概要
人狼ゲームを元ネタにする、法廷ものスタイルの特殊設定ミステリです。主人公たちの中学生は犯人とその共犯者を探っていきます。
コンテンツ
序章
「
交霊会
・交霊会は七人の客人と、一人の議長により執り行われる。
・交霊会は異界にある「部屋」にて行う。
・議長は任意の霊的存在が務める。議長は推理を展開することは許されず。ただ討論を補佐するのみ。また、議長を客人が務めること能わず。
・交霊会では、客人が交互に推論を語らう。誰が狗神憑きと走狗であり、どのように犯行がなされたのか、また霊障の発動要件と効果について述べる。
・客人一人につき一つ、新しい霊障について語るのが望ましい。事前の協議の上、どの客人がどの霊障について語るかを割り当てるべし。
・推論が一巡した後、中間発表を行う。そこで狛犬は正体を明かすべし。また、推論が一巡するまでは、狛犬は交霊会で正体を明かすことなかれ。
・議長だけは一度に限り、会場である「部屋」を離れることができる。その間に、交霊会で共有された情報についての検証や調査をすべし。
・意見が出尽くすまで、客人は推論を繰り返す。四人以上の客人の同意があれば、議論を終えて評定に進むべし。
・交霊会の結びに『狗神憑き』の正體を、評定にて求める。評定において、狛犬として交霊会で名乗り出た者は投票権を持たない。
・其の正体を暴いたならば除霊は成就し、狗神の供養は成る。呪殺された『客人』は蘇生する。
・誤たば、狗神憑きと名指された者は死に、他の客人は霊界の内に囚われる。真の『狗神憑き』においては黄泉還りが成る。
・客人に指名された者は、交霊会への参加を逃れれば死ぬ。
・交霊会に参加できるのは客人のみ。されども霊的存在はその制限を受けない。
・一度交霊会が始まらば、客人は部屋を出ずること能わず。
・推論は互いに出来を競うべきものにあらず。意見を交換し、開かれた討議の先に真実を見出すべきものなり。ありうべき可能性を共有すべし。
客人
・交霊会に招かれた人間。
・客人は、交霊会にて故意に嘘をついてはならない。ただし狛犬が自身の正体を隠蔽するためにつく嘘は除く。また、討論を混乱させるような、重大な瑕疵のある推論を共有してはならない。
・走狗あるいは狗神憑きがその嘘が暴かれたのならば、速やかに自分が一般の客人ではない旨を明かさなくてはならない。
・客人以外の人間を、過度に犯行に関係させてはならない。
部屋
・交霊会が行われる異界に位置する空間。
・結界が敷かれた空間を模してつくられる。
狗神
・死した鳥獣、あるいは人の魂が狗の神と成ったもの。多くは土地に縛られ、人に取り憑きて障る。取り憑かれた者は『狗神憑き』と呼ばわる。狗神は結界を敷き、そこにて『黄泉還りの儀』を執り行う。
・狗神は群れ寄り『大神』となることあり。大神は狗神の集合思念により成る神。
狗神憑き
・狗神に憑依された人間。狗神憑きは依代と成る人間の意識をも併せ持つ。
・狗神憑きは、実現しなかった霊障も含め、全て霊障の効果と発動要件を知る。
・狗神憑きは、霊障の効果を受けない。
・狗神憑きのみが霊具を操ることができる。
・狗神憑きは必ず一つの禁忌を持つべし。これは即ち、狗神と依代の双方が抱える特性が増幅しあうことで生ずるもの。これによって狗神憑きは、取り得ぬ行動を一つだけ持つ。
・狗神憑きは、自分の正体を他の客人に明かしてはならない。すなわち、自身の素性を打ち明けて、走狗と連携することは認められず。
走狗
・黄泉還りの儀にて狗神憑きの共犯者となるもの。
・走狗は狗神憑きの正體を知らず。推理することができるのみ。狗神憑きにおいてもまた然り。
・走狗は実現した霊障のうち二つの効果と発動要件を知る。
・走狗は狗神憑きの禁忌を知る。
・走狗も呪殺されうる。
・走狗は霊障の効果を受ける。
・走狗は霊痕の探知能力を持つ。付近にある霊痕の在処を知ることができる。これにより、走狗は狗神憑きの犯行を補佐する。
・走狗は自身の正体を他の客人に明かしてはならない。すなわち、自身の素性を打ち明けて、狗神憑きと連携することは認められず。
狛犬
・霊障の効果を受けぬ客人。
・呪殺されることがある。
・狛犬は霊障のうち二つの発動要件と効果を知る。
・狛犬は交霊会において語り部が一巡するまでの間、正体を隠さなくてはならない。交霊会以前にも、他の客人に正体を打ち明けるべからず。
・自身の正体を隠す目的と合致する場合に限り、狛犬は交霊会にて嘘をつくことを許される。狛犬がこの目的と関係なく交霊会で故意に嘘の事実を共有したり、あるいは重大な過失の認められる形で不合理な推論を提起して討論を撹乱した場合、規約への違反によって、客人たちの敗北が決定される場合がある。
・狛犬であると交霊会で名乗り、かつ実際には狛犬ではない者が、交霊会で嘘の情報や重大な過失の認められる推論を提起したことが明らかになったとき、その者は自分が狛犬ではない旨を速やかに明かすべし。
黄泉還りの儀
・狗神が再び生を得んとして行う儀式。狗神は地縛霊であるが、この秘術により肉体を得て土地を解き放たれる。
・儀礼の手順は以下
一、呪縛さる土地に結界を張る。結界を張る際、交霊会の『客人』(まろうど)となる八人を指定する。
二、客人たちに交霊会の招待状を贈る。この際「走狗」「狛犬」が客人のうちより無作為に選ばれる。「走狗」「狛犬」は自身の役割を予め知る。「走狗」は狗神憑きの協力者。「狛犬」は霊障の影響を受けぬ客人。
三、招待状を送りし日より七日以内に、結界の内にて『客人』が全て揃いしとき『狗神憑き』が『客人』の一人を『呪殺』する。
結界の内部では『狗神』の特性に応じた『霊障』が起こり、これを呪殺に利用できる。ただし呪殺は狗神憑きが身に着ける『霊具』によりなされる。『走狗』は客人を呪殺すること能わず。一人の狗神憑きが扱える霊具は一つのみ。
四、呪殺がなされた時より一時間以内に交霊会を開くべし。交霊会にて『狗神憑き』『走狗』の正體が暴かれねば、黄泉還りは成る。
・交霊会が呪殺より一時間以内に開かれぬ場合、黄泉還りの儀は頓挫する。このとき、狗神は消滅し、客人もみな死ぬべし。
・狗神憑きが客人以外の者を呪殺、あるいは殺傷することは許されず。これを破らば、黄泉還りの儀は仕損ず。
・呪殺すべき客人は一人のみである。これを破らば、黄泉還りの儀は仕損ず。
・七日以内に呪殺が成らねば、黄泉還りの儀は仕損じ、狗神は地縛霊として悠久の業苦を味わう。
・狗神憑き、または走狗が重大な規約への違反をしたとき、客人が勝利する。その他の客人または狛犬が重大な規約への違反をしたとき、狗神憑きが勝利する。
呪殺
・結界内部で『霊具』により客人を弑するならば、それは『呪殺』となる。任意の物体を狗神憑きは霊具とせしめるが、一人の狗神憑きが使える霊具は一つのみ。
・呪殺は体内の霊液が霊具からの傷によって失われることで起こる。
・呪殺された者は未だ死せず。黄泉還りの儀が狗神憑きの勝利に終わりしとき、真に死ぬ。その他の客人たちの勝利が成れば、呪殺は癒える。
・呪殺された者の肉体は客人以外の者には認識されず。呪殺によって傷つけられた肉体からは霊液が漏るが、其れも同様。
・呪殺されし者は、現世にて客人以外の者からは存在を忘却さる。また、書類などの其の人にまつわる物理的痕跡は客人以外には認識できない。
・狗神憑きは霊具で自らを呪殺すること能わず。
・呪殺されつつある者は徐々に意識が混濁し、行動が覚束なくなる。
・呪殺されし者は意識を喪失し思考すること能わず。又、主体的に行動することもできない。ただし肉体の機能が完全に失われるわけではなく、五感は正常に機能する。又霊障の効果は霊痕にも及ぶものであるから、霊障に霊痕が操作されることもありうる。
・呪殺されしものは夢を見る。その夢の中で客人たちの動向を幻視する。
・呪殺された者にも、霊障の効果は及ぶ。ただしその者が狛犬であった場合を除く。
霊痕
・呪殺されし者が現世に残す痕跡。霊液の喪われた肉体である。
・客人以外の人間には見えず。そこより滴る霊液も同様。
霊液
・霊液は血液に似た性質を持つ。容易に拭うこと能わず。霊液は客人には紅く見ゆる。
・霊具にて客人を傷つけたならば、その肉体より返り血の如く霊液が吹きかかる。
・衣服に付着した霊液の痕跡を完全に拭い去ることは困難。
・霊魂は霊障の効果を受ける。また、物体の干渉を受ける。しかし、客人ではない者からは、知覚乃至認識すること能わず。
霊具
・霊具によってのみ、呪殺は成る。
・霊具による傷は、塞ぐこと能わず。わずかな裂傷であっても、そこより流れる霊液を止めること能わず。
・霊具は狗神憑きの肉体を除く、他の物体の干渉を受けない。
・霊具は客人以外の者には認識できない。
・狗神憑きによって霊具に指定された物質は、霊具の身体とおよそ一時間接触した後、霊具としての性質を獲得する。
・霊具は狗神憑きの肉体から離れしとき、霊具としての特性を失う。
・霊具は霊液に濡れず。
・霊具は結界の外へと持ち出すこと能わず。
・一度の黄泉還りの儀において、霊具として用いるべき物体はただ一つ。
・霊具で客人を呪殺すれば、血液の如く霊液が吹きかかる。それを避くるには、遮蔽物を介して呪殺すべし。
・狗神憑きは霊具による以外の形で、犯行に関連する形でみだりに客人の身体を傷つけてはならない。
結界
・結界のうちにて、狗神憑きの特性に基づき霊障が起こる。霊障は発動用件を満たす任意の者に作用する。ただし狛犬と狗神憑きは除く。
・黄泉還りの儀のための犯行は、結界の中でなされるべし。
・黄泉還りの儀にあたり、事件に関係する証拠を結界の外へ持ち出すことは認められない。
霊障
・結界のうちにて霊障は生ずる。
・霊障一般の特性として、結界内部で発動要件を満たした任意の者に作用するという特性がある。
・霊障は狗神の特性と密接に関わる。霊障の発動用件と効果の理解には、結界内部で暮らす者を閲することを要する。また狗神の生前の為人を尋ねることも利発なり。
・狗神憑きと狛犬は霊障の効果を受けず。
・霊障の発動要件と効果を狗神憑きは知るが、自ずから定めることはできない。また走狗も霊障の発動要件と効果を知る。
・霊障は狗神憑き一人につき必ず三つあり。
・三つの霊障は、犯行に関聯して総て発動若くは作用すべし。「関聯する」とは、それが呪殺、又は呪殺の痕跡の隠匿に関わる形で発動あるいは作用しなくてなならないということ。
・二つの霊障の効果が同時に一つの対象に及ぶことはない。
・狗神憑きがつくる結界は洗脳能力を持つ。これは即ち、偽りの記憶を対象に抱かせる力なり。この力は客人には及ばず。この力により、実現しなかった霊障についての偽りの記憶を、結界内部で生活するものたちは抱く。
・そもそも霊障とは、一人の狗神につき七つの可能な候補があり、そのうちの三つが実現する。実現しなかった四つの霊障は、結界の内部にて残留思念として残る。それを結界内部で暮らす客人以外の者は、偽りの記憶として自己の中に取り込むことがある。
・結界の中では、このような記憶障害が起こりうる。されども、霊障のうちにおける記憶障害は、あくまでも霊障に纏わるものに限らる。結界の中に暮らす客人以外の者たちの事件などに関する証言は、まず信ずるべし。
猫又
・鳥獣や人間が死後、猫の神となった霊的存在。高い知能を持ち、人間に益する。道祖進と成るものも多い。狗神を忌み、その調伏を助ることあり。
・しばしば人と契約し、助け合わんとする。
・猫又は猫に憑依することで肉体を一時的に得る。猫又を召喚するためには、依代となる猫を用意し、其の猫又と契約を交わした者たちが共同して行う儀式による必要がある。手順は以下の通り。
一、猫又と契約した者たちにより簡易な結界を作る。そのためにまず蝋燭を人数分用意する。それに加えて、依代とする猫の遺物(毛玉、糞など)を準備する。
二、猫の遺物を燃やす。その炎によって蝋燭に火を付ける。
三、その蝋燭を持って契約者たちは散会して円形の結界をつくる。その後、依代に猫又は憑依する。
四、一度召喚の儀式の依代となった猫ならば、簡易な儀式によっても召喚可能。簡易な儀式は、猫又の契約者全員が親指を合わせ、その猫又の名前を呼べばよい。
・猫又が活動すべくは、憑依よりおよそ二十四時間。憑依が解かれたのち、その猫又は七日の間、呼び出すこと能わず。
・儀礼に依らない形で猫又が肉体を得た場合。その魂が傷つきうる。
・猫又は強い霊感を有する。ゆえに、その直感に基づく判断は信ずるに値す。また霊障について故意に嘘をついた時、それを看破する可能性あり。
・猫又となった猫は、物体から干渉を受けない。また、干渉することもできない。客人以外の者から知覚されることもなし。
・霊的な物体に対する強い感知能力を有する。一方で嗅覚や聴覚は人間には勝るものの、鳥獣に遠く及ばず。しかし、生命と関係する血液に関しては強い探知能力を持つ。
」
(乾三木人『黒魔術教本』より)
「
新潟中越沖にて客船、消息を絶つ。修学旅行中の生徒ら二三五名行方不明
二〇〇九年九月九日夕方ごろより、客船海神丸の行方がわからなくなっている。乗客していた群馬県立三橋中学校の生徒ら二三五名の安否は依然として不明。現在救助隊が捜索に当たっている。
」
(かみつけ新聞 より)
「
※()による付注がない限り、猫又の調査に基づく情報であり、客観性は担保されているもの。
被害者について
・氏名 早瀬桐花
・性別 Xジェンダー
・生年月日 二〇一六年十月七日生
・学籍 三橋中学校二年二組
・二〇三二年七月七日(木)午後三時から午後四時に呪殺されたと推定される。
・同日午後三時五十分頃、鹿目真奈美により三階美術室で霊痕が発見される。鹿目真奈美は閉鎖されている美術室の扉の前で人影を目撃。美術室は廊下の北側突き当たりに位置し、鹿目は南廊下の窓越しに誰かを見た。美術室に向かい、中へ入ろうとしたものの、部屋の鍵は閉じられていた。扉にある窓から、中に被害者の横たわっているのを発見。
・被害者は正面から鋭い霊具によって腹部を貫かれて呪殺されている。傷は胸に一箇所。しばらく活動する猶予はあったものと見られる。
・霊痕は制服のYシャツとスカートを着ていた。また、裸足だった。そばに早瀬のものと思しき靴下と上履きを発見。
・靴擦れらしき傷跡を足の指の裏側に確認。事件との関連は不明。またそこからの出血の跡が美術室の床に点在。
・被害者はマスクを着けていた。マスクには、早瀬の血液が付着。唇には傷は発見されず。
・霊痕はうつ伏せに倒れていた。
・霊液は扉の内側にかかり床にも滴るが、廊下には見当たらず。
・霊液の跡は窓の方へも滴れている。窓の鍵と縁にも霊液の痕跡。
・床の霊液は布か何かで引き伸ばされ、足跡の痕跡は残っていなかった。
・現場となった美術室への入り口は三箇所。廊下の入り口、美術準備室からの入り口、ベランダからの扉の三つ。いずれも鍵が閉められていた。また、霊魂は美術室の鍵を身に付けていた。そのため、現場は密室の状態だった。
・美術室の内部は水が滴っており、霊痕は濡れていた。またそのため、被害者のスマートフォンは故障していた。水はラベンダーを生けてあった花瓶のなかにあったものと思われる。霊痕のそばに花瓶が倒れていた。
・エアコンの中に髪留めを発見。被害者の霊液が付着。また、髪留めには粘着テープが付着していた。
・現場には台車があった。美術準備室にあったものか。台車には早瀬の霊液の痕跡が残る。
現場となった美術室について
・鍵は美術教師の今井由美教諭が管理。職員室にある彼女の机の上にあるキーフックに提げられていた。
・今井由美教諭の報告によると「ずっと机に向かって作業をしていたのに、気がついたら鍵がなくなっていた」とのこと。不審な人物が机に近寄ってきたような記憶もないという。(来栖梓と猫又の共同調査)
・今井教諭によると、今日の放課後の掃除の後に返却された後、誰も鍵を持ち出すことはなかったという(来栖梓と猫又の共同調査)
・改装工事中のため、窓を開けることが禁じられていた。ビニールテープで厳重に封鎖されており、窓の開封は困難だったか。
・水道管の不具合により、美術室は断水中だった。
・美術室への入り口は二箇所。一つは廊下側から、もう一つは美術準備室からの入り口。いずれの扉の鍵も施錠が施されていた。鍵は内側からでも、美術室の鍵がないと施錠できないタイプのもの。
・美術準備室の入り口は廊下にあるが、美術室の鍵によって施錠できる。
事件前後の客人の動向
・来栖梓 午後三時から四時ごろまで、実習棟二階図書室にいた。そこは美術室の真下にある部屋。三時五十一分に鹿目真奈美から連絡を受けて美術室へ。美術室前に三時五十二分に到着。
・鹿目真奈美 三時?三時三十分ごろまで、井上、松村と教室棟二階、二年五組教室に。三時三十分?四十八分頃、井上里香と実習棟二階を探索。その後、実習棟三階へ一人で向かう。三時四十九分ごろ、美術室前に不審な人影を目撃する。それを追って美術室へと向かった。三時五十分ごろ、美術室で扉窓越しに霊痕を発見。他の客人に連絡する。
・早瀬桐花 三時?三時二十五分ごろまで後藤と手分けして教室棟一階を捜索。三時二十分頃、後藤は二階へ。以後不明。
・井上里香 三時?三時三十分ごろまで、鹿目、松村と教室棟二階、二年五組教室にいた。三時三十?四十八分頃、鹿目と実習棟二階を探索。鹿目は四十八分ごろに三階へ。三時五十一分に鹿目から連絡を受けて美術室に向かう。美術室に到着したのが三時五十二分。
・後藤春香 三時?三時二十分頃まで、早瀬と手分けして一階を見回る。三時二十分頃、後藤は二階へ移る。その後、早瀬と連絡が取れず。不審に思い、それをグループトークで共有。三時四十?五十一分ごろまで、早瀬の捜索を兼ねて一階を見回る。早瀬の探索のために三階へ向かおうとしていたところ、五十一分に鹿目真奈美から連絡を受け、美術室へ向かう。美術室前に三時五十一分に到着。
・松村葵 三時?三時三十分ごろまで、井上、鹿目と教室棟二階、二年五組教室にいた。三時三十?三時五十ごろまで、一人で三階実習棟を見回る。その後、実習棟二階を経て教室棟二階へ移る。三時五十一分ごろ、鹿目真奈美から連絡を受け、美術室前へと向かう。三時五十三分に到着。
・萩野隼平 三時?三時十分ごろまで、教室棟二階、二年三組教室に伊藤といる。三時十分ごろ、伊藤は図書室へ。三時二十分ごろ、伊藤と合流。三時二十?五十分ごろ、伊藤と手分けして教室棟二階を探索。三時五十一分に鹿目から連絡を受けて伊藤と美術室へ。美術室に到着したのが三時五十二分。
・伊藤真斗 三時?三時十分ごろまで、教室棟二階、二年三組教室に荻野といる。三時十分ごろ、図書室へ。三時二十分ごろ、荻野と合流。三時二十?五十分ごろ、教室棟二階を探索。三時五十一分ごろに鹿目から連絡を受けて荻野と美術室へ。美術室に到着したのが三時五十二分。
狗神について
・名前 加藤詩織
・性別 女性
・生年月日 一九九三年二月九日
・家族 母(両親は一九九五年に離婚。双子の姉は父に引き取られる)
・学籍 三橋中学校二年五組(失踪時)
・部活 バドミントン
・趣味 絵を描くこと
・好きな食べ物 カレー
・好きな小説 『ガラスの動物園』『箱男』『他人の顔』『ドリアン・グレイの肖像』『1984』『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
・好きな漫画 『半神』『らんま1/2』『ドラえもん』
・好きな映画 『オルフェ』『CURE』『ふたり』『時をかける少女』『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』
・好きな曲 『草の想い』『夢の中へ』
・その他 解離性障害に悩んでいた。注意障害があった。
」
(猫又のマタによる調査書 より)
「
・カメラの映像は結界内部では証拠として扱うのは好ましくない。多くのノイズが混じるため。監視カメラを設置しても徒労に終わりやすい。
・交霊会には、証拠品に残された掌紋や指紋から人物を特定する手段は備わっていない。しかし、証拠品に付着した汗や血液の匂いなどは猫又により特定可能。ただし、手袋など越しに触れたものでは困難。
」
(猫又のマタによる交霊会覚書 より))
1
来栖梓の話
じゃあ、まずは僕の番だね。
僕は早瀬桐花さんが呪殺された三時から四時ごろの間、二階の図書室にいたよ。入り口のほうはずっと気にしていたのだけれど、客人も部屋に入ってきたな。来たのは後藤春香さん、井上里香さん、伊藤真斗さん。
早瀬さんが呪殺されたって、鹿目真奈美さんから連絡があって。四時頃だったよね、グループチャットに連絡が来たの。その時もまだ、僕は図書室にいた。連絡を受けて、すぐに美術室に向かったよ。現場に着いたのは僕が二番目だったよね、他の客人の中では。美術室の扉窓から、中で早瀬さんが横たわっているのが見えた。部屋の鍵も、中にあるのが見えて。
みんな気になっているのは密室の謎だよね。美術室の鍵は美術室の中にあって、部屋のどの鍵も閉まっていたわけだから。僕も考えたのだけれど、密室をつくったのは早瀬さんだったと思う。理由は、狗神憑きに何らかの手段で誘導されたからだろうね。職員室にあった美術室の鍵を誰かが持ち出したのを見た人はいないわけじゃん。今井由美先生の机のキーフックから。それって、鍵を持ち出したのが早瀬さんだってことだと思う。『黒魔術教本』にもあるけれど呪殺された人の記憶って客人以外からは忘れられる法則だし。だから早瀬さんが鍵を持ち出したのだとしたら、それも合点がいく。鍵は今井先生の机のキーフックに提げられていて、人目につくからこっそり持ち出すのは難しいと思う。だからひとまず僕は鍵を持ち出したのは早瀬さんだと仮定して推理を進めていくね。
それで早瀬さんは霊障の影響を受けて、美術室に向かわされたんだと思う。学校で興味深い都市伝説が流行っているのって知っているかな。「言いなりメール」っていうおまじない。「お願いだから?して」っていう文章を学校にいるときにメールで受け取ると、それに強制的に従わされるっていう話。多分、それって霊障だと思うんだよね。
言いなりメールのせいで死にかけた人がいて、僕は彼女から話を聞いたんだ。一年四組の田中芽衣さん。ちょっと校内で話題になったから、みんなも知っているよね。自殺未遂事件を起こした人。彼女は下校途中にね、友達からメールを受け取ったんだって。
「お願いだから、飛び降りて死んで」
って。それはほんのふざけ合いの中で出てきた言葉だったらしいんだけど。でも彼女はそれを見たら急に意識が朦朧としたんだって。それで気がついたら学校の屋上にいて、先生たちに取り押さえられている自分を発見した。なんでも、無意識のうちに屋上に向かっていたらしくて。屋上は立ち入り禁止だから、そこへ向かう階段を登る田中さんに気がついた、美術の今井由美先生が注意したんだけれどね。
「何をしているの。そっちは立ち入り禁止だよ」
って。けれども彼女はそれに聞く耳を持たなかった。そのまま田中さんはなりふり構わず屋上へ出て行って、フェンスの方へ向かって行ったらしいのね。
「ちょっと。何をやっているの」
今井先生は驚いて田中さんを追いかけて捕まえたのだけれど、表情とか様子が普通じゃないことにすぐに気がついて。
「誰か、手を貸して。助けて」
女性の自分一人じゃ抑え切れないから、今井先生は大声でそう叫んで助けを呼んだ。それで他の先生も駆けつけてきたらしいのね。しばらくすると、田中さんはぐったりして、動かなくなってしまったそうで。呼吸はあったけど、意識がないみたいで。
田中さんは、そのとき夢を見ていたそうです。その夢の中で、自分は学校の下駄箱前にいて。不意に自分のケータイにメールが来たんだそうです。それは自分の母親からで。
「お願いだから、もう家に帰ってこないで」
って。それを見ると頭に血が上るのを感じて。
「バカ」
田中さんは夢の中で叫んだらしいのね。でも、それは自分の声ではなかったそうで。誰か別の女の人の声だった。
「何で。何で」
田中さんの口からは言葉が漏れてきたんだって。目が熱く潤むのを感じて。そのまま昇降口から外へ出て、ひたすら駆けたそう。駆けていくのだけれど、どこへ向かっているのかもわからない。ただ切ない怒りだけが強くあって、それにずっと背中を押されて走ったんだって。
「大丈夫。ねえ。大丈夫」
目が覚めると、周りで先生たちが心配そうな顔で覗き込んでいたらしいのね。
「良かった。気がついたね」
今井先生が心配そうに言って。
「あれ、私」
田中さんは言って。
「何かに取り憑かれていたみたいだった。本当に心配したよ。何があったの」
今井先生が言ってね。
「ええと」
田中さんも、何があったのか急には思い出せなくて。それで、何の気なしにケータイを開いたら、意識を失う直前に見たメッセージがあったのに気がついて。
「お願いだから、飛び降りて死んで」
ってあって。それで思い出したんだって。自分がどうしてそうなったのか。昇降口の前であのメールを見たら、頭が真っ白になって、それで今の状態があるとわかって。一応、そのことを先生に伝えたんだって。
「冗談だったのかもしれないけれど、きつい言葉で傷ついちゃったのかな」
今井先生はそう答えたらしい。
「どうだろう。冗談だしなあ」
納得がいかなくて田中さんは言ったんだって。多分、そうではないと感じたらしいのね。
「意外と傷つくものなのよ。若い頃って繊細だし」
今井先生は笑って言ったんだって。
「そうなのかなあ」
田中さんは言ったそう。
「まあ無事で何より。
しんどい時は、スクールカウンセラーさんとかを頼ってね」
今井先生は言ったんだって。
「了解です」
田中さんは言ったそう。
「大丈夫かな。歩けるの」
今井先生はそう優しく声をかけてくれて。
「ちょっと、しんどそうです」
田中さんは先生に言ったそう。もう、本当に体がぐったりしていて、筋肉痛が酷くて。マラソンの次の日みたいで、だるくてだるくて、まともに動けない。それでしばらくそこで横になっていて。十分くらい経ってやっと多少動けるようになって、何とかそのまま保健室に向かったらしい。
多分、それは霊障のせいだったと思う。おそらく今回の狗神の霊障の一つは「お願いだから?して」という文言付きのメールを見るとその指示に強制的に従わされてしまうというものだと思う。それによって早瀬さんは美術室に呼び出されて、呪殺された。
この都市伝説には興味深い点があって、それは霊障を受けた人がそのきっかけとなった出来事の記憶を留めている、ってことだよね。田中さんも覚えていたし。だから、知らないうちに「言いなりメール」の暗示にかけられた誰かが犯人の事後工作に加担させられた可能性は低いと思う。なぜなら、そういう人が客人の中にいたらそれを記憶しているはずだから。
美術室の中は密室だったよね。あのとき猫又さんに調べてもらったから間違いないと思うけれど。美術室にはベランダの扉、美術準備室の扉、廊下の扉の三箇所の入り口があるけれど、どれも閉まっていた。美術室の鍵は密室の中にあって。犯人は多分、廊下側の扉を貫通させて鋭利な霊具で早瀬さんを呪殺したと思う。霊具は物体からの干渉を受けないからね。それによって密室が作られたのだと思う。
扉越しに呪殺したと考える根拠は、霊液を浴びた衣服が見つかっていないからだね、今のところ。交霊会の規約に従って事件の証拠品は結界の張られた学校の外部に持ち出せない。狗神憑きは霊液が吹きかからない手段で被害者を呪殺したってことだから。何か遮蔽物を介して呪殺したのだと思う。霊液はほぼ血液と同じ物理的性質を持つかのように振る舞うし。まあ、猫又さんの追加の調査が後であるから、また状況が変わるかもしれないけれど。
そして、密室は何のために作られたのか。僕は最初、犯人を容疑者から外すためのものだと思った。密室が作られることによってアリバイが証明されて、容疑から外れる人が疑わしいと、最初は思った。でも、不思議だなと思って。密室って不可能犯罪なわけで、密室殺人が起こったら誰もが容疑から外れるわけだから。実際、密室がつくられたことによって特定の誰かが容疑から外されたようには見えない。ただ、黄泉還りの儀の規約として、呪殺に関連して全ての霊障が発動されなくてはいけないことになっているから、その制約を受けたために密室という状況が生まれたのかもな、と僕は思う。それが具体的にどんな霊障かは、さっぱりわからないけれど。
あるいは密室がつくられたのは、禁忌のためかもしれない。みんなも知っているよね。狗神憑きは、必ず一つの禁忌を持つって。それはつまり、狗神憑きにはどうやってもできないことがあるということ。もしかしたら、それは「美術室に入れない」ということなのかも。その結果、美術室は密室にされた。だってほら、霊痕が発見されたらみんな現場に集まって来ちゃうでしょう。あの時は密室の中を調べるために、みんなでマタさんを呼んで調べてもらったよね。現場に客人は誰一人として足を踏み入れず、マタさんに調査してもらった。それは狗神憑き並びに走狗による証拠隠滅を恐れてのことだったけれど、もしかしたらそれも犯人たちの計算のうちだったのかもしれない。美術室に入れないという事実を隠蔽するという。
狗神憑きの正体は、まだよく分からない。でも、語り手は狗神憑きの正体を指摘するのがルールだよね。だから当てずっぽうで言っておくと、後藤春香さんが怪しい気がする。全然根拠はないんだけれどね。僕は交霊会の前に、ちょっと実験をしたんだ。鹿目真奈美さんと。「言いなりメール」を自分たちに試してみて、効果について検証しようとしたのだけれど。その時協力を断られたので、もしかしたら狗神憑きだったのかなと。
それと、狗神憑きは「美術室に入れない」が禁忌だったとすると、依代も美術室に関係がある人だということになる気がする。それは後藤さん、君じゃないかな。君は美術部だし、イラストとか描くのが好きだし。それとアートとかにも色々明るいしね。だから何となく、後藤さんが怪しい気がする。
ごめん、正直言って僕にはまだこの事件の全貌がちっともわからない。ただ「言いなりメール」という都市伝説の情報について、まずはみんなに共有しておきたかった。もう全然話せることもなくて、とりあえず僕からはそんな感じです。
猫又のマタによる幕間
「これでいいのかな」
私の正面の椅子に座る来栖さんが、困ったように笑って言った。彼は背の低い、童顔で可愛らしい男の子だ。客人七人は私を囲んで円形に並べられた椅子に腰掛けている。窓は闇を背負って室内の灯りを受け、七人と私の姿を映す。私たちが交霊会を開く「部屋」は学校の教室を模して作られている。闇の中で輝く紅い月の光が「部屋」に差し込んでくる。
「ええ。お疲れ様」
私は言った。
「何か質問とか、ありますか」
来栖さんが周りを見回して言った。少し声が鼻声になっている。風邪をひいているらしい。
「じゃあ、議長である私からいいかな」
私は尻尾を持ち上げて言った。
「どうぞ。猫又さん」
来栖さんが言った。
「今回の狗神の正体は、加藤詩織さんという方だという情報は皆さんと共有してありますよね。彼女のプロフィールと霊障の関連性について、何か意見はありますか」
私は割れた尻尾で来栖さんを示して言った。
「そうですね。まだあまり。ただ、一つだけ気になっていることがありまして」
来栖さんは言った。
「伺ってもいいかしら」
私は言った。
「ええ。『言いなりメール』のことですけれどね。どうも加藤さんは母子家庭で育っていたそうで。よくメールで母親からいろいろな指示を受けていたそうなんです」
来栖さんが言った。
「それは、誰からの情報ですか」
私は言った。
「自分の母ですね。加藤詩織さんは母の後輩でした。バドミントン部で。加藤さんは僕の母をよく慕っていて、相談をたびたび持ちかけてきたそうです。彼女の母からの束縛が負担だと、僕の母に打ち明けてくれていたそうで。
二十年前の遭難事故は、母もとてもショックだったらしくて。加藤さんのことはずっと記憶に残っていたそうです」
来栖さんは言った。
「そうなのですね。狗神の生前の特性は霊障に影響するので、それは重要な情報かもしれません」
私は手の中にある『黒魔術教本』を尻尾で示しながら言った。
「皆さんに科せられた十字架はあまりに重く、不安と恐怖は絶えないでしょう。けれども、あなたたちを救うことができるのは、あなたたちだけです。そして、海難事故でいなくなった生徒たちを救うことができるのも、みなさんだけなのです。そのことをどうか、お忘れなく。
私、猫又もこれまで通り、微力ながら手助けをさせていただきます」
私は七人に向き直って言った。七人もそれに頷く。
「加藤さんに関しては、他には何か」
私は来栖さんに言った。
「いえ」
来栖さんは言った。
「承知いたしました。私からは以上です」
私は言った。
「ええ。では、他に質問がある方は」
来栖さんが言って周囲を見回す。
「じゃあ、いいですか」
後藤さんが手を挙げて言った。彼女は目の大きな、独特な雰囲気の女の子だ。
「では、後藤春香さん」
来栖さんが言った。
「質問っていうか、まあ反論なんですけれど」
後藤さんが笑って言った。
「怖いな」
来栖さんが照れたように笑って言った。
「実験を断ったから狗神憑きかもしれないって、ひどくないですか」
後藤さんは悪戯っぽく笑って言った。
「ごめんなさい」
苦笑いして来栖さんが言った。
「いえ。あてずっぽうでもいいから狗神憑きの名前をあげることが、交霊会の語り部のルールなので
でも、一応弁解を試みておきますね。霊障の実験に協力しなかったということは、別にその人が狗神憑きであるということを意味しません。その客人は狗神憑きであるかもしれませんし、走狗であるのかもしれませんし、狛犬であるのかもしれませんし、そのいずれでもないのかもしれません。そして、それは実験に協力していたとしても同様です。
まず私が、狗神憑きであった場合。狗神憑きは霊障の効果を受けません。ですから、霊障の実験に参加したらその効果を受けないということから、二人に疑われてしまうかもしれません。ですが、規約に従い狗神憑きは霊障の発動要件と効果を知っているので、霊障が自分に及んでいる演技をして話を合わせることもできます。また、あえて実験に協力して客人たちの捜査を撹乱することも可能です。もっとも、ボロを出さないように実験に加わらないということもあり得ます。だから、たとえ私が狗神憑きであったとして、取りうる戦略は実験に協力するのとしないのと、両方があり得ます。
また、私が走狗であった場合。走狗は霊障のうち二つの効果と発動要件を知っており、かつ霊障の効果を受けます。もし「言いなりメール」の霊障について熟知しているのなら、狗神憑きの場合と同様に、参加と不参加両方の戦略を取り得ます。知らなかった場合でも同様でしょうね。走狗は霊障の効果を受けるから、霊障の実験においては普通の客人と同じように振る舞うことができます。
私が狛犬であった場合。狛犬は霊障の影響を受けません。ですから実験に協力することは自分の役割を明かすことにつながり、それは狗神憑きから呪殺のターゲットにされる可能性を高めることにつながります。客人への重要な情報の供給源を断つため、狛犬を優先して呪殺することが望ましいですからね。来栖さんと井上さんのどちらかが狗神憑きであるかもしれませんし。だから参加を断るのには十分なメリットがあります。しかし、あらぬ疑いを避けるためにいっそ実験に参加するという手段もあります。
そして私が普通の客人だった場合。この場合はもちろん、それが狗神憑きか走狗の罠であることを警戒して、実験に参加するのを断るという戦略も有力ですし、やはりあらぬ疑いを避けるために実験に参加するという戦略もあり得ます」
後藤さんが言った。
「ええ。おっしゃる通りですね」
来栖さんが苦笑いして言った。
「ところで鹿目さんとの実験の結果はいかがでしたか。『言いなりメール』についての」
後藤さんが尋ねた。
「ええ。二人で試してみたんです。『お願いだから?して』という文章を送りあって。『お願いだから?を買ってきて』みたいな他愛のないお願いをいくつか。すると実際、そんなメールを見ると暗示がかかってその通りに動かされる場合がありました。
ただ、条件があるようで」
来栖さんは言った。
「条件って」
後藤さんが言った。
「ええ。まずは場所ですね。僕たちは田中芽衣さんの事件が昇降口でメールを受け取った時に起こったと聞いていたから、まずそこで受け取ってみたんです。そうすると暗示がかかりました。ただ、他の場所では駄目でした」
来栖さんが言った。
「他の場所とは」
「教室とか、いろいろ」
「具体的には」
「学校中の、どのクラスの教室でもダメでした。鹿目さん、そうでしたよね」
来栖さんが鹿目さんを見て言った。鹿目さんもこくりと頷く。
「それ以外の大教室とかはなかなか入れなかったので、よくわかりません。体育館はだめでした」
来栖さんが言った。
「なるほど」
後藤さんが言った。
「それと、実は僕にはかからなかったんですね。『言いなりメール』の効果は。だから、もしかしたら性別も関係あるのかも」
来栖さんが言った。
「あ。そうなんですね」
後藤さんが言った。
「僕たちもあらゆる条件で実験したわけではないので、確かなことは言えません。ただ僕と鹿目さんが試みた限りでは、昇降口でメールを開いた場合にしか『言いなりメール』の効果は発動しませんでした。それも鹿目さんにしか。
口頭とか書面による指示でもだめでした。メール限定みたいで」
来栖さんが言った。
「そうだったんですね」
後藤さんが言った。
「ええと。それについて私からも一言いいですか。補足。共同で実験していたので」
鹿目さんが小さな声で口を挟んだ。穏やかな彼女は、いつもこうして控え目に話す。
「あ。どうぞ」
来栖さんが言った。
「ええ。確かに私たちが実験した時、昇降口でしか再現に成功しませんでした。昇降口といえば引っかかっていたことがあって、それはラベンダーの香りがしていたことです。現場にもラベンダーの花がありました。もしかしたら昇降口だけでなく、ラベンダーも霊障の発動の条件に関わっているのかもしれません」
鹿目さんが言った。
「ありがとうございます。なるほど。あの時から、ちょっと風邪気味でラベンダーの香りは意識していなかったな」
来栖さんが苦笑いして言った。
「ラベンダー。何か事件と関係あるのかな」
快活な井上里香さんが口を挟んだ。
「私も気になって」
鹿目さんが小さな声で言った。
「多分あれ、私が今日、現場に置いたやつっぽいわ。あの花瓶。美術室の掃除当番だったのよね。今井先生に頼まれてさ。適当に置いといた」
井上さんが言った。
「なるほど。そうだったんですね」
鹿目さんが言った。
「まあ、ともかく。昇降口でしか再現できなかったということは、後藤さんを疑わしいと思った理由の一つでした。『言いなりメール』の暗示にかけるためには、相手が昇降口にいることを知っていなくてはならないからです。それは例えば、彼女と行動を共にしていた後藤さんでなくてはできないことですからね。正確な発動要件がわからないから、なんとも言えないんですけれども」
来栖さんが言った。
「なるほど、なるほど」
後藤さんは顎を指に当てて言った。
「それだと、確かに私は多少、疑わしいかもしれませんね。それも根拠として弱いとも思いますが。美術室を出てすぐの廊下からでも、昇降口の様子は伺えますし」
後藤さんが苦笑いして言った。
「ええと。まだ他に質問はありますか」
来栖さんは言った。
「いえ。以上です」
後藤さんは言った。
「そうですか。他に、質問がある方はいますか」
来栖さんは客人たちを見回して言った。
「あ、私。いいかな」
井上里香さんが手を挙げて言った。井上さんは裏表のない性格で、キビキビと話す。いつも自信の無さそうな鹿目さんとは対照的かもしれない。
「井上さん。どうぞ」
来栖さんが言った。
「うん。加藤詩織さんはお母さんとの関係を負担にしていたって、あずにゃんはさっき言っていたよね。『言いなりメール』の効果もそれと関連していると思うの。もっと詳しく聞きたい」
井上さんが言った。
「ええ。自分の母から聞いたんですけど、加藤さんはよく昇降口で彼女の母からメールで連絡を受けたそうです。下校の時間に。『仕事とか家事の手伝いをして欲しいからダッシュで帰ってこい』って言われて。ダッシュで帰らないと暴力を振るわれたりして
『言いなりメール』の暗示がかかってしまうと、本当に傍から見て普通ではなくなってしまうんです。異常な興奮状態にあると、すれ違っただけでも気付く。それは多分、母のメールに生前の加藤さんが感じていたプレッシャーが反映されているものではないかと。霊障は、狗神の特性を色濃く映すものなので」
来栖さんは言った。
「なるほど。了解」
井上さんは言った。
