似ており、意識と無意識の世界の交錯と転倒が描かれています。『海辺のカフカ』においては、カフカ少年と対をなす存在としてナカタサトルという六十代の男性が置かれています。ナカタサトルはカフカ少年の無意識の側面を背負う存在で、エディプスコンプレックスに突き動かされてカフカ少年の父を殺害します。『海辺のカフカ』は精神分析的な「父殺し」を主題とするファンタジー作品になっているのです。
 父を殺し、その呪いから逃れたことで、少年は何を手に入れたのでしょうか。それは「自由」だと思います。行動を自身で選び取る「自由」です。春樹の文学には、欧米流のリバタリアニズムが根底に流れています。しかしその一方、春樹の作品は往々にしてリバタリアニズムとは対極に位置する、決定論的な発想にもコミットします。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』でもそうでしたが『海辺のカフカ』においても無意識(=ナカタサトル)の振る舞いによって意識(=カフカ少年)が翻弄される姿が描かれていました。春樹の文学には個人主義が強くある一方で、どこかリバタリアニズムが掲げる「自由」に対する諦念が見て取れるのです。
 そうした発想の源泉とは何でしょうか。文学史的には、そうした思想を裏付けているのはニーチェ、キルケゴール、ショーペンハウアーなどの生の哲学の存在が指摘できるでしょう。また、そうした思想を背景にして書かれたカフカや堀辰雄の文学もあります。それに加えてカミュの『シーシュポスの神話』などの実存主義文学、カート・ヴォネガットの作品があります。いずれのテクストも自由意志の存在を肯定しつつ、ペシミスティックな世界認識のあり方が見て取れ、往々にして決定論的な発想にもコミットします。
 ただ、春樹にとってリバタリアニズムと背中合わせの決定論は、文学史的な必然性に基づくだけでなく、本人にとって切実なものがある気もします。それを考えるにあたって、僕の友人であるKさんの言葉が参考になります。Kさんは、東大で知り合った僕のクラスメートで、誰よりも優しい心を持った女性です。彼女は、こう言っていました。
「春樹の作品は、ゲームでいうところの『バッドエンド』の後の話って感じがするんだよね。『ノルウェイの森』もそう。自分が犯した選択ミスのリプレイを見せられている感じ。私も経験あるから、そう感じるのだけれど」
彼女は、自分の身の回りで同級生が自殺したそうでした。自分が救えなかったその子を思って、今も心が痛むそうです。そんな彼女の言う通り春樹の文学の本質とは、自由な選択の失敗への後悔であるのかもしれません。そして取り返しのつかない悲劇が、決定論的な構造として現れるのです。
「私の人生は失敗だったから。那月には選択を間違って欲しくないの。那月はちゃんと勉強して、将来の選択肢を広げて欲しいの」
冒頭で話題にした母も、よくそんな風に言ったものでした。
「あんたなんか産むんじゃなかった。私の馬鹿が遺伝しちゃった」
母はいつも、僕の中に過去の自分を見ていました。母は僕を目の前にして、自分の過去の選択の失敗を突きつけられ、それに苛立ったのでした。
「那月。あんたは生きている価値ないよ。だって馬鹿だもん」
母の呪詛から逃れたくて、必死に足掻いてきました。カフカ少年が「父を殺す」ことで自由を得たように、僕が「母を殺し」て自由となる道とは、どこにあるのでしょうか。カフカ少年は母に似た女性と交わって成長を遂げました。僕に必要なのは、母と似た誰かを救うことかもしれません。それによって僕は母を赦し、前に進めるのだと思います。
 大学で、そんな女性と巡り合いました。彼女の名前を仮に「神宮寺」としておきます。神宮寺さんとはサークル活動を通じて知り合いました。少し刺のある振る舞いの底に、脆さや繊細さを抱えているところが、僕の母に似ていました。
「中学校の頃、不登校に近かったんだ。精神の病気になっちゃって」
以前、彼女が僕に打ち明けてくれたのを覚えています。彼女は、そのとき続けて言いました。
「お母さん、私のことを異常に心配するから。これ以上心配させたくないのに、って思う分、余計に体も辛くなって」
「そうだったんだね」
僕は言いました。
「立っているのが辛いから、いっそ誰か一緒に死んでくれる人がいないかなって、いつも思っている。そうだ。那月くん、私と一緒に死んでくれない」
彼女は笑って、そんな風に言っていました。そんな打ち明け話をしてもらえたことが、僕は嬉しかった。自分への信頼が、伝わってきました。そして僕が彼女の痛みに寄り添えるのも、母との過去があったからだと思うのです。彼女の痛みが分かるのは、母のお陰なのです。僕はあのとき彼女に共感してあげたことで母を赦し、少しだけ前へ進めたのかなと思っています。彼女のことは遠くで応援することしかできませんが、いつか彼女が心の底から笑うことのできる日を待ち望んでいます。
 

 参考文献

今橋映子『異都憧憬 日本人のパリ』(平凡社、二〇〇一)
秋葉剛史ほか『現代形而上学:分析哲学が問う、人・因果・存在の謎』(新曜社、二〇一四)
谷口茂『フランツ・カフカの生涯』(潮出版社、一九七三)
ウェルフォードダナウェイ・テイラー著 森本真一訳『シャーウッド・アンダーソン』(近代文芸社、一九九六)
                                     」

 2019年4月12日(金)(夕方)(来栖梓)

 
 自室で語学の勉強をしている。今日、上野千鶴子先生による入学式での祝辞がSNSで話題になっていた。世間では否定的な意見の方が目立ったようだけれど、僕は「雑フェミニズム叩き」みたいなインターネット上の風潮には、本当に嫌な気持ちがする。
 Twitterでも東大生が騒いでいた。こういう時のTwitterの東大生って、世間に物申す感じでビシッと意見を言うか、あるいは自分の意見をはぐらかして時事ネタで大喜利をやるかの二パターンに分かれる気がする。僕は後者の方だ。自分の雑な意見のために人と揉めたくはない。僕は世間の「雑フェニニズム叩き」に対して何か言いたくなったけれど「雑フェミニズム批判」を叩いて「雑フェミニズム擁護」になるのが嫌だったから、やめた。?
 Twitterのタイムラインに流れてきた呟きで印象的なものが一つあった。「じんぐうじ」という人の呟きだ。
じんぐうじ「どれだけ舌足らずな声で叫んだ言葉でも伝えたい苦しみは真実なのに、フェミニストの揚げ足ばかりとる人たちって、ただ反動的なことを言いたいだけのかまってちゃんなんだろうな」
その呟きに強く共感する一方で、もやもやする部分もあった。破綻した主張を唱えていながら当人の抱える苦悩が真実であることがたくさんある一方で、それすら悪用される事例もあると思う。身の回りでそういう事例を観測して、居た堪れない気持ちになったことがある。
 Twitterを通して知り合った人に「ゼロ」というハンドルネームの人がいた。東大では有名な人で、高認試験を取得後に二浪して東京大学理科一類に合格したらしい。僕も彼とTwitterを通じて知り合って、実際に会ったこともある。その時は一緒に明大前のラーメン屋で食事をした。小柄で痩せていて、髪は天然パーマだった。会った感じでは大人しく、温厚そうな印象を受けた。
「中学の頃に虐められていたんですよ。地方公立の中学校に通っていたんですけれど、勉強ができたせいで目立って。そのせいで体調を崩して不登校になって」
彼は僕と会った時、穏やかに笑ってそう言っていた。
「そうだったんですね」
僕はその時言った。
「ずっと惨めで悔しい思いをして。でもいつか、彼らを見返したいと思っていたんです。僕は勉強だけはできたので、それであいつらを見返せないかなと。だから東大を目指そうと思ったんですね」
彼はそう言った。
「苦労したんですね」
僕は言った。
「でも僕は結局、周りに恵まれていたので。家族がずっと僕のことを支えてくれたんですよね。だから頑張れた。努力する才能って、周りの人の存在込みだと思うんですよね。僕は家族に恵まれていた。だから努力する才能にも恵まれていた。だから結果を出せた。周りの人に、本当に感謝しなくちゃですよね」
彼は静かに笑ってそう言っていた。ちょっと自分語りの多い人だな、という印象を受けたものの普通に良い人だな、とその時は思った。
 でも、彼と会ってから一年ほど経ったある日Twitter上で事件が起こった。ゼロさんと仲の悪かった「なつき」さんが、ゼロさんのスキャンダルを公表した。
なつき「ゼロくんの衝撃的な真実。受験相談と装って、女子高生を毒牙にかけていた」
そんな煽情的な呟きには写真が添えられていた。その内の一枚は、ゼロさんと女子高生とのLINEでのやりとりらしかった。