「うん。他に何か質問はありますか」
来栖さんが言った。
「いえ。大丈夫っす」
井上さんが言った。
「わかりました。他に誰か、質問がある方はいますか」
来栖さんがあたりを見回して言った。誰も手を挙げない。
「いないみたいですね」
私は言った。
「ええ」
来栖さんが言った。
「来栖さん、お疲れ様。次の語り部は誰がやりますか」
私はみんなに向かって言った。
「じゃあ、次は私でいいですか。語り部」
後藤さんが手を挙げて言った。
「どうぞ。お願いします」
私は尻尾で彼女を指して言った。彼女がこくり、と頷く。
後藤春香の話
来栖さんの推理に私、かなり同意なんです。もちろん狗神憑きの正体については違いますけれどね。
私も「言いなりメール」の話は聞いていて、事件と関係あるかもしれないと思っていました。それと、あそこへ呼び出された早瀬さんが扉越しに霊具で刺されたことにも同意です。霊液で汚れた衣服の類が発見されておりませんのでね。遮蔽物を介して呪殺したものかと。ただ「言いなりメール」によって被害者が呼び出されて呪殺されたのだとしても、端末からはその情報は削除されているでしょうね。だって
「お願いだから美術室に向かって。そこへ着いたらこのメッセージを削除して」
と送ればいいんですから。メッセージの履歴から狗神憑きを割り出すのは困難でしょう。私も正直、まだ誰が狗神憑きなのか検討もついていません。先ほどの来栖さんのお話は、狗神憑きが誰なのかの推測より、推理の前提となる霊障の情報について共有し、それに関連してありうる可能性を提起することが主眼であったと思います。『黒魔術教本』も、そのような姿勢を推奨していたと思います。ですから私も来栖さんに倣い、自分が調べた霊障の情報についてまず共有し、そのあとで申し訳程度に狗神憑きの正体について指摘させていただきます。
「絵画世界」という都市伝説を知っていますか。それはこういうものです。美術室にある絵画の写真を撮ると、その写真と撮影された絵画の間に道が拓けるというのです。撮影された絵画の写真に触れると、その絵画のある美術室へとワープするのです。
私は、この霊障を体験した方にお話を伺ってきました。二年生の青柳幹也さんという男の子です。美術部の人。彼は、あるとき美術室にある自分の作品をスマートフォンで撮影したそうです。色合いとかをデジタル処理してみせることで、自分の作品を分析的に検討しようとしたのですって。その画像を校内で閲覧したところ、彼は異変に巻き込まれました。突然、体が持ち上がるような感覚に襲われたそうで。そして気がつくと、美術室にいたらしく。彼は自分が撮影した絵画の前に立っていたのでした。そして彼がその絵に触れると、今度は彼が先ほどまでいた部屋に戻っていた。
このことを踏まえ、注意しなくてはいけないことがあります。美術室は密室などではなかった、ということです。「絵画世界」を通じて、自由に内部から外部へと行き来することができたのですから。
そしてもう一つ注意しておくべきことは「絵画世界」を使うことができるのは「狗神憑き」と「狛犬」以外の者に限られる、ということです。この二人は霊障の効果を受けませんからね。狗神憑きは何らかの形で霊障を犯行に利することはあっても、自分自身には霊障は作用しない。だから、ある場所から特定の別の場所に対象を転移する霊障は、狗神憑きには作用しないはずです。おそらく、走狗が絵画世界を通じて何らかの工作をした可能性が高いと思っています。狗神憑きの正体を隠蔽するために。
もしかしたら、密室を作ったのも走狗だったのかもしれません。ただ私は、密室をつくることによって容疑者から除外される人間が狗神憑きであると考えるのは早計であると思います。なぜならば、それを逆算することで容易に狗神憑きの正体を浮かび上がらせるような工作は、走狗の望むところではないでしょうから。
走狗は現場で、ある痕跡を抹消しました。それは「ダイイングメッセージ」です。床の上の霊液が何かで拭われていましたよね。あれはきっと、早瀬さんが残したダイイングメッセージではないかと思います。ダイイングメッセージといえば、ともすれば探偵小説でも非現実的で陳腐なものとみなされがちですが、私たちが闘う交霊会というのは特殊な状況です。被害者は何としてでも狗神憑きの正體を暴き、本当の死から逃れたいと願っています。客人全員がそうですが、誰もが覚悟を持って交霊会に向かい合い、自分と周りの仲間が生き残ることを願い、そして狗神の真実の幸福をも望んでいます。そうした闘いの中に身を置いているからこそ、早瀬さんが命がけでダイイングメッセージを残そうとした可能性は十分にあると思います。
ケータイのグループトークにダイイングメッセージを残す方が確実だったかもしれません。しかし、現場で発見された早瀬さんのスマホは故障していました。スマホがどのタイミングで故障したのかはよくわかりませんが、もしかしたら早瀬さんが霊具による傷を受けて、メッセージを残そうとしたその時には、スマートフォンは故障していて使えなかった可能性があります。だから、早瀬さんは自分の霊液でダイイングメッセージを現場に残した。
そしてそう考えるならば、密室は誰がつくったものなのかが分かるのではないでしょうか。それは早瀬桐花さんだったのです。彼女は狗神憑きに霊具で刺された後、鍵をかけた。自分が持っていた鍵を使ってね。それは自分がこれから書き残そうとするダイイングメッセージが狗神憑きに消されないようにするためです。そして狗神憑きは、彼女がダイイングメッセージを残す様子を見てとったのかもしれません。しかしそれを自ら消そうとすることはなかった。美術室の扉の窓を割って鍵を開けることは轟音が発生し、犯行が発覚するリスクを伴います。そんなことをせずとも、おそらくは走狗が「絵画世界」を通じて事後工作をしてくれるでしょうからね。走狗には霊痕の探知能力がありますし。そして狗神憑きの期待通りにそれを走狗が見つけて、何かで拭って消した。現場の痕跡が意味しているのは、そんな展開ではないでしょうか。
もっとも仮にそうした事実があったとしても、書き残されていたダイイングメッセージが何であったのかは、さっぱりわかりません。ただここまで出揃っている情報から、何とか推論を展開したいと思っています。「言いなりメール」を使うためには、早瀬桐花さんが昇降口に来るタイミングを何らかの形で知っていなくてはなりません。来栖さんは、私が彼女と一緒に一階を探索していたことを根拠に狗神憑きの正体を推測なさってくれました。しかし、昇降口は一階にいようが二階にいようが三階にいようが、廊下の窓から覗いて様子を伺うことができます。美術室の中からは伺えませんが、出てすぐの廊下の窓からは見ることができますよね。だから「言いなりメール」の発動要件は、狗神憑き特定の根拠にはなりづらいかと。それと私は「言いなりメール」が実現したものであるという判断を保留しておくことにします。
だから、視点を変えて「絵画世界」の発動要件から考えていきたいと思っています。実はこの霊障の発動要件には「裸にならなくてはいけない」というものがあるのです。裸にならなくてはいけない、というのはかなり強い制約であると思います。そしてそれに加えて、何かを持っていくことはできません。行きにも帰りにも。だから「絵画世界」によって美術室に何かを持ち込んだり、持ち去ったりすることはできません。
先ほどこの霊障に巻き込まれたと言った青柳幹也さんは、実はトイレで着替えている時にこの霊障に巻き込まれたのですって。夏の盛り、汗かきな彼は衣服全部がびしょびしょになって、トイレで着ているもの全部を脱いだそうです。全身の汗をタオルで拭いながらスマートフォンを眺めていたところ「絵画世界」に吸い込まれたらしいのです。
それで、なのですが。共犯者である走狗はトイレのような個室を入り口にして美術室に入った可能性が高いかと思います。この霊障を使って出入りするところを見られたら言い逃れできませんので。ですから、走狗である疑いが強いのはずっと単独行動をしていた人ではないかと。それは来栖梓さん、あなたなのです。そして来栖さんが庇おうとしている人物こそが怪しいのではないかと。
それは鹿目真奈美さん、あなたではないでしょうか。来栖さんとともに霊障について実験し、二人はお互いの素性をなんとなく推察しました。来栖さんは実験に協力しなかった私に疑いの目を向けさせることで、実験に協力した鹿目さんの潔白をほのめかそうとしていたのでした。
なんてね。最後のは、本当に適当です。というか、来栖さんへの仕返し。ただ「絵画世界」の話だけは、皆さんと共有したいと思ってお話しさせていただきました。私からは以上です。
猫又のマタによる幕間
「何か質問はありますか」
後藤さんは言って一同を見回す。伊藤真斗さんが真っ直ぐ手を伸ばした。物静かで、彫りの深い顔立ちの男の子だ。
「僕から、いいですか」
伊藤さんが低い声で言った。
「どうぞ」
後藤さんは彼を指差して言った。
「まず伺っておきたいのですが。『絵画世界』と加藤詩織さんの過去について、何か関連があると思いますか」
伊藤さんは鋭く言った。
「ええ。加藤さんは生前、お父様から性的な暴力を加えられたことがあったらしいのです」
後藤さんは神妙な面持ちで言った。
「性暴力、ですか」
伊藤さんは言った。
「ええ。失踪当時は母子家庭だったのですけれど、加藤さんには小学四年の頃まではお父様がいらしたそうですね。大変神経質な方で。すぐ家族に手を上げるような人だったそうです」
「なるほど」
「ええ。それでお父様は、何か加藤さんが粗相をした時、怒って彼女を家の外へ放り出したことがあったのだそうです。それも、彼女を裸にして」
「そうなんですね」
頷いて伊藤さんが言った。
「はい。彼女はそれがトラウマだったそうで。
でも、そんなお父様との温かい思い出もあったようで。それが本人にとって良かったのかは、分からないですが。加藤詩織さんは絵を描くことが好きでした。彼女が所属していた部活はバトミントン部でしたがそっちはおざなりで、むしろ自宅で絵を描くことの方に熱心だったようで。彼女は小学生の頃、県の絵のコンクールで金賞をとったそうです。その時、お父様は心底喜んでくれたそうで。彼女の頭を優しく撫でてくれたそうです。それが、加藤さんはとても嬉しかったようですね。体が浮き上がるような心地がしたそうです。それから彼女は、絵の勉強を一生懸命頑張るようになって。
だから『絵画世界』は、加藤さんのお父様との関係が元になっているのではないかと。性的虐待のトラウマと、絵画のコンテストで入賞してお父様から認めてもらえたこととが根元にあるのでは、と」
後藤さんが言った。
「なるほど。それは後藤さんのお母様から伺った話でしょうか」
伊藤さんは鋭く言った。
「ええ。母はあの遭難事件があった日、ちょうど体調を崩して学校を休んでいました。あの学年の数少ない生き残りの一人ですね。加藤詩織さんとは、同じクラスになったこともあったそうです。それなりに仲も良かったそうで」
後藤さんは言った。
「なるほど。了解しました。ところで、なのですが」
伊藤さんは厳かに言った。彼は物静かだけれど、独特の凄みがある。
「加藤さんは、少し後藤さんと似ているとは思いませんか」
伊藤さんは鋭く後藤さんを見つめて言った。
「はあ」
後藤さんは意味するところが飲み込めない、というような表情をしている。
「生い立ちが似ていると思うんですよ。母子家庭で、美術へのこだわりもあって」
伊藤さんは言った。後藤さんは困ったような表情を作る。
「どうしても必要な情報ですかね」
後藤さんは言った。
「後藤さんのプライベートに関わることなので、僕からは強制できません。ただ事件解決のためには共有すべき情報かもしれないかと」
伊藤さんは言った。ふう、と一つ後藤さんがため息をつく。
「わかりました。実は私の家も母子家庭です。機能不全家族で育ってきて。両親は私が小学三年の頃に離婚しました。ただ母の実家は裕福で、貧しさに苦しんだことはあまりないんですけれど。加藤さんとは違ってね。
それから、絵を描くことへのこだわりもそうですね。私の父は美大の出身で、大手広告代理店に勤めていました。それで父から認めてもらいたくて絵の勉強を頑張ってきた過去があって。今も一応、美大を視野に入れて勉強しています。ただ、両親が離婚して父と離れてから、絵を描くことが耐えられない時期がありました。
まあ、そんな感じですね。知っている人もいますよね、伊藤さんを含めて。前も話したかもですよね」
後藤さんは俯き、小さく笑いながら言った。
「了解しました。ありがとうございます」
伊藤さんが言った。
「ええ」
後藤さんが頷いて言った。
「それでもう一つ、なのですが。僕は少し、後藤さんのお話に引っかかる部分がありました。後藤さんは来栖さんに多くの部分で同意すると発言しながら、言及を避けていることがありました。
みなさん覚えていますよね。来栖さんはこう言っていました。『密室が作られたのは禁忌と霊障の制約のためだ』と。『狗神憑きが密室を作ったのは、美術室に入れないという禁忌から目を逸させようとしているからではないか』と。僕はそれを聞いて、まず後藤さんを思い浮かべました。霊障が狗神の特性を色濃く反映するのと同様に、禁忌も狗神とその依代の性質に強く影響されます。ですから僕は、来栖さんの推理を伺って、まず後藤さんへ疑いを持ちました。美術室に対して強い忌避感情を持っているのは彼女だ、と。
そしてその疑いは、後藤さんがそれに言及しなかったことで、より一層深まりました。後藤さん、あなたこそがやはり狗神憑きなのではないでしょうか。『密室が作られたのは禁忌と霊障の制約のためだ』という推理が核心をついていたからこそ、あなたはそれへの言及を避けた。そしてダイイングメッセージという推理の方へと疑いの目を向けさせようとした。
私は後藤さんの話を聞いていてそう感じたのですが、どうでしょうか。邪推かもしれませんが」
伊藤さんは厳かに言った。伊藤さんに睨まれて、後藤さんは困ったような表情を浮かべる。
「そんなことは、全然ありません
確かに、来栖さんが指摘した禁忌の話を聞いて、私自身、自分のことを意識させられていました。でも別に、私はそこへと議論の方向が向かないようにと図ったわけではありません。ただ本当に、ダイイングメッセージが残されていたのではないかと思っただけですから。それを、共有したくて」
後藤さんは吃りながら言った。
「真斗。ちょっとキツく言い過ぎでしょ。後藤さんも困っているよ」
荻野隼平さんが苦笑いして言った。
「そうかな」
伊藤さんは驚いたような表情で言った。
「そりゃそうでしょ。
ごめんね、後藤さん。うちの真斗が」
萩野さんが屈託なく笑って言った。荻野さんは剽軽で中性的な顔立ちの男の子だ。彼と伊藤さんは交際しているらしい。太陽と月のように対照的な雰囲気の二人だと思う。
「いえ」
小さく笑って後藤さんが言った。
「本当はいい子なのよ。真斗も。
ああ。真斗ちゃん、まだ何かある。無いなら、次は俺が質問していいかな」
荻野さんが笑って伊藤さんに尋ねた。
「ううん。無いよ」
伊藤さんが言った。
「オッケー。じゃあ俺、次いいですか」
荻野さんが笑って後藤さんに尋ねた。
「ええ。どうぞ」
後藤さんは笑って言った。
「うん。なんか訊くのもあれで申し訳ないんだけどさ。『絵画世界』の都市伝説って、検証はしましたか」
荻野さんは言った。
「ああ、ごめんなさい。実は、していません。ただ学校で伝わっている話だと、裸にならないといけないことになっています」
後藤さんは申し訳なさそうな顔をつくって言った。
「いやいや。なんかごめんなさい。検証するのにハードルが高い話ですもんね。ただそれだと、実はその都市伝説が実現しなかった霊障だという場合があり得ますよね。結界の中で起こる記憶障害によって伝搬された。『黒魔術教本』にも言及がありますが。実現する霊障は、六つある候補のうち三つだけなので」
荻野さんは言った。
「ええ。そうですよね」
後藤さんは言った。
「逆に、来栖さんと井上さんが二人で検証したという『言いなりメール』の話はまあ信憑性が高いかな、と。というより、仮にこの霊障がフェイクだと発覚した場合、二人の立場は甚だ危うくなりますが。それと、もう一つ」
荻野さんは言った。
「はい」
後藤さんが言った。
「『絵画世界』の霊障によるワープは、本当に狗神憑きと狛犬は使うことができないんですかね」
荻野さんは言った。
「と、いいますと」
後藤さんは尋ねた。
「ええ。霊障の中には、物体や空間に作用する類のものがあります。霊障の効果は狗神憑きと狛犬には及びませんが、物体や空間に作用する霊障を狗神憑きや狛犬は扱うことができます。つまり、もし『絵画世界』が人間を対象に取るものだったら、確かに狗神憑きと狛犬は、その霊障によって移動することはできません。しかし、もし『絵画世界』が空間に作用して空間Aと空間Bを接続する類のものであったら、それは狗神憑きと狛犬も利用することができます」
荻野さんが言った。
「ええ。正しいです」
荻野さんの説明に、私は同調して言った。
「荻野さんのおっしゃるとおり、仮に『絵画世界』が空間に作用するタイプのものだったら、その通路を狗神憑きも狛犬も使うことができます。
そして、それが人間に作用するものなのか、空間に作用するものなのかを客人たちが知るためには、二つの方法があります。狛犬が霊障の効果と発動要件を知っている場合には、狛犬の情報によって客人たちはそれを知ることができます。知らないときには、狛犬がその霊障を検証する実験に参加して確かめればいいのです」
私は続けて言った。
「マタさん、ありがとうございます。そういうことですね。だから『絵画世界』を狗神憑きと狛犬が使うことができなかったかどうかは、なんとも言えないかもです」
荻野さんは言った。
「どうでしょうね。『絵画世界』の都市伝説では、移動した人は体の浮き上がるような感覚を味わったと伝えられています。これは霊障の効果が人間に及ぶものだという根拠と言えるのではないでしょうか」
後藤さんは言った。
「そうですね」
私は言った。
「荻野さんのお話も尤もなんですけれど、私の直感も恐らく『絵画世界』の効果は人間に及ぶものだと判断します。『黒魔術教本』にもあるでしょう。『猫又の霊的現象に対する直感的判断は信頼するように』と。私を信じてくださって結構ですよ」
私は笑って言った。
「なるほど。了解です。あ。俺からは以上です」
荻野さんはペコリと頭を下げて言った。
「わかりました。他に誰か」
後藤さんは周囲を見回して言った。誰も手を挙げない。
「いらっしゃらないみたいですね」
私は言った。後藤さんが小さく頷く。
「後藤さん、お疲れ様でした。次に語り部をやってくれる方はいますか」
私はみんなに向かって言った。
「じゃあ、私いいかな」
井上里香さんが真っ直ぐ手を挙げて言った。
「ええ。お願いできるかしら」
私は彼女を尻尾で示して言った。
「了解。任しといて」
井上さんが首の裏を掻きながら言った。
井上里香の話
私も一つ、興味深い都市伝説を聞いたので共有するね。「透明人間」という話なんだけれど。私はその怪異に巻き込まれた人の話を聞いたの。斎藤美波っていう、二年生の女の子。
その子は、図書室で本を借りたんだって。テネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』っていう作品。それで彼女はね、本を借りた後、教室に戻って下校の準備をしていたんだって。そのとき教室に友達が入ってきたのを見て、声をかけた。
「一緒に帰ろうよ」
でも、相手は斎藤に気がつかなかったんだよね。すぐ目の前にいるのに。斎藤は一瞬、相手がこちらに気がつかない振りをして揶揄っているのかなって思ったんだって。でも、相手の様子がそんな感じじゃなかったんだよね。本当に気がついていなさそうで。それで、不思議に思って相手の頭をポン、って触ってみたんだって。そうしたら、相手は心底驚いた表情をして、頭を押さえてキョロキョロして。その様子は全然演技をしているようには見えなくて、どうやら自分が相手から存在を認識されていないって、斎藤は気がついたらしいの。斎藤はそれで怖くなって。廊下に出て、大きな声で叫んでみたんだって。
「おーい」
そうすると廊下にいる人たちはその声に気がついたみたいで、みんなあたりをキョロキョロしだしたらしいの。でも誰も、こちらの姿を認める人はいなくて。それで斎藤は確信を持ったんだって。自分は周りから認識されていないんだって。
それで斎藤はどうしたらいいか分からなかったのだけれど、なんだか無性に悪戯したくなったんだって。気分がハイになって。ただその現象の効果がいつ切れるか分からないから、小さな悪戯にしようって思ったらしいのね。それと、あんまり人が傷つくこともやめようと。職員室からテストを持ち出そうと思ってもみたけれど、バレたらシャレにならないからやめて。だから担任の今井由美先生のバッグからおやつを持ち出すことにしたんだって。
斎藤は職員室に向かって。そうしたら今井先生は自分の席にいたそう。職員室に入っても、誰からも気付かれなくて。しめた、と思って。後ろからこっそり近付いたらしい。そのとき今井先生は手鏡で自分の顔を覗いていたらしいんだけど。斎藤と、今井先生は鏡越しに目が合って。すると今井先生は、それに気がついたみたいで後ろを振り返ったんだって。でも今井先生は斎藤のことを見つけられなくて。そして今井先生はもう一度鏡の中を見て。そうしたらまた先生は斎藤の姿を鏡の中に認めて。それにびっくりした先生は、悲鳴を上げてひっくり返った。
職員室の先生たちは、みんな一斉に今井先生の方を見て。でも誰も斎藤さんに気がつかなかったの。みんなの反応が可笑しくてね。斎藤は調子に乗って先生の鞄を持ち上げてみたんだって。そうしたらみんなまたびっくりして。
「消えた。鞄が消えた」
誰かが言って。どうやら斎藤が触れているものは、周りから知覚されなくなるみたいね。先生の鞄からコアラのマーチを取り出して、目的を達成した斎藤はパニックを起こしている先生たちを尻目に職員室を出たらしい。それで職員室を出てすぐのところで、不意に友達から声をかけられて。
「美波、どうしたの。それ、コアラのマーチ。もらったの。なんかすごく嬉しそうな顔ね」
それで自分の姿が周りから認識されるようになったことに気がついて。ふと時計を見ると、四時四十五分。本を借りた時から、ちょうど一時間経っていたんだって。
それで私ね、思うのだけれど。この霊障が使われたタイミングは「言いなりメール」が使われた時だと思うの。だってそう思わない。言いなりメールって、そもそもリスクが高すぎると思う。発動要件が「昇降口でメールを開く」でしょ。後藤さんが言ったように、相手を「言いなりメール」の暗示にかけられさえすれば相手方の端末の情報を削除させることもできるよ。でも、もし失敗したらどうするの。相手がメールを開いた場所が昇降口じゃなかったら、それが犯行の証拠として残ってしまうわけでしょう。「お願いだから?して」っていう文面のメールを相手に送った事実が。どうしても失敗できないやつなわけよ、これは。
だからね。私は走狗が「透明人間」を利用して早瀬さんを監視していて、確実に相手に効果が及ぶタイミングで「言いなりメール」を送ったと思うの。彼女が昇降口前に来たときにね。そうやって暗示にかけて美術室に被害者を呼び出した。だから、走狗の容疑がかかるのは図書館に出入りした人間だね。あずにゃんの発言に従えばそれは私、後藤さん、伊藤さんっていうことになる。で、この三人の中で一番疑わしいのは後藤さんかなと。
そもそも、私は後藤さんの動きは不自然だと思う。だって「絵画世界」の都市伝説を知っていたら、三階実習棟周辺を警戒するのが普通だろうと。実際私は「透明人間」の都市伝説を知っていたから、それをあずにゃんに伝えて図書室には注意するように言ってあったの。図書室で、霊障について聞き込みつつも、図書館に出入りする人を見張っていて欲しいって。でもなぜかあなたは事件当日、美術室を監視しようとしていなかった。まあ、今日はたまたまだったのかもしれないけれど。
あと後藤さんの場合、図書室を出た後の行動が第三者によって保証されていないので、そこも怪しいかなと。伊藤さんと私は、その後に他の人と合流しているんで。まあ、根拠に乏しいけれどね。
それと狗神憑きの正体について。狗神憑きは事件当日、三階を捜索していた可能性が高いと思う。なぜなら、規約に従い呪殺に関連して全ての霊障が発動する必要性がある以上、走狗が標的を美術室に誘導する可能性が高いと踏んだろうから。だから、狗神憑きはターゲットが美術室に入り込むタイミングを見計らっていたと思う。美術室の側で。それは多分、松村葵。あんたじゃないかと。
まあ正直言って狗神憑きの正体は適当だね。大した根拠がないので。走狗の正体は、後藤さんなんじゃないかという気はするけれど、あまり確信はないです。なぜかというと「透明人間」の発動要件と効果について、よく分かっていないので。
「透明人間」については、図書室に関係あるであろうことと、姿が周囲から認識されなくなる効果であろうという漠然としたことしかわからないです。私は「透明人間」の霊障について調査する時間が十分に取れなかったので。一応、早瀬と協力して多少の実験は試みていて。私も斎藤に倣って、図書室から『ガラスの動物園』を借りてみたの。でも、私の姿が周りから認識されなくなることはなかった。それはそうだよね。「『ガラスの動物園』を図書室から借りる」っていうだけだと、発動要件が緩すぎて、すぐに暴発してしまうと思う。だから「透明人間」を発動するためには何か別の手順が必要なんだと思う。それがなんなのか、見当もつかないけれど。
でも一つ、気になっていることがあって。それは鹿目さんが見たという人影だね。美術室の前に誰かがいたっていう話だよね。不思議だと思って。だって「絵画世界」とか「透明人間」とか、美術室の前にいるのを目撃されるのを防ぐ手段は豊富にありそうなのに、なぜかその人物は鹿目さんに発見されてしまった。それはなぜなのか。もしかすると、それが狗神憑きだったからかもね。狗神憑きは「透明人間」の効果を受けないだろうし「絵画世界」に関しても事情は同じだよね。後藤さんが先ほど指摘した通り、密室の内部は既に事後工作がなされていた。しかし、狗神憑きは何らかの事情があって一度現場に戻らざるを得なかった。その際、鹿目さんに姿を目撃されてしまった。ひょっとすると、そんな展開があったのかもしれないよね。
あるいはわざと客人に姿を見せて早瀬を発見させたのかもしれないけれどね。『黒魔術教本』にもあるけれど、黄泉還りの儀の規約に従って。ほら、呪殺から一時間以内に交霊会が開かれないと、共倒れになるわけじゃん。客人も狗神憑きも。だから、そのために鹿目さんのことをあそこへ誘導したのかもしれないよね。それでもわざわざ姿を見せたりするのかな、って気持ちはするけれど。音とかで誘導すればいいじゃん、とは思う。姿を晒すリスクを犯さずとも。よくわかんない。
それともう一つ。あずにゃんは美術室の鍵を持ち出したのは早瀬じゃないかって言っていたけれど、その可能性は低いと思う。だって「透明人間」があるんだから。美術室の鍵は走狗が「透明人間」を使って持ち出した可能性が高いと思う。確かに暗示にかかった早瀬がダッシュで職員室から美術室の鍵を持ち出して美術室の鍵を開けて中に入った可能性もあると思う。でもあずにゃん、言っていたよね。「言いなりメール」の暗示がかかっている人の様子は普通じゃないって。寄り道が増えるほど、他の客人に発見される可能性は増える。それはまずいわけでしょ。一般の生徒からならば発見されたとしても、呪殺されればその人の記憶は残らないから、問題ない。でも「言いなりメール」の暗示がかけられているところを他の客人に見られたらまずいでしょう。もしかしたら発見者が早瀬の異変に気がついて、美術室までついてきちゃうかもしれない。だから早瀬に職員室へ行かせるようなことはなかったはず。鍵は走狗が「透明人間」を使って持ち出したんだろうね。
そんなところかな。私からはとりあえず。質問があればどうぞ。
猫又のマタによる幕間
「私からいいですか」
松村葵さんが手を挙げて言った。松村さんはウルフカットの、中性的な方だ。少女のような高い声をしている。ちょっと気取り屋だけれど、憎めないところがある。来栖さんと交際していらっしゃるとか。
「どうぞ」
井上さんが言った。
「ええ。まずは私にかけられた疑義についてですね。これについて私は、有効な反論を持っていません。狗神憑きは霊障の効果を知っているから、走狗が美術室に客人を呼び寄せることを予測し、美術室付近で張り込んでいる可能性が高いという話は説得的だとも思います。私が実習棟三階にいたのは三時十五分から四時の間で、犯行が行われていたと思しき時間帯にずっとそこにいたのですから、これは疑惑の目で見られても仕方がないとも思います。
ただその一方で、考えてもらいたいことがあります。そもそも狗神憑きは『いつ被害者が美術室へやってくるのか」を知っていたのでしょうか。知っていたとするならば、もし私が狗神憑きであったとしたら不自然ではないでしょうか。なぜわざわざずっと実習棟三階に居座り、自身に疑いの目を向けさせるような真似をするのでしょうか。そしてもし、いつ被害者が美術室にやってくるのかを狗神憑きが知らなかったとしたらどうでしょう。知らなかったとしたら常に美術室の周辺に張り込んでいなくてはならないわけで、今日の三時十五分から四時の間に実習棟三階にいたというだけでは、狗神憑きだとみなす根拠に乏しいのではないでしょうか。黄泉還りの儀の期間で、実習棟三階にほとんど調査に来ていない日もありますし」
松村さんは学ランの第一ボタンを指で弾きながら言った。それが松村さんの癖だ。
「そうかもね」
井上さんは前髪を指で束ながら、ぞんざいに言った。
「もう一つ気になっていることがありまして。来栖さんと井上さんの推理について」
松村さんは言った。
「はあ」
気怠そうに井上さんが言った。
「果たして、被害者は本当に『言いなりメール』で美術室に来るように指示を受けたのか、ということです」
松村さんが言った。
「つまり」
井上さんが言った。
「奇妙でしょう。『言いなりメール』の霊障は、効果が及んでいる対象の様子が尋常ではなくて、パッと見でわかるということでした。来栖さんと鹿目さんの調査によれば。不自然ではありませんか」
松村さんが言った。
「どういうこと」
井上さんが言った。
「これが計画されたものであったとしたら、綱渡りすぎるということです。そうでしょう。被害者を昇降口から美術室まで移動させるのなんて、客人から発見されるリスクが高い。私たち客人は、霊障ならびに狗神憑きの捜査のために校内のあちこちで聞き込みや巡回をしています。そして、当然狗神憑きと走狗もそのことを知っている。
だから呪殺するために被害者を一か八かで美術室に呼び出すという犯行計画はリスクが高い。客人から見つかってしまったら、どうするんです。田中芽衣さんが今井先生に止められてしまったように、早瀬さんも客人かあるいは他の誰かに止められて、閉め切られた美術室へ向かうことを阻止されてしまうかもしれない」
松村さんが言った。
「じゃあ、実際はどうだったと思うの」
井上さんが訝しそうに言った。
「ええ」
松村さんが第一ボタンを弾きながら、笑みを浮かべて言った。
「複数の可能性が指摘しうると思います。
最初に、被害者が『言いなりメール』の暗示にかけられていた場合について考えてみましょう。まず一つは、暗示にかけられた被害者が発見されることまで織り込み済みの計画だったという可能性。すなわち、犯人は美術室まで被害者を走らせてそこで呪殺することを計画すると同時に、客人や他の生徒にそれを発見されて妨害される場合に備えてプランBを用意していたという。もっとも、プランBがなんであったのかはわかりませんが。
次に、実は被害者が『言いなりメール』で別の場所に呼び出されて呪殺されていた可能性。昇降口から美術室まで呼び出すのは、人目につきます。だから、実際は美術室ではなく、別の場所へと誘い込まれて呪殺されたのではないかと。後藤さんの情報に従うなら『絵画世界』という霊障があるそうでしたよね。それを使って、犯人は被害者を美術室へ運び込んだのかもしれません。そうして、犯行現場を偽造した。
それから、アクシデントによって被害者が美術室に向かってしまった可能性。すなわち、犯人は被害者に『言いなりメール』を使って何らかの指示を出した。しかし被害者は、犯人にとっては思いがけず、その指示を達成するために美術室へ向かってしまった。狗神憑きは被害者が美術室に入ってきたために、そこで早瀬さんを呪殺することを決意した。そんな展開が想定できると思います。
さらに、被害者が『言いなりメール』の暗示を受けていなかったケースも想定できます。まず、被害者が犯人に呼び出されていた場合。先ほど、井上さんは来栖さんに頼んで図書室を調査してもらっていたとおっしゃっていましたが、それと同様に『証拠を掴んだから美術室を調べて欲しい』と頼まれて呼び出された可能性が指摘できます。
加えて、被害者が自分の意志で美術室を訪れていた可能性も指摘できます。被害者が狛犬だった、あるいは狛犬の協力者であったために、美術室を警戒していた。それで美術室の調査にあたっていたところ、それを発見した狗神憑きに呪殺された。そんな展開があった可能性があります。
長くなりましたね。ともかく、被害者が『言いなりメール』によって美術室に呼び出されたと素朴に考える三人の推理には疑問があると思います。『言いなりメール』の発動要件に『昇降口でメールを開くこと』という条件があるのであれば」
松村さんは得意そうに言った。
「そうかもっすね。でもさっき言いましたけれど、事件に関連して、霊障はすべて発動していなくてはいけません。その条件を満たすために危ない橋を渡らざるを得なかった可能性も十分に考えられますんで」
井上さんが素っ気なく言った。井上さんは、松村さんの持って回った言い回しに付き合うのが面倒くさいといった様子だ。いつも二人はコントのような調子である。
「それもそうですが」
松村さんが言った。
「他に何か」
井上さんが言った。
「あ、いえ。以上です」
井上さんの態度に、少し気圧されたように松村さんは言った。
「どうも。他に誰か。何かありますか」
井上さんは頭を掻きながら言った。
「あ。いいですか。私」
後藤さんが手を挙げて言った。
「どうぞ。後藤さん」
井上さんが後藤さんを指差して言った。
「はい。
私が美術室を警戒していなかった、とのことですが。それは事実と異なると申し上げておきます。私は早瀬桐花さんと協力して捜査しており、彼女とは『絵画世界』の情報を共有し、共同して美術室の調査を行っていました。それについてはケータイのメッセージの履歴から証明できると思います。必要がありそうならば提示します」
後藤さんは言った。
「了解っす。猫又の中間報告のときにでも提示をお願いします。他に何か」
井上さんは言った。
「いえ」
後藤さんは俯いて言った。
「おっけーです。他に誰か」
井上さんが周囲を見回して言った。
「あ。じゃあ、私から」
私は手を挙げて言った。
「どうぞ。猫又さん」
私の方を顎でしゃくって示して、井上さんが言った。
「加藤詩織さんのプロフィールと『透明人間』について、何か関連があると思いますか」
私は言った。
「ええ。なんか『ガラスの動物園』っていう小説が好きだったみたいですね。加藤さん。『透明人間』の発動要件として関わっているっぽい作品ですが。というか、その作者を好きだったみたいです。テネシー・ウィリアムズ」
井上さんが言った。
「どうしてかしら」
私は尋ねた。
「テネシー・ウィリアムズにはですね、加藤さんと一緒で姉がいたんです。ウィリアムズのお姉さんはロボトミー手術を受けて、そのせいで大きな後遺症が残って。加藤さんにも、重度の知的障害のある双子のお姉さんがいたみたいですね。『香織』って名前の。お姉さんはお父さんの方に引き取られたらしいですが」
井上さんは言った。
「なるほど。お姉様と詩織さんの関係はどうでしたか」
私は言った。
「仲良しだったみたいですよ。詩織さんは、お姉さんの面倒を見るのが好きだったみたいで。ただお姉さんを巡って、お父さんとギクシャクしていたみたいですね」
井上さんが言った。
「と言いますと」
私は言った。
「ええ。どうも、お父さんが大切に思っていたのはお姉さんの方だったみたいで。詩織さんのことはあまり好いていなかったみたいですね。お父さんはなんというか、純粋な人を好きだったらしいんですよね。だから詩織さんのことを煙たがっていたみたいで。
詩織さん、両親の仲が悪かったこともあって、相手の心理とか深読みするところがあって。それをお父さんは嫌がったみたいですね。被害妄想が強い親だったみたいです。自分の世界に篭りやすい傾向があって、それをちょっとでも傷つけられるとプッツンしたみたいですね。
それで、お姉さんを巡ってお父さんとの間での対立があって。なんだろう、お父さんも詩織さんも、お姉さんに依存していたみたいなんですよね。脆い自尊心の拠り所にしていた。それでお姉さんのことを二人で取り合っていた感じ」
井上さんが言った。
「なるほど」
私は言った。
「で。詩織さんには『ガラスの動物園』っていう作品がしっくりきたみたいです。こう、作中に出てくる『ガラスの動物園』のモチーフが、詩織さんの家族の象徴のように感じられたみたいで。
『ガラスの動物園』という作品ではですね、ローラ・ウィングフィールドというキャラクターがガラス細工の動物を集めて『ガラスの動物園』を拵えているんです。母・アマンダからの苛烈で杓子定規な性格に追い込まれて、ローラは自分の世界に籠っている。父・トムは家を飛び出してしまって。こう、作中において『ガラスの動物園』は、不安定で今にも壊れそうな家族関係や精神世界の象徴であるわけですよね。
それと詩織さんはよく、父親から無視されるハラスメントを受けていたみたいですね。機嫌を損ねると、一ヶ月くらい相手にしてもらえないことが続いて。それが『透明人間』の下敷きになっているんじゃないですかね」
井上さんが言った。
「なるほど」
私は言った。
「それとですね。『透明人間』の霊障にあった斎藤美波は、本当は大人しい生徒だったんです。そんな彼女ですが『透明人間』の霊障の効果を受けて、気分が昂って悪戯をしたくなった。それも詩織さんの過去と関わっているみたいで」
井上さんが言った。
「どういうことですか」
私は言った。
「詩織さんもお父さんから無視されている時期にはですね、よくその仕返しに悪戯をしたそうなんです。自分に関心を向けさせたくて。お父さんの財布からお金を盗んだこともあったらしいです。『透明人間』にも、それが反映されているってことじゃないですかね。そういう加藤さんの心理がトレースされている」
井上さんが言った。
「そうなんですね。ちなみに、それはどなたからお聞きなさった話ですか」
私は言った。
「自分の父ですね。家も近いし、結構長い付き合いだったみたいで、色々話も聞いていて。相手の方が学年は一個下でしたが」
「なるほど。了解しました」
「質問はそれだけですかね」
「ええ」
私は言った。
「はい。じゃあ、他に誰か」
井上さんは周りを見回して言った。誰も手を挙げない。
「いらっしゃらないみたいですね」
私は言った。
「井上さん。お疲れ様でした。次に語り部を務めてくださる方はいらっしゃいますか」
私はみんなに向かって言った。
「私。いいですか」
小さな声で鹿目さんが言った。
「ええ。お願いします」
私は言った。鹿目さんは控えめに頷いた。
鹿目真奈美の話
えっと。「人取り鏡」っていう都市伝説、知っていますか。美術室から真っ直ぐに出て突き当たりの右側に大きな鏡があるでしょう。廊下に。あの鏡の前に立つと、どこかへ意識が飛ばされてしまうそうなんです。
私は、その霊障を体験した生徒に会ってきました。工藤由依さんという方です。彼女はある放課後、美術準備室に荷物を取りに行こうとしたそうです。友達と二人で。二人は美術部だったんだそうですけれど。美術準備室の手前にある鏡の横を通ろうとしたところ、鏡の中の自分と目が合って。そうしたら、急に体に力が入らなくなって視界が暗転したらしいです。
次に気がついた時には、工藤さんはどこか狭くて暗い場所にいたそうで。何が起こっているのか分からなくて、手で周りを探ってみるけれど、壁のようなものがあることしか分からない。とにかくそこから脱出しようとして、壁を蹴り飛ばしてみたんだそうです。壁は木製みたいで、割合柔らかくて。でも足では蹴り破れそうにありませんでした。そして蹴飛ばすとその外で、ボンボンボンって、大きな音が響いたんです。