なおゆき『みなみとのエッチ、人生で一番よかった』
美波『本当に?嬉しい』
なおゆき『生でやらせてくれたのもよかった』
美波『気持ちよくなって欲しかったから』
なおゆき『その気持ちが嬉しい!』
美波『今度なおゆきさんといつ会えるかな』
なおゆき『うーん。また後で連絡するわ!それと今度、もっといろいろなプレイとか頼めるかな?』
美波『例えば?』
なおゆき『俺、実は結構Mっ気あるんだよね。いじめて欲しい。俺が美波の名前叫ぶから、カリのところ手マンコで責めて欲しい。ローション塗って』
美波『わかった!』
なおゆき『あとよかったら美波のあそこの写真送って欲しい!それ見ながら美波のことを想っていたいから。こっちのも送るよー』
                                       」

「なおゆき」というのがゼロさんらしい。そんなやりとりのスクリーンショットに加えて、ゼロさんに関する垂れ込みの文章も呟きに添えられていた。

「 なおゆきさんとは、二年くらい前にTwitterを通じて仲良くなりました。私が女性だって明かしたら、急にリプライをたくさん送ってくれるようになったんです。それでダイレクトメールで自撮りを送って欲しいって言ってきて、送ったら可愛いって、いっぱい褒めてくれました。私もその頃は彼のことが好きだったので、それが嬉しくて。
 東大の人ってプライドの高い人ばかりだろうって、最初は偏見を持っていたんです。でもTwitterでいろいろな東大生と関わってみたら、優しい人もたくさんいて。だからなおゆきさんのことも普通に良い人だなって思って、信頼していました。それになおゆきさんは私の受験相談にも、親身に対応してくれたので。
 なおゆきさんはいじめられた過去があるって言っていたんですけれど、私もそうでした。なおゆきさんは、いつも私が欲しい言葉を与えてくれたので、私の辛さを本当にわかってくれている気がしました。彼は前にこんな風に言ってくれたんです。
『人生には無限の選択肢がある。自分が選んだ選択の帰結を受け入れる覚悟。そして絶えず選択し、前進し続ける覚悟。それさえあれば、人生はいつからだって輝ける』
普通の人がそんなことを言っても、痛い綺麗事にしか聞こえないと思うんです。でもなおゆきさんは本当に努力家で、辛い過去を物ともせずに結果を出している人じゃないですか。そんな綺麗事を掲げて直向きに頑張れるのって、本当にかっこいいなって素直に思って。私もなおゆきさんみたいに、自分の人生を精一杯生きたいなって、そう思いました。
 なおゆきさんと仲良くなってからしばらく経ったある時、一緒にカラオケに行かないかって誘われたんです。その頃はなおゆきさんのことを尊敬していたから嬉しくて、一緒に遊ぶことにしました。でもカラオケに行ったら、体を触られて。正直嫌だったけど、なんか断れなくて。それでホテルに行こうかって誘われて、そのまま彼と肉体関係を持ちました。
『俺にはTwitterでもたくさんのフォロワーがいるけれど、本当に大切なのは君だけ』
って言ってもらえて。私、舞い上がっちゃって。ずっと好きでいて欲しいって、思っていました。
 でも、だんだん彼の要求がエスカレートしたんです。色々なプレイとか、嫌だったけれど求められました。それに避妊具もつけさせてもらえなくて、だからピルを飲んでいました。
『君は特別だから。何かあっても、絶対責任をとるから』
って言われて。私もそう言われたら、断れなくて。
 でもTwitterであるとき、彼のアカウントのリプライ欄を見たら、私以外の女子高生にもすごく馴れ馴れしくリプライを送っていて、それで違和感を持ちました。変だと思って彼のスマートフォンを覗き見たら、他にもいろいろな女の子と関係を持ってやりとりをしていることが分かったんです。他の女の子にも『君だけが特別だから』とかメッセージを送っていました。本当にショックで、許せなくて。
 悔しかったのでTwitterで彼の被害に遭っている人がいないか、調べることにしました。彼が馴れ馴れしくリプライを送っている相手にダイレクトメールを送って訊いてみて。そうしたら、私と同じ目に遭っている女の子が結構いたんです。無理やり関係を迫られて、避妊具を付けないセックスも強制されて。中には中絶を強制されていた子もいました。それもみんな受験相談をしに頼ってきた女子高生で、私と同じように未成年でした。
 どうしてもなおゆきさんのことを許せなくて。だから、同じような被害に遭った人たちから彼の所業の証拠をいろいろ集めました。それでみんなの同意の上で、なつきさんにそれを拡散して欲しいと思って今回連絡しました。私はなおゆきさんの名誉を傷つけたいわけではなく、むしろ同じような被害に遭う女の子をなくしたいと思っています。どうか拡散お願いします。
 