「うるせえ」
外で怒鳴り声が聞こえたそうです。女の人の声。ちょっと低くて枯れた声。聞き覚えのない声のはずなのに、なぜか懐かしく、忌々しい印象がしたそうです。
「誰かいるんですか。ここから出してください」
工藤さんは叫んだそうです。件の声の主に向けて、誰か別の人間の声で。
「黙っていな。反省するまでそこにいろ」
すると、その女性はそんな風に怒鳴ったそうです。何がなんだか分からなくて。とにかく工藤さんは、不安と恐怖に押しつぶされそうになりました。
「許して。ここから出して」
気がついたら工藤さんは叫んでいたそうです。恐怖で涙も込み上げてきて、そう叫ばずにはいられませんでした。
「うるせえって、言っているだろ」
さっきよりも大きな、そう怒鳴る声がしたそうです。その声が聞こえると、一層恐怖が募って。
「許して。お母さん。許して」
工藤さんは、気がつくとそう叫んでいました。
「うるさい。お願いだから、もう喋らないで。頭にガンガン響くの。だから喋らないで。おかしくなりそう」
金属を擦り合わせたような甲高い声でそう泣き叫ぶのが聞こえて。工藤さんは、それで一層パニックになって。
「お母さん。お母さん。お母さん」
何度も叫ばずにはいられなくなったそうです。壁を思いっきり蹴飛ばして、何度もそう叫んだそうです。
「黙れ、って言っているだろう。今度喋ったら殺す。喋ったら殺すから」
外であの女性が、そう悲鳴を上げて。
「お願い。お母さん。お願い」
さらにそう、工藤さんは叫びました。そうしたら壁の向こうで、ドタドタ大きな足音がして、どこか向こうに行ったのがわかって。ガラガラって、引き出しが開くような音がしました。その後でドスドス、と足音が近づいてきて。
ガラガラ、って音がした後で光が見えて。暗闇に目が慣れていたから、その光が刺さるように痛くて。それで、灯りを背にして人影が立っているのが目に入ったそうです。その人影の手の中で、何かが光るのが見えました。
そこで目が覚めたんですって。気がついたら工藤さんは、さっきいた鏡の前で倒れていて。起き上がって周りを見回したら、急に美術準備室の扉が開いて、さっき一緒にいた友達が出てきたんですって。
「どうしたの。どこにいたの。ずっと探していたんだよ」
彼女から言われて。
「分からない。夢を見ていたみたい」
工藤さんはそう言ったんですって。それで自分が見た夢の記憶について、相手の子に話したそうです。
「心配したけれど、無事でよかった」
その子はそんな風に言ってくれて。
「今、何時」
工藤さんは尋ねたそうです。
「四時だよ。結衣がいなくなってから、だいたい十分くらい」
彼女から、そう言われたそうです。結構長い時間が経っていたような気がしたけれど、案外短い時間でしかなくて、少し驚いたそうで。
「そういえばさ、さっき言った夢って、結衣の過去の体験かな。いろいろあったんでしょう」
彼女は工藤さんにそう尋ねました。
「ううん。似たような経験あったけど、ちょっと違う気がする。誰か別の人の記憶が流れ込んできたみたいな感じ」
工藤さんはそう言ったそうです。おそらくそれは、加藤詩織さんの記憶だったのでしょうね。工藤さんは少しの間、詩織さんの夢の世界に囚われていた。
「人取り鏡」の効果は、おそらく対象を十分くらい意識を失わせ、他人から認識することもできなくするというものだと思います。そしてあの、夢の世界の暗がりに意識を閉じ込めるというものです。発動要件は、完全には把握できていないんですけれど、美術準備室手前にある大鏡の前に立つことがまず一つです。
でも、鏡の前に立ったからといって、それが誰に対しても発動するわけではないみたいで。私、実験してみたんです。それで、色々条件を変えて試みたけれど、私にはあの霊障は一度も発動しなくて。どうやら、鏡の前に立つ人は、誰でもいいわけではないみたい。条件があるみたいです。霊障に巻き込まれた人たちの共通項から、私なりの仮説を立ててみました。
一つ目の条件は「身長」です。私は多分、身長が高すぎたから効果が及ばなかった。一七〇センチ以上ありますからね。大柄すぎると、あの部屋に収まらないんでしょう。多分霊障の効果が及ぶのは身長がだいたい一六五センチ以下の人です。私、この間皆さんに身長をお訊きしたりしましたよね。そしてこの条件を満たすのは来栖さん、井上さん、後藤さん、早瀬さんです。
二つ目の条件は、母子家庭もしくは父子家庭であることのようです。恐らく。多分、家庭環境が詩織さんと近い人が霊障の効果を受けるということでしょうね。一つ目の条件を満たす客人のうち、この条件を満たしているのは後藤さん、早瀬さんですね。
それで、思い出して欲しいんですけれど。早瀬さんが呪殺されたとき、私は皆さんに連絡して美術室前に集まってもらいましたよね。みんな美術準備室手前の大鏡の前を通ったから、その霊障の効果を受けるはずなのに受けていない人が一人、いますよね。
それは後藤春香さん、あなたです。あなたは霊障の発動要件を満たしたと思われるのに、その効果が及ぶことがなかった。それはすなわち、あなたが狗神憑きあるいは狛犬であることを意味していると思います。
それで、ひとまず彼女が狛犬だと仮定した上で事件について検討していきます。彼女が狛犬だとするならば、さらにもう一つ場合分けをする必要があります。彼女が「人取り鏡」の霊障について、その効果と発動要件を知っていたか、知らなかったかという二つのケースがあり得るのです。ご存知の通り、狛犬が予め知る霊障の効果と発動要件の情報は、三つある霊障のうち、二つだけです。ですから「人取り鏡」の霊障をもともと知らなかったという可能性と、知っていたという可能性があります。
彼女が「人取り鏡」の霊障について知っていた場合。これはやや不自然に思います。なぜなら後藤さんは「人取り鏡」が障壁として立ちはだかる美術室の調査に早瀬さんを向かわせたというのですから。早瀬さんは「人取り鏡」の霊障の効果の対象です。この場合、美術室の調査は自分でするべきなのではないでしょうか。もしかすると「人取り鏡」の真実性を身をもって示させる意図があったのかもしれませんが、これまでの後藤さんの様子からしてそうでもなさそうです。
そして彼女が「人取り鏡」の霊障について知らなかった場合。この場合、彼女の発言に不自然な部分があります。それは「絵画世界」についての発言です。思い出してみてください。彼女は「『絵画世界』について実験を試みたわけではないから発動要件や効果についてはよく分からない」のだと言っていました。これは、奇妙な発言であると思います。なぜならば、霊障の効果と発動要件について知っているならば「霊障についてよく分からない」という嘘をつく必要性がないからです。狛犬がそのような嘘をつくことは、捜査を撹乱することにしかなりませんから容認できないことです。自分が狛犬であるという正体を隠しつつ、霊障の効果と発動要件について正確な情報を客人たちに共有するためには「霊障について実験をしたから、恐らく効果と発動要件はかくかくしかじかだろう」
と言うべきだったのです。
つまり、こうして後藤さんが狛犬であったと想定した場合にありうる二つの可能性は否定されてしまいます。これは何を意味するのか。それは、後藤さんは狗神憑きである、ということです。私はそう結論づけます。尤も、これはあくまでも「人取り鏡」が実現した霊障であると仮定した場合ですが。
後藤さんが狗神憑きだというのならば、犯行はいかにしてなされたのでしょうか。また、既に四つの霊障の存在が指摘されていますが、そのうちのどれが真実のものなのでしょうか。本当であるのは三つだけのはずです。このうち、後藤さんがその存在を指摘した「絵画世界」は眉唾物かもしれません。そして私と来栖さんが検証した「言いなりメール」の存在は確からしいと言えるのではないでしょうか。後藤さんが狗神憑きである以上、私と来栖さんが走狗と狗神憑きであるという可能性は否定され、二人が共謀して嘘をついているのではないかという疑いも払拭されますから。ですので、呪殺に関連して「人取り鏡」「言いなりメール」の二つの霊障が発動したのに加え、さらにもう一つ何らかの霊障が発動していた計算になります。「透明人間」については井上さんも調査が不十分ということでしたので、これが真実であるのかはなんとも言い切れませんが。
そして呪殺に関連して、霊障は全て発動しなくてはなりません。「言いなりメール」がそこでどう使われたのかは、松村さんの発言が大変参考になると思います。松村さんは「『言いなりメール』が被害者を美術室に呼び出すために使われたと素朴に解釈するのは瑕疵がある」
と指摘してくださりました。確かに、美術室で呪殺するために「言いなりメール」を使って早瀬さんを呼び出したと短絡的に考えるのは誤りだと思います。当然それは、誰か他の客人に発見されて妨害される可能性がある。しかし、それも犯人の計算の内であったのではないかと。すなわち、犯人は「言いなりメール」を使って早瀬さんを大鏡の前まで呼び出した。仮に、それを誰か他の客人に発見されて追跡されたとしても早瀬さんは大鏡の前で突然姿を消すことになります。そうなればその追跡者は他の客人にその旨を連絡する運びとなるはずで、客人は総出で早瀬さんを捜索することになります。そしてその混乱に乗じて、犯人はなんらかの工作を行う腹つもりだったのではないでしょうか。
しかし、実際には早瀬さんが客人たちに発見されることはなかったので、犯人は「人取り鏡」の霊障によって意識を失った早瀬さんを霊具によって呪殺したものと思われます。ところで、言い忘れていたことがあるのですが、人取り鏡によって姿を認識できなくなった人間はそこから消え失せてしまっているわけではありません。確かにそこにいて、夢をみているのです。姿が見えなくなった人を認識するための方法には「写真」があります。写真で撮影した場合、そこには「人取り鏡」の効果を受けて知覚できなくなった人が映るのです。その写真で位置を確認しつつ、扉越しに早瀬さんを刺した。そんな展開があったのかもしれません。
「人取り鏡」に巻き込まれた人が写真には映るというのは、霊障に巻き込まれた人からご報告頂いた情報です。工藤さんとは別の方ですが。友人が急に消えたことに驚きつつも、とりあえず現場の写真を保存したら、そこに消えたはずの友人が映っていたとのことでした。
現場は密室になっているとか、いろいろな工作が施されているようでした。おそらくそれは「言いなりメール」「人取り鏡」の他にある、まだ判明していない別の霊障が関わっているのでしょうか。あるいは来栖さんが指摘して下さったように「美術室に入れない」というものかもしれません。それなら尚、美術に拘りのある後藤さんは疑わしいでしょうね。走狗の正体については、まだなんとも言えません。もしかしたら、後藤さんを援護していた荻野さんが怪しいのかもしれませんが、確たる証拠はありません。
私からは以上です。
猫又のマタによる幕間
「何か質問などはありますか」
鹿目さんが不安そうな表情で周りを見回して言った。
「はい」
後藤さんが静かに手を挙げて言った。
「どうぞ」
鹿目さんは控えめに、後藤さんを示して言った。
「ええ。鹿目さんの推理では、私は狛犬か狗神憑きでしかあり得ず、私の過去の発言から私が狛犬である可能性は否定される、とのことでした。『人取り鏡』が真実と仮定するならば。
けれども『人取り鏡』はご自身が実験による再現に成功したというわけではないそうなので、霊障が真実かどうかは甚だ怪しいですよね。そちらも承知しているでしょうが」
後藤さんは言った。
「ええ。確かに」
小さな声で鹿目さんは言った。
「あと、質問なんですけれど。仮に鹿目さんの話す霊障が真実だとしますよね。そして『言いなりメール』も真実だと。で、私は嘘を吐いていて『絵画世界』も出鱈目だと。そして、美術室で呪殺したのは犯人がそこに呼び出したからだった」
後藤さんが言った。
「ええ」
おどおどと鹿目さんが言った。
「妙だと思いませんか、それだと。だって『絵画世界』は使えないんですよ。ならば美術室で呪殺するメリットがないじゃありませんか。『黒魔術教本』にもある通り、霊障は犯行に関連して全て発動していなくてはいけません。だからもし『絵画世界』が実現していたのであれば、わざわざ犯行を美術室でする理由がなくなってしまいます。
それにメリットがないどころか『人取り鏡』というトラップが仕掛けられているんですよ。美術室の手前に。仮に私が狗神憑きだとしたら、美術室で彼女を呪殺する理由は少ないんじゃないですか」
後藤さんは言った。
「そうかもしれませんね」
俯いて困ったように、鹿目さんが言った。
「いや。それはどうですかね」
伊藤さんが低く口を挟んだ。
「なぜでしょうか」
後藤さんが怪訝そうに言った。
「『言いなりメール』と『人取り鏡』が真実だとして、他の霊障がなんであるのかはまだ分からないでしょう。だから『犯人にとって美術室で呪殺する必要はなかった』とは現段階ではまだ言い切れない。それに僕は、鹿目さんが言ったこととは別の可能性もあると思っています」
伊藤さんが言った。
「別の可能性、とは」
鹿目さんが言った。
「ええ。先ほど松村さんも指摘していましたよね。『思いがけず被害者が美術室へ入ってしまったので止むを得ず呪殺した』可能性について。僕はそれが怪しいと思っています。そうだとするなら『人取り鏡』があることを知りながらも美術室で呪殺しなくてはならなかった事情は、十分説明がつくということです」
伊藤さんが言った。
「まあ、そうですよね」
小さく頷いて鹿目さんが言った。
「ええ。僕は正直、後藤さんは疑わしいと思っています。狗神憑きか、走狗だろうと。狛犬かもしれないですが。ともかく、僕は後藤さんがこの事件のキーパーソンだろうと睨んでいます」
伊藤さんは厳かに言った。
「そうですか」
後藤さんは拗ねたように言った。
「えっと。後藤さん、の質問でしたよね。まだ何かありますか。後藤さん」
鹿目さんが申し訳なさそうな顔をつくって言った。
「いえ。特に
そうですね。私は幾分怪しいのかもしれません。質問は以上です」
後藤さんは不服そうに言った。
「ちょっとごめんなさい」
私は思わずみんなに向かって言った。
「ええ。猫又さん」
鹿目さんが私を示して言った。
「はい。忘れないで欲しいのだけれど。客人のみんなは敵同士ではありませんので。ちょっと伊藤さんは後藤さんに対して態度がキツすぎるかな。悪気はないのかもしれないですけれど」
私は苦笑いして言った。
「すみません」
伏し目がちに、伊藤さんが言った。
「いえいえ。後藤さんも、自分に疑いが向けられても、感情的にならなくていいんですよ。咎められているのではないのですから」
私は言った。
「はい」
か細く笑って後藤さんが言った。
「ここにいるみなさんは、命懸けでこの戦いに臨んでいます。ですから、情緒が不安定になる気持ちもよく分かります。仲間に対する期待や疑いがエスカレートして、衝突してしまうこともあるでしょう。
ですが、忘れないでください。ここにいるみんなは、運命を共にする仲間です。誰もが狗神の幸福を願い、誰もが被害者である早瀬さんの生還を願っているはずです。それをどうかお忘れなく」
私は言った。みんなはこくりと頷く。
「私からは以上です」
私は笑って言った。
「分かりました。他に誰か質問は」
鹿目さんが周囲を見回して言った。
「あ。じゃあ、俺からいいですか」
ニコニコとした表情で、荻野さんが手を挙げて言った。
「どうぞ」
鹿目さんが小さく笑って言った。
「えっと。加藤詩織さんは『オルフェ』って映画が好きでしたよね。観たことはありますか」
荻野さんが言った。
「ええ。ジャン・コクトー監督の作品。鏡の中から死神が現れて人を連れていくのでしたよね」
鹿目さんが言った。
「そうそう。そうなんです。いい映画ですよね。それって『人取り鏡』の話と似ているじゃないですか。関係あると思いますか」
朗らかに笑って荻野さんが言った。
「はい。私もそれは気になっていました。多分『人取り鏡』はあの映画に影響されて生まれたものだと思います。それとそういえば私、気がついたことがありまして」
鹿目さんが言った。
「ええ。なんでしょう」
荻野さんが言った。
「加藤さんが好んだ作品には『鏡』とか『アイデンティティ』の主題が含まれていると思うんですよね。萩尾望都の漫画『半神』もそうですが。多分、それはお姉さんとの関係が元になっていると思って。先ほど井上さんがおっしゃっていましたけれど」
鹿目さんは井上さんの方を見遣って言った。
「うん。双子のお姉さんがいたの。知的障害がある。加藤さんにはね」
井上さんが言った。
「そうでしたよね。『半神』も、双子がモチーフの話なんですよね。
主人公・ユージーは、双子の妹のユーシーと体がつながったまま生まれてきて。それでお姉さんのユーシーには知的障害があるんです。でもユージーが得る養分を奪っているから、妹とは違ってユーシーは美しくて。ずっとユージーはユーシーに嫉妬していたんです。ユージーは頭が良かったけれど、ひねくれていて醜くて。だから、周りから愛されるのは美しくて純粋な性格のユーシーだったのでした。ユージーばかりが、周りからの注目を独占していた。
でも、ユージーはどんどん衰弱していって、このままでは命がなくなってしまいそうになったんです。ユージーが死ぬと、ユーシーから養分を得ているユーシーまで死んでしまう。だから、二人の体を切り離す手術をしなくてはいけないことになって。
けれども二人の体を切り離すと、ユージーは生きていけるのだけれど、自分では栄養を生み出せないユーシーは死んでしまうことになる。一方で、ユージーは姉から分たれたことで日に日に健康で美しくなっていきます。そしてユージーは、衰弱してかつての自分のように醜い姿になっていくユーシーの姿を見つめながら、いたたまれない気持ちになるんです。自分のアイデンティティを問い直されるような気になって。鏡を覗き込むと、映っているのはかつてのユーシーの姿で、なら今こうして鏡の前に立っている自分は、一体誰なんだろうって。
おそらく加藤詩織さんは、ユージーと自分を重ねていたと思うんですよね。知的障害があるけれど、周りからの愛情を独り占めする双子の姉を持ったユージーと自分とを。詩織さんは、いつも鏡にうつる自分の姿を眺めながら、いたたまれない気持ちになっていたのだと思うんです。鏡に写っているのは、一体誰なんだろうって。もしかしたら、私が姉として生まれていて、周りからの愛情を独占する人生もあり得たんじゃないかって。そんな思いを、いつも彼女は抱えていた。彼女はいつも、鏡に囚われ続けていた。
『人取り鏡』という霊障の背景には、そんな感情が潜んでいると思うんです」
鹿目さんが言った。
「なるほど。霊障には狗神の伝記的なバックグラウンドも大きく作用するので、重要な指摘だと思います。
そういえば、実は俺も気がついたことがあって」
荻野さんが言った。
「なんですか」
鹿目さんが尋ねた。
「ええ。俺もちょっと、霊障と加藤詩織さんの過去との関連について思うところがあって。
『CURE』って映画なんですけれど、これは催眠術による殺人がテーマの作品なんですよね。それで、全体的にドイツ表現主義のフィルムのような、朦朧とした雰囲気があって、最後も主人公が人を殺したのかどうか、よくわからないんですよね。それで加藤さんって、解離性障害を患っていたじゃないですか。その影響で、この映画に惹かれる部分があったのではないかと。解離性障害に伴う意識や記憶の一時的な消滅が『CURE』という映画に惹きつけるようなところがあったのでは、と。
それに加えて『人取り鏡』にも、解離性障害の影があるのではないかと思います。この霊障に見舞われると、意識が飛んで夢の世界へ囚われるわけじゃないですか。解離性障害の症状とそれって、似ているじゃないですか。やはり、影響があるのではないかと。
そんな風に思った次第ですね」
荻野さんが言った。
「ええ」
私は言った。
「霊障は狗神の過去やパーソナリティと分かち難く結びついています。私が資料で狗神が好きだったものを取り上げているのは、それについて霊障との関連性を推論し、共有することが意義あることだからです。
加えて狗神の性格は、その依代の過去や性格とも分かち難く結びついています。ですから、今の荻野さんと鹿目さんの発言も、重要なものとして受け止めるべきです。加藤さんのことを理解するものとしても、またお二人のことを理解するものとしても。ありがとうございます、荻野さん、鹿目さん」
私は言った。二人は頷く。
「承知しました。
荻野さん、まだ何かありますか」
鹿目さんは言った。
「えーと。
あ。もう一つ」
荻野さんが言った。
「なんでしょうか」
鹿目さんが言った。
「ええ。早瀬さんって、身長どれくらいでしたっけ。
なんか女子にしては背が高いイメージだったので。一六五センチよりありそうな。早瀬さん」
荻野さんが言った。
「百六十四センチ九ミリだったと思います」
鹿目さんが言った。
「わ。やっぱりギリギリですね
というか、正確な情報なんですかね。それ」
荻野さんが言った。
「あ。それ私も聞きました。早瀬さんから」
後藤さんが手を挙げて言った。
「どういうことですか」
荻野さんが言った。
「ええ。早瀬さんが面白がってみんなに話していたんです。身体測定のとき。
『やばい。ここで成長が止まったらどうしよう。ついつい百六十五センチだって嘯きたくなる身長だけど、盛ったら自意識過剰でプライド高いナルシスト扱いされちゃいそうだよね。あー、でも百六十五センチって言いたい。あー、でも嘘をついたら自分が許せない、地獄に落ちる。みんなごめんなさい、私は百六十四センチ九ミリです。私は百六十四センチ九ミリです』
とかなんとか。今年の春に」
後藤さんが早瀬さんの口調を真似て言った。早瀬さんはいつも気分が昂っていて、早口で滔々と捲し立てる。
「言いそう」
荻野さんが笑って言った。
「ええ。私も彼女がそんな風に言っていたのを記憶していたんですよね。この間、また本人にも聞きましたけれど」
鹿目さんが控えめに笑って言った。
「なるほど。
えっと。でもそれって割と前のことですよね。今はどうなんでしょう」
荻野さんが言った。
「あ。私から、いいですか」
私は口を挟んだ。
「ええ。どうぞ」
鹿目さんが言った。
「はい。一応こちらの方で、早瀬さんの身長は把握しています。およそ百六十四センチ八ミリです。こちらの測定の結果では。一六五センチにはわずかに至りません。
多分、靴下の厚みくらいなら大丈夫だろうけれど、上履きを履いていたりしたら百六十五センチを超えそうですね」
私は言った。
「なるほど、了解です。ありがとうございます。猫又さん。
それで、ですけど」
荻野さんが言った。
「もしかして、靴の丈も『人取り鏡』の霊障と関係ある感じですか。ほら、早瀬さんの霊痕って裸足だったじゃないですか。靴の高さも、身長に換算されるのかなって」
荻野さんが言った。
「確認は取れていないです。でも、その可能性も高いと思います」
鹿目さんは神妙な面持ちで言った。
「なるほど。ありがとうございます。あ。俺からは以上です」
荻野さんが言った。
「わかりました。では、他に質問がある人はいらっしゃいますか」
鹿目さんは周囲を見回して言った。誰も手を挙げない。
「私からは以上です」
鹿目さんは言って、私の方を見遣る。
「ええ。お疲れ様、鹿目さん。次は、どなたが語り手を務めてくださいますか」
私はみんなに向かって言った。
「あ。じゃあ、俺。やります」
荻野さんが朗らかに笑って手を挙げた。
「わかりました。では、お願いします」
私は言った。荻野さんはニコっと笑った。
荻野隼平の話
最近学校で噂になっている「ビッグ・シスター」というアプリを知っていますか。スマートフォンのアプリ。インストールした記憶がないのに、いつの間にか入っていることがあるらしいんです。
俺はこのアプリケーションの存在を、部活の後輩を通じて知りました。金井悠人さんというんですけれど。金井さんは、あるとき自分のスマートフォンに見覚えのないアプリケーションが入っているのに気がついたそうなんです。「ビッグ・シスター」という名前の。試しに開いてみると
「知りたい人の名前を入力してください」
って、画面に表示されて、名前の入力欄が現れたそうです。不信に思ったけれど、好奇心の強い性格だったので、試しに気になる女の子の名前を入れてみたそうで。すると一件の候補が示されたそうなんです。そのプロフィールには生年月日とか経歴が表示されていて。それは紛れもなく金井さんが気になっている女子のものでした。恐る恐る、画面をクリックしてみたそうで。
すると驚いたことに中学校のマップが表示されて、その相手が何階のどの部屋にいるのかが表示されたそうです。校内の。だんだんと金井さんも、恐怖の気持ちが強くなって。このアプリケーションは、ちょっと普通じゃない。怖くなってアプリを消そうとしたけれど、消去することもできなかったそうです。
どうしようもないから、次の日もそのまま学校に行って。クラスでも同じアプリがインストールされている人がいないかと思って、みんなに訊いたそうです。そうすると、それが見つかって。同じクラスの女子生徒だったそうです。宇津木さんって名前の人。
「何がきっかけでインストールされたのか、心当たりはあるの」
宇津木さんに金井さんは尋ねたそうです。
「全然。知らないうちに入っていた」
宇津木さんは答えたそうです。
「俺も。学校にいたときには入っていなかったのに、家で気がついたらインストールされていて」
金井さんは言いました。
「そうそう。私も。下校中かな。入ってきたの。どこかのそばを通ったせいで受信しちゃったとか。悪戯アプリが」
宇津木さんは言いました。
「そうかもね。宇津木さん、家はどっち方面」
「学校の北。後門から出るの」
「俺と逆だね」
「そっか」
「共通のエリアを通過したからインストールされた線はなさそうかも。まあ、このスパムアプリを送った人とすれ違ったとかはあるかもだけど」
「なるほど。うーん、下校中に何かあったかな。気になること」
「家に電話したくらい。下校中っていうか、帰る前」
「あ、私も電話したかも、その日。帰る前に、自宅に電話をしたの。それが原因かな」
「どうだろ」
「だよね」
そんな感じで二人はアプリについて話し合ったけれど、インストールの原因は見つけられなかったそうです。俺も、この霊障について詳しいことはよくわかっていません。放課後に自宅へ電話をかけるのが条件かな、って思って、それも試してみたけれど駄目でした。だから、何か他に霊障が発動する条件があるはず。
で。とりあえずこの霊障が真実だと仮定すると、これはすごく「言いなりメール」と相性が良いことがわかります。「言いなりメール」の発動要件は「学校の昇降口でメールを受け取ること」だけれど、このアプリを使えば誰かが昇降口に来るタイミングがわかるので。
「ビッグ・シスター」を使えば「いいなりメール」の発動要件を満たすのが容易なのはもちろんとして、犯行現場の候補も拡大するんじゃないかって。狗神憑きは図書室からでも、犯行が可能だったと思うんです。つまりはこういうことです。犯人は言いなりメールを使ってターゲットを美術室に呼び出す。そしてタイミングを見計らって、図書室から霊具を刺しこんで被害者を呪殺した。図書室には脚立があるから、身長に関係なく誰でも天井に手が届きますよね。
被害者は胸を刺されていた。だから、床下から伸びてくる霊具に胸を貫通されるためには、被害者が予め横たわっている必要がある。恐らくは「言いなりメール」でそんな風に指示してあったのではないかと思います。
「お願いだから、美術室の床の上で横になってしばらくじっとしていろ」
と。美術室は位置的に図書室の真上にあります。そして、それだけでなくて部屋の規格も共通しています。だから真上にいる早瀬さんの位置を測って下から呪殺するのはそう難しくはないはず。例えばこんな風に「言いなりメール」で指示しておけばいいんです。
「お願いだから、美術室の入り口から、床のタイル三つ分離れた位置に横になれ」
と。それと「ビッグ・シスター」の情報を併用すれば、横になった早瀬さんの位置を特定するのは容易だったのではないかと。
そして狗神憑きが呪殺を果たした後、探知能力を使って走狗は事後工作を行った。走狗はそこでなぜか、密室をつくった。これはやはり、禁忌に関連しているのかな、って思います。禁忌を隠蔽するために、走狗は密室を構成する必要に駆られた。『黒魔術教本』にもある通り、走狗は禁忌を知っていますからね。あずにゃんも指摘してくれていたけれど、禁忌は「美術室に入れない」ということだったのかもしれません。それなら密室を作らざるを得なかったことにも納得がいきますね。そして鍵を持ち出した人物を誰も見ていないというのは、被害者が鍵を持ち出したからでしょうか。
でも犯行の後で現場に入って誰かが隠蔽工作をしたのか、三つ目の実現した霊障がなんであるのか、俺はよくわからないですね。もしも「言いなりメール」が実現したとすると、それでいろいろと事足りるんですよね。あんまり「絵画世界」とか「透明人間」を使うタイミングがわからない。ただ俺も分からないなりに仮に「ビッグ・シスター」が実現した霊障だったら、どんな風に犯行が行われたのだろうかという推論を立ててみた感じですね。
犯人の正体について。怪しいのは、図書室に出入りした人間ということになります。あずにゃんの情報に基づくなら、それは後藤さん、井上さん、真斗ってことになります。ただ、それはあくまでもあずにゃんが走狗でも狗神憑きでもない場合です。あずにゃんが犯人サイドの人間だと仮定するならば、事情は変わってきます。捜査の撹乱のために偽の情報を流しているかもです。ただ、後藤さんにしても井上さんにしても真斗にしても、図書室に入ったことに関して否定しているわけではないのだから、それは真実なんでしょう。でもあずにゃんが走狗だったら恐らく狗神憑きと思われる客人が図書室に訪れた事実を隠匿していると思う。だからあずにゃんが走狗だと仮定するなら、逆に名前が挙がらなかった人物かつ、単独で行動していた時間を持っている人間が怪しいということになります。つまりそれは、俺と松村さんですね。でも俺は狗神憑きじゃないんで、松村さんってことになるかな、狗神憑きは。それと、あずにゃんが狗神憑きの可能性もかなり高いかもなと思っています。俺は。
でも、もしあずにゃんが犯人サイドではないとすると、狗神憑きが図書室で呪殺したっていう線はありそうもないかもね。図書室で張り込みをしていてくれたっぽいし、客人がそれっぽい動きをしていたら、多分気がつくと思うのよね。でもまあ、犯行は図書室で行われて、狗神憑きは恐らく松村さんか、あずにゃんだという説を仮説として提示しておきます、俺は。
ところで、この「ビッグ・シスター」というアプリケーションは、多分効果が及ぶのはスマートフォンなので、この霊障を利用することは狗神憑きにも可能だと思います。というか、そういう前提でここまで話を進めてきました。そうじゃなかったら、松村さんが狗神憑きで、あずにゃんが走狗ってことになるのかなあ。
それと、この霊障で位置を特定できるのは校内のみに限られるみたいですね。校外にいる人の位置はわからない。でも、アプリケーションは一応学校の外でも使えるみたいなんですよね。まあ、だからといってそれが重要かというと微妙かもですが。犯行は結界の内部、つまり校内で行われなくてはなりませんからね。規約に従って。
うーん。正直、俺もまだ事件のことがよくわかってないですね。とりあえずまあ、そんな感じです。質問ある人はいますか。
猫又のマタによる幕間
「僕からいいですか」
来栖さんが手を挙げて言った。
「どうぞ」
荻野さんが笑って言った。
「うん。正直、僕も自分は疑われやすい立場だと思っていた。現場の真下にずっと陣取っていたわけだし。霊具は物質の干渉を受けないから、床を貫通させて下の階から呪殺することは可能だもんね。霊具は霊液を纏わないから、下の階に霊液が滴ることもないし。それに、霊液で汚れた衣服が発見されていない以上、遮蔽物を介して呪殺された線が濃厚だし、それは床だったのかも。
こっちから言えるのは、僕は井上さんに頼まれてあそこにいたのであって、つまり共同作業の一環だったということ。単なる単独行動ではなく。それが疑いを晴らす根拠になるのかどうかはわからないけれど、僕から言えるのはそれだけ。
それと、僕は図書館で客人の動向をつとめて観察していたけれど、荻野くんが言うように、客人が脚立の上に乗っているのを見たりはしなかったね。僕が見落としていただけだったかもしれないから、そうなら申し訳ない」
来栖さんが言った。
「なるほど、そうなんですね」
荻野さんが言った。
「ところで、荻野くんは発動していた三つ目の霊障に関しては、思い浮かばない感じなのかな。全然」
来栖さんが言った。
「そうだね。『ビッグ・シスター』と相性の良さそうな霊障が見受けられなかったので。後の二人の情報を参考にしたいなと思っています。それで、俺としては犯行に『ビッグ・シスター』が使われた可能性と、それを利用して犯行が図書室から行われた可能性を指摘しておきたかっただけですね。
でも、もしかしたら『絵画世界』が使われた可能性が高いかもしれません。『ビッグ・シスター』が発動しており、かつ図書室で犯行が行われたと見るならば。美術室で被害者が呪殺された必然性があったということだから」
荻野さんが言った。
「了解です。
『ビッグ・シスター』の霊障と狗神の過去について、荻野くんは思い当たることはありますか」
来栖さんが言った。
「ええ。『1984』っていう作品が元だと思います。加藤詩織さんが好きだった。ジョージ・オーウェルの作品です。ディストピアを描いたSF小説。
この作品には『ビッグ・ブラザー』というモチーフが登場します。作中の全体主義国家『オセアニア』において最高権力を握っているのが『ビッグ・ブラザー』です。『ビッグ・ブラザー』は『オセアニア』という監視国家におけるプロパガンダとして至る所で宣伝され、それが全体主義を支えています。
恐らく『監視されている』という意識が、加藤詩織さんを『1984』に近づけたのだと思います。確か、あずにゃんも言っていたよね。加藤さんはお母さんから過度な干渉を受けていたって。それが『言いなりメール』にも背景としてあるんじゃないか。多分『ビッグ・シスター』も、それと同様の背景があると思う。
加えて、やっぱり双子のお姉さんの存在が大きいと思います。井上さんと鹿目さんが話題にしていましたが。アプリの名前も『ビッグ・シスター』ですしね。興味深いと思うのは『姉』と『監視』のモチーフが結び付けられていることです。なんとなく俺の予想ですけれど、それは両親が離婚して母と二人暮らしになった後、二人の関係を支配していた姉の影に由来するのではないでしょうか。
思うに、詩織さんはお姉さんと自分を常に比べて、嫉妬していた。障害のあるお姉さんの方が、家族の中心にあると思っていた。家族からの視線を独占するお姉さんを、ずっと妬んでいた。お母さんと二人きりになった後でも、母が愛しているのは姉の方ではないかと思って、それが重荷になっていたと思うんです。
そして、詩織さんが鏡を覗き込むと、そこにはいつも姉の姿が映っていた。姉が鏡の中から自分を見張っていた。本当に周りから愛されているのは自分なのだと、鏡の中の姉はいつも嘲笑ってきた。
そんな心理が『ビッグ・シスター』の背後にはあるんじゃないかなって思っています」
荻野さんが言った。
「なるほど。そういえば、なんだけれど」
来栖さんが言った。
「荻野君にも、双子のお姉さんがいたよね。ごめんね。なんか」
来栖さんが申し訳なさそうな顔をつくって言った。
「いやいや。霊障は狗神と依代の過去によって大きく影響されるので、これは共有しておくべき情報だと思います。事件と関係のありそうな、客人に関する事実なので」
荻野さんが笑って言った。荻野さんは少し大人びていて、周りの空気がピリピリしそうになるのを、いつも和らげてくれる。
「そうですね。俺には、双子の姉がいました。二歳のときに、不慮の事故で死んじゃったから、全然姉のことは覚えていないんですが。
でも、自分が成長するにつれて、俺の中で姉の存在はどんどん大きくなっていって。実家の仏壇には、俺とそっくりな幼児の写真が飾られていて、アルバムの中にもその子がいる。姉の痕跡は家族のあちこちにあるのに、もう姉はどこにもいなくて。
俺は、いつも怖かったんです。姉の写真を見るのが。どうしてだか、無性に不安を掻き立てられた。姉から、恨まれているような気持ちがして。俺の中には、いつも罪悪感があって。本当は死ぬのは俺のはずだったのに、俺の代わりに姉が死ぬことになっちゃった、みたいな。理屈じゃないんですけれどね。遺された者としての負い目みたいな。
それで俺の中でその罪悪感は、父との関係のなかでいっそう強まっていったんですよ。俺の父も、優しくはあったんですけれど。繊細で脆くて。気分の浮き沈みが激しかった。そして、姉のことになると特に。姉を死なせてしまったのは、父でした。風呂場での事故だったんですよね。俺と姉を風呂に入れてあげているときに、うっかり手を滑らせて。打ち所が悪くて、そのまま死んじゃった。父は、そのことをずっと気に病んでいました。
そんな父の姿を見るたびに、俺はいつも、自分が生きているのが申し訳ないような気持ちがしたんです。姉の代わりに、俺が死んでいたら、目の前の父の悲しみはなかったのではないかと。俺が姉として生きていれば、父を癒すことができたんじゃないかって。
俺が小学四年のとき、両親が離婚して俺は母と二人で暮らすようになりました。離婚の原因も、姉の事故死が原因としてありました。あれ以来、二人の関係には歪みが生まれてしまって。俺は、悔しかった。俺が姉として生まれていれば、こんなことにはならなかったのにって。
それ以来、俺の中には女性的な部分が興って。なんか男性の方に精神的に強く惹かれるんですよね。
真斗と一緒にいるのもそのおかげですね」
荻野さんは伊藤さんを見て、笑って言った。
「あの」
不意に伊藤さんが言った。
「どうしたの」
荻野さんが言った。
「すみません。後藤さん。さっきはきつく言い過ぎて。僕は、後藤さんの過去を知っていました。だから、ちゃんと伝えて欲しいと思っていました。事件と関係があるかもしれない過去は。みんな命懸けでここにいるのだから。話すのは辛いし、強要してはいけないと思うけれど。
僕は、あなたが自分の過去を話してくれるように促したつもりだったんですが、言い方を間違えた部分がありました。申し訳ないです」
伊藤さんが後藤さんの方を真っ直ぐ見て言った。
「いえ。ちゃんと話しますね。荻野さん、喋らせてもらってもいいですか」
後藤さんが困ったように小さく笑って言った。
「ええ。どうぞ」
荻野さんが笑って言った。
「了解です。私は、確かに加藤詩織さんと似ているかもしれません。そういえば加藤詩織さんは『ドリアン・グレイの肖像』を好きですが、私にとってもあれは印象的な作品です。『ドリアン・グレイの肖像』では、主人公のドリアン・グレイが放蕩を重ね、堕落した生活を送るにつれて、ドリアンの肖像画の顔が醜く歪んでいくんです。ドリアンが悪徳に染まるほど、その分身である肖像画は衰えていく。
私の似顔絵を、父が描いてくれたことがあって。私が、本当に小さい頃ですけれどね。父は美大で絵画を勉強していたから。私の似顔絵を、プレゼントしてくれました。でも、父が描いてくれた似顔絵は、私よりずっと可愛らしくて。小さい頃、それが本当に切なかった。私は、自分の容姿にあまり自信が持てなくて。だって、ソバカスが多かったから、それを周りから揶揄われることが多くて。
でも父が描いた似顔絵の中の自分には、私のコンプレックスであるソバカスがなくて。それは私にとって、二つの意味で悲しかった。一つには、父が私のことをちゃんと見てくれていないと感じたこと。もう一つには、ソバカスのない私が、父にとって理想の『後藤春香』なんだということでした。ソバカスのない似顔絵の中の自分が、私には妬ましくて仕方がなかった。父が愛しているのは、似顔絵の中の『春香』だと感じたから。
私は、分身である似顔絵の中の私を汚したいと思いました。似顔絵の中の自分も、醜い私のように、ソバカスまみれの少女にしてやりたいと思いました。でも、自分の部屋に飾られているその似顔絵に落書きをすることは、できませんでした。なんでだろう。なぜか、そうするのが怖かった。