 」

それに加えて、なつきさんの呟きにはLINEでゼロさんが自分の性器の画像を送りつけているやりとりの写真も添えられていた。


なおゆき『どうかな。ありさのことを考えて大きくなっているよ』
ありさ『すごく男らしいです!』
なおゆき『ありがとう。早くありさのも見たいな。そうしたらもっと大きくなるから』
 」

なつきさんは提供された情報を晒しあげる呟きの後、続けてツイートした。
なつき「僕もなおゆきさんを陥れたくて拡散しているわけではありません。あくまでも被害に遭う人を減らすためです。それになおゆきさんはMっ気があるらしいから、こういう晒しあげプレイも悦んでくれるかなと思って」
なつきさんの呟きはすぐに拡散され、ゼロさんに対して多くのアカウントが煽り目的でリプライを送っていた。そうした攻撃に対して、ゼロさんはこんな呟きをしていた。
ゼロ「良い加減にしてください。僕は中学時代にいじめに遭い、何度も自殺を考えながらも生き抜いてきました。ようやく理科一類という光を掴み取ることができたと思っていたら、この仕打ちです。もはや僕には自殺しか道はないのでしょうか」
ゼロ「画面の向こうには生身の人間がいることを、どうか忘れないでください。そしてネットの情報を鵜呑みにして他人を攻撃することの浅はかさを知ってください」
ゼロ「僕は耐えられません。自ら命を断とうと思います。なつきくんや他の皆さんが、僕への攻撃をやめないならば。これはもう、僕に対する性暴力ですよ。今も僕は、血を流しながら懸命に発信しています」
ゼロさんの呟きには、リストカットをしている自分の腕の写真が添えられていた。それでもゼロさんへの攻撃は止むことがなくて、結局彼はそれまで使っていたアカウントを消し、非公開のアカウントに篭ることになった。そのアカウントとは繋がっていないから、今彼がどんな呟きをしているのかは知らないけれど、アイコンの画像が『ナラタージュ』という映画で自殺した塚本柚子になっていた。彼女は性暴力を加えられたトラウマから自死を選んでしまったキャラクターなのだけれど、自分は性暴力の被害者だと仄かしてのものなのだろうか。
 僕はゼロさんのそうした姿を、狡いと思った。被害者アピールをして、自分の性暴力を揉み消そうとするゼロさんに、苛立ちを覚えた。その一方で、ゼロさんを哀れにも思った。ゼロさんが虐められていたことは本当だと思う。そしてゼロさんが必死にその過去を乗り越ようとする過程で生まれてしまった認知の歪みが、女性への性暴力という形で現れたのだと思う。ゼロさんの苦悩も努力も本当で、けれども彼の言い分は滅茶苦茶だった。僕もゼロさんの痛みには共感する部分はあったし、実際にゼロさんのことを擁護していた人も多くいた。
「あくまで女性側からの一方的な言い分でしかない」
とか
「女性の側にも問題があったのではないか」
といった意見は多かった。僕もゼロさんとは友達だったし、他人に感情移入しやすいタイプだから庇いたい気持ちも分かる。でも正直、今回のような案件ではゼロさんの肩を持つと女性へのセカンドレイプに加担しかねないので、思いとどまった。僕はただ、口をつぐむことしかできなかった。
 そうすることしかできなくて、自己嫌悪に囚われた。悪いのはゼロさんで、苦しんでいるのは女性たちとゼロさんだ。でも僕は両者のために何もできなかった。僕は、まずゼロさんに向き合うべき咎と向き合わせ、そして精神科や心療内科へ通うことを促すべきだったのだと思う。それが僕の取れる最良の選択だった。けれども僕はそれをせず、ゼロさんから距離を置くことを選んだ。そんな臆病な選択しかとれない自分が、ただ悲しかった。
 ところで、以前カフカの『流刑地にて』という作品を読んだことがある。村上春樹の『海辺のカフカ』で言及されていたので、興味を持って読んでみた。『流刑地にて』は一人の学術調査の旅行家が主人公だった。彼は流刑地での死刑の立ち合いに来ていて、将校から説明を受けている。そこでの処刑は前任の司令官が開発した特殊な機械によって行われており、それに将校は思い入れがある。しかし装置による処刑は残虐であるとの批判が強く、存続の危機に晒されている。そこで将校は、それによる処刑制度の維持のために旅行家に助けを乞う。しかし旅行家は頼みを断る。そのことにショックを受けた将校は、自ら装置によって死を遂げる。そんな寓意的な話だった。
 それを読んだ時に僕は、社会の規範から逸脱した存在に対する、旅行家の小市民的な冷酷さに自省を促された。ゼロさんの事件で彼と距離を置いた時にも、あの作品のことを思い出した。僕が彼と距離を置いたのは正しいことだと思う。でも僕は、彼や被害者たちにとっての最善の選択肢がわかっていながら、それが面倒であったために言い訳をして逃げてしまった。祖父との別れを繰り返さないように、他人の痛みに寄り添いたいと願っていたのに、そうできなかった。そんな偽善的な自分に、嫌気がさした。
「あずにゃんって、八方美人だからさ。優しくされても不安なんだよね。肝心な時には公平ぶって、私に冷淡になったりもするのかなあ、みたいな」
以前に交際していた藤井明梨さんから言われたことを思い出す。確かに彼女の言う通りだった。それがただ、悲しかった。