だからその代わりに、私は自分で自分の似顔絵を描くことにしました。ソバカスのある自分を。それが本当の私なんだって、分かって欲しかった。醜いありのままの自分を、見せつけてやりたかった。インターネットでデッサンのやり方を調べたりして、少しでも上達したいと思っていました。そうすることで、父に本当の自分を見て欲しかった。父に、自分を認めて欲しかった。
でもそのころの私はまだ小学二年生で、満足のいく似顔絵を描けるほどの画力なんて、あるはずもなかった。だから悔しくて、泣きながら何度も自分の似顔絵を描いてはそれをゴミ箱に捨てていました。ゴミ箱の中には、くしゃくしゃに汚れた私の顔が堆く積まれていって。それがなんとも言えず、切なかった。
あの頃から、私には絵画への強い関心があるんですが、両親が離婚してから、描くのが辛い時期がありました。父に認められたくて、絵を頑張っていたところがあったから。私の生活から父が消えたことで、自分の中で平衡が壊れて。
私は多分、父を愛していました。普通とは違う形で。それには、ひとつきっかけになる出来事があって。私が小学一年の頃だったんですけれど。あるとき、私は友達の家に泊まりに行ったんです。それで、そのとき相手の家のお父さんに性的な悪戯をされて。脱衣所で裸になっているときに来られて、体を触られたりして。
私、それでパニックになって。次の日、家に帰ってから、泣きながらお父さんに相談したんです。そしたらお父さん、こんな風に言ってくれて。
『辛かったね。春香は何にも悪くないからね。話してくれてありがとう』
そんな風に言われたとき、ドキドキしました。吊り橋効果だったのかもしれません。極度の恐怖を恋愛感情と勘違いしちゃうやつ。あのとき、お父さんから優しい言葉を与えてもらえたことで、私の中には父への絶対的な愛着が生まれたんです。父はその日、すぐに警察に連絡してくれました。
『もしかしたら、そのお友達から憎まれることがあるかもしれない。でも、春香は何も悪いことをしていないからね』
父はそんな風に言ってくれました。そう言ってくれた父に愛して欲しくて、私は自画像を描いたのでした。
そう言えば、加藤詩織さんは、お父さんから性的な虐待を受けていたんでしたよね。裸にされて、屋外に締め出される。それを聞いたとき、自分の過去のトラウマを思い出して。私は、友達の家のお父さんに体を触られて以来、性的な事柄への強い忌避感情があります。性という事柄が、自分の中では強い恐怖の対象になっていて。一方で、そんな私の恐怖を癒してくれたのが自分の父でした。性的な暴力に苛まれた私を、父は救い上げてくれた。でも、加藤詩織さんは自分の父親から、そんな性の暴力を受けていた。そして、父から認めてもらうための手段は、私と同様に絵を描くことだった。それが、なんとも言えず私を切ない気持ちにさせて、色々と気持ちの整理がつけられなくなっていました。
ごめんなさい。なんか」
ペコリと頭を下げて、後藤さんが言った。
「全然。後藤さんが謝ることなんて、何一つないんですよ。
話してくださって、ありがとうございます」
神妙な面持ちで、荻野さんが頭を下げて言った。みんなも頷く。
「僕も、ごめん。いろいろ」
伊藤さんが頭を掻きながら言った。
「後藤さん、ありがとうございます」
私は言った。
「みなさんには、色々と話すのが辛い過去もあると思います。それをここで話すのは、覚悟のいることだと思います。けれどもそんな過去の中にはやはり、ここで共有しておくべき事実もあるのだと思います。
でも、どうか忘れないでください。ここにいる全員は同じ覚悟で、命がけでこの交霊会に臨んでいます。だから、お互いの決意を信頼して、出来る限りで必要な情報は共有してください。後藤さんも荻野さんも、本当にありがとう」
私はみんなに向かって言った。みんなはコクリ、と頷く。
「承知しました、猫又さん」
荻野さんが言った。
「ええと。一応、来栖さんが質問していたんですよね。他に何かありますか」
荻野さんが周囲を見回して言った。
「いえ」
来栖さんが首を横に振って言った。
「了解です。では、他に質問がある方は」
荻野さんが周りを見回して言った。誰も手を挙げない。
「いらっしゃらないみたいですね」
私は言った。
「ええ」
荻野さんが言った。
「では、荻野さん。お疲れ様でした。次に、語り部を務めてくださる方はいますか」
私は言った。あと残っているのは、伊藤さんと松村さんの二人だ。
「じゃあ、僕で」
伊藤さんが手を挙げて言った。
「では伊藤さん。お願いします」
私は言った。
伊藤真斗の話
「他人の体」という都市伝説を知っていますか。自分の姿を作り変えられる、そんな方法があるらしいんです。
僕がその話を聞いたのは同じクラスの女子生徒からです。箕輪由香里さんっていう方。彼女はある放課後に自分の教室で、スマートフォンで自分が好きな異性の写真を眺めていたそうです。教室に一人でいて、ぼんやりと。今泉力也という名前の男子生徒。そうしていると、写真の中の今泉さんと目が合ったそうです。不意に体の力が抜けて。その後、奇妙な感覚に囚われたそうです。浮遊感のような。
ガラガラって音がして、教室の扉が開いて同じクラスの男子生徒が入ってきたそうです。彼と箕輪さんは目が合って。
「お。今泉、お疲れ」
彼が言ったそうです。それに箕輪さんはびっくりして
「は」
思わず声が出て。だって、教室には自分以外誰もいないはずだったのに、今泉さんが同じ教室にいたなんて。思わず振り返ると、やっぱり誰もいなくて。
「え。今泉、だよね」
その男子生徒が怪訝そうに言って。
「私のこと」
箕輪さんは自分を指差して彼に尋ねたそうです。そう口にしたことで、声が自分のものではなくて、男性のような低いものになっているのに気がついて。
「いや。他に誰もいないしからかっているの」
彼が笑って言って。訳が分からなくて。思わず自分の体に目を遣ると異変に気がつきました。下着の中にあるはずの胸の膨らみがなくなっていて。心なしか体操服がきつくて、サイズが合わない気持ちがして。
「え。どうしたの」
その男子生徒が不思議そうに言って。
「ええと」
箕輪さんは、何が起こっているのか全然分からなくて、パニックになりそうで。
「体調悪いの。大丈夫」
「うん。大丈夫。ちょっと風邪かも。頭がぼんやりする」
そう言って、箕輪さんは誤魔化して。
「なるほど。お大事にね」
その男子生徒が言って。彼が教室から出て行った後、鞄から手鏡を出して自分の顔を見てみたらしいんです。すると、驚いたことに、自分の顔は今泉さんのものになっていて。それだけでなく、体つきまで男性のものになっているのがわかって。
何が起こっているのか分からなくて、自分の精神がおかしくなっているんではないかと疑ったそうです。保健体育の授業で、自律神経失調症の存在を知っていたので。ホルモンバランスの乱れとかで自律神経が傷んで、幻覚を見ているんではないかと思ったそうです。それで、不安に思って箕輪さんは保健室に向かいました。
「すみません。ちょっと相談したいことがあるんですけれど」
保健室に入るなり箕輪さんは言ったそうです。
「ええ。どうしましたか」
保険の前川里美先生が訊ねて。
「幻覚が見えるんです」
箕輪さんは言ったそうです。
「幻覚って」
前川先生が尋ねました。
「はい。自分が男性に見えるんです。しかも自分が好きな異性の体になっていて」
箕輪さんは言いました。
「意味がわからないな。私にもそう見えるんだけど」
前川先生は要領を得なそうに言いました。
「あなた、名前は」
前川先生が怪訝そうに訊ねました。
「箕輪由香里です」
「由香里さん。うーん。とりあえず、水でも飲んで落ち着いてみる」
前川先生は困ったような顔で言って。
「はい」
もどかしい気持ちを覚えつつも箕輪さんは言ったそうです。どうやら、前川先生にも、自分の体は男性として見えているらしい。どういうことなのか、さっぱり事情が飲み込めない。箕輪さんはこう思い至ったそうです。もしかしたら、自分は元々今泉力也で、何かの弾みで自分を箕輪由香里だと思い込んでしまったのではないかと。そう考えればいろいろなことの整合性がつくのではと思いました。さっきの男子生徒も目の前にいる前川先生も幻覚で、自分は箕輪由香里だというのよりも、そちらの方が実感と合っているような。
保健室のベッドに腰掛けて考え事をしていると、前川先生はコップに給水機からミネラルウォーターを汲んで持ってきてくれました。
「あ」
前川先生はそのとき、床に這わせていたケーブルに躓いて。体勢を崩したそうです。箕輪さんは、体に冷たいものがかかるのを感じて。
「ごめんなさい。え」
前川先生は、箕輪さんの姿を見て驚いて、目を見開いた。
「あなた、さっきまでは」
前川先生は、箕輪さんの方を指差して言いました。箕輪さんが自分の体を見ると、胸の膨らみが戻っているのを知りました。
「やっぱり、私」
思わず、箕輪さんの口からそんな言葉が漏れました。さっきまで、自分は今泉さんの体を持っていた。そして今、それが元に戻った。恐らくは、水を被ったことがきっかけで。
他にも、同様の経験をした人がいることを調べています。そのすべてが、写真のなかの誰かと目が合ったことでその人物のように体が変化し、水を被ったことで元に戻ったという話になっています。ただ、僕もそれ以上の詳細な条件については分かっていなくて、再現には成功していません。
ただ、この霊障は恐らく効果が当人に及ぶものであるから、狗神憑き自身がこれを犯行に利用することは困難かと。おそらく、走狗が撹乱のためにこの霊障を用いた可能性が高いと思っています。アリバイ工作のために。それと僕は、現場が水で濡らされていたのが気にかかっていて。これは、現場で何らかの形で「他人の体」が使われた証拠なのではと。しかし一方で、濡れていた床の痕跡は「他人の体」が現場で使われたことを示すものとして、あからさますぎるだろうという気持ちもします。もしかしたらミスリードかもしれない。
それに、もし現場で「他人の体」が使われたとするなら、なぜわざわざ水を用いたのでしょう。現場で「他人の体」が発動されており、かつ水が使われたのなら「他人の体」が解除されなくてはならなかったことを意味しているように思われます。それはどんな場合か。すなわちそれは、別の霊障を用いるために「他人の体」を解除しなければならなかった、という状況です。
『黒魔術教本』の記述にある通り、一人の対象に同時に二つの霊障の効果が及ぶことはありません。ですから、走狗は自身に及んでいた霊障を解除しなくてはならなかった。別の霊障を用いるために。おそらくそれは「絵画世界」であったと思います。走狗は一旦「絵画世界」により密室になっていた美術室に侵入した。そして、密室の内部で「他人の体」を用いて変装し、現場で何らかの工作をした後、水を被って「他人の体」の霊障を解除し、現場から脱出した。そんなシナリオが想定できると思います。
なぜ現場で「他人の体」を使わなくてはならなかったか。これは当然、絵画世界の特性に関わっています。先ほど後藤さんの説明にあった通り「絵画世界」を利用するには裸にならなくてはいけません。だから、現場工作をするに当たって、衣服によって変装を施すことができなくなります。走狗が現場で工作しているところを誰かに発見されてしまったなら、それは狗神憑きの立場をも甚だ危うくすることになります。ですから、美術室で「他人の体」を用いなくてはならない理由は十分にあるし、わざわざ現場で水を浴びて体を戻さなくてはならなかったのには十分な根拠があると言えます。美術室は断水中でした。しかしわざわざ廊下に出て、他の客人に見つかったら面倒なことになる。ですが、美術室には花瓶がありました。それを使って走狗は水を浴びたものと思われます。
そして、おそらく使われたもう一つの霊障は「言いなりメール」だと思います。これは鹿目さんと来栖さんのお二人で実験したというから、信憑性が高いと思っています。おそらく走狗か狗神が言いなりメールを使ってあそこへ被害者となった早瀬さんを呼び出した。松村さんが指摘してくださった通り「言いなりメール」を使って美術室に呼び出したと素朴に考えるのは無理がある、という意見は尤もです。しかし一方で、霊障は呪殺、呪殺の隠匿に関連してすべて発動もしくは作用していなくてはなりません。これは『黒魔術教本』の記述にもある通りです。その条件をクリアするために、現場は美術室でなくてはならなかった。おそらくそれは「絵画世界」の存在に由来するものでしょう。
だから犯人は、まず「言いなりメール」の発動要件を確実に満たす算段をつけた。「言いなりメール」は不発に終わった時にその痕跡が残るため、自分の正体がバレる可能性が高いですからね。「言いなりメール」を使って、犯人は早瀬さんを美術室へと誘導し、呪殺した。これは確かにリスクの高い冒険かもしれません。他の客人に、暗示にかかって美術室へと向かうところを目撃される可能性がある。しかし、それは霊障を全て発動、あるいは作用させなくてはならないという「黄泉還りの儀」の規約により、止むを得ないものであったと考えます。また、暗示にかけられている被害者が発見され妨害されていた時に備えて、プランBを備えていたものではないかと。松村さんが指摘したように。
ところでそうであったとして、狗神憑きは誰なのか。僕が気になっているのは、鹿目さんが見かけた人影です。井上さんもおっしゃっていましたが、その正体が気になるところです。その人影は一体誰であり、なぜそこにいたのか。一つ言えるのは、それは恐らく犯行を終えた直後の狗神憑き、ではないということです。呪殺は美術室の扉越しになされたものと思います。それを済ませて立ち去ろうとした狗神憑きが鹿目さんに目撃されたのではないだろうと、僕は思います。なぜなら、現場には工作された痕跡があったから。つまり、狗神憑きが犯行を終えた後に「絵画世界」を通じて走狗が事後工作をしたという痕跡が発見されている以上、鹿目さんが発見した人影は、呪殺を終えて現場から立ち去ろうとした狗神憑きではあり得ない。鹿目さんがその人影を見つけて現場に着いたのは、たかだか一分以内のこと。そんな短期間に現場に侵入して事後工作を走狗が行うのは無理があると思います。
現場にその人影が現れたのは、呪殺も事後工作も行われた後だと思います。では何のためにその人影は現れたのか。事後工作を済ませた走狗が、何らかの事情によって現場に戻らざるを得なかったという可能性が、まず考えられるでしょうか。ここで、注意しておきたいのは、走狗は「絵画世界」を使って密室の内から外へと自由に行き来できたにもかかわらず、なぜか現場から立ち去ろうとするところを目撃されている点です。走狗がそんなリスクを冒してまでして美術室の前に現れる理由は、果たしてあるでしょうか。僕には、それは想定しづらいと思います。これまで出てきた情報を総合してみるに。
もちろん『黒魔術教本』にある通り、呪殺から一時間以内に交霊会が開かれない場合には狗神も客人も共倒れになるから、早瀬さんの霊痕を発見させる目的で姿を見せるという意図があったのかもしれません。それに「他人の体」があるならそれを使って変装しながら現れるという方法がある。しかし、わざわざそれだけのために、リスクを犯してまでして走狗がそんなことをする必要があったでしょうか。それならば美術室で大きな物音を立てるだけで事足りると思います。
そう言えば、交霊会で話題になった霊障として「人盗り鏡」がありました。もしかしたら、あの人影はそれに由来しているのかもしれません。誰かを美術室手前の廊下に誘導して「人盗り鏡」のなかへ閉じ込める。そんな罠を走狗や狗神憑きは用意していたのかもしれません。
しかし「人盗り鏡」の発動要件を満たすと思われるのは被害者以外では後藤さんだけだというのが鹿目さんから提供された情報でした。となると、客人を誘導して「人盗り鏡」による罠に嵌めようとしたという可能性は低いかもしれない。なぜなら、意図して走狗と狗神憑きがその罠に嵌めようとしたというのなら、相手が後藤さんであることを知っていなくてはいけません。しかもそれには失敗しているから、これももっともらしいとは言えないでしょう。
もしあの人影が客人を現場に誘導するためのものではないのだとしたら、他にどんな可能性が想定できるでしょうか。僕が有力な仮説として思いつくのは、あれは真の第一発見者だったというものです。そして、それは恐らくは狛犬だろうと。あの日、事件の真の第一発見者であるその人物は、事情があってすぐにそのことを他の客人に連絡することを避けた。どんな事情があったのかはわかりません。そのすぐ後で、他の客人に報告するつもりだったのかもしれない。ともかくその人物は事件現場を発見した後、そこを離れました。そして、それを目にした鹿目さんが美術室で被害者を発見して、客人に報告した。そんな展開が考えられます。
恐らくなのですが、その第一発見者は狛犬であると思われます。なぜなら、いまだに名乗り出てきていないからです。交霊会の規約として、語り部が一巡するまでの間、狛犬は自身の正体を明かすことができません。もし自分が真の第一発見者であることを告げ、自分がその場ですぐに他の客人に事件の発生を連絡しなかった理由を告げてしまったら、正体を明かすことにつながってしまう。だから今、真の第一発見者である狛犬は名乗り出ることができずにいるのだと思います。
そうだとして、なぜ現場から離れたのか。その理由は、恐らくこうだと思います。狛犬は、先に窓越しに鹿目さんの姿を認めた。そして鹿目さんこそ、狛犬が狗神憑きの正体だと見込んでいる人物だった。鹿目さんの姿を窓越しに認めた時、狛犬はこう思ったのです。
「彼女はこれから現場に向かってくる。何か工作をしようとしているのかもしれない。ならば、近くに隠れて見張っていよう」
そう狛犬は考えて、近くに隠れた。しかし、鹿目さんは現場を発見するとすぐに、他の客人に連絡した。これには多少、狛犬も面食らったのでした。もしかしたら、鹿目さんは近くに隠れている自分の存在を察知してそうしたのかもしれない。そう訝しく思いながらも、狛犬は鹿目さんの連絡を受けたことで知った体を装って、現場にやってきたのでした。
僕には、正直狗神憑きの正体はよく分かっていないのですが、ひとまず自分は、その狛犬の判断に従ってみようと思っています。狛犬は、みなさんご存知の通り、三つある霊障の内その二つを知っています。これはすなわち、一般の客人よりも適切な推論を行える可能性が高いということです。より多くの情報を持っているのですから。だから僕は、狛犬だと思われる人物の判断に従ってみます。疑わしいのは鹿目さん、あなたです。
僕の話は以上です。質問があればどうぞ。
猫又のマタによる幕間
「何か質問はありますか」
伊藤さんが低く言って、辺りを睨むように見回す。彼には独特の迫力がある。
「あの。いいですか」
鹿目さんが自信なさそうに言った。
「どうぞ」
伊藤さんが言った。
「はい。えっと。『らんま1/2』って漫画、読んだことありますか」
鹿目さんが言った。
「いえ。それが何か」
「あの。加藤詩織さんの好きな作品だったじゃないですか。その漫画だと、主人公が水を被ると変身して女性になっちゃうんです。それで、お湯をかけると元に戻る。その設定が、この霊障に影響しているのかもって、思いました。水をかぶることが、変身の解除の条件じゃないですか」
鹿目さんが言った。
「あり得ますね」
伊藤さんが頷いて言った。
「もしかしたら『他人の体』の変身って、異性に限られるのかなって。そう思いました、はい。その漫画みたいに」
鹿目さんが控えめに言った。
「なるほど。確かに僕は同性の写真でしか霊障の実験をしていませんでしたね。僕は少し、女性が苦手なので」
伊藤さんが眉をしかめて言った。
「承知しました。えっと。私に対する疑いに関しては、特に反論はありません。私が狗神憑きであると認めるわけではないですが、特に否定するだけの根拠も提示できないので。
あと『他人の体』について、狗神の過去と関連して何か思うところはありますか」
鹿目さんが尋ねた。
「ええ。加藤さんの変身願望が手伝っているのでしょうね。これまでの話を聞く限り。加藤さんはお姉さんとの関係もあって、自分の身体にコンプレックスを持ってきていたと思います。僕にも少し、そういう気持ちがわかります。僕は母との関係において、自分の身体にずっとコンプレックスを抱いてきた。
僕の母はアルコール中毒でした。普段は優しかったけれど、ストレスに置かれると無茶な飲み方をして、家族に暴力をはたらくことがありました。父や僕に対して。酔い潰れて錯乱した母から守ろうとして、僕の父はいつも僕を優しく抱きしめてくれました。あの時以来、僕には男性への極端な理想化傾向があります。一方で、不安定で攻撃的な女性性への回避的な感情も芽生えました。
僕は、幼い頃からよく周囲に『顔立ちが母と似ている』と言われて育ってきました。実際、目鼻立ちがよく似ているんです。それが恐ろしかった。自分もいつか、母のような人間になるのではないかと。母のように、壊れてしまうことになるのではないかと。僕は自分の中にある、女性的な部分を忌々しいと思うようになりました。自分の容姿も含めて。僕は、自分の中の女性性を掻き捨てたかった。自分が壊れてしまわないように。女性的な脆さを排して、強くありたいと、そう願うようになりました。
だから僕にも、自分の身体という檻から抜け出したいと願った加藤さんの気持ちはわかる気がするんです。加藤詩織さんは、ずっと誰かの体が欲しかった。姉と同じ体を背負っていることが、忌々しかった。『他人の体』に現れているのは、そんな加藤さんの思いではなかったでしょうか。
そして、恐らく加藤さんは、僕と同じように『女性性』を忌々しいものだと思っていたと思います。多分それは、お姉さんを世話することへの疲れに基づいていた。自分が女性に生まれたために、誰かへのケアを強いられているような気持ちがして、それに反発していたのではないかと。『他人の体』には、そんな加藤さんの気持ちが反映されていると、僕は思います」
伊藤さんが厳かに言った。
「ありがとうございます。私からは以上です」
鹿目さんがぺこりと頭を下げて言った。
「承知しました。他に誰かいますか」
伊藤さんが鋭く周囲を一瞥して言った。
「私からいいですか」
松村さんが手を挙げて言った。
「どうぞ」
伊藤さんが頷いて言った。
「ええ。伊藤さんは、テレビ横の花瓶の水で被害者の霊痕が濡れていたことはどう考えていますか。そして、被害者が持っていたスマートフォンが水浸しになって故障していたことについて」
松村さんは、学ランの第一ボタンを摘みながら言った。松村さんは気取っているけれど抜けてもいるから、愛嬌がある。
「偶然かな、と」
伊藤さんは言った。
「なるほど。それもあり得るとは思います。ただ、私はそれを訝しくも思いますね」
松村さんが言った。
「なぜです」
伊藤さんが言った。
「ええ。美術室の床が濡れていたことのみが『他人の体』と『絵画世界』が現場で使われたことの根拠になっている点で、伊藤さんの推理は脆弱だと思います。そもそも現場での事後工作など『言いなりメール』一つがあれば、事足りる。わざわざ走狗が何らかの霊障を使って現場に入らずとも」
松村さんが言った。
「どういうことですか」
伊藤さんが尋ねた。
「ええ。やはり走狗が現場に侵入して事後工作をするのはリスクが高い。だからそれは『言いなりメール』に全て担わせるのが得策かと。『言いなりメール』によって、例えばこんな指示を出せばいいのです。
『お願いだからこのメールをまずは消して、美術室に入ってドアの前でしばらく立って待って。呪殺されたら部屋を閉め切って』
と。霊痕にも霊障の効果が及ぶことは『黒魔術教本』に記述されています。つまり被害者の霊痕によって、現場における事後工作は可能だということです。確かに霊障は呪殺、呪殺の隠匿に関連して全て発動、あるいは作用しなくてはならないという規約はありますが、現場の工作は『言いなりメール』だけで事足りると思うので、わざわざ走狗が現場に侵入して事後工作をしたと考えるのは早計である気がします。霊障を用いるにしても、別の補助的な部分で使う方がベターです。『言いなりメール』の存在を前提とするのならば」
松村さんは言った。
「なるほど。確かに」
伊藤さんは頷いて言った。
「ええ。
とはいえ伊藤さんの説が説得的なのも事実で、興味深いご指摘だと思っています。ただそれがミスリードである可能性も高い。伊藤さんも、その辺りは承知しているでしょうが」
松村さんはフォローするように言った。
「まあ」
伊藤さんが低く言った。
「それともう一つ」
松村さんが言った。
「ええ」
「伊藤さんは、誰が狛犬だと思っていますか。今のところ」
松村さんが言った。
「正直確信が持てません。
ですが。何となく、後藤さんかな、と思っています。何となくですが」
伊藤さんが厳かに言った。
「なるほど。承知しました。私からは以上です」
松村さんが言った。
「承知しました。他に誰か質問は」
伊藤さんが、周囲を見て言った。誰も手を挙げない。
「いらっしゃらないみたいですね」
私は言った。
「ええ」
伊藤さんが小さく頷く。
「では伊藤さん、お疲れ様でした。次は最後のお一人です。松村さん、よろしくお願いします」
私は言った。
「承知しました」
松村さんは得意そうに笑って言った。
松村葵の話
私は正直、みなさん「言いなりメール」に囚われすぎていると思っています。「言いなりメール」は、確かに来栖さんと鹿目さんが共同で検証して再現にも成功していますが、その効果が及んだのは鹿目さんだけです。つまり、鹿目さんが嘘をついている可能性もあります。鹿目さんは、走狗か狗神憑きであるということです。
私は、恐らく実際に犯行が行われたのも美術室ではないだろうと思っています。どこか別の場所で呪殺されて、そのあと現場に霊痕が運ばれたと思われます。その手段として用いられたのは「絵画世界」です。すなわち、どこか別の場所で狗神憑きに呪殺されたあとで「絵画世界」を使って呪殺された被害者の霊痕を美術室に運び込んだものと思います。探知能力によって走狗は霊痕の場所を特定し、その後「絵画世界」で、走狗は霊痕を現場へと運び込んだ。
呪殺するにあたって狗神憑きは、恐らく「ビッグ・シスター」を使ったと思います。手際良く犯行をなすには、ターゲットが個室に篭るタイミングを容易に伺うことができるのが望ましい。恐らく「ビッグ・シスター」を使って狗神憑きは被害者がトイレなんかに入るタイミングを見計らっていたと思います。もしかしたら、私も狙われていたかもしれません。生物学的性は男性ですが、普段個室を使うので。個室の方が、都合がよかったものと思います。共犯者である走狗に事後工作をさせるためです。それに、個室の扉越しに刺せば霊液を浴びずに済みます。こうして個室で呪殺された霊痕の在所を走狗は探知して、特定した。
しかし霊痕の場所を特定できたとして、ここで大きな障壁が立ち塞がります。それは「絵画世界」の発動要件です。後藤さんの情報を信頼するならば、その能力の発動要件として「裸にならなくてはいけない」というものがあります。しかし、現場にあった霊痕には服が着せられていました。だから、後から何らかの形で被害者に衣服が着せられたということになります。
けれども、この謎も解くのは簡単です。走狗はどこかで被害者を裸にして「絵画世界」へと放り込む。その後で走狗は早瀬さんの衣服を持って美術室へと向かう。そして美術室で被害者に衣服を着せて、鍵を閉める。その後で自分も裸になって絵画世界から脱出する。ここで、使われた可能性があるのは「透明人間」です。井上さんが共有してくださった。やはり職員室にある美術室の鍵を持ち出すところが誰にも目撃されていないのは不自然です。もし「言いなりメール」が使われており、鍵を持ち出したのが被害者ならば「呪殺されし者は、現世において客人以外の人間から存在を忘却される。また、書類などの其の人にまつわる物理的痕跡は客人以外には認識できない」という法則に従って忘れられたのだと解釈できます。しかし私の推理では「言いなりメール」は実現しなかった霊障だと捉えているのでその説は棄却されます。そうであるから「透明人間」を用いて、秘密裏に鍵を盗み出した可能性も検討できます。
しかし、私は別の可能性もあると考えています。「取り寄せ電話」という都市伝説を使ったのです。私はこの話を、友人の近藤優希さんから聞きました。彼女はあるとき、自宅に忘れ物をしたそうです。尿検査のサンプル。それで困ってしまって、親に電話をしようとしたそうなんです。しかし番号を間違えたらしくて。しかしかけた時にはそのことに気がつかなかったみたいで。呼び出し音が止んで「ガチャ」って音がして。「あ、通じた」って思ったそうです。
「お母さん。尿検査のやつ忘れちゃったわ」
近藤さんは言ったそうです。すると機械音声のような抑揚のない、まだ中学生くらいの女性の声で、こう聞こえたそうで。
「忘れ物は何ですか」
近藤さんはびっくりして、怖くなって。よくわからないけれど、慌てて受話器のボタンを押して通話を終えようとしたらしいんです。それでも、不思議なことに通話が終わらなかったらしくて。恐る恐るまた、スピーカーに耳を近づけたそうです。
「忘れ物は何ですか」
またあの女の人の声がしたそうです。
「えっと。尿検査の容器。家に忘れちゃいました。すみません。はい」
不安と恐怖で自棄になりながら、そう近藤さんは言ったそうです。
「かしこまりました。しばらく、お待ちください」
そう電話の向こうで声がして、通話は切れたそうです。それで、一応は安心して、ほっとため息をついて。
しかし驚くべきことが起こりました。手の中にあるスマートフォンの液晶から、封筒を持った手が浮かび上がってきたのです。そしてそれは、そのまま床に封筒を落としました。近藤さんは思わず悲鳴をあげて、ケータイと封筒を手の中から落としました。
「どうしたの」
隣の席に座っていた女の子が、近藤さんに声をかけたそうです。
「うん。今、ケータイから」
床に落ちたケータイを指差して近藤さんは言いました。
「ケータイがどうかしたの」
彼女は言いました。
「うん。中から、封筒が」
ケータイから現れた封筒を指で示して近藤さんは言いました。
「封筒。尿検査のじゃん。絶対忘れてくると思った。優希がそういうのを忘れないことって、ないし」
隣の席の子は笑って言いました。
「いや忘れたんだけど。ケータイから、封筒が飛び出してきたの。画面の中から」
近藤さんは、目の前で起こったことを必死に伝えようとしました。
「寝ぼけているの。大丈夫。いよいよ、本格的に壊れちゃったの」
彼女は笑って言いました。どうやら信じてもらえそうにないと、近藤さんは悟りました。普段からそそっかしいところのある自分の言うことだから、夢か何かだと思われているのだと。
近藤さんは、マイペースで粗忽な性格でした。尿検査のサンプルの件も、訝しく思いつつも、昼頃には忘れてどうでも良くなっていました。けれどもその後も、自宅に忘れ物の件で電話すると、時々あの謎の声の主に通じるそうです。そして、忘れ物を伝えると、スマートフォンの画面を通じてそれを届けてくれて。だから、近藤さんは便利だな、ありがたいなと思って、深く考えるのをやめたそうです。恐らく、日頃の行いが良い自分に対する神様のご褒美だろうと。
その「取り寄せ電話」には不便なところもあって。大きさの制限があるそうなんです。
「大きすぎるとダメみたい。上履きは、届けてくれなかったんだよね。体操着とかね。衣類はだめ」
近藤さんは言っていました。大きいものを注文してみると
「申し訳ございません。そちらの規格のお品物には対応しておりません」
って断られたそうです。スマートフォンの、液晶の画面よりも小さいものではないといけない。
恐らく、この霊障が犯行に利用されたのではないかと思っています。美術室から、鍵を持ち出す際に使われたのではないかと。ただ、衣服は無理ですからね。直接現場に運んで、霊痕に着せたと思います。そして、美術室の鍵を内側から閉めて「絵画世界」を使って、走狗は密室の外へ逃げた。
ここで、一つの疑問が残ります。走狗の服はどこへ消えたのか。皆さんに思い出してもらいたいことがあります。被害者の着ていたのは制服でした。体操服の上着には名前の刺繍が入っており、Tシャツの胸にも名前が書かれています。一方で制服には名前が書かれておらず、名札のバッジがついているだけです。つまり、制服は走狗のものと被害者のものとで、容易に交換が可能だという事です。だから、走狗は被害者の制服を着て美術室を訪れ、被害者にそれを着せて服を脱ぎ、現場から脱出した。そう考えるならば、走狗の衣服が現場で発見されなかったことの説明がつけられます。
しかし、そうだとすると走狗は生物学的性が女性でしかあり得ないと言うことになる。異性の制服を着ていたら目立って仕方がないですからね。わざわざそんなことをする必要がありません。だから、走狗は女性だろうと。井上さん、鹿目さん、後藤さんのうちの何かですね。ただ、鹿目さんは走狗ではないと思っています。鹿目さんは、早瀬さんとは身長差がありすぎます。百八十センチ近くありますからね。早瀬さんの制服を着ることは難しい。だから、井上さんか後藤さんの二人のうちのどちらかが走狗ではないかと。
ところで、私は鹿目さんが狗神憑きではないかと思っています。私の推測では「言いなりメール」は実現しなかった霊障であり。それを演じて見せた鹿目さんは走狗か狗神憑きであり、かつ鹿目さんは早瀬さんとの身長差を理由に、走狗とは考えづらい。また、伊藤さんの先ほどの推理もそれなりに説得的であると思います。狛犬が疑わしいと思っていたのが鹿目さんであり、その推論をひとまずは信頼してみせるという。私もこうした理由から、鹿目さんは狗神憑きであると思います。
そして、走狗は誰なのか。私は恐らく、井上さんではないかと思っています。さしたる根拠はないのですが、これまでの交霊会の討論の流れからすると、井上さんと後藤さんは対立しているような感じがしたので。尤も、その対立が演じられたものであったという可能性もありますがね。まあ走狗にしても狗神憑きにしても、これまでの情報からだけでは十分な特定の根拠が共有されたとは言い難いので、あくまで私の話も一つの仮説ですがね。
私からは以上です。
猫又のマタによる幕間
「何か質問がある人はいますか」
松村さんが周囲を見回して言った。
「あ。じゃあ、私からいいですか」
鹿目さんがおずおずと手を挙げて言った。
「どうぞ」
松村さんが言った。
「ええ。松村さんの推理では私は狗神憑きであって『言いなりメール』の霊障も実現しなかったということでした。しかし、仮に『言いなりメール』が実現しなかった霊障であって、私が嘘をついていたとしても、狗神憑きでも走狗でもない可能性があります。すなわち、私が狛犬であるという場合です。
狛犬は交霊会において語りが一巡するまで、正体を明かしてはならないという規約になっています。また、狛犬という役割を当てられたのであれば、自分の正体を隠して走狗や狗神憑きから身を守ることが客人全体の利益のために求められます。だから、私は狛犬であって、身を守るために『言いなりメール』の霊障の効果が及んでいるような演技をしていた可能性もあります。
さっき松村さんは『言いなりメール』の霊障が実現しなかったと仮定した時、私が走狗か狗神憑きでしかありえないような言い方だったので、少しモヤモヤしました」
鹿目さんは静かに言った。
「あー」
松村さんは宙を見上げながら言った。
「確かにそうですね。訂正します」
松村さんは言った。
「ええ。ただ、松村さんの推理も整合性はあると思うので、興味深く聞いていました。ちょっと具体的な根拠には乏しいですが」
鹿目さんは申し訳なさそうに言った。
「ええ」
松村さんは言った。
「ところで『取り寄せ電話』と加藤さんの過去について、何か関連に気がついたことはありますか」
鹿目さんが尋ねた。
「ええ。加藤さんは『ドラえもん』を好きでした。『取り寄せ電話』は『ドラえもん』に出てくる『とりよせバッグ』が影響していると思っています。『とりよせバッグ』は自分の望んだものを自由自在に取り出せるバッグですね。『取り寄せ電話』と良く似ているな、と」
松村さんが言った。
「なるほど。『ドラえもん』を加藤さんが好んでいたのには、何か理由があるのですか」
鹿目さんが言った。
「はい。私の母が加藤さんの一つ上の先輩にあたる学年だったのですけれど。彼女とは家が近かったりして、ある程度交流があったようで。母からの情報によると、加藤さんは『理解者』を求めていたみたいなんです。家庭の中に。
これまでも話題にされていたと思うんですけれど、機能不全家族で育つ中で加藤さんのうちには強い孤独感が育っていました。そんな加藤さんはドラえもんのような友達をずっと求めていたそうです。自分に寄り添ってくれて、困った時には手を差し伸べてくれる友達が欲しかったそうで」
松村さんが言った。
「なるほど」
鹿目さんが言った。
「ええ。それに加えて、加藤さんは、忘れ物が多かった。ちょっと普通じゃないくらい。多分、加藤さんには注意障害があったか、あるいはストレスで認知機能が低下していたかと思います。そのことが『取り寄せ電話』の霊障に関わっているかと。
忘れ物が多かったことに関連して加藤さんは井上陽水『夢の中へ』を好きでしたよね。その曲の歌詞に『探しものは何ですか』とあります。恐らくそれも『取り寄せ電話』の霊障に関わっているのではないかと。『取り寄せ電話』でも、電話の主から
『忘れ物は何ですか』
と尋ねられるそうなので。
そんな感じですね。狗神の過去と霊障の関連について思い当たることは」
松村さんが言った。
「なるほど。ありがとうございます。私からは以上です」
鹿目さんは、ペコリと頭を下げて言った。
「承知しました。他に誰かいますか」
松村さんは周囲を見回して言った。
「じゃあ、はい」
井上さんが手を挙げて言った。
「どうぞ」
松村さんが言った。
「うん。美術室の鍵を持ち出すのに『取り寄せ電話』という可能性があったと知って、なるほどな、と思った。今まで出てきた話を総合するに、いくつかの可能性があったってことになるよね。誰も美術室の鍵を持ち出した人間を見ていないという状況の理由に。『言いなりメール』で被害者が持ち出したか『透明人間』か『取り寄せ電話』が使われたか。あるいは早瀬さんが自分の意思で持ち出したか。
なんかね。どれが正解なのかも、分からない。証拠がまだ少な過ぎる。この後で狛犬からの発表を待って、霊障の詳細な情報の共有を待つ感じかな。
それで、松村としては『取り寄せ電話』が使われたことを示す根拠を持っているのかな。鍵を持ち出す方法として」
井上さんが言った。
「いえ。決定的な根拠は、やはりないです。ただ、注意しておきたいと思うことはいくつか」
松村さんが言った。
「何」
井上さんが言った。
「ええ。『透明人間』の効果は恐らくは当人に及ぶのであろう一方で『取り寄せ電話』の効果は物体に及ぶであろうということ。これはつまり『透明人間』は、狗神憑きは利用できないけれど『取り寄せ電話』なら使えるということです。だから『取り寄せ電話』が使われた場合、鍵を持ち出したのは狗神憑きである可能性があります。
それともう一つ。井上さんがおっしゃっていた『透明人間』の特性は気になっています。鏡には『透明人間』の効果を受けている人間も映るというもの。『鏡』というモチーフは、これまでの話でも現れてきたように、加藤さんにとって重要なものであったと思います。個人的には美術室手前にある大鏡が霊障に関わっているような気がします。
まあ、そんなところですね」
松村さんが得意そうに言った。
「そっか。やっぱり確たる根拠はないってことね。了解」
井上さんが素っ気なく言って、松村さんは出鼻を挫かれたような表情をした。
「えっと。他に誰か質問は」
松村さんが周りを見回して言った。誰も手を挙げない。
「いらっしゃらないみたいですね」
私は言った。
「松村さん、ありがとうございます。これで語り部は一巡しましたね」
私はみんなに言った。少し空気の緊張のほぐれるのが伝わってくる。
「みなさん、ひとまずはお疲れ様でした。ここで一旦休憩になります。しかしその前に、交霊会の規則に従ってするべきことがあります。
まず一つ目。この中で自分が狛犬だという人は、手を挙げて正体を明かしてください」
私は周囲を見回して言った。二つ手が挙がる。後藤さんと鹿目さん。
「承知しました。休憩の後は、まずお二人の話を伺うところから始まるかな、と思います。二人とも、よろしくお願いします。
そして二つ目、私はこれからみなさんの討論を受けて必要だと感じたことを任意で調査しますが、みなさんの方から調査依頼がありましたら、記名の上で提出してください。よろしくお願いします」
私は言った。一同がコクリと頷く。
「私たちには時間的な制約が大きく課されています。規約に従い、交霊会は呪殺がなされてから一時間以内に開かないといけない。だから最初の調査は不十分なものでした。でも、今度は徹底的な結界内部の調査を行います。つまりは校内全域の」
私はみんなに言った。
「頼みますよ、猫又さん」
荻野さんが笑って言った。私は頷く。
「それからもう一つ、伝えておきたいと思うことがあります」
私は言った。
「みなさんよく頑張ってくださって、立派だと思います。ここでみなさんが共有する推論というのは、全員の協業のなかで相対的な客観性を獲得していくものです。みなさん、お互いの意見を尊重しつつ必要な批判を述べる作業を頑張ってくださっていると感じて、とても誇らしく思います。
この交霊会には、探偵小説のように絶対的な探偵が一人、存在するわけではありません。ここにいるみなさんは対等です。みなさんは交霊会の手続きの中で客観的な事実を手探りで掴んでいくことになります。みんなは全員で一人の探偵なのだと思います。誰が欠けても適切な推理は成り立たないのです。そのことをどうか、忘れないでください
よく頑張ってくださっていると思います。ただ、改善すべきところがないわけではないかもな、と。休憩の後もみなさんの頑張りに期待しています。よろしくお願いいたします」
私はみんなに向かって言った。一同、頷く。
「長くなってしまいました。ごめんなさいね。
それではみなさん、私に調査して欲しい事柄を紙に記入の上で提出してください」
私は言った。
猫又のマタの独り言
交霊会の語り部が一巡したので、私は「部屋」を出て現世に戻り、結界内部の調査に向かう。みんな以前よりもずっと頼もしくなったものだと、しみじみ思う。このメンバーで交霊会を開くのも、今回で五回目だったろうか。
一九九九年九月九日、三橋中学校の生徒が犠牲になった海難事故の後で、私は生まれた。私の魂は、いなくなった生徒の霊が集まって形作られたものだから、その記憶も受け継いでいる。みんなと交霊会をしていると、無性に懐かしいような、切ないような気持ちに囚われる。交霊会の議長に私が選ばれたのも、運命なのだと思う。
来栖さんたち八人は、あの海難事故がきっかけで生まれた「大神」によって、客人として指名された。「大神」は、狗神が群れよって生まれる強大な霊だ。大きな事故の後には生まれることが多い。三橋中学校に取り憑いている大神にしてもそうだ。あの事故でいなくなった生徒たちの霊から、大神が生まれた。今も救いを求めて、この校舎に取り憑いている。冷たい海の底から救いを求めて、客人を交霊会に招いている。
来栖さんたち八人が客人に指名されたのは、彼らが強い霊感を持ち、いなくなった生徒との繋がりを持っているのが一つの理由だろう。彼らの家族は、海難事故に遭った生徒と繋がりがあって、その縁で客人に選ばれたのだ。
けれども多分、それだけではない。八人が誰よりも優しいから、大神は来栖さんたちに助けを求めているのだと思う。来栖さんたちなら、きっと自分たちを助けてくれるだろうと、そう信じて。
「それは、辛かっただろうね」
以前、交霊会で来栖さんが言ったのを覚えている。狗神の過去に共感し、涙を流してくれていた。私と大神は、同じ日に生まれたきょうだいのようなものだ。だから自分のために泣いてくれる存在が、どれだけ嬉しかったか、よくわかる。暗くて冷たい海の底で、どれだけ温かな光を求めていたのか、よく分かる。
「私はみんなを信じて、全力で戦いをサポートします。だからどうか、皆さんも私を信じてください」
彼らと初めて出会って、八人が背負うことになった十字架について彼らに伝えた。あの時、来栖さんたちは真っ直ぐ私を見つめて、頷いてくれた。彼らの瞳には恐怖と不安の色が滲んでいた。けれどもそれよりも強く、覚悟と意志が現れていた。
「目の前で猫が喋り出して、なんだか正直よくわからないけれど、僕は猫又さんのことを信じます。嘘はついていない、悪い人じゃないって、なんとなく伝わるので」
来栖さんは、私にそんな風に言ってくれた。それが、私はとても嬉しかった。
「猫又さんは雰囲気的に、僕たちを騙そうとしているわけじゃないだろうなって、わかるので。僕たちにかけられた呪いを正直に伝えて、乗り越える手助けをしようとしてくれているのは本当なんだろうなって、そんな感じがするので」
来栖さんは笑ってそう言ってくれた。
「ありがとうございます。
一緒に戦いましょう、みなさん」
私は思わず、みんなにそう伝えた。八人とは、知り合ってまだ間もないけれど、もうずっと前から知り合いだった気持ちがする。私があの海難事故をきっかけに生まれた霊だから、いなくなった彼らと繋がりの深い来栖さんたちに愛着を覚えるのかもしれない。八人のことを、とても愛おしく思う。
「なんかちょっと怖いけど、ドキドキもするっていうか。面白そうかも。私も頑張ってみます」
後藤春香さんがそんな風に言ってくれたのを思い出す。後藤さんはちょっと独特な雰囲気がする女性だ。掴みどころのないような性格の中に、繊細な部分があるのを感じる。
「よくわからんけど、頑張るよ。よろしくね、猫ちゃん」
井上里香さんが言ってくれたのを覚えている。井上さんは飾り気がないけれど、心根が優しくて正直な性格の人だ。
「私にできることがあれば、頑張ります。怖いですけど」
鹿目さんが言ってくれたのを思い出す。鹿目さんは控えめで大人しい性格ではあるけれど、誰よりも真っ直ぐな部分を中に秘めている。
「うん。了解です。俺も頑張りますよ。一緒に頑張りましょう」
荻野さんがそう言ってくれたのを覚えている。荻野さんは朗らかで優しくて、いつも軽口や冗談で場を和ませてくれる。
「承知しました。まあ頑張りますよ」
伊藤さんが言ってくれたのを覚えている。伊藤さんは冷たい雰囲気があるけれど、その内に温かい心がいるのを知っている。
「了解です。任せてくださいよ、僕たちに。なんとかしてみせますから」
松村さんが言ってくれたのを思い出す。松村さんはちょっと自信過剰だけれど、ドジで愛嬌がある人だ。大変な努力家でもある。
「おう。俺たちに任せておけよ。大丈夫だから」
早瀬さんが言ってくれたのを覚えている。早瀬さんは剽軽で元気な人だ。陰鬱な交霊会を温かな空気で満たしてくれる。今回は呪殺されてしまったから交霊会には参加できないけれど、みんなは早瀬さんを助けるため、今回も命がけで戦ってくれている。
「早瀬さんがいない交霊会って、寂しくてしんどいです、僕。あの人、ムードメーカーだから」
先ほどの共同調査の時、来栖さんが小さく笑って言っていた。彼の目は、赤く潤んでいた。
「そうだよね。もちろん、誰が欠けても寂しいけれども」
私は彼にそう言った。
「ですよね。やっぱり、辛いなあ。みんなとももう、会えなくなるかもしれないし」
潤んだ目を擦りながら、来栖さんは言っていた。
「そうだよね」
私は、何と答えたら良いか分からなかった。大神は私の半身だ。大神の罪は私の責任でもある。どんな言葉をかけてあげたらいいのか、どんな言葉なら口にする資格があるのか、いつも私は戸惑わずにはいられない。
「すみません、弱音吐いちゃって。困りますよね」
来栖さんは言ってくれた。
「いえ、全然。話してくださって、むしろ嬉しいですよ」
私は言った。
「ありがとうございます。頑張りましょうね」
来栖さんはそう、笑って言ってくれた。そう、頑張らなくては。交霊会が再開するまで、調査を精一杯やろう。私にできることを、やるべきことをやらなくちゃ。
2
猫又のマタによる中間報告
「
※猫又には事情聴取する能力がないことに留意すること。
校内のトイレ、更衣室などの調査
・松村、後藤が依頼。
・実習棟一階、南側の女子トイレにて、一番手前の個室に被害者の霊液の滴る痕跡があり。ここが真の犯行現場であった可能性も高い。床を伝って個室の外へも霊液は滴るが、個室の外へと霊痕が引きずられたような痕跡はない。水道の蛇口には被害者のものと思しき霊液が付着している。
・トイレの個室で、霊具として機能していた弓矢を発見。
・その他屋上も含めて、人目を避けやすい個室を調査するも目立った痕跡はない。
・トイレにはラベンダーの香りの消臭剤があった。
衣服の調査
・客人の匂いを頼りに校舎を調査するも、霊液を浴びた衣服は発見できず。
校内のラベンダーの調査
・来栖、井上、鹿目の依頼。
・校内の複数の教室にはラベンダーが生けてあることを確認。ラベンダーは校舎の庭から採取されたもの。
・ラベンダーが生けられたのはここ数日の間と推定される。
・校内のいくつかのトイレに、ラベンダーの消臭剤を確認。
美術室手前廊下にある大鏡周辺の調査
・松村、荻野の依頼。
・周辺には霊液、血液などの痕跡なし。
後藤春香と早瀬桐花のメッセージ履歴
・メッセージの履歴から、二人が共同して美術室の調査をしていたことを確認。
・先に調査を提案したのは早瀬
霊具について
・霊具となっていた弓矢を発見。実習棟一階、南側女子トイレ。
・矢の長さは一メートルほど。
・矢には霊液が付着。羽の近くに、指と掌のような形の霊液の痕が残っている。誰が残したものであるか特定は困難だが、大きさからして伊藤、荻野とは一致しないと考えられる。矢尻の側には霊液の跡はない。
・矢は弓道部の部室から持ち出されたものか。
・客人には弓道部の関係者は存在しない。
・弓矢は細心の注意を払って、厳重な管理がなされている模様。
・弓道部の部室に張り紙を確認。「二〇二二年七月二日(金)より、弓道部で管理している弓矢一本が紛失している。心当たりのあるものは直ちに名乗り出ること。また、それと思われる弓矢を発見した者は直ちに顧問まで報告すること」とあり。
マタの霊感による判断
・共有された七つの情報はいずれも実現した霊障か実現しなかった霊障であり、単なる生徒の勘違いや見間違いを元に構成された都市伝説が混入していると思しき形跡はなし。
・各々の霊障の制約や効果について、詳細は分からず。しかし、大筋としてはどれも本来の霊障の説明から遠く隔たったものではないと判断する。
・どれが実現したもので、どれがそうでないものかは不明。
」
猫又のマタによる幕間
「では狛犬だというお二人から、まずお話を伺いたいと思います」
私はみんなに向かって言った。一同はコクリと頷く。教室を模した「部屋」に、紅い月光が差し込んでくる。さながら、夕暮れの教室のようだ。
「鹿目さん、あなたが知っている実現した霊障の情報をここで共有してください」
私は鹿目さんに向かって言った。
「はい」
鹿目さんは小さく言った。
「『言いなりメール』と『人取り鏡』です。それについて説明します。
まず『言いなりメール』について。『言いなりメール』の本当の発動要件は『昇降口で「お願いだから?して」というメールを受け取ること』ではありません。そうではなく『ラベンダーの香りを知覚しながら「お願いだから?して」という文面のメールを目にすること』です。昇降口はそれが可能な場所の一つに過ぎません。
来栖さんと実験をした時、私は自分に霊障が及んだ演技をしていました。これは自分が狛犬であることを隠匿しつつ、来栖さんの正体を探るためでした。しかし来栖さんには霊障の効果が及ばなかった。私はそのために来栖さんを疑いの目で見ていました。私自身が狛犬であり、目の前にはラベンダーの香りがする場所でメールを受け取っても『言いなりメール』の効果が及ばない人がいる。私が来栖さんを狗神憑きだと考える根拠は十分にありました。
ただ今ではもう、その理由に何となく検討がついています」
鹿目さんは、来栖さんの方を見て言った。
「風邪、ですかね」
鼻声で来栖さんが言った。
「ええ。『言いなりメール』の実験をしたときにはわからなかったけれど、あの時から風邪気味なんですね」
鹿目さんが言った。
「僕は風邪をひくといつも、鼻から最初に症状が出るんです。鼻が詰まってしまう。あの時も、全然匂いがわかりませんでした。でも、くしゃみとか咳は、そんなに出るわけではないんですけれどね。傍目には風邪だと分かり難かったと思います」
来栖さんは言った。
「そうだったんですね」
鹿目さんが体調を慮るような表情で言った。
「うん。昇降口からラベンダーの咲く花壇が見えていたのが記憶の底に引っかかっていて、それと現場で見つかったラベンダーがリンクしました。だから校内にあるラベンダーについての調査を猫又さんに頼んだんです」
来栖さんが私の方を見て言った。私は頷く。
「そうですね。校内にあるラベンダーは来栖さんと鹿目さんからの依頼で調べて、調査書で共有しておきました」
私は言った。
「えっと。それからこのラベンダーの香りについて。ラベンダーの香りというのは、別にラベンダーの花から薫るものでなくてもいいんです。香水とか、消臭剤とか、そういうのでも。『ラベンダーの香り』だと感じられる香りを知覚、認識していれば、それでいいのです。
でも、私たちが実験したときはラベンダーの消臭剤は置いてなかったと思います」
鹿目さんが来栖さんの方を見て言った。
「どうだろう」
来栖さんが言った。
「僕は覚えてないです。ごめん」
来栖さんが困ったように笑って言った。
「いえいえ。
それと二つ目。『言いなりメール』の効果が及ぶ時間について。『言いなりメール』の効果はもちろん、対象に永続的に及ぶものではありません。効果が及ぶのは、せいぜい十五分くらいの間です。十五分経ったら、仮に命令を実現できていなかったとしても、霊障の効果は解けます。また命令を実行したなら、直ちに霊障の効果は解けます。けれども意識を取り戻すのには、十分くらい時間がかかります。
三つ目。この霊障の発動の要件に関わっているのは、あくまでも『「お願いだから?して」という文面のメールを目にすること』であって『受け取ること』ではないんです。つまるところ、他人の端末に送られたメールを目にするのでもいいんです。なんなら、自分の端末にある、過去に自分が誰かに送ったメールを目にするのでもいい。ともかく、ディスプレイに映ったメールを目にすることが発動の要件です。
四つ目。『言いなりメール』の霊障が解けた後、強烈な倦怠感と筋肉痛に襲われます。しばらくはまともに動くこともままなりません。来栖さんがお話してくださった話にもありましたよね。これは気合でもどうにもなる感じではないです。
「そして、もう一つの霊障は『人取り鏡』です。これは先ほどみなさんにお伝えした通りの発動要件と効果を持ちます。すなわち『美術室手前の廊下の大鏡の前に立つと、その姿を写真でしか認識できなくなる』というものです。この霊障の発動条件を満たすのは後藤さんと、それから早瀬さんだけです。
細かい条件もあるので、補足しておきます。まず一つ目。身長が百六十五センチ未満でなくてはいけないという点。これを満たさない場合、あの夢の世界の室には入ることができません。大きすぎてはだめ。
二つ目。身長の高さには、靴の丈や髪の厚みも含まれます。早瀬さんは現場で靴を履いていませんでした。これはもしかすると『人取り鏡』の発動要件と関連があるのかもしれません。上履きを履いている状態では、早瀬さんは『人取り鏡』の霊障の発動要件を満たせなかったと思います。
三つ目。父子家庭もしくは母子家庭であること。これはさっきも言いましたね。加藤さんと家庭環境が似ていることが必要なのではないかと。それがあの夢を共有するための条件なのではないでしょうか。
四つ目。これは重要なポイントなのですが、この霊障は狛犬と狗神憑きには及ばないんです。効果が及ばない、というのは姿が見えなくなることがないというだけではなく、姿が見えなくなっている人間であっても、狛犬と狗神憑きは普通に認識することができます。だからこれは『姿が見えなくなる』霊障というよりは『周囲の者に、対象を認識できなくする幻覚を生じさせる』霊障であるのかもしれません。効果の対象を、姿が見えなくなっている人物だけではなく、その周囲の人間にも取っている。
五つ目。走狗であっても、それが被害者の霊痕であれば問題なく対象を認識できるであろうということです。知っての通り、走狗には霊痕の探知能力があります。それを駆使すれば、この霊障で姿が認識できなくなっている人間の位置を把握するのは容易で、目視しているのとほとんど変わりません。走狗の探知能力は、この霊障の影響を受けないのです。
六つ目。『人取り鏡』で見えなくなる人間は一人だけです。いなくなるのは一人だけ。あの夢の部屋に入れるのは、一度に一人、っていうことですね。
七つ目。『人取り鏡』の霊障の効果が及ぶ時間について。これも、効果が及ぶのはせいぜい十五分の間です。『十五』っていう数字に何か意味があるのかは、私にはよくわからないですね。
狛犬である私からお伝えしなくてはならないのはそんなところですね」
ペコリと頭を下げて鹿目さんが言った。
「一つ、いいですか」
伊藤さんが手を挙げて言った。
「なんですか」
鹿目さんは言った。
「なぜ来栖さんと霊障について調べるとき、来栖さんの体調のことを尋ねなかったのですか」
伊藤さんが鋭く言った。
「うーん。特に相手が体調の悪そうな素振りをしているのでなければ、相手は嗅覚が正常に機能していると判断するのは、普通だと思いますけれど」
困ったような表情で、小さく鹿目さんが言った。
「なるほど。それから、もう一つ」
伊藤さんが言った。
「なんですか」
「『言いなりメール』の霊障が及んでいた件については演技ということでした。その演技は適切でしたか。つまり、霊障の効果について誤解を与える可能性はありませんか」
伊藤さんが言った。
「適切、だったと思います、多分。霊障の効果が及んでいる人は普通ではないと、様子から察することができる感じではあります」
鹿目さんが自信なさそうに言った。
「来栖さんはどう感じましたか」
伊藤さんが尋ねた。
「そうですね。特に今の説明を聞いて、違和感はなかったと思います。多分」
来栖さんは言った。
「承知しました。これは恐らく全員が確認しておきたいことだと思うので、一応」
伊藤さんが言った。
「了解です。えっと。私からは以上なので。後藤さん、お願いします」
鹿目さんが後藤さんを見て言った。
「はい。
私が真実だと知っている霊障は『絵画世界』と『他人の体』です。まず、鹿目さんから私に向けられた疑いについて答えます。鹿目さん曰く『後藤春香が狛犬であるならば、知っているはずの「絵画世界」の霊障に関して実験をしていないから真実性がよくわからないと答えたことはおかしい』とのことでした。狛犬は自身の正体を証明し討論会での混乱を防ぐため、一巡目の討論では確実に知っている霊障について語るのがセオリーです。ですから、私は『絵画世界』の話を共有しました。しかし、それについて語りつつも、自分の正体を隠すため、一部のディテールを話せずにもいました。
それに加えて、荻野さんから『実験をして試しましたか』と尋ねられたとき、私は面食らいました。なぜなら『実験をして試しましたか』という問いに正直に答えればノーになってしまうし、しかし『試していないけれども狛犬だから知っている』と答えることもできません。また『試したから知っている』と嘘をつくことでも、無用な推論の混乱を招く可能性があったと思います。だから、あのとき私は咄嗟に『実験をしていないからよくわからない』と答えました。これは狛犬である事実を隠匿する目的があったのであるから、規約に違反するとは言えないと思います」
後藤さんは言った。
「そうですね」
私は口を挟んだ。
「その主張はもっともだと思います。後藤さんの『実験をしていないからわからない』という発言を規約に対する違反と見るのは無理かもしれないな、とは思います。自身の正体を隠すという目的に合致する嘘ですからね」
私は言った。
「なるほど」
小さく鹿目さんが言った。
「ええと。猫又さん、ありがとうございます」
後藤さんが言った。
「では、次は二つの霊障の詳細についてです。
『絵画世界』の効果と発動要件は、ほぼ先ほどお伝えした通りです。しかし、いくつか説明を省略してしまったディテールがあるので、それも含めてお伝えします。『絵画世界』の効果は『美術室にある絵画の写真をケータイのカメラで撮影すると、端末と撮影された絵画の間に通路ができる』というものです。これに付随して、いくつか詳細な条件があります。
まず一つ目。道が拓けるためには、一枚の写真だけが大写しになっていないといけません。複数の絵画が写っている写真は、道を作るために不適切なのです。
二つ目。道が重複した場合についてです。同一の絵画を大写しにした端末が二つ以上あるとき、一つの絵画から転移できる場所が複数生じることになります。このようなとき、後から撮影された写真を有する端末が優先され、先に撮った方の端末は通路としての力を失効します。また、そのような写真を他の端末に転送したところで、相手方の端末は通路としての力を得ません。
三つ目。写真はローカルの端末に保存されていなくてはいけません。例えば端末の画像をドライブにアップロードして、端末内からは画像のデータを消してしまったときには、その端末は道としての効力を失います。
四つ目。作られた道は、基本的に誰でも通ることができます。ただし、狗神憑きと狛犬は除きます。端末と絵画の間につくられた道を通ることができるのは、その写真の撮影者には限られず、それ以外の誰でも通ることができます。
五つ目。通路を通るときには衣服を身につけていてはいけないし、何かを持っていてもいけません。裸でなくてはいけないのです。最初からお伝えしてありますね。これは特に重要な情報だと思って一巡目でもお伝えしたのですけれど、細かい条件とかは狛犬であることを隠すためにちょっと端折っていました。何かを体に貼っていたりしてもダメです。湿布とか。そういうのもダメです。あったら引っかかってしまって、通路を通れません。
「次は『他人の体』です。『他人の体』の効果は『異性の写真と目があったとき、自分がその人物とそっくりの肉体を得る』というものです。これにもいろいろと細かな発動要件があります。
一つ目。写真は一人の人物が写っているのでなくてはいけない。他の人物が写っていたら、それは霊障を発動させるためには不適切です。『絵画世界』とも、ちょっと似ていますけれど。
二つ目は、写真に写っている人物と自分が、これまで三回以上同じクラスになっていることです。小学時代から含めて、これまでその人物と三度以上、一緒のクラスで過ごしていないといけないのです。例えば私の場合だと、客人の中でこの条件を満たすのは松村さんだけですね。
三つ目。写真に写っているのは異性でなくてはいけないということです。同性であってはいけません。そう言えば、これは先ほど鹿目さんがその可能性を示唆してくれていましたっけ。どういう思惑があったのかは分からないのですけれど。それで、たとえば早瀬さんに変身できるのは、多分男性陣の全員になりますよね。来栖さん、松村さん、伊藤さん、荻野さん。全員、三つの条件を満たすはずです。
四つ目は、頭から水を被ると霊障の効果は解除される、というものです。ここで、水の量というのは特に厳格に定められているわけではありません。けれど、あまり少なすぎるのはダメです。スプーン一杯分ぐらいの水を被っても効果は消えません。コップいっぱい分ぐらいの水はないとダメみたいです。それと、水というけれどお湯でも構いません。温度は関係ないです。もっというなら液体ならなんでもいいんです。ジュースでもなんでも。
五つ目。四つ目と関連するんですけれど、体が濡れていては駄目です。濡れているというのは、髪と衣服がびしょびしょに濡れているような状態。傍から見ても濡れているのがはっきりとわかるような状態。そういうときには『他人の体』は発動しません。
そんな感じですかね」
後藤さんが言った。
「なるほど。ありがとうございます」
私は言った。
「一つ、質問してもいいですか」
松村さんが言った。
「ええ」
後藤さんが言った。
「『絵画世界』についてですが。この霊障で作られた通路を通るとき、体が濡れた状態というのは保たれるのですか」
松村さんが言った。
「はい。そうです。それは保たれます」
後藤さんが頷いて言った。
「なるほど。ありがとうございます。それともう一つ」
松村さんが言った。
「伊藤さんの推理についてです。鹿目さんの目撃した不審な人影。それが狛犬であったのではないかという推測。それは正しかったですか」
松村さんが言った。
「はい。その通りです。それに関しては、伊藤さんの推理が当たっていました。鹿目さんを、私が疑わしいと思っていたことも。狛犬であることを隠すために、その事実を伏せていたということも」
後藤さんが言った。
「なるほど。なぜその人影が自分だと明かすことが、正体を明かすことに繋がると考えたのですか」
松村さんが尋ねた。
「ええ。
それについては最初、隠すつもりではなかったんです。交霊会で話そうと思っていました。ただ、それが難しくなってしまったんです。来栖さんから最初に提供された情報によって」
後藤さんは来栖さんを見遣って言った。
「『言いなりメール』のことでしょうか」
来栖さんが言った。
「そうです。
実は私、美術室に向かったのには直接の理由があったんです。それが早瀬さんからのメールでした。『お願いだから、今すぐ美術室に来て』という内容の」
後藤さんが言った。
「なるほど。それは何時頃ですか」
松村さんが言った。
「四時四十三分ですね。端末のアプリに記録が残っています」
後藤さんは、自分のスマートフォンでメッセージアプリを開いて周囲に示した。
「お願いだから、今すぐ美術室に来て」
早瀬さんからのメッセージが確かにそうある。四時四十三分。
「なるほど。確かに。しかし、ちょっと時間的な開きがありますよね。鹿目さんが人影を発見したのが四十九分。結構ゆっくり現場へ向かったことになります」
松村さんが言った。
「まあ、罠かもしれないですし、いろいろ考えるべきことがあったので。私は狛犬です。狛犬が呪殺されることは、客人全体の不利益につながりますからね」
後藤さんが言った。
「そうですよね」
松村さんが言った。
「はい。この情報を共有することは自分の正体を明かすことにつながってしまうかもしれないと思いました。だって、来栖さんの話では『お願いだから?して』という文章を受け取ったら、その指示に従わされてしまう、ということでした。しかし、私にはその霊障の効果が及ばなかった。
来栖さんの話では昇降口で受け取った場合に限るかもしれないという可能性が示唆されていましたが、私がメールを開いたのは昇降口でした。だからこの事実をありのまま伝えつつ、自分の正体を隠すのは困難だと悟りました。また、半端に嘘を交えても霊障について誤った推論をもたらし、議論を混乱させる可能性がある。
だからひとまず私は、鹿目さんに目撃された人影が私であったことを隠すことにしました。それがベストだったのかどうかは分かりませんが、規約に違反するものではないと思います」
後藤さんが言った。
「なるほど。そうだったんですね」
松村さんが言った。
「ええ。ただこれは、ブラフなのかなと」
後藤さんが神妙な面持ちで言った。
「ブラフ、ですか」
松村さんが言った。
「あのメールが早瀬さんから送られてきたとは、正直考えづらいです。規約に従って『絵画世界』が犯行に関連して発動されたのなら、狗神憑きに呪殺された後、走狗が探知能力で霊痕を探知して事後工作を行ったことになります。私がメールを受けてから美術室についたのは、ほんの数分の間のことでした。そんな短時間で犯行が行われたと考えるのは困難だと思います。
加えて、そもそも美術室へ呼び出すために『言いなりメール』を使う必要も、どこにもないと思うんです。ただ単に『美術室に来て』と、送ればいいだけのことで。何か、意図があったんだと思いますね。『言いなりメール』を送ったことに」
後藤さんが言った。
「尤もですね」
松村さんが制服のボタンを摘みながら言った。
「ええ」
後藤さんが頷いて言った。
「そもそも文章の感じが、早瀬っぽくないよね。誤字がない。でも、短文だからそういうこともあるのかなあ」
井上さんが何かに思い至って言った。
「そういえば。確か、乱視がひどいから音声入力を使っているとかでしたっけ」
後藤さんが言った。
「そうそう。あいつ乱視なの。レーシックを検討しているくらい。いろいろ大変なのよね、早瀬も。いつも音声入力を使っているわけよ。そっちの方が楽だから。だからまあ、誤字も多い。それにあいつ、何か用があるときは基本的に電話で済ませようとするでしょ。
ただ、人の顔を間違えるとかはないよね。文字はピントが合わないときあってしんどいらしい。アイコンを間違えて連絡してくることもないでしょ。うちのばあちゃんもそんな感じ。顔を間違えられるとかはない」
井上さんが言った。
「なるほど」
後藤さんが言った。
「ところで。鹿目さんを疑わしいと思っていたことにも、何か理由があるのですか」
松村さんが尋ねた。
「まあ、一応。
そんなに確たる根拠があったわけではないんです。以前に美術室で、鹿目さんと入れ違いになったことがあって」
後藤さんが言った。
「入れ違い」
松村さんが言った。
「ええ。私は『絵画世界』の存在が真実だと知っていました。だから当然、美術室の周辺を見回りしていたわけです。あるとき美術室を調査していて、鍵を職員室へ返そうとしていたとき、鹿目さんと入れ違いになりました。美術室の鍵を閉めていたところ、彼女に後ろから声をかけられたんです」
後藤さんが鹿目さんを見て言った。
「ええ」
鹿目さんが控えめに言った。
「確かにそうでしたね」
鹿目さんが言った。
「はい。そのときに私は訊いたんです、鹿目さんに。
『もしかして「絵画世界」の検証ですか』
と。必要なら彼女に鍵を渡そうと思ったので。すると鹿目さんは
『はい。そうです』
と言ったんです。
『後藤さんもそうですか』
鹿目さんは私に訊き返しました。
『ええ』
私は思わずそう答えました。でもこのとき、私の発言は不自然だったと思います。鹿目さんから見て」
後藤さんが言った。
「なるほど。『検証ですか』と訊いたんですね」
松村さんが言った。
「はい。『絵画世界』の都市伝説は『裸にならなくてはいけない』という条件が広く伝えられています。また『絵画世界』の効果は『美術室の中へと転移する』というものです。だから『検証する』のに適した方法は一つです」
後藤さんが言った。
「鍵を職員室から持ち出して美術室への侵入を防いだ上で実験を試みる、ということですか」
松村さんが得意そうに言った。
「そうです。
でも私はそうしていなかった。美術室から出てきたところを、彼女に見られたわけです。そのとき、彼女は思ったのではないかと。
『後藤春香は嘘をついている。「絵画世界」の検証などしていない。ひょっとすると「絵画世界」の検証ができない狛犬なのではないか』
と」
後藤さんが言った。
「なるほど」
松村さんが言った。
「ええ。私はそのことが引っかかっていました。だからメールで呼び出された時にも、まず鹿目さんが頭に浮かんだのでした。私をマークしている人物として。だから窓越しに鹿目さんがこちらへ向かってくるのが見えた時、私はとっさに身を隠すことにしました。そして、隠れて彼女の様子を伺っていたんです」
後藤さんが言った。
「なるほど」
松村さんが言った。
「うーん。考えすぎではないですか」
小さく鹿目さんが言った。
「あんなのちょっとした世間話ですからね。大して気に留めていなかったです。それと仮に私が狗神憑きであり、それをもって私が鹿目さんを狛犬だと確信していたのだとしたら、おかしい部分がありませんか」
鹿目さんが言った。
「そうですね。
もしそうなら、呪殺のターゲットは後藤さんになっていたはずだとは思います」
松村さんが控えめに言った。
「ええ。だから、確たる根拠があるわけではないと最初にお伝えした通りです。なんとなく、鹿目さんを疑わしいと思っていて、だから彼女を見つけて咄嗟に身を隠した、という感じですね」
後藤さんが言った。
「なるほど。承知しました」
松村さんが言った。
「さて。一応みなさんと確認しておきたいことがあります」
松村さんがみんなに向き直って言った。
「狛犬の正体が明かされたところで、二通りの可能性があります。すなわち、どちらかが本物の狛犬である場合と、両方が偽物の狛犬である場合。両方が偽物であるというのは、片方が狗神憑きで、もう片方が走狗である場合です。このとき、呪殺された早瀬さんが狛犬だったということになります。逆に言えば早瀬さんが狛犬でないのなら、二人が偽物の狛犬であるという可能性は否定されます」
松村さんが得意そうに言った。
「そうですね」
私は言った。
「これ以降は『狛犬であることを隠すために嘘をついている』という可能性は否定されます。だから、嘘をついていることが明らかになったら、その人物は偽物の狛犬であると判定できます。あるいは、議論を混乱させるようなあからさまに不合理な推論を提供している時とかも、同様です」
私は言った。
「ありがとうございます。ここで、客人全体の意見を確認しておきましょう」
松村さんが言った。松村さんは控えめな客人が多い中で、率先して仕切ろうとしてくれるので、結構助かる。まとめ役が好きなようだ。松村さんは独特の愛嬌があるので、積極的に仕切っても、案外角がたたない。
「まず、鹿目さんが狛犬だと思う方。挙手を」
松村さんが周囲を見回して言った。来栖さん、荻野さんが手を挙げる。
「承知しました。では、後藤さんが狛犬だと思う人。手を挙げてください」
松村さんが言った。井上さん、伊藤さん、松村さんが手を上げる。
「なるほど。ありがとうございます。ふーむ。まあ、意見は割れていますね」
松村さんが言った。
「ところで。鹿目さんと後藤さんは、お互いのことをどう思っているのですか。相手の正体について」
松村さんは二人に訊ねた。
「狗神憑きかな、と」
小さな声で鹿目さんが言った。
「走狗かな、と。
嘘をついているのが、あからさますぎる気がします」
後藤さんが困ったように笑って言った。
「なるほど。了解しました。
さて」
松村さんが言った。
「少なくとも、二人のうち一人以上は嘘をついています。そして、この二人以外の客人には一人、嘘をついている人間がいる可能性があります。そして嘘をついている人間の数は、たかだか二人です。これは一応、確認しておきますが」
松村さんが得意そうに言った。
「そうですね」
私は言った。
「松村さんのおっしゃることは正しいです。この後はまた、みんなの推論をいろいろ交換していく感じになると思います。そうしていくうちに誰が嘘をついていて、誰が狗神憑きであって、誰が走狗であるのかが見えてくると思います。
走狗と狗神憑きの重大な相違点は三つです。まず一つ目。走狗は霊障の効果を受けますが、狗神憑きは霊障の効果を受けません。二つ目。狗神憑きには走狗と違って禁忌があります。そのために行動の制約を受けています。三つ目。狗神憑きは実現した三つの霊障を知りますが、走狗は二つしか知りません。
こうした違いに注目することで、それぞれの客人がもっていた役割が見えてくると思います」
私はみんなに向かって言った。一同はこくりと頷く。
「とりあえず、まずはお二人から話を訊いておきたいですよね。
どちらが先にやってくれますか」
私は後藤さんと鹿目さんに言った。
「あ。じゃあ、私から」
鹿目さんがぺこりと頭を下げて言った。
「かしこまりました。じゃあ、そのあとで後藤さん、お願いします」
私は後藤さんを見て言った。
「ええ」
後藤さんが頷いて言った。
「ええと。
お二人から話を伺う前に、客人のみなさんの方からは何か質問はありませんか。二人に対して」
私は言った。
「じゃあ。はい」
来栖さんが手を挙げて言った。
「どうぞ」
私は言った。
「ええ。後藤さんに質問です。『他人の体』について。この霊障によって早瀬さんに誰かが変身していたとするじゃないですか。早瀬さんに化けた誰かが職員室から鍵を持ち出して、その後で早瀬さんが呪殺されていた場合、目撃者の記憶ってどうなるんですか。呪殺された人に関する記憶って、客人以外からは忘却される法則ですよね」
来栖さんが言った。
「ああ。鋭いですね。
このとき『誰かが鍵を持ち出した』という事実自体が忘却されます。だから、目撃者は何も記憶していません。すみません、これは聞かれる前に伝えておくべきだったかもしれません」
後藤さんが言った。
「なるほど。ありがとうございます。
僕からは以上です」
来栖さんが言った。
「ありがとうございます。
他に誰か」
私は周囲を見回して言った。
「はい」
伊藤さんが手を挙げて鋭く言った。
「どうぞ」
私は言った。
「ええ。
後藤さんに送られてきたメールについてです。あの『言いなりメール』について、送った目的はなんだと思いますか。誰が送ったのか、見当は付きますか。もっと詳しく聞かせてほしいです」
伊藤さんが言った。
「うーん。わからないですね。仮説として思い浮かぶこともありますが」
後藤さんが言った。
「聞かせてください」
伊藤さんが言った。
「ええ。多分『言いなりメール』の存在が事実だと示すためだったのではないかと。客人に。そのためにわざわざそんなメールを、狗神憑きか走狗が送ってきた。私が霊障にかかった事実を交霊会で話させるために。しかし、私はたまたま狛犬だった。だから霊障の効果が及ぶことはなくて、その目的は果たせなかった。そんな風にも考えられます」
後藤さんが言った。
「なるほど。参考になりました。ありがとうございます。
僕からは以上です」
伊藤さんが静かに言った。
「ありがとうございます、伊藤さん。
他に誰か」
私は言った。
「じゃあ、はい」
井上さんが手を挙げて言った。
「どうぞ、井上さん」
私は言った。
「うん。後藤さんに質問。
『絵画世界』と『他人の体』の新しく示された発動要件について、何か思うところはあるの。狗神の過去との関連で」
井上さんが言った。
「ええ。
独占欲と孤独かなって」
後藤さんが言った。
「どういうこと」
井上さんが言った。
「うん。
『絵画世界』と『他人の体』の共通の発動要件なんですけど。一枚の写真に、一人とか一つが大写しになっていないといけないっていう。これは多分、家庭の中で加藤詩織さんが感じていた疎外感と結びついているのではないかと思います。両親からの愛情や関心を十分に向けてもらえなかったことに対する。
ほら、なんと言いますか。もっと自分だけを見て欲しい、みたいな気持ちが霊障のそうした要件と関わっていると思うんですよね。ちょっと、伝わりづらいかもしれないですが」
後藤さんが言った。
「なるほど。分かります」
井上さんが言った。
「それと『他人の体』の発動要件なんですけれど。『三回以上同じクラスになっていないといけない』っていう。これも加藤さんの過去が関わっていると思うんです。母から聞いたんですけれど。人見知りだった加藤さんにも、親友とよべる存在は何人かいたそうです。でも、みんな転校しちゃった。転勤族の子って、独特のコミュニケーション能力をもっているじゃないですか。そういう開けた部分に、内向的な加藤さんも打ち解けられる部分があった。
『三回以上同じクラスになっていないといけない』という条件には、加藤さんが親友との離別に感じていた寂寥感が手伝っていたのではないかと」
後藤さんが言った。
「なるほど。ありがとう。
私からはそれだけです」
井上さんが言った。
「ありがとうございます。井上さん。
他に誰か」
私は周囲を見回して言った。誰も手を挙げない。
「承知しました。
では、鹿目さんの方からまずお話を伺うということでしたね。お願いします」
私は鹿目さんに言った。彼女がコクリ、と小さく頷く。
鹿目真奈美の話
私が知っている霊障は「人取り鏡」と「言いなりメール」です。その発動要件と効果については、先ほどお伝えした通りです。
「言いなりメール」の発動要件はつまり、そんなに厳しいものではないんです。メールを開いた場所でラベンダーの香りを知覚していればいいんです。でも、校内にラベンダーが生けてあっても、そんなに香りがするわけではないじゃないですか。だから犯人か被害者の体にはラベンダーの香水がつけてあったと思います。ほら、校内のあちこちにラベンダーが生けてあったら、自分の体からラベンダーが薫っていてもそんなに不自然には思わないでしょう。どこかで匂いが移ったのかなって。ましてやルーズな性格の早瀬さんのこと。大して気にも留めないと思います。