 2019年4月12日(金)(夜)(井上里香)
 
 今日は東大の入学式での上野千鶴子先生の祝辞が話題になっていた。いつも思うけれど、世間からのフェミニズムへの憎悪って、異常だと思う。東大生でも、上野先生の祝辞を茶化している人もいた。それにイライラして「じんぐうじ」というTwitterのアカウントで、一言言わずにはいられなかった。
 上野先生は『彼女は頭が悪いから』のことを話題にしていた。確かにあの作品に描かれるように、高学歴のコミュニティ特有のミソジナスな空気って、あると思う。それに学歴とか地位を利用して、女性を食い物にする人も実際にいる。
 少し前にTwitterでそういう事例を観測した。「ゼロ」という名前の東大生が、未成年との淫行があった事実を「なつき」に暴露されて、炎上する事件があった。ゼロは「受験の相談に乗ります」とか言って女子高生に近づいては、相手と肉体関係を持っていたらしい。学歴を武器にして判断能力の覚束ない女子高生を陥れる人が同じ大学にいることが、胸糞悪かった。加えて、その案件に対する周りの反応も腹立たしかった。
KTZW「自分から股を開いておいて後から男に文句言う女さんって」
そんな呟きが目に入ったのを覚えている。確か東大の新入生で。あまりに浅はかで、本当に勉強しかしてこなかった人なんだな、という感じがする。あるいは童貞を拗らせていて、ミソジニーに染まっているか。「自分から股を開いた」と言うけれど、未成年なら適切な判断をするのは難しいと思う。それに相手が自分の尊敬する相手であったら、向こうの興味をつなぎ止めておきたくて、体を差し出してしまう気持ちも理解できる。ゼロの被害者たちはいじめられた過去があるとか、自己肯定感の低い子が多かったけれどそれなら尚更、自分の価値を性的魅力にしか見出せなくて、体を安売りしてしまうのではないかと思う。
 私も正直、そういう気持ちは理解できる。隼平と付き合っていたときもそうだった。隼平も普段は優しかったけれど、性のことは別だった。私が体調の悪い時にも関係を迫ってきた。隼平は私が関係を断ろうとすると、露骨に不愉快そうな顔を作った。いつも優しい隼平がその顔を作るのはセックスを断った時だけだった。あの顔を見ると、私は無性に不安に駆られた。隼平から愛想を尽かされるのが怖くて、性行為を断れなかった。その経験が、隼平に対する違和感を培っていた。
 そういえば最近読んだ島本理生『あなたの呼吸が止まるまで』では性暴力を理由に、信頼が憎悪に変わるまでが描かれていた。主人公の少女・野宮朔は好意を抱いていた年上の成人男性・佐倉から性的暴行を加えられる。相手に対する気持ちが裏切られたことに朔は怒り、創作によって彼へ復讐することを誓う。島本の作品では『ナラタージュ』でも性暴力のモチーフがあったけれど『あなたの呼吸が止まるまで』を読むとそうした展開も、現実に起こった性暴力の告発という意味合いを持つのではないかと推察されて興味深い。作者は創作による復讐を通じて、性暴力で傷つく人をなくしたいと願っているのだと思う。