それと、美術室の鍵は早瀬さんが事前に持ち出していたものだったと思います。そう考えると、美術室の鍵を持ち出した人間のことを誰も記憶していないのも説明できます。呪殺された人間のことは、客人以外は忘却してしまうから。あと「言いなりメール」で早瀬さんに暗示をかけて鍵を持ち出させるのも、リスクが高いから考えづらいかもしれません。「言いなりメール」の暗示がかかっているのは、傍からはっきりわかるレベルなので。
そして犯人はラベンダーの香りを知覚させながら、早瀬さんにメールを開かせた。美術室からあまり離れていないところでですね。昇降口に限るという限定条件はなかったわけですから。「言いなりメール」によってまず、早瀬さんを美術室手前の大鏡の前まで誘導したのだと思います。そして「人取り鏡」によって早瀬さんの意識を失わせた。その後、早瀬さんを美術室の中へ運びこんだ。
このとき、犯人はどうやって被害者を呪殺したのでしょうか。廊下には被害者の霊液が滴る痕跡はなかった。そして、霊液を浴びた衣服も発見されていない。だからなんらかの遮蔽物を介して呪殺されたものと思われます。しかし、美術室の扉越しに呪殺されたとも考えづらい気がします。なぜなら、扉の下から外へと霊液の滴った痕跡が認められなかったから。ドアにもたれかけさせて呪殺したとしたら、扉を開けた時に霊痕が倒れてきて、廊下の方へと霊液の痕跡が残ってしまう。また、扉の下から滴る霊液が溢れてしまう可能性も考えうる。だから、犯人は扉越しに呪殺したわけではなく、別の方法をとった可能性があります。
それは、床越しに呪殺するというものです。先ほど荻野さんがその可能性を指摘してくれていましたよね。犯行が図書室から行われたかもしれないという。私もその説を取りたいと思っています。おそらく犯人は美術室で「人取り鏡」に囚われた早瀬さんの写真を撮った。それを頼りにして、真下の図書室から早瀬さんを呪殺した。図書室と美術室は部屋の規格が同じですからね。床のタイルを目印にして、およその位置を測るのは難しくなかったかと。
その後で、走狗は霊痕の場所を探知して密室を拵えた。このとき、恐らくは「絵画世界」の霊障が用いられたのではないかと思います。多分、密室が拵えられた原因は狗神憑きの禁忌に関連しているのでしょうね。何度も指摘されている通り、狗神憑きは美術室に入ることができなかったのかもしれません。
走狗は捜査を撹乱するために、密室以外にも様々な事後工作を試みました。そのうちの一つがラベンダーです。恐らく、被害者にラベンダーの香水なんかを吹きかけていたのでないでしょうか。その不自然さを誤魔化すため、走狗はラベンダーの生けてあった花瓶を早瀬さんの霊痕に向けて撒いた。また現場を濡らすことで「他人の体」が使われたのだと錯覚させるミスリードをも意図していた。
もう一つは、トイレでなされた工作です。実習棟一階、南側のトイレ。そこが本当の現場であったと錯覚させるため、走狗は一計を案じました。走狗は早瀬さんの霊液を手で掬って「絵画世界」を介してトイレまで運んだと思います。そしてトイレの床に撒いて、あたかもそこが真の現場であったかのように錯覚させた。後藤さんの情報を信頼するなら「絵画世界」ではものを持ち込むことはできないけれども、濡れた状態は転移した後にも引き継がれるということでした。だから走狗は体を霊液で濡らし、それによって事後工作を図った。
ところで、気になるのは霊具についてです。霊具は現場から持ち出され、実習棟一階のトイレにありました。「絵画世界」ではものを持ち込んだり持ち出したりすることはできない、ということでした。後藤さんの話を信頼するなら。だから、霊具は現場にあったものを走狗が「絵画世界」を通じて持ち出したとは考えられません。狗神憑きが後からトイレに運び込んだということになります。早瀬さんを呪殺した後、しばらくどこかで待機したのち、現場となった美術室に戻った。走狗が何か事後工作をしてくれているかを確かめる目的でした。そして狗神憑きは、扉窓越しに事後工作の痕跡を発見します。また、現場に鍵が掛けられていて、密室となっていることもわかりました。
狗神憑きはここで戸惑いました。この霊具をどうするか。現場が密室となっていることからも、恐らく「絵画世界」が用いられたと考えられる。走狗は現場から、どこかへ転移した。「絵画世界」でワープするなら、転移先は人目につかない個室が望ましい。校内でそんな場所を探すなら、まずはトイレだろう。もし、走狗が転移した場所が分かったのならば、捜査の撹乱のために、そこにこの霊具を置いておこう。そう考えて狗神憑きは、校内のトイレを捜索しました。
そうして、例の実習棟一階のトイレを狗神憑きは探し出しました。そこで霊液の痕跡を見つけます。走狗は真の現場がここであると錯覚させようとしているのだろうと、見て取りました。そして狗神憑きはトイレにあの矢を置いて、その場を後にしました。
しかしこの時、狗神憑きはミスを犯しました。何かのはずみで一度、霊具を床に落とすとかしてしまって、弓矢に霊具としての性質を失わせてしまった。そしてうっかりトイレで霊液に触れ、霊具に指の跡を残してしまった。霊具となっていた弓矢には霊液の跡が残っていましたよね。本来、霊具は霊液に濡れないはず。しかし、一度狗神憑きの体から離れ、霊具としての性質が失われた後ならば別です。あの手の痕跡は、一度狗神憑きの手を離れた霊具に、狗神憑きが指で霊液を付けてしまったという展開を意味しています。
狗神憑きは誰なのか。それは後藤さんではないかと思います、なぜなら「人取り鏡」という障壁があるからです。先ほども申しました通り、この霊障の効果が及ぶのは早瀬さんと後藤さんだけでした。なのに「人取り鏡」の効果は、後藤さんには及ばなかった。これは、後藤さんが霊障の効果が及ばない、狗神憑きであることを意味しています。走狗は、よく分からないです。
私の意見はそんな感じです。
猫又のマタによる幕間
「質問がある方はいらっしゃいますか」
鹿目さんは周囲を見回して言った。
「あい」
井上さんが手を挙げて言った。
「どうぞ」
鹿目さんは言った。
「はい。
どうして美術室で呪殺するの。もしも狗神憑きが後藤さんだとしたら。そんなことをしたら、自分が疑われるじゃん。『人取り鏡』が実現しているのなら」
井上さんは言った。
「ええ。
それは多分『霊障は犯行に関連して全て発動しなくてはならない』という規約を守るためだったのではないかと。『絵画世界』が仮に実現していたとしたら、リスクを犯してでも美術室で呪殺する理由はあります」
鹿目さんが言った。
「なるほど」
井上さんが言った。
「ええ。それに、狗神憑きは『人取り鏡』を狛犬が知らないことに賭けたと思います。そしてそれが実現しなかった霊障だという認識を、客人たちに共有しようとしたのだと思います。自分が狛犬であると偽って。
加えて、走狗が事後工作を加えて、霊痕の場所を移してくれる可能性もありました。それに期待したのではないかと」
鹿目さんが言った。
「なるほど。
うーん。そっか」
納得がいかなそうに井上さんが言った。
「ええと。
他に何か」
小さな声で鹿目さんが言った。
「うーん。
あ、もう一つ」
井上さんが言った。
「なんでしょう」
鹿目さんが小さく言った。
「血だよ、血。早瀬の血。なかったんでしょ。大鏡の周りに。でも早瀬、足の指を怪我していたじゃん。あそこで裸足になったのなら、早瀬の血の痕がないとおかしくない。だって、早瀬は靴脱がないと『人取り鏡』を通れないんでしょ」
井上さんは言った。
「あ。なるほど。そう言えば、そうでしたね。
うーん。あの傷は、鏡の前で裸足になった後にできたものなのでは」
鹿目さんが言った。
「いや。違うでしょ。
早瀬、貧乏だから。あいつ、いつもサイズの合わない靴とか上履き履いていたのよ。それで足が靴ずれで怪我していたの。現場で見つかった早瀬の足の傷は開いていたんでしょ。靴を脱いだときにも血が流れていたってこと。なら、鏡の前で上履きを脱いで『人取り鏡』に囚われたっていう推理は成り立たなくない。靴下から滲み出ちゃいそうだけれども」
井上さんが言った。
「うーん。
でも」
井上さんは少し思案してから言った。
「あの日、鏡の前に立ったときには、瘡蓋ができて傷が閉じていた可能性もあると思うんですよね。
ほら、靴擦れって、ちょっとの加減でできなかったりする時もあるじゃないですか。その時に履いていた靴下の厚みのせいとかで。だから、事件があった時も、早瀬さんの足の裏の傷は開いていなかった。そして事後工作として、後から足の傷が開かされた。瘡蓋を剥がされてですね。だから本当は『人取り鏡』の前に立ったときには、血は流れていなかったと思うんですよね」
鹿目さんが言った。
「えー。そうかなあ。
うーん」
井上さんが不服そうに言った。
「それは考えづらいと思いますよ」
伊藤さんが口を挟んだ。
「交霊会の規約に従って、客人の身体を霊具以外による形で濫りに傷つけることは許されません。だから、瘡蓋を剥がすような、積極的な加害行為は考えにくい。絆創膏や包帯を、傷つけないように剥がすくらいならともかく」
伊藤さんが厳かに言った。
「そうだよ」
井上さんが言った。
「なるほど」
鹿目さんが思案しながら言った。
「じゃあ、絆創膏を貼っていたけど走狗か狛犬に剥がされた、とか」
鹿目さんが言った。
「どうだろ。
だって現場から見つかってないでしょ。校内からも。猫又さんが徹底的に調べたわけじゃん」
井上さんが言った。
「ええ」
伊藤さんがまた口を挟んだ。
「『黒魔術教本』にもある通り、規約によって事件の証拠品を結界の外へと持ち出すことは許されません。つまり、学校の外へ。校内の調査は猫又さんが徹底的に調べました。それでも、早瀬さんが使っていたと思しき絆創膏は見つかっておりません。絆創膏が使われていた可能性は低いと思われます」
伊藤さんが言った。
「うーん。
-なるほど」
鹿目さんが困ったように言った。
「ちょっと、いいですか」
私も口を挟んだ。
「何でしょう」
鹿目さんが言った。
「ええ。私もそれなりに嗅覚は鋭いので。もし靴下越しに滲み出た僅かな血液であっても、嗅ぎとれる自信があります。絆創膏をつけていて、それが妨げられていたなら別ですが。私の嗅覚は人間以上ですけれども猫よりは随分悪いくらいですが、血液や霊液に特化した探知能力があります。それは『黒魔術教本』にも記述がありますね。
それと、私の調査は基本的に信頼して欲しいです。先ほど徹底的に調べましたけれど、早瀬さんが使ったと思しき絆創膏の痕跡は、結界の内部では見つかっていません」
私は言った。
「そうなんですね。じゃあ絆創膏はなさそうか。
うーん」
鹿目さんが小さく言った。
「えっと。まだ何かありますか」
鹿目さんは控えめに尋ねた。
「ううん。特にナーシ」
井上さんが言った。
「承知しました。
他に誰か質問は」
鹿目さんが周囲を見回して言った。
「じゃあ、はい」
後藤さんが手を挙げて言った。
「どうぞ」
鹿目さんが言った。
「ええ。鹿目さんが目撃した人影、つまり私について、少し引っかかる部分があって。鹿目さんのお話では、狗神憑きである私が現場に戻った後、走狗による工作がなされたトイレを発見した、というお話でした。少し、おかしくないですか」
後藤さんが言った。
「どうしてですか」
不安そうに鹿目さんが言った。
「ええ。時間的なスパンが短すぎるでしょう。それだと。
ほら、私が現場に駆けつけたのは、客人のうちで最初でしたよね。鹿目さんから連絡があったとき。そんな一瞬の間に、私があのトイレを発見して弓矢を置いたっていうんですか」
後藤さんが言った。
「うーん。
可能性としては、あり得なくはないかな、と思います。最初に飛び込んだトイレが、ちょうどあそこだったとか」
鹿目さんがおどおどと言った。
「あり得なくはない、かもしれませんが、可能性としては極めて低いでしょうね」
後藤さんが小さく笑って言った。
「なるほど。
うーん。そうかもですね」
困ったように鹿目さんが言った。
「ええ。
それともう一つ。さっきは自分が質問される順番だから訊きそびれてしまったんですけれど。ラベンダーについてです。ラベンダーって、何か加藤詩織さんの過去と関係があるんですかね」
後藤さんが言った。
「ええ。
自分の母が詩織さんと知り合いで。加藤さんはよく、ラベンダーの香水をつけて、学校に通っていたらしいんです。なんでもそれは、お父さんがいつも使っていたものだったそうで」
鹿目さんが言った。
「なるほど」
後藤さんが頷いて言った。
「お父さんとは、両親が離婚して以来、お別れしていました。けれども、ラベンダーの香りを嗅ぐと、加藤さんは懐かしいような、切ないような気持ちに囚われたそうです。自分に暴力を加えた父のことを、どうしようもなく愛おしく思ってしまう自分がいて、ラベンダーの香りに優しい気持ちにさせられたそうです。そんな加藤さんの思いが、霊障に反映されたのではないかと」
鹿目さんは言った。
「なるほど。
そう言えば、加藤さんが好きだった『時をかける少女』にも、ラベンダーのモチーフが現れますよね。タイムスリップをするためのアイテムとして」
後藤さんが言った。
「ええ。おそらく、加藤さんがタイムスリップするためにも、ラベンダーが必要だったんだと思います」
鹿目さんは言った。
「タイムスリップ、ですか」
後藤さんが言った。
「はい。ラベンダーの香りが、きっと加藤さんの心のタイムトラベルを促してくれたのだと思います。ラベンダーの香水の香りに導かれて、加藤さんはお父さんの記憶に触れることができた。忌々しくも愛おしい父の夢を、ラベンダーの記憶が呼び覚まし、懐かしい気持ちにさせてくれた。そんな思いが、霊障に反映されたのではないかと。
『人取り鏡』も、ある種の主観的なタイムトラベルだと思うんですよね。しばらくの間、対象を過去の夢へ囚われさせ、その後に数分後の未来へと転移する。ラベンダーは、加藤さんがタイムトラベルするためのアイテムだったと思うんです」
鹿目さんは言った。
「なるほど。よくわかりました。
私からは以上です」
後藤さんは言った。
「承知しました。
他に誰かいますか」
鹿目さんは周囲を見回して言った。
「僕から、いいですか」
伊藤さんが厳かに言った。
「どうぞ」
鹿目さんが手で示して言った。
「ええ。鹿目さんは扉の外へと霊液が染み出さなかった原因を考えてくださいましたよね。もしかしたら、現場で見つかった台車がその答えかもしれません」
伊藤さんが言った。
「台車、ですか」
鹿目さんが言った。
「ええ。台車に乗せて、美術室の奥へと運び込んだのではないかと。台車の上に乗せて、それを押し出して」
伊藤さんが言った。
「あー、なるほど。
ってことは。やはり狗神憑きは美術室に入れなかった、ってことですかね」
鹿目さんが言った。
「そうだと思いますね。規約に従って、客人の体を濫りに傷つけてはいけません。だから、意識を失った早瀬さんを美術室に放り込むようなこともできなかった。そのために台車が使われた可能性があるかと。美術室の奥へと早瀬さんを運ぶために」
伊藤さんが言った。
「なるほど。確かにそうかもしれません。貴重なご意見、ありがとうございます。
他に何かありますか」
鹿目さんが控えめに言った。
「いえ」
伊藤さんが首を横に振る。
「承知しました。
他に誰かいらっしゃいますか」
鹿目さんが言った。誰も手を挙げない。
「いらっしゃらないみたいですね」
私は言った。
「ありがとうございます。鹿目さん。
では、お次は後藤さんの番でしたよね」
私は後藤さんを見て言った。
「ええ」
後藤さんが言った。
「では、よろしくお願いします」
私は後藤さんに言った。彼女は小さく頷いた。
後藤春香の話
私が知っている霊障は「絵画世界」と「他人の体」です。あとの一つはよくわからないですけれどね。まず、美術室の鍵を持ち出したのは、早瀬さんに「他人の体」で成り済ました誰かだったのではないかと。誰かというのは男性の中の誰かなんですけれども。このとき、体育着を着ていたのではないかと思います。体育着なら、男性のものを着ていて多少サイズが合わなくても不自然ではないですからね。それに、早瀬さんってまあ大柄でしたし。鍵を持ち出したのは早瀬さんの姿をした誰かだったから、誰の記憶にも残らずに鍵を現場から持ち出すことができた。
そしておそらく、本当の現場は実習棟一階のトイレだったと思います。あそこで早瀬さんは呪殺され「絵画世界」を通って美術室へと運ばれた。知っての通り、霊痕も霊障の影響を受けますからね。条件を満たす端末に触れさえすれば、早瀬さんを転移させることは可能でした。
「絵画世界」を通るときには服を着ることはできません。けれども現場にあった早瀬さんの霊痕は服を着ていた。これは早瀬さんの衣服が絵画世界以外の方法で現場へと運び込まれたことを意味します。恐らく、走狗が現場へと直接運んだのではないかと思います。「取り寄せ電話」でも衣服の運搬はできなそうですし。
それで三つ目の霊障なんですが、私はまだよくわかっていないんです。確定する根拠に乏しくて。ただ、もしかしたら「ビッグ・シスター」かな、と思っています。松村さんが指摘していましたけれど「ビッグ・シスター」が、早瀬さんが個室に籠るタイミングを測るために用いられた可能性はあると思っています。狗神憑きによって。「ビッグ・シスター」は犯行の補助に便利ですし、大した痕跡も残らないっぽいです。だから、これが犯行に使われた可能性も高いです。
それからやはり「言いなりメール」が使われた可能性もあると思っています。私に送られてきた例のメールが気になっているんです。「言いなりメール」が用いられたと思しき。あれはひょっとすると、走狗のミスだったのかもしれないな、と。知っての通り、霊障は犯行に関連して全て発動あるいは作用しなくてはならない、という規約になっています。この規約を狗神憑きと走狗が破れば、交霊会は客人の勝利になります。それを防ぐために、走狗は誰かに「言いなりメール」を送ろうと考えた。「お願いだから、美術室前に来て」とでも誰かに送って、第一発見者にさせればいいと走狗は思い、私にあのメールを送った。
狗神憑きと走狗はお互いの正体を知りません。『黒魔術教本』の記述にもある通り、正体を明かしたら規約違反とみなされて、黄泉還りの儀が頓挫する可能性があります。示し合わせて霊障を分担して発動させるのは困難です。「言いなりメール」も、もしかしたら狗神憑きが先に発動させていたのかもしれませんが、走狗がそれを知るすべはありませんから、万全を期して走狗が「言いなりメール」を発動させようとした可能性は十分にあります。
ただ、この説にも疑問はあるんですよね。だって「言いなりメール」には「ラベンダーの香りを知覚しながらメールを開かなくてはいけない」という発動要件があるらしいですから。相手が今、ラベンダーの香りを知覚できることに賭けて「言いなりメール」を送信するという戦略も取り得ます。実際、私は偶然にも昇降口付近にいましたし、そこでは玄関から吹き込む風に運ばれてラベンダーの香りがしていました。いくつかのトイレの消臭剤も、ラベンダーの香りのものらしいですし。けれども、私がラベンダーの香りを知覚できない場所にいた可能性も十分にあります。だから、この説もちょっと弱い部分があるかもしれません。もし「ビッグ・シスター」が発動されていたとしたら私が昇降口にいたと知ることはできたのですが、実現した霊障は三つのみという法則がありますからね。「絵画世界」「他人の体」に加えて「言いなりメール」「ビッグ・シスター」という四つの霊障が実現することになってしまいますから「ビッグ・シスター」で私の位置を把握できたから「言いなりメール」を送信したのだという仮説は成り立ちません。
それから「透明人間」と「取り寄せ電話」について。この二つも、美術室の鍵を持ち出す用途に用いられた可能性は、やはりありますよね。でも、発動要件がよくわからないので、なんとも言えません。これらが実現したらしい形跡も、見当たらない感じですしね。今のところ。使われていてもおかしくないかな、程度です。
第三の霊障について、一応仮説らしきものを立てることはできるのですが、確たることはわかりません。それに、私には狗神憑きの正体も見当がつかないんです。もちろん鹿目さんが怪しいのは、私からすれば自明のことです。彼女が嘘をついているのは間違いないですが、彼女が狗神憑きであるのか、それとも走狗であるのか、私には分かりません。それに彼女が偽物の狛犬であり、私が真の狛犬であると示す手立ても、思いつきません。ただ井上さんが指摘してくださいましたけれど、大鏡の前に早瀬さんの血痕がなかったというのは、それなりに有力な根拠ではあるのかなあ、とは思います。「人取り鏡」が事件に関連して発動しなかったことの。
うーん。ちょっと短いけれど、私からはそんな感じですね。ごめんなさい。全然犯人の目星がつかないので、お役に立てそうにないです。特に新しく付け加えられそうな視点も、私にはちょっと見つけられなくて。皆さんの推理に。それにさっきの自分の推理について、修正するような点も特に見当たらないので。
猫又のマタによる幕間
「何か質問とかがある人はいますか」
後藤さんが周囲を見回して言った。
「あー。いいですか」
来栖さんが手を挙げて言った。
「ええ。どうぞ」
後藤さんが言った。
「ええ。
ちょっと気になっていることがあって。犯人について」
来栖さんが言った。空気が緊張するのを感じる。
「犯人について、ですか」
後藤さんが神妙な面持ちで言った。
「うん。
引っかかっている発言があるんです。ある客人の言ったことですが」
来栖さんは顎に指を当てながら言った。
「誰ですか」
後藤さんが言った。
「ええ。
それはあなたです。松村さん」
来栖さんが松村さんを指差して言った。
「へ。私、ですか」
松村さんが裏返った声で言った。目を丸く見開いている。
「ええ。
松村さんは、さっきこう言ったんです。
『現場にあった水の痕跡は、ミスリードではないか。テレビ横の花瓶の中身を撒いた。そうして「他人の体」が現場で用いられたと見せかけようとした』
と。妙だと思いませんか」
来栖さんが言った。
「あ」
井上さんが何かに気がついて言った。
「おかしいわ。今日は放課後、誰も美術室に入っていないっぽいんでしょ、客人は。なんで私が置いた花瓶のあった位置を知っているの。松村」
井上さんが言った。
「う。それは」
松村さんがたじろいで言った。
「花瓶は、いつもテレビの横に置かれていたじゃないですか。前からずっとそうでした。美術室では」
松村さんが早口に言った。
「いやいや」
井上さんが言った。
「それはないよ、松村。私は『適当に置いた』もん。あそこに置いたのは適当。前は別の場所だった気がする」
井上さんが言った。
「うーん」
松村さんが腕組みをしながら言った。
「参ったなあ」
松村さんは制服の第一ボタンを摘みながら渋い顔で言った。
「交霊会の規約に従って、嘘は許されません。もし一般の客人ではないのなら、速やかにその旨を告げないといけませんよ」
私は松村さんに向かって言った。
「仕方ない。認めるよ。
狗神憑きは私です」
松村さんは渋い顔でいった。
「狗神憑きなの」
井上さんが言った。
「うん」
松村さんが頷いた。
「それはどうだろうなあ。
怪しい」
井上さんが納得いかなそうに言った。
「あんたは走狗か狗神憑き。それは事実。でも狗神憑きとは限らない。そうだよね」
井上さんはみんなを見て言った。一同が頷く。
「うん。これで狗神憑きの候補は三択に絞られたけれど。松村さん、鹿目さん、そして後藤さん。早瀬さんが狛犬だった可能性も消える。役割を割り振られていたのは松村さん、鹿目さん、後藤さんの三人」
来栖さんが言った。井上さんが頷く。
「-というか松村、自分が狗神憑きだとか言っていたけどさ」
井上さんが言った。
「これまでの流れからすると、それっておかしくね。だって『禁忌があるから、美術室に狗神憑きは入れない。密室はそれをカモフラージュするために作られた』って、そういう感じではなかった。松村、美術室の中に入れているじゃん」
井上さんは言った。
「まあ、ね」
松村さんは言った。
「本当の狗神憑きを庇っている印象だけれど」
井上さんが言った。
「狗神憑きは美術室に入れない。
ですか」
松村さんが制服の第一ボタンを弾きながら言った。
「それが、もしミスリードだとしたら。どうでしょう」
松村さんは言った。
「どういうこと」
井上さんが訊ねた。
「そのままの意味ですよ。
禁忌は『美術室に入れない』ということではないのです」
松村さんは言った。
「じゃあ、なんなの」
井上さんが言った。
「『霊痕と同じ部屋にいることができない』というものです」
松村さんが言った。
「えっと」
荻野さんが口を挟んだ。
「一応、今はあずにゃんが質問する番ですよね、後藤さんに。松村さんには聞きたいことがみんなあると思うので、この後でじっくり話を聞くことにしませんか」
荻野さんが苦笑いして言った。
「なるほど。それもそうだね。
後藤さん、ごめんね」
井上さんが言った。
「いえいえ。
えっと。来栖さんから、まだ何かありますか」
後藤さんが言った。
「あ、いえ。僕からは以上です」
来栖さんが言った。
「承知しました。
他に誰か質問はありますか」
後藤さんが周りを見回して言った。
「じゃあ、はい」
伊藤さんが手を挙げて低く言った。
「どうぞ」
後藤さんが言った。
「ええ。どうにも情報不足ですよね、霊障について。『透明人間』と『ビッグ・シスター』と『取り寄せ電話』は狛犬からの情報がないわけですが。これらについて何か思いついたことや、耳にした情報はありますか」
伊藤さんが言った。
「ええ。
『ドラえもん』との関連について、ちょっと気になっていて。『取り寄せ電話』以外の二つの霊障も」
後藤さんが言った。
「『ドラえもん』ですか」
伊藤さんが言った。
「ええ。加藤さんが好きだった『ドラえもん』にも、似たような効果のひみつ道具があるな、と思って。
例えば『透明人間』について。『ドラえもん』には『石ころぼうし』と『とうめいマント』というひみつ道具があります。『石ころぼうし』は被ると周囲から自分の姿が認識されなくなる、というものです。『とうめいマント』は身に付けると体が透明になるというものです。
『ビッグ・シスター』について。『トレーサーバッジ』という道具があります。これは、バッジをつけた相手の位置をモニターで確認できるようになるアイテムですね。少し『ビッグ・シスター』に似ていると思います。
加藤さんは『ドラえもん』が好きでした。もしかしたら、霊障の発動要件とそれが関係しているかもしれません」
後藤さんが言った。
「なるほど」
伊藤さんが言った。
「詳しいですね、後藤さん。『ドラえもん』が好きなんですか」
荻野さんが笑って言った。
「ええ。まあ」
後藤さんが小さく笑って言った。
「私、小さい頃から『ドラえもん』を読みながら考えていたことがあって。自分の運命の人について。ほら、のび太ってしずかちゃんと結婚することになっているじゃないですか。それが何となく印象的で。自分にも、そんな風に運命の相手とかいるのかなって、小さい頃からずっと考えていました」
後藤さんが笑って言った。
「運命の相手か。
なるほど。ひょっとすると」
荻野さんが何かに思い至って言った。
「どうしたんですか」
後藤さんが訊ねた。
「『恋愛』が『ビッグ・シスター』の霊障には関係しているのかもしれません。ちょっと思い出したことがあります」
荻野さんが言った。
「どういうことですか」
後藤さんが尋ねた。
「ええ。さっきお話しした後輩ですけれどね。金井さんと宇津木さん。実は、両思いだったそうで。あの後で、交際したらしいんですね。プライベートの話だったから、ここでいうのもあれかなと思ったんですけれど。
でも『ビッグ・シスター』の下敷きになったらしい『1984』でも『恋愛』のモチーフが重要な役割を果たすんですよね。全体主義の社会で異性との愛を貫くことができるかどうかが、作品の主題になっている」
荻野さんが言った。
「なるほど。
恋愛、ですか」
後藤さんが言った。
「ひょっとすると『現在意中の相手がおり、交際している相手がいないこと』が一つの条件かもしれません。アプリがインストールされるための。もしそうだったとしたら、三人のうち松村さんにはこのアプリは使えなかったことになりますね」
荻野さんが言った。松村さんと来栖さんが顔を見合わせる。
「なるほど」
後藤さんが言った。
「まあ、それだけだと限定条件が少なすぎる気がするんで。
-他にも何かあるのかもしれないですね、条件が」
荻野さんが苦笑いして言った。
「そういえば」
来栖さんが口を挟んだ。
「なんですか」
後藤さんが言った。
「うん。
僕の母が加藤さんの部活の先輩だったんですけれど。加藤さんの恋愛について、聞いたことがあったそうです。相談されて」
来栖さんが言った。
「聞かせてください」
後藤さんが言った。
「ええ。
なんでもお父さんと似たタイプの人を好きになったらしいんですね。脆くて繊細なところのある異性。頭が良くて、神経質で。読書も好きだったらしいんです。難解な作品を好んでいたそうで。加藤さんが好きだった『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』も、その相手が好んでいた作品だったみたいです。小学校の卒業文集で、彼がその作品を好きな小説として挙げていて、興味をもったらしいんです。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』は、加藤さんにもしっくりきたみたいで。それに、ディックという作家にも強く惹かれて。ディックには、幼い頃に死んだ双子の妹がいたらしいんですね。それで、ディックの家族は死んだ妹の影に苛まれ続けて、作品にもそれが反映されていたそうなんです。それが、まず自分の家族と重なって。
ディックの作品にはよく『分身』『自己同一性』のモチーフが現れるみたいなんですけれど、それもやっぱり双子の妹のことが影響していて。そこに加藤さんは引きつけられたらしいんです。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』でも、人造人間と人間の根源的な違いが考察されるんですけれど、加藤さんも時々思ったそうなんです。自分は姉の模造品なのではないかと。そして、自分が姉として生きる人生もあり得たのではないかと。
そんな加藤さんの思いは『循環』とか『転生』のモチーフに、彼女を引き寄せたらしいんです。それは例えば『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』で。これも加藤さんが好きだった異性の好んだ作品なそうなんですけれど。作中では文化祭の準備が繰り広げられているんですけど、主人公たちが暮らす都市がタイムループを起こすようになって、ずっと同じ一日の中に閉じ込められちゃうんですよね。そういう閉塞感に、加藤さんも共感させられるところがあって。家族の中で息苦しさに悩んでいたから。加藤さんは、しんどい日常のループを繰り返す中で、ある思いに囚われるようになったんだそうです。
『こんな私だけれど、どこかに私が幸せに生きられた可能世界もあったのかな』
って。加藤さんは、結局その好きだった異性と同じクラスになれたことはなかったそうです。でも自分が彼と結ばれて、幸せに生きられた世界もあり得たのかなって、空想するようになって。もしかしたら自殺すればいいのかもしれない、そうしたらこの苦しい日常のループから抜け出せるのかもしれないって、思うようになったそうです。
でもそれと同時に、加藤さんの中には別の奇妙な確信もあったそうなんです。
『自分が死んで、もし生まれ変わるとしても、それはきっと自分の姉になるのだろう。自分は死んで、姉妹の間で生まれ変わることを何度も繰り返しているのだろう』
って。突飛な発想かもしれませんけれど、加藤さんの中にはそんな確信めいた想いがあって。なんだろう。それは多分加藤さんの、人生への諦めから来ていたと思うんですよね。
『私なんて、幸福になれる可能性はどこにもないんだ。そういう運命なんだ』
そんな感じで加藤さんの片思いは『循環』『転生』『停滞』といったモチーフと分かち難く結びついていたみたいなんですね」
来栖さんが言った。
「なるほど。
そうだったんですね」
後藤さんが言った。
「しんどいですね。なんか」
荻野さんが俯いて言った。
「ええ」
来栖さんが言った。
「そういえば。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』は押井守監督の作品ですけれど、知っていますか。皆さん」
荻野さんが周囲を見回して言った。伊藤さんと荻野さんの目が合う。
「僕は、そういうのよくわからないんだよね」
伊藤さんが苦笑いして言った。
「なるほど。『イノセンス』とか『スカイクロラ』の人。『イノセンス』は士郎正宗『攻殻機動隊』の映画化ね。あれも『アンドロイド』がモチーフとして現れる作品です」
荻野さんが言った。
「アンドロイド。SF映画の監督なの」
伊藤さんが言った。
「まあ、そうだね。かなりメッセージ性の強い作風の監督。『循環』とか『分身』のモチーフは、押井監督が好んで用いたものです。時代を反映するものだったと思います。学生運動の盛りが過ぎた後の閉塞した空気と、それからアメリカ社会の模造品に成り果てた日本を象徴するものだったと思いますね」
荻野さんが言った。
「なるほど」
伊藤さんが言った。
「もしかしたら『ビッグ・シスター』の霊障にも『循環』『停滞』『転生』みたいな条件が関わっているのかもね。よくわからないけれど」
荻野さんが言った。
「なるほど。
そういえば」
後藤さんが言った。
「『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』って『ドラえもん』みたいな、時間が閉じて進まない連続アニメのパロディですよね。何度も同じ一年を繰り返すお話の。それも何か関係あるんですかね。加藤さんは『ドラえもん』が好きでしたけれど」
後藤さんは言った。
「なるほど。確かに」
荻野さんが頷いて言った。
「あー。それは多分」
井上さんが口を挟んだ。
「ずっと一緒にいてくれる友達が欲しかったんじゃないのかな、加藤さんは。ほら、親友だった子たちは、みんな転校して別れちゃたでしょ。さっきも話題になったけど。だから『ドラえもん』とか『うる星やつら』の世界みたいに閉じた時間の中で、ずっと大切な仲間と遊んでいたかったんじゃないの。ああいう作品って、同じ仲間たちと一緒にドタバタが続くじゃん。時間が進まずに。
加藤さんも、そういう存在が欲しかったんじゃね」
井上さんが言った。
「なるほど。
確かに。親友の転校に傷ついていたんですもんね」
後藤さんが言った。
「転校か」
荻野さんが言った。
「金井さんと宇津木さんも、転校した経験があるんですよね。もしかしたら関係しているのかもしれません。霊障の条件に」
荻野さんが言った。
「なるほど。
猫又さんは、何かピントくることはないですか。今まで挙げられた『ビッグ・シスター』の発動要件について」
後藤さんが私に尋ねた。
「ええ。
『恋人がおらず好意を抱いている人がいる』と『転校』という条件。しっくりくるところがあります。暫定的にこれを『ビッグ・シスター』の発動要件と考えてもいいのかもしれません」
私は言った。
「なるほど。ありがとうございます」
後藤さんが言った。
「猫又の霊障に関する直感は信じて良いって話よね。『黒魔術教本』によると。頼りにしていますね」
井上さんが笑って言った。
「ええ」
私も笑って言った。
「そうだとすると、三人のうち『ビッグ・シスター』の発動要件を満たすのは松村さんだけ、ですかね」
荻野さんが松村さんを見て言った。
「やあ。まあ、そうっすね。
次行こうよ次。後二つの霊障」
松村さんが後藤さんを見ながら苦笑いして言った。小さく笑って後藤さんが頷く。
「ええと。伊藤さんからの質問。次は『透明人間』と『取り寄せ電話』について。何か皆さんの方からは情報ありませんか」
後藤さんがみんなに向き直って言った。
「気になることが」
荻野さんが言った。
「なんですか」
後藤さんが言った。
「ええ。『透明人間』っていう都市伝説は、俺も聞いたことがありました。俺が聞いた話も『ガラスの動物園』に関連している話です。でも井上さんがしていた話とは、ちょっと違う部分があって」
荻野さんが言った。
「どういうこと」
井上さんが言った。
「うん。俺が聞いた話ではね、知り合いの八代幹也さんって人から。彼はうっかり、図書室から『ガラスの動物園』を持ち出してしまったんだって。借りる手続きをせずに。幹也さんはすごくドジで。図書室で『ガラスの動物園』を昼休みに読んでいて、そのまま気付かずに本を持って図書室を出てしまったそうなんです。でも、何日かしてそのことに気が付いて。幹也さんは真面目な部類だから、慌てて図書室に入って本を借りる手続きをしようとしたそうなんです。でも、そうしたら異変が起こって。自分の姿が誰からも認識されなくなった。貸し出しの窓口の前に立っても、気付いてもらえなくて。
だからどうも『一旦本を図書室から無断で持ち出した後に、もう一度図書室に入る』っていう条件が関係しているのかもしれません」
荻野さんが言った。
「あー。
それ、あるかも」
井上さんが言った。
「私が聞いたのは斎藤美波からだったんだよね。地味で大人しいけれど、ルーズな性格で。バカだし本を読むのが遅いから、勝手に図書室から本を持ち出して、読み終わったら返すみたいなことは平気でやりそう」
井上さんが言った。
「なるほど」
荻野さんが笑って言った。
「そういえば、加藤さんも注意障害があって、うっかりなミスが多かったんでしょう。松村も言っていたけれど」
井上さんが言った。
「ええ。それが『取り寄せ電話』には影響しているみたいですね」
松村さんが言った。
「注意障害があると、同じようなミスを繰り返して怒られることが増えるらしいじゃん。そこにも『循環』の構図があるのかもね」
井上さんが言った。
「なるほど。そうかもですね」
後藤さんが言った。
「『循環』といえば」
来栖さんが口を挟んだ。
「僕も『取り寄せ電話』については聞いたことがありました。松村さんの言っていた話とは違う部分もありましたけれど」
来栖さんが言った。
「どんな感じですか」
後藤さんが言った。
「ええ。
僕も斎藤美波さんから話を聞いたんですけれど。彼女はまあ、いい加減なところがあって、忘れ物が多い方で。それで斎藤さんが『取り寄せ電話』の霊障に遭遇したのは、忘れ物を二日続けて繰り返して、二日連続で自宅に電話をかけた時でした」
来栖さんが言った。
「あー。
やりそう。美波」
井上さんが言った。
「うん。斉藤さんのお母さんは、パートを掛け持ちしているのだけれど、電話がかかってきた時は二回とも家にいて、二回とも電話に出たらしい。でも二回目は、つながった後にすぐ切れちゃったんだって」
来栖さんが言った。
「気になっていたんですけれど」
後藤さんが言った。
「自宅にある備つきの電話に連絡しないといけないんですかね。ケータイではなく」
後藤さんが言った。
「そうかもですね」
来栖さんが言った。
「でも斉藤さんにしても近藤さんにしても、ケータイではなくて自宅の電話にかけるものなのですね、今時」
後藤さんが言った。
「あー。それはね」
井上さんが言った。
「親がジジイとかババアだと、家の電話の方が通じるのよ。ケータイ使うのに慣れてないから。充電切れて電源落ちたままの状態の時とか結構あって、ケータイにかけても通じないの。だから相手がいるなら、家の電話の方が確実に通じるの」
井上さんが言った。
「なるほど」
後藤さんが言った。
「後藤さんは親が働きに出ているから、そういうのピンとこなそうだけど」
井上さんが言った。
「いえ。
私の母は、自営業なんで。自宅が事務所を兼ねています」
後藤さんが言った。
「そうなんだ。
加藤さんもそうだったらしいじゃん。お母さんが自営業でさ。自宅が事務所だったらしい。忙しくていつもピリピリしていたって」
井上さんが言った。
「そうだったんですね」
後藤さんが言った。
「そうよ。
それでね、加藤さんは忘れ物が多くてさ。よく自宅に電話したんだって。学校まで届けて欲しいって。忘れ物を。でもお母さんも忙しいからね。そういうことが続くとめちゃくちゃ怒られたり、無視されたりして。そういえば『透明人間』も、うっかりミスが発動の条件かもしれないらしいじゃん。あずにゃんの話からすると。もしかしたら、それも関係しているのかもね」