 そういうのって、小説の強みだなと思う。島本の作品は、性暴力によって苦しんでいる人にとって心の拠り所になる気がする。具体的な事例によって、苦しんでいるのが自分一人ではないと分かると、それだけで少し救われる。それにそうした小説作品を読むことによって「性暴力」に対する認識の解像度が上がって、自分や他人が被害にあったときに適切な行動を取りやすくなると思う。そこに島本理生の「復讐」における救いが見出せる気がする。
 ところで、島本理生の存在を教えてくれたのは隼平だった。
「女性の痛みを丁寧に言語化してくれる作家。俺も認識の甘い部分がたくさんあるから、勉強になる」
そんな風に言って『ナラタージュ』も勧めてくれた。しかし隼平は、恋人から肉体関係を主人公が強いられるあの作品をどんな気持ちで勧めていたのだろう。自分だって、私に同じことをしたのに。
「そっか。マジでないわ。辛い」
体調不良を理由に性行為を断ろうとすると、隼平はそう言って私を責めた。そのときに隼平が見せた幻滅と軽蔑の入り混じった表情が、私は怖かった。私はあの表情にいつも負けた。
 隼平は心理戦が上手かった。私の心をいつも先読みして、私の欲しい言葉も与えてくれた。時々、それが怖いくらいだった。
「辻村深月の『鍵のない夢を見る』って短編集に印象的な話があって。『美谷団地の逃亡者』っていうエピソード。貧困家庭で育ったIQの低い女の子が語り手で、その子が犯罪者に恋しちゃうの。そういえば里香って、トロくて盲目的にダメンズに尽くす女性にすごく感情移入するじゃん。お母さんと重なるのかな」
隼平から言われて、ハッと気が付かされたことがあった。私は確かに、そんな女性に強く入れ込んでしまうし、それは母に対する眼差しがトレースされている。ゼロの被害に遭った女の子に共感するのもそうだ。
じんぐうじ「どれだけ舌足らずな声で叫んだ言葉でも、伝えたい苦しみは真実なのに、フェミニストの揚げ足ばかりとる人たちって、ただ反動的なことを言いたいだけのかまってちゃんなんだろうな」
私が今日、大学用アカウントでそう呟いたのも、そんな思いが背景にある。
「でも空気読めない男は嫌いだよね、里香。それも誰かと重ねているのかな。俺も気をつけないと」
隼平はあのとき、笑ってそんな風にも言った。確かに、私は鈍い男が嫌いだ。自分本位だった父のことを連想させられるから。隼平と観た『フォレスト・ガンプ/一期一会』に共感できなかったのも、それが理由だ。私は愚図なフォレストに、ずっとイライラしていた。
 そんな風に隼平から内面について指摘されて、靄のように漠然としていた気持ちが輪郭を得ることは、よくあった。とにかく隼平は、心を読むのが巧かった。だから私に島本理生の『ナラタージュ』を薦めたのも、予防線を張っていたのかもしれない。性暴力が主題の作品を自分から薦めることで、自分のそれは暴力ではないと、私に読み取らせようとしたのかもしれない。『ナラタージュ』の小野のように、無理に肉体関係を求めはするけれど、自分のそれは性暴力ではないのだと、私に理解させようとしたのかもしれない。
そう考えたら怖くなってきた。私の被害妄想かもしれないけれど。




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