井上さんが言った。
「なるほど」
後藤さんが言った。
「家に親がいて、電話に応えるのも条件なのかな」
井上さんが言った。
「そうかもですね」
後藤さんが言った。
「近藤さんが母親に尋ねたところ、受話器をとったら電話が切れたらしいです。近藤さんが自宅に電話をかけた時刻に」
松村さんが言った。
「なるほど。じゃあやっぱり、電話に相手が出ることも『取り寄せ電話』の条件なのかも」
井上さんが言った。
「そうかもですね」
松村さんが言った。
「だとすると、松村さんは『取り寄せ電話』を使えなかった可能性がありますね。両親、共働きですし」
来栖さんが言った。
「そうかもですね」
松村さんは渋い顔で言った。
「鹿目さんはどうでした」
来栖さんが言った。
「ええ。私の家は祖母が大抵家にいますね」
鹿目さんが小さく言った。
「なるほど。
では役割のある三人のうちでは、家が留守なのは松村さんだけですか」
来栖さんが言った。
「そうかもですね」
目をパチパチさせて松村さんが言った。松村さんは緊張すると挙動がかなり不審になる。
「ところで」
伊藤さんが厳かに言った。
「猫又さんはどう思いますか。これまで出てきた『透明人間』『取り寄せ電話』の発動要件の仮説に関して。つまり『透明人間』には『本を図書室から無断で持ち出した後に、もう一度図書室に入る』という条件が。『取り寄せ電話』には『自宅に電話を二日連続で掛け、それに誰かが応える』という条件が関わっているという説について。猫又さんから、何か思うところはありませんか」
伊藤さんが言った。
「そうですね」
私は言った。
「そちらも一旦、暫定的な仮説として共有しても良いかなと思います。説得的かと」
私は言った。
「なるほど。ありがとうございます」
伊藤さんが言った。
「ええと。結構情報が出てきたところですし、この辺りにしておきましょうかね。狛犬からの情報が得られていない霊障についての話は」
伊藤さんが後藤さんに言った。
「そうですね。
皆さん、ありがとうございます」
後藤さんが小さく頭を下げて言った。
「えっと。
他に何かまだある方はいらっしゃいますか」
後藤さんがみんなに向かって言った。誰も手を挙げない。
「いらっしゃらないみたいですね」
私は言った。
「ええ」
後藤さんが頷いて言った。
「後藤さん、ありがとうございました。
それでは、次は松村さんの方からお話を伺う感じになりますかね」
私は言った。
「はあ」
松村さんが苦笑いして言った。
「それでは、よろしくお願いします」
私は言った。
松村葵の話
狗神憑きは私です。で、禁忌なんですけど。さっきも言った通り『美術室には入れない』ではないんです。そうではなく『被害者の霊痕と同じ部屋にいることはできない』というものなんです。だから、美術室には入ることができた。私は。『同じ部屋にいることはできない』というのは、心理的にそうすることができないのです。パニックを起こしてしまうので。同じ部屋に霊痕があると、錯乱してしまう。
それで、実現した霊障は「言いなりメール」「他人の体」「絵画世界」ですね。ということで、狛犬は後藤さんです。鹿目さんは嘘をついています。走狗ってことですね。
今日私はですね。美術室のそばで偶然早瀬さんをお見かけしたんです。
「どちらへ向かっているんです」
私は彼女に尋ねました。
「うん。美術室」
彼女はそう答えたのでした。
「よかったら、ご一緒しても良いですか」
私は彼女にそう尋ねました。
「うん。良いよ」
彼女は答えました。私はその時、都合が良いと思ったのでした。なにせ「絵画世界」があります。黄泉還りの儀の達成のためには、犯行は美術室で行うのが好ましい。しかし、美術室の鍵を持ち出すのも難儀です。鍵を管理しているのは今井由美先生。先生の机に提げられた鍵をこっそり持ち出すのは、なかなか難しい。先生に断りを入れて鍵を借りたら、そのことを記憶されてしまう。客人の誰かが美術室の鍵を借りてきてくれないかな、そうしてその人物を美術室で呪殺できたらな。そんな風に思っていた私は、早瀬さんが鍵を持ち出してくれたのを奇貨としたのでした。
それに加えて、都合の良いことに美術室の中にはラベンダーの花が生けてありました。「言いなりメール」の発動に必要なラベンダーです。そのラベンダーがテレビの隣の棚にあるのが目に止まり、それが記憶に残っていたのでした。これは走狗が事後工作に利用してくれるかもしれないと、淡い期待を寄せたのでした。
けれども、困った。美術室で呪殺したら、霊液を浴びてしまいます。遮蔽物を経由して呪殺するのが望ましい。だから私は、一旦美術室の外へ出たんです。そして
「コン、コン、コン」
と、三度入り口の扉をノックしました。
「どうしたの。何か見つけたの」
ドア窓越しに、早瀬さんが私を覗き込んで言いました。私は彼女を扉越しに呪殺しようとしたのでした。しかしその後のことは、実はよく分からないのです。
「痛」
早瀬さんは私から弓矢で刺された後、美術室の扉の鍵を閉めました。私から、咄嗟に身を守ろうとしたのでしょうね。私は深追いをしませんでした。鍵を掛けられてしまってはどうしようもありませんからね。霊具による傷は塞ぐことができませんので、やがて呪殺が成ることは確定的でしたし。
けれども当然、私には不安要素があったのでした。それは後藤さんも指摘していたダイイングメッセージです。早瀬さんが何かダイイングメッセージを残したかもしれないという懸念が拭えなかった。早瀬さんには致命傷を負わせていたはずでしたが、まだ余力があったようだったので。しかし現場は美術室です。「絵画世界」がある。それを通じて走狗が何か事後工作を施して、証拠の隠滅を計ってくれることに賭けました。実際、現場には霊液が踏み荒らされたような痕跡があったようでした。走狗がやってくれたものだったのでしょうか。ともかく、現場には早瀬さんが残したと思しきメッセージはなかったので、猫又さんからの報告を聞いて、ホッと一安心したのでした。
私は狗神憑きではありますが、早瀬さんを呪殺した後でどのような工作がなされたのかについては、見当もついていません。「絵画世界」も「他人の体」も、私には使うことができなかったわけですからね。だからあまり話せることもないんです。ただ、霊具となった弓矢については私から話せることがあります。
まあ霊具って、そもそもなんでもよかったわけじゃないですか。別に弓矢を使わなくても、カッターナイフとかボールペンとか、その辺で見つかるもので。弓矢って弓道部がきっちり管理していたから、持ち出すのは難しい。なのに弓道関係者でもない私がわざわざなぜ弓矢を持ち出したかと言いますと、それはミスリードのためだったんですよ。床越しに被害者が呪殺されたのだと見せかけたいと思ったのです。「絵画世界」という霊障が前提にありましたので、その真下の階にある図書室でも犯行が可能なことは、黄泉還りの儀の最初から意識していました。だから霊具はある程度の長さが必要だったんです。しかも衣服の中に隠せるくらいのサイズのものが。そうすると、やっぱり使えるアイテムは限られてくるわけです。だから、私は弓矢を選びました。わざわざ高いリスクを冒してまでして、弓道部から弓矢を持ち出したわけですね。
それで、弓矢はトイレで見つかったわけですよね。「絵画世界」を使うのはハードルが高い。裸にならなくてはいけないわけですから。だから、当然個室で使うのが望ましいわけですよ。私はそう推理したんです。そして私は霊具を持て余して校内のトイレをあちこち見て回ったわけです。それで事後工作がなされていたトイレの個室を発見した。私はとりあえず、そこにあの弓矢を置いておくことにしました。
正直言って私の方から話せることは少ないわけですよ。事後工作をしたのは、走狗である鹿目さんですからね。私はただ、美術室で呪殺して逃げてきただけです。基本的には。まあ、そんなところですね。
猫又のマタによる幕間
「何か質問がある方はいますか」
松村さんが周囲を見回して言った。
「いいですか」
伊藤さんが厳かに言った。
「どうぞ」
指で伊藤さんを示して松村さんが言った。
「ええ。質問というのではないのですが、気になったことが。『ダイイングメッセージ』についてです。さっき後藤さんがその説を提起してくださって、今また松村さんがその可能性に言及していたわけです。
引っかかるところがあって」
伊藤さんが言った。
「引っかかっている、とは」
松村さんが訝しそうに言った。
「後藤さんの最初のお話についてです。後藤さんは、最初こんな仮説を提起していたのでした。
『スマートフォンにトラブルが生じたから、霊液でダイイングメッセージを残した。そしてそれは走狗によって抹消された。より確実なスマートフォンのアプリでメッセージを残すということを早瀬さんがしなかったのは、端末が壊されていたからだ』
と。これは不自然だと思うんですよ」
伊藤さんが言った。
「なぜですか」
松村さんが言った。
「後藤さんは言ったじゃないですか。
『早瀬さんの端末から「言いなりメール」が送られてきた。だから私は美術室に向かった』
とね」
伊藤さんは厳かに言った。
「なるほど」
荻野さんが言った。
「後藤さんは、早瀬さんの端末が『いつまでは』故障していなかったのかを知っていた、ってことですね」
荻野さんが言った。
「その通り。
そう考えると『早瀬さんがダイイングメッセージを残そうとした』という仮説を提起すること自体が不自然に思われます。早瀬さんは霊具による傷を受けたとき、スマートフォンを使うことができた。それを使ってダイイングメッセージを残した方がずっと確実なはずです。現場に霊液でメッセージを残すよりも。スマートフォンというもっと確実な手段があったのにもかかわらず、それを使ってダイイングメッセージを残すことをしなかった。それを後藤さんは知っていたのですから『早瀬さんはダイイングメッセージを残さなかった』と考えるのが自然だと思います。
後藤さんは狛犬だというお話でした。だから自分の正体を隠すためにいくつか嘘をついていた。けれども『ダイイングメッセージを残した』という仮説を共有することは、自身が狛犬であるということを隠すという目的にそぐわない、重大な失言ではないでしょうか。仮に後藤さんが狛犬であるのならば、ですが。
ただ一応、一巡目の時点では、まだ明らかになっていない霊障の発動要件がケータイでダイイングメッセージを残せなかった事情を生み出している可能性もありました。しかしあなたは先ほど、最初の自分の推理について訂正するところはないと言っていましたよね」
伊藤さんが言った。
「うーん」
後藤さんが困ったような表情で言った。
「指が震えてフリック入力がうまくできなかったから、とか。だから霊液で残したのかも、って思ったんです」
後藤さんが苦笑いして言った。
「それもないでしょう」
伊藤さんが言った。
「あなたは先ほど、こう言った。『早瀬さんは乱視だから音声入力を使っているのでしたっけ』と。自分から。あなたは早瀬さんが音声入力を使っていることを知っていた。『フリック入力ができなかったから、霊液で残そうとした』と考えることは不自然です」
伊藤さんは言った。後藤さんは困ったような顔をつくる。
「うっかりしていました、つい。
それで勘弁してもらえませんか」
後藤さんは苦笑いして言った。
「どうでしょうね。
猫又さん。ダイイングメッセージをまだ壊れていないケータイで残せたのに、そうしなかったということを後藤さんは知っていた。それにもかかわらず霊液によるダイイングメッセージの仮説を共有してみせた。猫又さんはどう判断しますか」
伊藤さんは、私を鋭く見つめて言った。
「そうですね」
私は考えながら言った。
「厳しいかもしれませんね。もし、後藤さんが狛犬であるとするならば。それは重大な過失であるから、交霊会の規則に違反するかもしれません。そして『黒魔術教本』にもある通り、もし狛犬でないならば、すみやかにその旨を伝えなくてはなりません。そういうルールです」
私は言った。
「そっか、そっか」
困ったような、切ないような表情を浮かべて、後藤さんが言った。
「分かった。もう逃げられないみたい。認める、認めますよ。
私が走狗です」
後藤さんははっきりと言った。
「走狗、ですか。
その場合、自動的に松村さんが狗神憑き、ということになりますが」
伊藤さんが鋭く言った。
「そうですね。そうなのだと思います」
苦笑いして後藤さんは言った。
「なるほど。
でも、僕は違うと思っていますよ」
伊藤さんは静かに言った。
「どういうことですか」
後藤さんは尋ねた。
「狗神憑きは、あなただと。そういうことです」
伊藤さんが言った。
「なるほど」
後藤さんは少し俯いて言った。
「あなたは先ほど言いましたね。
『現場に向かったのは、早瀬さんから「言いなりメール」が送られてきたからだ』
と。私たちは、先ほどそのメールを確認しました。確かに、早瀬さんの端末から送られたものだった。しかし、そのメッセージを送ったのは、早瀬さんではなかったと思います。それは走狗から送られてきたものだった。
そう、松村さんからね」
伊藤さんは厳かに、松村さんを見つめて言った。松村さんは目をパチパチさせる。
「どうでしょうね」
後藤さんが苦笑いして言った。
「うーん」
来栖さんが口を挟んだ。
「なんであんなことを言ったんだろう。ダイイングメセージだなんて。ちょっと考えればあり得ないと分かっていたはずのことを。わざわざ墓穴を掘るなんて」
来栖さんは言った。後藤さんが目頭を指で擦りながら、照れ笑いのような表情をつくる。
「そうですね。僕も疑問に思います」
顎に指を当てながら、伊藤さんが言った。
「何かを誤魔化そうとして、咄嗟にそう言っちゃった、とかかな。ダイイングメッセージの可能性に目を向けさせることで、それを誤魔化した」
井上さんが言った。
「そんなところでしょうね」
伊藤さんは言った。後藤さんは、小さくため息をつく。
「やだなあ。
みんな優秀で、嫌になる」
切なそうに笑って、後藤さんが言った。
「でも私は走狗。松村さんが狗神憑き。そういうことなんで」
後藤さんが笑って言った。
「なるほど。いいでしょう。この次は後藤さんから、またお話を伺うことになるでしょうね。今は一応、松村さんへ質問する順番ですから。
僕からはこれくらいです、松村さん」
伊藤さんが言った。
「承知しました。
誰か他に質問はありますか」
松村さんが周囲を見回して言った。
「じゃあ、俺から」
荻野さんが手をあげて言った。
「どうぞ」
松村さんが言った。
「質問というより、俺も耳にした話があって。弓矢について」
荻野さんは言った。
「なんですか」
松村さんが言った。
「ええ。弓道部の顧問って、すごく嫌われているらしいんですよね。部の生徒たちから。体罰とはいかないまでも、注意の仕方とかがねちっこくて嫌らしかったりして。モラハラ気質みたいな。
それで顧問に対する仕返しでそういう悪戯はこれまでも度々あったらしいですね。備品を隠されるとか。だから、もしかしたら隠されていた弓矢を見つけた狗神憑きがそれを犯行に用いたのかも、って。なんとなく思いました。
あ。その顧問の話は今回の事件よりもずっと前に耳にしていた話ですね。弓矢が凶器と判明したのも、先ほどの猫又さんの調査によってですし」
荻野さんが言った。
「なるほど。
それは今回の事件とは関係ないですよ。私は、こっそり弓道部の部室に忍び込んで弓矢を持ち出したのでね」
松村さんは言った。
「部室、ですか」
荻野さんが怪訝そうに言った。
「何か問題が」
松村さんが目をパチパチさせて言った。
「弓矢って、部室に保管してありましたか」
荻野さんが私を見て言った。
「いいえ。
調査書にもそんなことは書いておりませんよね」
私は言った。松村さんが目を丸くする。
「でしょうね。かなり前から、顧問が自宅で管理していたはずです。備品の盗難が絶えないので」
荻野さんが笑って言った。
「ああ。うっかりしていた。校内に隠されていた弓矢を見つけたんです。うん」
松村さんが言った。
「あはは。わかりました。
俺からは以上です」
荻野さんが朗らかに笑って言った。
「承知しました。
誰か他に質問は」
松村さんが周囲をギョロギョロ見回して言った。
「じゃあ、僕から」
来栖さんが手をあげて言った。
「どうぞ」
松村さんが言った。
「うん。霊具について。松村さんの話だと、狗神憑きである松村さんが現場に霊具を持ち込んだって話だよね。そして発見された弓矢は霊液で汚れていた。あれは、どういうことなの。なぜ、霊具を霊液で汚したの」
来栖さんが言った。
「うーん。それは」
松村さんが返答に迷って言った。
「偽装工作っていうか、ミスリードのためですね」
松村さんがしどろもどろに言った。
「どうなんだろう」
来栖さんは言った。
「わからないんですよ。霊液を霊具に付けた意図が。どんな誤解に誘導させたかったのかがわからない」
来栖さんは言った。
「深く考えてないですね。ただ捜査を撹乱したかっただけなので」
渋い顔で松村さんが言った。
「それこそ考え難い気がします」
来栖さんが言った。
「捜査の撹乱の為に自分の手の痕跡を霊具に残すなんて、普通はすごく抵抗があると思いますよ。この交霊会には指紋とか掌紋から犯人を特定する手段は備わっていないですけれども。それでも、あの手の跡は大きさからして、伊藤さんと荻野さんではないことが猫又さんの調査でも分かったわけで。実際、今回の犯行に伊藤さんと荻野さんは関わっていなかったみたいだし。
つまるところ、わざわざ自分の痕跡を現場に残して容疑者の範囲の特定の手がかりを与えてしまうのって、おかしくない」
来栖さんが言った。
「うーん」
松村さんが困ったような顔を作って言った。
「だから、あの痕跡はミスリードではなく、思いがけず霊具に残ってしまったものだと思うんですよね。走狗か狗神憑きの手の跡が」
来栖さんは言った。
「うええ。
いや、あれはミスリードのために残したんです。私が。それは事実」
松村さんはキッパリと言った。
「そうですか。
まあ、僕からは以上です」
来栖さんは納得がいかなそうに言った。
「他に誰か質問はありますか」
松村さんが周囲をキョロキョロ見回して言った。
「あ。いいですか」
鹿目さんが控えめに手を挙げて言った。
「どうぞ」
松村さんが言った。
「ええ。
禁忌って、狗神とその依代にとって切実な過去の物語から生まれるわけですよ。松村さんと狗神にとって『霊痕と同じ部屋にいられない』という禁忌は何か理由があるのですか」
鹿目さんが言った。
「うーん」
松村さんが言った。
「人生って、長いから。私にもいろいろあるわけでして。なかなか話せない過去がね」
松村さんがしどろもどろに言った。
「どんな」
鹿目さんが追い討ちをかけるように言った。
「内緒だよ」
松村さんが目を高速で瞬かせて言った。
「そうですか。
うーん。いろいろ厳しいと思いますよ。松村さんのお話」
鹿目さんが困ったような顔で言った。一同、頷く。
「まあまあ。
他に何か」
松村さんが言った。
「ないです」
鹿目さんが小さく笑って言った。
「承知です。
誰かまだ、何かありますか」
松村さんが言った。誰も手を挙げない。
「いらっしゃらないみたいですね」
私は言った。
「それでは松村さん、ひとまずはありがとうございました。
さて」
私はみんなに向き直って言う。
「これで役割を与えられていた三人が判明したわけですね。後藤さん、鹿目さん、松村さん。そして、嘘をついていたのが後藤さんと松村さんだったので、真の狛犬は鹿目さんということになります。実現した霊障は『言いなりメール』と『人取り鏡』ですね。鹿目さんが教えてくださった。皆さんはこれから、後藤さんと松村さんのうち、どちらが走狗でどちらが狗神憑きなのかを探っていくことになります。
ここまで到達したのですから、真実は目前です。もう一踏ん張り、頑張りましょう。みなさん」
私は言った。みんながコクリ、と頷く。空気が引き締まるのを感じる。
「では、もう一度後藤さんからお話を伺ってみますかね」
私は後藤さんに向かって言った。彼女は小さく頷く。
「それでは、よろしくお願いします」
私は言った。
後藤春香の話
走狗の正体は私です。ということは「人取り鏡」が実現した霊障ってことになるわけですけれど、それが私には及んでいない。これって、狛犬である鹿目さんが提供してくれた情報と矛盾しているようにも思われます。だって、走狗には霊障の効果は及ぶはず。狗神憑きや狛犬とは違って。なのに、走狗である私に「人取り鏡」の効果は及ばなかった。疑わしいと思われるかもしれませんね。
けれど、これには説明が付けられるんです。それはつまり、狛犬である鹿目さんが目にしたのは「『人取り鏡』の霊障が及んでいる状態の早瀬さんだった」ということ。先ほど、鹿目さんはおっしゃっていましたよね。
「『人取り鏡』の効果が及ぶのは、一度に一人だけであって、その間に他の人が消えることはない」
って。つまり、鹿目さんが最初に早瀬さんを目撃したとき、早瀬さんはまだ「人取り鏡」に囚われていたのです。だから、私が鏡の前を通って美術室にたどり着いたとき、走狗である私は「人取り鏡」に囚われることはありませんでした。
私が美術室前にたどり着いたのは、客人のなかで最初でしたよね。鹿目さんからの連絡があったとき。あのとき、私には早瀬さんの姿が見えていなかったんですよ。最初に扉越しに見たときにはね。けれども、しばらくすると早瀬さんが扉の向こうに現れたのです。もちろん、それは黙っていました。そのあとで他のみんなも遅れてやってきて、早瀬さんの姿を認識した、っていう流れになりますね。
その後、みんなで猫又さんを呼びましたよね。で、猫又さんが現場を一通り調べた後、来栖さんと猫又さんは校内の調査に向かった。猫又さんは聞き込みができないし「容疑者」を監視抜きで野放しにするわけにもいかないから、来栖さんと猫又さんがコンビで捜査しました。残りの私たち六人はずっと、美術室の前で待っていた。二人が調査を終えた後、猫又さんの導きでこの交霊会の会場へと入ってきたわけだけれど、私は早瀬さんが「人取り鏡」から逃れた後は、一度も大鏡の前には立っていないわけです。つまり、私が走狗であるのに「人取り鏡」に囚われなかったということには、何も矛盾がないってことです。
私が最初から知っていた霊障というのは、本当は「言いなりメール」「他人の体」でしたが「絵画世界」の存在や効果についても、かなりの部分、伝聞や検証により知っていました。「絵画世界」があるため、現場が美術室になる可能性が高い。霊障は事件に関連して全て発動していなくてはいけませんからね。だから、私は美術室に張り込むことも多かった。鹿目さんと私が以前遭遇したのも、そんな折ですね。
実際、犯行は美術室で行われたようでしたね。狗神憑きである松村さんによって。それと、私は走狗であるから狗神憑きの禁忌について知っていました。松村さんがおっしゃっていたように「被害者の霊痕と同じ部屋にいることはできない」というものですね。だから、私はそれが明らかにならないように、現場に工作を施すことにしました。つまりは、密室をつくり、現場に偽の痕跡を残したのです。「絵画世界」を用いて美術室に出入りし、手を加えたのでした。ダイイングメッセージというのは、そのときに現場に残そうと迷ってやめた、事後工作の一つでした。さっき咄嗟にダイイングメッセージというのが口をついてしまったのは、そのためですね。
でも、私はダイイングメッセージを書き残しませんでした。私って、ちょっと見てわかる癖字なんですよね。知っている人も多いとは思いますけれど。だから、筆跡から私に注意が向けられてしまうかもしれないと思って。それは、避けたかったんですね。だからやめた。でもそのことが念頭にあったから、ついダイイングメッセージが口から出てしまった。そんな感じです。
ところで、現場にあった早瀬さんの霊痕には「人取り鏡」の霊障がかけられているようでした。でも、私は走狗だったので霊痕の探知能力があります。早瀬さんがどこにいるのか、見当がつきました。鹿目さんもおっしゃっていましたよね。走狗には、見えているのとほとんど変わらないと。それに現場には早瀬さんのスマートフォンがありましたから。それを使って、早瀬さんの状態を確認することができました。ケータイのカメラの写真でね。
早瀬さんのスマートフォンには、ロックがかけられていませんでした。大雑把な彼女らしいと言えば彼女らしいですよね。乱視もあったから、ロックをかけるのが面倒だったのかもしれません。ともかく、私には彼女のスマートフォンを使うことができた。それは思いがけないラッキーでした。
事後工作をするとき、私は裸の状態でした。「絵画世界」で出入りしましたのでね。それを誰かに見られたらまずいので、私は別の客人に「他人の体」を使って成り済ますことにしました。具体的には松村さんですね。松村さんしか「他人の体」で変身できる人間はいなかったので。客人以外の人間に変装するのは規約に従って厳しいですからね。犯行に部外者はあまり関係させてはいけないことになっている。でも松村さんに化けたのは失敗でしたね。狗神憑きだったわけですから。こんな偶然があるものなんですね。六分の一の博打を外すなんて、本当についていない。
それで「言いなりメール」なんですけれど。私は確信が持てなかったんですね。これが既に事件に関連して発動していたのかどうか。狗神憑きが「言いなりメール」を発動させていたのかどうか、私にはわからなかった。だから、私は自分自身に「言いなりメール」を使ってみることにしたんです。幸いなことに、現場にはラベンダーの花が生けられた花瓶がありましたのでね。
「お願いだから、二分くらいで適当に現場を工作して、捜査を撹乱させて。このメッセージも端末から消去して」
って。「言いなりメール」の発動要件は「お願いだから?して」という内容を目にすることですよね。私は、彼女の端末を使って、自分のケータイに「言いなりメール」を送り、その文面が表示されたディスプレイを見ることで「言いなりメール」の霊障を自分にかけたのでした。もちろん霊障の効果は一人の対象に同時に二つ以上及ぶことはありません。だから、私はその前に止むを得ず花瓶の中の水を被りました。
「言いなりメール」の効果にかかって、私は自分でも思いもしなかった行動を無意識に取っていました。
「お願いだから、今すぐ美術室に来て」
早瀬さんのスマートフォンから、自分の端末にそう送っていたのでした。あのメールは霊障にかけられた私が、私に送ったものなんです。霊液を踏み荒らしたような跡を拵えたのも私です。
しかし大きなトラブルもなく、事後工作にひと段落ついて「絵画世界」から脱出しようとしたわけだったのですが、念のために美術室の入り口の扉窓から外を覗き込んだのでした。そこで、私はあるものを目にして驚きました。私が普段身につけているのと同じ、赤い髪留めです。それは多分、私のものではなかったと思います。でも、客人の皆さんも私があの髪留めをしているのを記憶しているかもしれないと、私は思いました。だから、思わず扉を開けて、その髪留めを拾いました。
鹿目さんが目にした人影というのは、その時のものでしょうね。私は、髪留めを慌てて回収し、空調の中に放り込んだのでした。そして、そのまま急いで「絵画世界」から脱出したのでした。
それから「絵画世界」から抜け出た先の、実習棟一階のトイレにも工作を施しました。先ほどお話しました通り「絵画世界」には何かを身につけて入ることはできません。それは例えば、絆創膏とか湿布のようなものでも、なんでも。けれども体の汚れとか濡れた状態は引き継ぐのです。だから、私は指を早瀬さんの霊液で濡らしたのでした。そうして、手にたっぷりとつけた霊液をトイレでの工作に使った。あたかも、本当の現場がそこであるかのように見せかけるために。
まあ、そんなところですね。何か質問があればどうぞ
猫又のマタによる幕間
「言っていること、矛盾してない。松村と」
井上さんが強い口調で言った。
「松村、言っていたよね。自分は扉越しに早瀬を呪殺しただけで、後のことは知らないって。なんで『人取り鏡』がかけられていたの」
井上さんが言った。
「うーん」
松村さんが目を瞬いて言った。
「私の記憶違いでしたね。『人取り鏡』は、私が発動させたんです」
松村さんは言った。
「実現した霊障も違ったし」
井上さんが言った。
「こっちの記憶違いでしたね。霊障は後藤さんが言っていた情報が正しいのです」
松村さんはしどろもどろに言った。
「あんたが走狗なんじゃないの。松村。後藤さんが狗神憑き」
井上さんが言った。
「いやいや」
松村さんが目を丸くして言った。
「どうだろう」
来栖さんが言った。
「それがミスリードで、本当は松村さんが狗神憑きかもよ。なんとも言えない」
来栖さんが言った。
「そうだよね」
井上さんが顎に指を添えて言った。
「まあ」
伊藤さんが言った。
「後藤さんが狗神憑きである可能性は高いですよ。総合的に考えて。そもそも後藤さんが走狗だとしたら霊痕の発見現場を美術室にしたのは不自然です。それは交霊会で後藤さんが走狗か狗神憑きだと発覚したとき、致命的な手がかりを与えることになる。『人取り鏡』があるんですからね。早瀬さん以外では、後藤さんだけに効果が及ぶはずの『人取り鏡』が」
伊藤さんが言った。
「まあ、そうなんだよね」
来栖さんが苦笑いして言った。
「で。どうなの、松村。さっき言っていたこと、後藤さんの話と矛盾していたけれど、具体的にどう訂正が入るの」
井上さんが言った。
「ええ。私は早瀬さんに『人取り鏡』の話を持ちかけたんです。実験して試したいんだけど、いいですかって。彼女はそれに素直に応じてくれましたね。上履きを脱がせて、鏡の前に立ってもらって。彼女を『人取り鏡』で気絶させました。私は狗神憑きなので『人取り鏡』にかけられた早瀬さんの姿を認識できましたね。そのまま、彼女を美術室まで運んで、美術室の扉越しに呪殺したのでした。廊下の方へ霊液が滴っていなかったのは、台車を使ったからですね。呪殺した早瀬さんを、あの台車に乗せて部屋の奥まで運んだ。私は禁忌のせいで、早瀬さんを運んでは美術室に入れなかったのでね。同じ部屋にはいられないので。
密室も私や早瀬さんが拵えたものではありません。私は鍵を美術室の中に放り込んでおいたのです。後のことは、わからないです」
松村さんが言った。
「なるほど。うまく二人で話を合わせたね。整合性はありそう。
でも、思い出した。足の傷はどうなるの。靴擦れの傷。あそこから血が出ていたよね」
井上さんが言った。
「彼女は、止血処置をしていましたよ。だから、足から血は出なかった」
松村さんが早口で言った。
「絆創膏、してなかったじゃん。早瀬は」
井上さんが言った。
「いや、マジですって」
目をキョロキョロさせて松村さんが言った。
「私が剥がしたんですよ。彼女がつけていた絆創膏を」
後藤さんが手を挙げて言った。
「後藤さんが」
井上さんは言った。
「ええ。捜査の撹乱のためにね。
被害者が『絵画世界』を通過したという方に誘導したかったんですよ。知っての通り『絵画世界』では、何かを身につけて通過することはできません。絆創膏も、つけては通れないんです」
後藤さんが言った。
「ああ」
松村さんがため息をついて言った。
「なるほど」
井上さんが言った。
「ええ」
後藤さんが頷いて言った。
「じゃあ、その絆創膏はどこへ行ったの。二回目の猫又の調査でも見つからなかったじゃん」
井上さんが言った。
「忘れちゃいました。夢中だったので」
困ったように笑って後藤さんが言った。
「苦しいよ。規約によって、事件の証拠品は結界の外へ持ち出せない。かつ血液に対して優れた探知能力のある猫又さんが結界全域の調査を済ませている。でも絆創膏は見つけ出せなかった。絆創膏は使われなかった、ってことじゃない」
井上さんが言った。
「どうなんでしょうね。
絆創膏を剥がしたのは私です。どこへやったのかは忘れました。猫又さんの探知能力は優秀だけど一〇〇パーセントではないでしょう。私からはそれだけです」
小さく笑って後藤さんが言った。
「どうなんだろ」
納得がいかなそうに井上さんが言った。
「松村さんとの話で、整合性がなかった部分はそんなところですかね。
まだ井上さんから何かありますか」
後藤さんが言った。
「うーん。もう特にないです」
井上さんが渋そうに言った。
「承知しました。
他に、何か質問がある方はいますか」
後藤さんが周囲を見回して言った。
「あ。いいですか」
鹿目さんが控えめに手を挙げて言った。
「ええ、どうぞ」
後藤さんが言った。
「はい。
えっと。後藤さんは、美術室に例の『言いなりメール』で呼び出されたのではないってことですよね。私がお見かけしたあの人影は、髪留めを拾おうとして美術室から出てきたときのものだということですね」
鹿目さんが小さく言った。
「その通りです」
後藤さんが言った。
「なるほど。で、あのメールは自分で送ったということですね。『言いなりメール』は自分にかけた、と」
鹿目さんが言った。
「そうです」
後藤さんが言った。
「『言いなりメール』ってすごく後に響くんですよね。体がぐったり疲れてしまう。気合いでは何とかできそうにないくらい。けれども美術室前で霊痕を見つけてみんなを呼んだとき、後藤さんはダッシュで駆けつけてくれましたよね。真っ先に。
なんかピンとこないなあ、って」
鹿目さんが言った。
「空元気でしたよ。無理していました」
困ったように笑って後藤さんが言った。
「そうですかあ」
鹿目さんは苦笑いして言った。
「そうです」
後藤さんが言った。
「うーん。
まあ以上です」
不服そうに鹿目さんが言った。
「了解です。
他に誰か」
後藤さんが周囲を見回して言った。
「じゃあ、俺から」
荻野さんが笑って言った
「どうぞ」
後藤さんが言った。
「ええ。まあ御二人のうち、どちらかが狗神憑きということになるんですけれど。やはり決め手になるのは『禁忌』かなって、思っているんです。あずにゃんが最初に言っていましたよね。禁忌は『美術室に入れないこと』だって。これって、結構密室を作った理由として説得的だと思っているんですよね。加藤さんと後藤さんを繋ぐ、伝記的な裏付けもある。
それでね。鹿目さんと後藤さんが美術室で鉢合わせた時があったらしいじゃないですか。あの時、鹿目さんは後藤さんが美術室の中にいたところを見ていたのかなって、気になっているんですけれど。どうなんでしょう」
荻野さんが言った。
「どうでしたっけ、鹿目さん」
後藤さんが鹿目さんに言った。
「えっと」
鹿目さんがおずおずと言った。
「後藤さんが美術室の前にいるところは見たけれど、中にいるところは見ていなかったと記憶しています。はい」
鹿目さんは小さな声で言った。
「なるほど」
荻野さんは言った。
「つまり。後藤さんが狗神憑きであり、禁忌が『美術室に入れない』である可能性は、依然として高いってことですかね」
荻野さんは言った。
「そうなんですかね。
まあそれだけのことです」
後藤さんは素っ気なく言った。
「しんどいですね」
荻野さんは笑って言った。
「ところで。後藤さんにもう一つ質問なんですけれど。後藤さん的には、どういう条件が揃ったときに、後藤さん自身が狗神憑きであると認めざるを得なくなると思いますか」
荻野さんが言った。
「そうですね」
苦笑いして後藤さんが言った。
「一般論でしかないですけれど。呪殺した人間にしか知り得ない情報を私が語ってしまったとか。あるいは、走狗が知っているはずのことを知らないと発覚した時とか。それとか、禁忌が確定的になって、それを犯せなかったのが私だけと判明したときとか」
後藤さんが言った。
「なるほど。まあ、そんな感じですよね。
うーん。しんどそうですね、結構。どっちが犯人なのかを確定するのは。後藤さんだとは思うけれど」
荻野さんが笑って言った。
「まあ、頑張ってくださいな」
後藤さんが苦笑いして言った。
「あ。そう言えばあの髪留めって、後藤さんが投げ入れたんですね」
荻野さんは言った。
「ええ。そうです。
時々、あれと同じのを使っていたんですよね」
後藤さんが言った。
「見たことあるかも。後藤さんが着けているの。言われてみればって感じだけれどね。よく見るやつだし。
てか、早瀬もよく着けていたしね」
井上さんが言った。
「しかし不味かったですね。猫又さんの探知能力はすごいですから。すぐ見つかっちゃったし」
荻野さんが言った。
「そうですね」
後藤さんが言った。
「しかも、霊液がついていたから、事件への関連性が認められちゃったし」
荻野さんが言った。
「そうですね」
渋い顔で後藤さんが言った。
「でも、もしあの髪留めをあの中へ入れたのが本当に後藤さんだとしたら、後藤さんは美術室の中へ入れたってことですよね」
荻野さんが言った。
「そうなりますね。
私はそもそも走狗ですし、禁忌なんて関係ありませんからね」
後藤さんが苦笑いして言った。
「なるほど。
まあ、この黄泉還りの儀の規約として、自分に割り振られた役割を決められた段階までは周囲に明かしてはいけないことになっています。違反したら犯人たちの敗北になりかねない。だから、仮に後藤さんが狗神憑きだとしても、それを知った走狗が庇おうとして、後藤さんの身につけていたものと同じ髪留めをエアコンに隠したとか、そういう状況は考えにくいのかなあ」
荻野さんは思案しながら言った。
「そうでしょうね」
後藤さんが言った。
「それに、あれを残したのが早瀬さんだというのも、やっぱり考えにくいかな。ダイイングメッセージの線はなさそうですしね。これまでの話の経緯からして。だから、あれを隠したのは走狗か狗神憑きか、どちらか」
荻野さんが言った。
「そうなりますかね」
後藤さんが言った。
「ダイイングメッセージ、か」
伊藤さんが低く言った。
「なんでそんな発想が口をついたんでしょうね。一体」
伊藤さんが言った。
「何かをごまかそうとしたかだろうね。やっぱ」
井上さんが言った。
「それはそうかもだけれど、なんでしょうね」
荻野さんが笑って言った。
「ひょっとしたら」
来栖さんが口を挟んだ。
「本当に現場でダイイングメッセージを見ていた、とか」
来栖さんが言った。
「あ」
松村さんが目をパチパチさせて言った。
「何か」
来栖さんが松村さんに尋ねた。
「いや。別に」
松村さんがキョロキョロしながら言った。
「そう。
えっと。僕が思ったのは、すれ違いが起こっちゃったのかもって。狗神憑きと走狗の間で。走狗が事後工作としてダイイングメッセージを残した。それがたまたま、狗神憑きの名前だった。それから、狗神憑きは『言いなりメール』を事件に関連して発動させようとして、早瀬さんの端末からダイイングメッセージで指示した相手にメールを送った。そんな可能性があるのではないかなと。これまでの話を総合するに」
来栖さんが言った。
「なるほど」
伊藤さんが静かに頷いた。
「うん。
それで、狗神憑きは『言いなりメール』が送られてきて、不審に思いながらも現場に着いた。そして、現場で偽装工作として残されていた自分の名前を目にした。霊液で書かれたメッセージを。それが、ずっと印象に残っていた」
来栖さんが言った。
「つまり」
後藤さんが静かに言った。
「私が狗神憑きってことですか」
後藤さんは強く、はっきりと尋ねた。
「そうですね。そうなります。
さっき言っていましたよね、後藤さん。『博打を外してしまった』って。でも、博打を外してしまったのは後藤さんではなくて、松村さんだったと思うんです」
来栖さんは言った。後藤さんは、小さく一つため息を吐く。
「証拠はあるんですか」
後藤さんは言った。
「確たる根拠はないです。ただ、残された情報に自分なりに整合性を与えようとするとこうなる、みたいな」
来栖さんが言った。
「説得的だと思いますよ」
伊藤さんが厳かに言った。
「いろいろな部分が、来栖さんの説明でしっくりくる」
伊藤さんが言った。
「どうも。
でもダイイングメッセージは鹿目さんが発見したときには残っていなかったわけでしょう。恐らく、それは被害者の霊痕によって抹消されてしまったんではないかと。ほら、走狗は多分、すぐに思い至ったと思うんだよね。自分が狛犬か狗神憑きにメールを送ってしまった可能性について。だから、現場にある霊痕に『言いなりメール』で何か指示を出した。その結果、早瀬さんはダイイングメッセージを消してしまった。多分、そんな展開があったのではないかと」
来栖さんは言った。
「ええ。説得的だと思います」
伊藤さんが頷いて言った。
「まだ残っている謎も多くありますが。霊具に残った霊液について。なぜ、弓矢に霊液が付着していたか。それから、髪留めは事件にどう関係しているのか」
伊藤さんが言った。
「そうですね。それに、僕の説が正しいとしても、確定的な根拠は無いわけだし」
来栖さんが苦笑いして言った。
「まあ、そうですよね」
小さく笑って後藤さんが言った。
「松村がどこかのタイミングで美術室に入ったことは確定的なわけじゃん。花瓶の発言からして。だから何とか、それが美術室に霊痕と一緒にいた時だと示せればね。後藤さんが狗神憑きだと、ほぼ決まるけれど」
井上さんが顎に指を添えて言った。
「それが難しいんだよね。なかなか」
来栖さんが苦笑いして言った。
「後藤さん側から提示された、後藤さんが美術室に入った証拠は髪留めしかないんだよね。それもまあ、否定も肯定もしんどい。松村さんが入れたのかもしれないし、早瀬さんが入れたのかもしれない。『言いなりメール』で操られた早瀬さんの霊痕が」
来栖さんが言った。
「霊液の痕跡からどうこうする線もしんどそうですしね。弓矢に残された。あれは多分、狗神憑きか走狗が残したものだろうけれど」
伊藤さんが言った。
「袋小路だなあ」
荻野さんが笑って言った。
「こういうときはやっぱりね、雑談するとか。そうやって視点を変えることが必要だと思うんです。
どうですか。まだみんなから何か後藤さんに質問はありますか。ないならちょっと、ゆるーく話しませんか」
荻野さんはみんなに向かって言った。
「いいと思う」
井上さんが頷いて言った。みんなも頷く。少し、空気の緊張が緩むのを感じる。
「雑談しましょう。何か掴めるかもしれない。
ま、雑談と言っても事件と関係ない話だとあれなんで、加藤さんが好きだった作品の話をば」
荻野さんが言った。
「いいね。
そういえば『箱男』って作品、交霊会で全然話題にならなかったけれど、有名な作品なの」
来栖さんが言った。
「安部公房の作品でしょ。そこそこ有名」
井上さんが言った。
「どういう話なの」
来栖さんが尋ねた。
「伝えるのが難しいね。難解だし。段ボール箱をかぶった男が主人公。シュールな内容なのよ」
井上さんが言った。
「なるほど。アングラな雰囲気はわかるような、わからないような」
来栖さんが笑って言った。
「確か、ゲームの『メタルギア』シリーズも『箱男』の影響があるらしいですよね。段ボールをかぶって主人公のソリッド・スネークが身を隠すギミックがあるんですけど」
荻野さんが言った。
「早瀬も真似していたわ、それ」
井上さんが言った。
「そうなんだね」
荻野さんが笑って言った。
「段ボールを被って『箱男』の真似。
そういえば『箱男』では偽医者の『C』が登場人物として現れるんだけど、早瀬はその偽医者の真似もよくしていたな。インチキ医者ごっこ」
井上さんが言った。
「それってどんなの」
苦笑いして来栖さんが言った。
「なんか布とかちぎって、傷に巻くの。あいつはせっかちだからよく怪我をするでしょ。それで怪我に代用品で治療を施すの。体を張ったギャグ」
井上さんが言った。
「なるほど。早瀬さんらしいね」
来栖さんが笑って言った。
「うん。あいつらしい。
それは、小学生の頃の話だけどね。早瀬、貧乏だし面倒くさがりだから、似たようなことが習慣になっちゃって。あいつ、ガーゼとか使って絆創膏がわりにすることが結構あるわけ。絆創膏がない時に」
井上さんが言った。
「すごいね」
荻野さんが苦笑いして言った。
「そうね。なんか軍人みたい」
井上さんが笑って言った。
「ところで」
松村さんが口を挟んだ。
「『箱男』も事件に関係していると思いますか」
松村さんが言った。
「いや、あんたが言うなって。松村は犯人側でしょ」
井上さんが笑って言った。
「すみません」
松村さんが目をパチパチさせて言った。
「まあまあ。
うーん。でも『箱男』か。何か霊障と関係あるのかなあ」
荻野さんが言った。
「そういえば『箱男』では『見る主体』と『見られる客体』の転倒のモチーフがあるわけですけれど。もしかしたらそれがお姉さんとの関係に通じているのかもしれませんね」
伊藤さんが静かに言った。
「なるほど。ありそうだね」
荻野さんが言った。
「それから、今の会話から思いついたことが一つ」
伊藤さんが厳かに言った。
「現場に残された、マスクについてです」
伊藤さんが言った。
「マスク。早瀬が着けていた」
井上さんが不思議そうに言った。
「そう。その本当の用途についてです」
伊藤さんは静かに言った。
「用途。
あ」
井上さんは何かに気がついて言った。
「あれ絆創膏代わりだったってこと」
井上さんが言った。
「ええ。そうです。結界の敷かれた校内から事件の証拠品は持ち出せないはず。でも、剥がされたはずの絆創膏は、どこからも見つからなかった。しかし現場からは血の付いたマスクと、髪留めに貼り付けられたテープが発見されました」
伊藤さんが言った。
「それは、早瀬が絆創膏の代わりに使っていたかも、ってことか」
井上さんが言った。
「ええ。
大鏡の前にも早瀬さんの血液の痕跡はなかった。『人取り鏡』は狛犬である鹿目さんから提供された情報であるから、それが事件に関係して発動したことは確実です。鏡の前に靴下で早瀬さんが立ったとき、傷は塞がれていたはずです。猫又さんが血液の痕跡を発見できなかったんですから」
伊藤さんが言った。
「猫又さんは血液の感知能力には優れていますもんね」
荻野さんが言った。
「ええ。
だから美術室の中に入るまでは傷は塞がっていたと考えていいでしょう。そして美術室の中ではそれが開いていた。恐らく、現場で『絆創膏』が剥がされたんでしょうね。そしてそれは、現場に隠された」
伊藤さんが言った。
「それがマスクと髪留めに貼り付けられたテープってわけね。
そうだとすると」
井上さんが言った。
「さっきの後藤さんの発言って、おかしくない。『絆創膏を剥がした』って」
井上さんが思いついて言った。
「そう。僕も不自然だと思います。剥がしたのがマスクとテープなら、それについて言及しないはずがないんです。何の断りもなく、それを『絆創膏』と呼ぶはずはない。
一方で松村さんは『絆創膏』という言葉を使っていませんでしたよね。『止血処置を施していた』と言ったんです」
伊藤さんが言った。
「つまりその自家製『絆創膏』を剥がしたのも、やっぱり松村だったってことね。事後工作として、美術室で」
井上さんが言った。
「待ってくれ」
松村さんが目を瞬かせて言った。
「『取り寄せ電話』が使われたのかも。絆創膏とテープを現場から持ち出すのに」
松村さんが言った。
「もうめちゃくちゃだね。
いい。松村」
井上さんが言った。
「猫又の血液に対する探知能力はすごいの。結界内部の調査は、さっき徹底的に済ませたわけ。どこかに隠したっていうのなら、一体どこへやったっていうの。後藤さんにしてもそうだけど。『絆創膏』をどこかへ隠したっていうのが本当なら、それがどこか教えてくださいな」
井上さんが強く言った。
「うーん」
腕組みをしながら松村さんが言った。
「もう議論は煮詰まったかと思います。状況証拠が揃いすぎている。狗神憑きは後藤さん、走狗は松村さん、禁忌は『美術室に入れないこと』だという。それに対する反論も体裁を成していない。そしてこれまで発見された痕跡を結ぶストーリーも、はっきりしてきました。結論は出つつあるように思います」
伊藤さんは言った。
「でも」
松村さんが喘ぐように言った。
「まだ解明していない謎があります。例えば霊具の弓矢について」
松村さんが言った。
「残された霊液の痕跡について、ですか」
伊藤さんが言った。
「そう。
来栖さんも言っていました。あの手の痕は不自然だと。それについて議論する必要があると言えるのではないでしょうか」
松村さんは言った。
「そうかもしれませんね」
伊藤さんが腕を組んで言った。
「手の跡か」
井上さんが宙を見つめて言った。
「霊具は霊液に濡れない。だから、あの痕跡は一度、霊具としての性質を失ってから付いたということだよね」
井上さんがみんなに言った。
「そうなりますね」
伊藤さんが言った。
「疑問なんだけれど」
井上さんが顎に指を添えて言った。
「松村の話だと、トイレに弓矢を運んだのは狗神憑きってことでしょ。
なんか、不自然じゃない」
井上さんが言った。
「何でっすか」
松村さんが目をパチパチさせて言った。
「『絵画世界』があるから、走狗に事後工作を任せたって話でしょ。なら霊具も任せればいいじゃん」
井上さんが言った。
「いや。それはむしろ『絵画世界』の効果を知っていたからですよ」
松村さんが言った。
「『絵画世界』は物の運搬には使えません。だから、狗神憑きが処分するのが適当なわけです。現場に弓矢を残しても、走狗は持て余すでしょう」
松村さんが言った。
「そっか。そうかも」
井上さんは言った。
「でも、それだとやっぱり妙じゃん」
井上さんは渋い顔でいった。
「狗神憑きはずっと弓矢を携帯していたわけでしょう。現場に運び込むまで。なら、弓矢が霊具としての特性を喪失するタイミングはトイレに運び込まれたときってことでしょう。霊液の痕がついたわけがわからない。
あずにゃんがさっき言っていたけれど、流石にあれがミスリードってことはなさそうだし」
井上さんが言った。
「というか」
荻野さんが口を挟んだ。
「三つ目の霊障って『絵画世界』で確定なんですか。そこのところどうなんでしょうね」
荻野さんがにこやかに言った。
「でも、まあ」
来栖さんがさらに口を挟んだ。
「何らかの手段で霊液が運搬されたのは間違いないよね。トイレと美術室の間で。そうするとやはり『絵画世界』が使われたと見るのが適切かな、とは思う。霊液の運搬に用いられた可能性のある容器は、猫又さんにも発見できなかったわけでしょう。事件の証拠品を結界の外へ持ち出すことは規約で禁じられているわけだし、発見できなかった以上、手に霊液を塗りたくり掬って『絵画世界』を通り、トイレでの事後工作に使ったと見るべきかなと思う。
それに、やはり現場が美術室であったことも『絵画世界』が実現した根拠としてみてもいいのかな、と。だって『人取り鏡』があるんですから、後藤さんにとって現場が美術室であることはリスクが高かったはずです。それでも事件現場が美術室であったわけだから」
来栖さんは言った。
「僕も、同じ意見ですね」
伊藤さんが静かに言った。
「霊具に残った霊液の跡は、走狗が付けてしまったものだという気がします。故意にではなく、うっかり」
伊藤さんが言った。
「その可能性も高いですね」
来栖さんが頷いて言った。
「そうだとしたら、どうして手の跡が付いたんだろうね。やっぱり。
いろいろ情報を総合するに、走狗が工作したあとで、トイレに弓矢が持ち込まれたっぽいでしょ。狗神憑きによって。それだと霊具に走狗の手の跡がつくタイミングがないよね」
井上さんが言った。
「うーん。でも」
荻野さんが苦笑いして言った。
「何かのはずみで狗神憑きの体から一旦霊具が離れて、霊具としての力を失効した。そして狗神憑きがうっかりトイレの霊液に触れて、その痕を霊具でなくなった弓矢に残してしまった、という可能性も十分に考えられると思います。だから、あんまり考えすぎても仕方がない気持ちもするんですよね」
荻野さんが言った。
「それもそうだよね」
伊藤さんが静かに言った。
「あるいは、霊具の方がトイレでの工作を済ませるよりも先にあったのだったりして」
来栖さんが言った。
「あ」
松村さんが目をパチパチさせて言った。
「どうかしましたか」
来栖さんが松村さんに言った。
「いや。別に」
松村さんがおどおどと言った。
「あずにゃん。どういうこと」
井上さんが言った。
「うん。いろいろ時間的な部分を考え合わせるとその可能性が高いと思う。
ほら。走狗が『絵画世界』を通って美術室で工作をしている間に『絵画世界』が使われたトイレに弓矢を持ち込んだ可能性。多分この『絵画世界』の入り口として使われる場所はトイレの個室になる可能性が高いってことは、想定しやすいと思うんだよね。鍵を閉められて、一人きりになれる場所。それはトイレになるのかなって。
犯行を済ませた狗神憑きは、校内のトイレを探し回った。そして、衣服の脱ぎ捨てられた痕跡のある、鍵がかかったトイレの個室を発見した。だからそこに弓矢を置いておいた。そんな展開が考えられるのではないのでしょうか」
来栖さんが言った。
「なるほど。そうかもしれません」
伊藤さんが深く頷いて言った。
「これまでの話を総合すると、狗神憑きである後藤さんは、走狗の側で起こった『事故』によって、美術室に呼び出されことになります。つまりはあの『言いなりメール』ですね。そしてそれはおそらく、走狗による事後工作の締めくくりになされたことになります。とすると、走狗が事後工作を施したトイレを探し出して弓矢を置くための時間的な猶予はなかったということになります。
そうだとするなら、走狗がトイレに舞い戻った時にはすでにそこに弓矢が置かれていたと考えるのが自然かもしれません。客人の衣服からは霊液の痕跡が見つかっていないということは『絵画世界』を通る前に、衣服はどこか陰になる場所に畳んでおいたのでしょう。便器のすぐ横とかね。しかし、弓矢は思いがけない場所に置かれていたために、うっかり触れて、霊液の痕跡を残してしまったのではないでしょうか。走狗である松村さんは」
伊藤さんが言った。
「う」
松村さんが目をパチパチさせて言った。
「何ですか」
伊藤さんが鋭く言った。
「いえ」
松村さんがおどおどと言った。
「そうですか」
伊藤さんが言った。伊藤さんは、一つ大きなため息をつく。
「正直、現段階で狗神憑きは後藤さん、走狗は松村さんだと判断を下すに足る証拠は十分あると思います。確定的とは言えないかもしれないけれど、事件の事実の荒枠もわかってきた。これ以上、些末な部分に拘ってもキリがないのかもしれない」
伊藤さんが言った。
「そうなのかもね」
来栖さんが言った。井上さんと荻野さん、鹿目さんも頷く。
「僕の方から一つ、今回の交霊会の討論のまとめをしたいと思います。それで異議がなければ、結論に移ってもいいんじゃないでしょうか」
伊藤さんが言った。
「うん。お願いします」
来栖さんが笑って言った。
伊藤真斗の話
今回実現した霊障は三つ。「人取り鏡」「言いなりメール」「絵画世界」です。狗神憑きは後藤さん、走狗は松村さん。狛犬は鹿目さん。そして禁忌は「美術室に入れない」というものでした。
恐らく美術室の鍵を持ち出したのは早瀬さんです。だから今井先生は、鍵を持ち出した人を記憶していなかった。そしてその後、鍵を持ち出した早瀬さんを、後藤さんは美術室手前の大鏡の前に立たせた。上履きを脱がせてね。どんな口実でそうするように誘導したのかはわかりません。もしかしたら、霊障に対する実験だとか言ったのかもしれませんが、詳しいことはよくわかりません。このとき、早瀬さんの足にはマスクとテープで拵えた自家製の絆創膏が付けられていました。しかしそれは靴下の中にあったので、後藤さんは気がつかなかった。後藤さんはそうして早瀬さんを「人取り鏡」の霊障にかけ、失神させた。
気を失った早瀬さんを、後藤さんは美術室へと放り込んだ。美術室の鍵と一緒にですね。そして横になった早瀬さんを、美術室の扉越しに呪殺した。霊液を浴びた衣服が結界の内部で発見されていないことから考えて、何らかの遮蔽物を介して呪殺したと見るのが適切でしょうね。また、この際に台車が使われました。台車の上に乗せた早瀬さんを扉越しに呪殺した後、それを美術室の奥へと押しやった。台車は美術準備室にあったもので、そうした理由は禁忌の制約と、霊液が外へと煽れて事件が発覚しないようにするためでした。この後で走狗に事後工作をしてもらう都合がありますからね。その前に客人が、扉の下から滲み出た霊液を発見して美術室に来てしまったら困る。だから台車が使われました。後の事後工作は走狗に任せて、後藤さんは現場を去った。それにはリスクがありましたが「人取り鏡」にかけられている被害者の霊痕は狛犬以外の客人には認識できないですからね。発見できたとしても霊液の痕跡だけです。だから走狗が早急に霊痕を発見して事後工作してくれることに賭けた。走狗には霊痕の探知能力がありますしね。
そして、松村さんはその期待通り、真っ先に現場へ駆けつけてくれた。走狗である松村さんは、恐らく「絵画世界」と「言いなりメール」の存在を事前に知っていたのではないかと思います。走狗であることによって。また「人取り鏡」についてもかなりの部分知っていた。そして、現場で姿の見えない霊痕を走狗の探知能力で感知し、その写真を撮った。噂で小耳に挟んでいたのかと。そしてもう一つの実現した霊障が「人取り鏡」だと知った。
松村さんは状況を把握し、自分がするべきことをおよそ理解しました。しかし、松村さんが知らない事実もあった。例えばそれは「人取り鏡」でした。後藤さんとしては、被害者の霊痕が美術室で発見されることは避けたかったはずです。なぜなら本来「人取り鏡」の効果を受けるはずの自分が、美術室手前の大鏡の前を通ったという事実が周囲に共有されることになる。自分が走狗か狗神憑きであるということが交霊会において暴かれてしまったなら、その事実は甚だ自分を不利にする。だから、霊痕の発見現場が美術室になるのは避けたかった。
でも、松村さんはそうしてくれなかった。松村さんは、恐らく「人取り鏡」については不十分な情報しか持っていなかったのでしょう。それに、仮に十全に知っていたとしても、美術室から霊痕を移そうと考えたかどうか。走狗は狗神憑きの正体までは知らないわけです。狗神憑きは「人取り鏡」にかけられる、被害者以外の唯一の客人である後藤さんではない可能性も高い。だから霊痕をわざわざ別の場所へ移そうとするとも限らない。霊痕を移動させるのは難行ですしね。
それに松村さんは、現場で焦りを感じていたはずです。「言いなりメール」が発動したかどうかわからないから、発動させるのが望ましい。だけれども、霊痕には「人取り鏡」の霊障がかかっているから「言いなりメール」をかけられない。「絵画世界」も通過させられない。もちろん「言いなりメール」を自分にかけるという方法もあります。しかし「言いなりメール」を使った後、しばらくは身動きが取れない状態になる。そこを他の客人に見つかったらまずいことになる。それはなるべくなら避けたい。それに自分にかけたならば、体力を著しく消耗してしまうから、他の客人の不審を招く。それはどうしても避けたかった。
このとき、松村さんにはもう一つ別の選択肢もありました。誰か別の客人に「言いなりメール」を送りつけることです。しかしこれには二つ、大きな問題がある。一つ目は、ラベンダーの香りの問題です。「言いなりメール」が発動するためには、ラベンダーの香りを知覚しなくてはならない。でも、ほぼ確実にラベンダーの香りを知覚できそうな場所があった。そこは昇降口です。昇降口の様子は、美術室から外に出てすぐの廊下の窓から伺うことができた。だから万が一に備えて、松村さんには昇降口前に現れた客人に「言いなりメール」を送る準備があったと思います。
けれども当然そこにはもう一つのリスクもあるわけです。すなわち、狗神憑きあるいは狛犬に「言いなりメール」を送ってしまう可能性です。この場合「言いなりメール」は不発に終わってしまう。だからこれは次善の策だったはずです。早瀬さんの霊痕に使うのがベストでした。「人取り鏡」は実際には周囲の人間に効果の対象をとるもので、早瀬さんが狛犬である可能性もあったわけですが、松村さんからしたら効果が早瀬さんに及んでいるように見えた。だから狛犬ではなさそうな早瀬さんに「言いなりメール」を使いたかった。
松村さんはしばらく待つことにしたのだと思います。そして、霊障が解けるのを待ちながら、できる範囲で現場に工作を施した。例えばそれは現場に残したダイイングメッセージでした。あまり深い意味はなく、そこに後藤さんの名前を残したのだと思います。あるいは、何か後藤さんを狗神憑きではないと考える根拠があったのかもしれません。もしかしたら「他人の体」のことも松村さんはある程度、知っていたのかもしれない。それによって変身できるのが後藤さんだけだとも、了解していたのかも。現場には花瓶の水がこぼしてありました。あれは「他人の体」が使われたというミスリードの意味もあったと思います。「他人の体」のことを知っていたから、後藤さんに疑いを向けさせるのが好都合だと思ったのかもしれません。
それから早瀬さんの「絆創膏」を剥がしました。これは「人取り鏡」が使われなかったと見せかけるためでした。現場にあった早瀬さんの霊痕は上履きが脱がされていた。松村さんはそこから、早瀬さんの身長を調整し「人取り鏡」の霊障にかける目的があったものと推察したのでしょう。早瀬さんの姿は、早瀬さんのスマートフォンのカメラによって確認できた。松村さんが「人取り鏡」が実現した霊障だと知ったのは美術室へ入ったときだと思いますが「人取り鏡」についてもかなり知っていたのではないかと思います。だから「絆創膏」を外した。そしてマスクを付けさせ、テープを恐らくは早瀬さんが身につけていた髪留めに貼って、空調の中へ放り込んだ。そうして「絆創膏」の存在を現場から抹消したのでした。またこの工作には「絵画世界」を早瀬さんが通過したと思わせる意図もあったでしょうね。
そして、これが一番重要なことですが、美術室に密室を拵えた。走狗は禁忌を知っていますからね。美術室に密室を作らなくてはいけないことは分かっていました。現場には美術室の鍵も置かれていたので、それを使って現場に鍵をかけた。あとは「絵画世界」を使って脱出するだけ、と言いたいところでしたが、そうはいきませんでした。まだ「言いなりメール」を使うことができなかったのです。霊痕は「人取り鏡」の効果が解けずにいたので「言いなりメール」を使うことができずにいました。
痺れを切らせて、松村さんは美術室の外へ出た。そしてこっそりと昇降口前の様子を伺っていた。すると後藤さんの姿が見えた。これはしたり、と思ったのでしょう。
「お願いだから、今すぐ美術室に来て」
松村さんは後藤さんに送ったのでした。おそらく、その直後だったと思います。早瀬さんの「人取り鏡」が解けたのは。松村さんはとっさに早瀬さんに「言いなりメール」をかけました。今度は花瓶に生けてあるラベンダーを使ってね。
「お願いだから、現場を荒らして。他の客人にバレないように気を付けて。このメールもそのあとで処分して」
とでも送ったのでしょう。そして松村さんは「絵画世界」を使って、美術室から脱出した。手にたっぷり霊液を塗りたくってね。
入れ違いになる形で、メールを送られた後藤さんが美術室前へやってきた。そこで後藤さんは驚くべきものを目にしたのでした。霊液で記された自分の名前があったのです。気が動転したでしょうね。いきなりメールで犯行現場に呼び出されたのかと思えば、そこには自分の名前がある。もしかしたら走狗がしたことかもしれないが、誰かの罠かもしれない。考える間もなく、窓の向こうに鹿目さんがやって来るのが目に入りました。どうしようもなくて、一旦後藤さんは近くに身を隠しました。誰もいなくなったところで、鹿目さんがやってくるまでの間に「言いなりメール」で操られた早瀬さんは現場に工作を施します。ダイイングメッセージを消去したのでした。もしかしたら、操られた早瀬さんは現場での観察から後藤さんが狗神憑きだと判断し、ダイイングメッセージが不適切なものだと考えて消したのかもしれません。その辺りはよく分からない。鹿目さんはそのあとでやってきて、客人のみんなに連絡した。
一方で、松村さんは「絵画世界」から抜け出た先のトイレで、あるものを発見していた。それは弓矢です。後藤さんが当たりをつけて置いたのだと思います。校内のトイレを後藤さんはあちこち探索して見つけたのでしょうか。「絵画世界」を使う場所として適当なのはトイレとか個室だったはず。ノックしても全然返事がない無人の個室に、後藤さんは弓矢を置いたのでしょう。そして、松村さんが現場での工作を終えて「絵画世界」から出てくるとその弓矢を発見した。松村さんは真の現場がトイレであると錯覚させるための事後工作を図りましたが、その際に指で弓矢に霊液をつけてしまった。それがあの弓矢に残った霊液の意味するところでしょうね。
ざっとこんなところですかね。特に異議がなければ投票に移りましょうか。
3
猫又による幕間
「というわけで」
私はみんなに向かって言った。
「投票の結果が出ました。狗神憑きは多数決の結果、後藤さんになりました。
確認します。後藤さん。それで合っていますか」
私は彼女に言った。
「相違ないです」
笑って後藤さんが言った。
「走狗は松村さんですね」
私は言った。
「ええ。
そうです」
松村さんが首の裏を掻きながら言った。
「二人の方から補足しておきたい点とかありますか」
私は言った。
「いえ」
松村さんが首を横に振った。
「私からも、特には。だいたいみんなが推理した通りです。伊藤さんのまとめに付け加えておきたいことはありません」
後藤さんが言った。
「承知しました。二人ともありがとうございます。
お疲れ様でした。今回の交霊会も、犠牲者を出さずに乗り越えられました。みなさんの頑張りの賜物です」
私は笑って言った。一同頷く。みんなの表情も、先ほどまでと比べるとずっと緩んでいて、明るい。
「猫又さんもお疲れ様です」
荻野さんが笑って言った。
「良かった。
この『部屋』から出て現世に戻れば、早瀬が待っているね」
井上さんが窓の向こうを見て言った。
「うん。
なんかごめんね。みんなにも」
か細く笑って後藤さんが言った。
「なんでよ。後藤さんは悪くないでしょ。自分がやるべきことをやっただけ。松村も早瀬も。私たちみんながそう」
井上さんが言った。全員が頷く。
「そうですね」
私は口を挟んだ。
「井上さんのおっしゃるとおりです。ありがとうございます、井上さん」
私は言った。井上さんが笑って頷く。
「やれやれ」
目をパチパチさせて、松村さんが言った。
「嘘を吐くのはしんどいですね。ハラハラし通しでしたよ。
でもみんなを信じて、良かった」
松村さんが苦笑いして言った。
「ポーカーフェイス、苦手だもんね」
井上さんが笑って言った。
「ええ。まあ」
松村さんが照れたように笑って言った。
「髪留めって、早瀬のだったの」
井上さんが尋ねた。
「うん。そうだよ」
松村さんが言った。
「返してやらないと。かわいそうね。汚れたでしょ。埃をかぶって」
井上さんが言った。
「やあ。申し訳ない」
松村さんがしょぼくれて言った。
「早瀬に謝っておきなね」
井上さんが笑って言った。
「うん」
松村さんが頷いて言った。
「早瀬も待っている。
早くお開きにして帰ろう」
井上さんが私の方を見て言った。
「そうですね」
私はみんなに向かって言った。
「早瀬がいない交霊会って、マジで葬式ムードだから、無理。やっぱりお笑い担当がいないとね。
なんか、私、ちょっと刺々していたかも。ごめんね、松村」
井上さんが申し訳なさそうに言った。
「え。
あ、いや。全然」
目をパチパチさせて松村さんが言った。その様子に、みんなの間から笑いが漏れた。
「交霊会が無事に終わりましたし、後藤さんの除霊が終わり次第、現世に戻りましょうか」
私は後藤さんを見て言った。
「待ってください」
後藤さんが彼女に似合わない大きな声で言った。
「なんですか」
私は彼女に尋ねた。
「ええ。
みんなに話したいことがあるそうです。加藤さんの方から。少し時間をいただけませんか。最後に」
後藤さんは嘆願するように言った。
「承知しました。
かまいませんよね、みなさん」
私はみんなに向かって言った。一同、頷く。
「ぜひ、聞かせてください」
来栖さんが言った。
「ありがとう」
後藤さんが小さく笑って言った。「部屋」に差し込む紅い月光が彼女を照らしている。彼女の頬を、一筋の涙が伝うのが見えた。
加藤詩織の話
一応、初めましてになるのかな。ずっとみんなとお話ししていたわけだけれども。誰かとこんなに話すのなんて、本当に久しぶりだから、顎がくたびれちゃった。
私ね、後藤ちゃんの体の中へ入って、たくさんおしゃべりしたの。趣味のお話とかできて、楽しかったな。「言いなりメール」はね、多分『CURE』っていう映画が影響していたと思うんだけれど。後藤ちゃんもあの映画が好きだったみたいで。あの映画だとね、催眠術師の暗示にかけられた人が衝動的に暴力をふるっちゃうの。暗示にかけられたせいで、すっかり人柄が変わってしまってね。私もそういう経験、あるから分かるの。
お母さんから、いつもケータイで雑用を頼まれたのだけれどね。お母さん、私が早く帰らないと、殴ったりするから。メールがくるとドキドキして、パニックになっちゃった。後藤ちゃんもね、そういう過去があったみたいで。ほら、私たちって、美術室に入れなかったでしょう。後藤ちゃん、お父さんがデザイン系の仕事をしていてね。もう離婚して、お別れしちゃったみたいだけれど。厳しくて神経質なお父さんだったみたいでね、あんまり後藤ちゃんのことも気にかけてくれなかったらしくて。でもね、たまに夏休みの課題に絵画制作があると、熱心に手伝ってくれたんだって。それもすごく厳しかったみたいでね。後藤ちゃんのお父さんは、私の両親とも似ていて。カッとなると性格が変わっちゃうの。私も大概だけどね。
後藤ちゃんも、絵を描いている時には、お父さんから怒鳴られることが多くて。上手く指導を飲み込めないと、軽く叩かれたりすることもあって。私もそうだったんだよね。私のお父さん、私が絵のコンテストで入賞した時だけは、褒めてくれたんだけれどね。顔をくしゃくしゃにして笑って、頭を撫でてくれたの。あの優しい手が欲しかったから、絵を描くことが好きになった。でも、お父さんがいなくなってから、描くのがしんどくなって。
お父さんがいなくなってから、一人ぼっちで趣味の絵を描いているとね。昔のことをフラッシュバックして、しんどくなるの。絵に導かれて、過去へと連れていかれるような。もしかしたら『絵画世界』には、そんな私の気持ちが手伝っていたのかもしれないな。みんなと話していて、そう気がついた。
後藤ちゃんもね、絵を描くことで、お父さんとの過去を思い出しちゃって。だから私たちは美術室に入れないみたい。いろいろがしんどいのよね。
「『絵画世界』だけれど」
後藤ちゃんが、前にそんな風に言っていたな。
「わかる気がするの。裸にならないと使えないっていう条件」
後藤ちゃんはそう続けて言ったの。
「どういうこと」
私は後藤ちゃんに尋ねたっけ。
「うん。私も絵を描いているときに、無防備で危ない状態になって。しんどくなるから。
私もね、そういう性暴力を受けたことがあるの。友達のパパから」
後藤ちゃんは言ったの。
「そうだったんだね」
私は言ったな。
「うん。その時に助けてくれたのが、パパだった。普段は私に冷たいパパが、私に強い関心をむけてくれたのが嬉しかった。
あの時からだろうな。私の片思い」
後藤ちゃんは、苦笑いしてそう言っていた。
「片思いって」
私は尋ねたの。
「うん。パパに恋していたの。私は。
神経質なパパはいつも私に素っ気なく対応するけれど、時々向けられる愛情が、すごく嬉しかった。それが欲しくて、私はずっと絵を描いていたんだと思うの。裸の私を、見つめて、受け止めて欲しかった」
後藤ちゃんは、そう言っていた。
「『透明人間』も、わかる気がする」
後藤ちゃんはその時、そうも言ってくれていたな。
「パパに無視されて、しんどい時って結構あった。
お姉ちゃんのことがあって」
後藤ちゃんは、そう言ったの。
「お姉さんがいるの」
私は、そう尋ねたんだ。
「うん。
小さい頃に死んじゃったけれどね。『真冬』って名前。生まれてすぐに死んじゃったの」
後藤ちゃんは言ったの。
「そうだったんだね」
私は言ったっけ。
「うん。
真冬が死んだことはね、お父さんにとって本当にショックだったんだって。今度、自分の子供が死んだら、もう耐えられないかもしれないって思ったらしいの。だからお父さんはね、ちょっと心を閉ざしちゃったの」
後藤ちゃんはそう言っていた。
「心を閉ざすって」
私は尋ねたんだ。
「うん。私にはもう、あまり気持ちを向けないようにしたらしいの。私をあまり大切にしてしまったら、別れが辛くなるから。
だから、加藤さんの気持ちが私にはわかるの。お姉さんの影に家族が縛られていたっていう印象。いない人として、時々お父さんから扱われるような気持ち」
後藤ちゃんはそう言ってくれたな。
「『人取り鏡』も分かる」
後藤ちゃんは言ったの。
「鏡の中に囚われているようで。
写真のなかで見る、乳児の真冬の顔は、私によく似ていたから。鏡の前に映る自分の姿から、時々成長した真冬を想像することがあるの」
後藤ちゃんは言っていたな。
「そうだったんだ」
私は思わず言ったの。
「『オルフェ』っていう映画、私も観たことあるんだけれど。すごく怖かった。鏡の中から、死神が現れる設定が」
後藤ちゃんは言ったの。
「どうして」
私は尋ねた。
「うん。
私はよく、鏡の中からお姉ちゃんが自分を連れて行こうとするような気持ちがして怖かったから。小さい頃ね」
後藤ちゃんは笑ってそう言ったの。
「そうだったんだね」
「うん。
でも、時々鏡の中で、お姉ちゃんと一緒に暮らすことを空想したの。お姉ちゃんに連れて行かれて、鏡の中で暮らすことを。それも悪くないかもなって、思っていた。実質一人っ子で、家族の仲も悪くてしんどかったから、一緒にいてくれるお姉ちゃんがいたら楽しいかもって」
後藤ちゃんは、そう言ったの。
「わかる」
私は言ったな。
「そっか」
後藤ちゃんは言ったの。
「うん。
なんだろう。お姉ちゃんと二人だけの方が、気が楽だったろうなって。考えることが少なくて。家族の不穏のなかでどう振る舞うか考えることにエネルギーを使わずに済んで。だから、お姉ちゃんのお世話だけしながら、ずっと二人の世界で暮らしていたかった」
私は笑って、後藤ちゃんに言ったの。
「それに私は忘れ物やミスが多かったから。よくそれで怒られたっけ。しんどかったな。だから、お姉ちゃんと二人きりに、いっそなりたかった」
私は、そう後藤ちゃんに言ったの。
「私も。
結構どじなもんで」
後藤ちゃんは、笑ってそう言ったの。
「分身できたらいいなって、いつも思っていた。忘れ物で家に連絡すると、怒られちゃうから。代わりの私がいて、取りに行ってくれたらなって」
私は言ったの。
「わかる」
後藤ちゃんは、笑って言っていたな。
「『取り寄せ電話』の話を聞いたときね、ピンとくるところがあったの。私ね、いつも真冬の幽霊が、忘れ物を取りに行ってくれたらなって思っていたから。小さい頃」
後藤ちゃんは言ったの。
「そうだったんだね」
私は言ったんだ。
「うん。
いつもね、私のそばには真冬がいる気がするの。だからたまには、お姉ちゃんに役に立って欲しいなって思ったの」
後藤ちゃんは、言っていた。
「そうなんだね。
役に立って欲しい気持ちか」
私は、思わず言ったの。
「引っ掛かるの」
後藤ちゃんは私に尋ねたの。
「まあね。
お姉ちゃんは、家族から与えられるだけだから、たまには向こうから、私に何かして欲しいなって、時々思ったなって」
私は言ったの。
「そっか」
「でもね」
私は、続けてこう言ったの。
「私の方こそ、お姉ちゃんから奪ってばかりだったのかもしれないなって。お姉ちゃんにすがっていたのは、私だったのかもしれない」
私は言ったの。
「そうなんだね」
「うん。
不安定な家族の中で、純粋な、縋っていられる場所が欲しかった。だから、お姉ちゃんに依存していた」
私は言ったの。
「なるほど。
私もそうかも」
後藤ちゃんは、言ってくれたの。
「不安定な家族の中で、お姉ちゃんっていう、純粋な心の拠り所がずっと欲しかった。だから、あんな空想に、いつも浸っていたのかもね」
後藤ちゃんは、笑ってそう言ったんだ。私も、ずっと居場所が欲しかったの。いつも一人ぼっちだったから。お姉ちゃんに縋っていたかったけれど、連れて行かれちゃったし。これまで、ずっと一人ぼっちでいたの。海の底に沈んでしまってからも、ずっと。一人ぼっちで、孤独で冷たい夜を過ごしていたの。
だから最後に話せたのが、みんなで良かった。みんなのことを巻き込んで、傷つけてしまった私に、そんなことを言う資格があるのかは、分からないけれど。でも、私はみんなと出会えて、救われた気持ちがする。私のこと、分かろうとしてくれる人たちに最後に巡り合えて、嬉しかった。自分のことを最後に話せて、分かってもらえて嬉しかったよ。
これからも、たくさん同じような試練が待っていると思うのだけれど、他の仲間たちのことも、みんなならきっと助けてあげられると思うの。だから、どうか救ってあげて欲しいなって、思っている。私は、もう、何もしてあげられないのだけれど。
そろそろ、なんか眠くなってきたかも。除霊が済みそうなのかな。みんな、いろいろ、本当にごめんね。これからも、どうか頑張って。
早瀬桐花の話
おー。みんなお帰りお帰り。いやー。心配していたけど、なんとかしてくれるって信じていたんだよー、俺。
呪殺されていた間ね、夢を見ていて。みんなの様子が見えていたんだよね。応援していたよ。それに私にはね、加藤さんの過去も見えたんだよね。それでいろいろ共感しちゃったわ。俺は呪殺された被害者なわけだけれど、まあ許せちゃったね。
ほら。俺の家も貧乏だし、父子家庭だったから。俺のパパって優しいけれど、ママはちょっとおかしい人だったし。悪い人じゃなかったとは思うけどなー。発達障害だったと思う。ちょっと考え方が普通の人ではなくて。裏表はなかったんだけれどね。でも結婚に飽きて不倫して、どこかへ行っちゃった。しんどいことが苦手らしくって。それが寂しかったね。
パパはグズなところあるけれど優しかったし、二人の暮らしも寂しくなかったけれど、それでもママが俺に関心を向けてくれなかったことは悔しいし、寂しくてね。『透明人間』なんて霊障が起こった気持ちもわかるくらい。あの頃から俺の中には、ちょっとミソジニーみたいな気持ちと、マスキュリニティを身につけたいみたいな気持ちが起こってね。マッチョなものに憧れるようになったんだよね。
交霊会で名前が出てきた『メタルギア』は友達の家で遊んだんだけどね。めっちゃハマってさ。主人公のソリッド・スネークが渋いおっさんでかっこいいの。俺もあんなタフガイになりたいって、いつも思っている。それからランボーも俺の憧れなんよね。シルヴェスタ・スタローンの。マスクを包帯がわりにするのもね、俺はあれを意識していたね、割と。
なんつうかね。俺にとってはマッチョなものこそが純粋な正義って感じなんだよね。よくわからんけど。なんだろう。それはファザコンとマザコンの裏返しだと思うのよね、俺の。加藤さんもそんな感じっぽいじゃん。ファザコン強くて。だからいろいろ共感しちゃうのよ。
加藤さんはさ、お姉さんを守ってあげたい気持ちがいつも強くあったと思うんだよね。両親と張り合って。それで自分に価値を見出したかったと思うんだよ。俺もそんなところあるからね。俺はね、誰よりも強い人間になって、ママを見返してやりたかったの。タフな人間になって、パパのことを幸せにしてあげることで、ママに勝ちたかったの。加藤さんと、そういうところ似ていると思うんだよね。
「ビッグ・シスター」の都市伝説もね、ピンとくるところがあるんだよね。多分、加藤さん的には、お姉ちゃんを見守っていたい気持ちが強くあったんだと思う。連れて行かれないように。俺も怖かったもん、パパがいなくなっちゃうんじゃないかって。だってさあ、パパってママのことがずっと好きだったから。いつか俺を置いて出て行っちゃうんじゃないかって、怖かったのよね。加藤さんも、そうだったんじゃないの。ずっと。お姉ちゃんがパパに連れて行かれちゃうことが怖かったんじゃないかなあ、と。実際、向こうに連れて行かれてお別れしちゃったわけだし。
それにね、俺は「取り寄せ電話」が必要だった理由もわかるんだよね。あ。俺はこう見えても几帳面なところは几帳面でね。大きな忘れ物とか無くし物はほぼしたことないのよね。ずぼらでもあるけれど。でも俺はね、やっぱり「取り寄せ電話」が欲しいなって思っちゃう。なんつうかね、甘えられる相手が欲しいわけよ。自分のミスをヘラヘラ笑って打ち明けられる相手が欲しい。
俺はね、パパにはずっと心配かけたくないし、甘えられないと思っていた。パパってすごく俺に優しいけれど、弱いし何かのきっかけでポキっと折れちゃいそうだからさ。甘えちゃダメな気がしていた。それに、甘えたらパパが私に幻滅しちゃって、ママを探しに出て行っちゃうんじゃないかっていう気持ちがしていたからね。だから、俺はパパには甘えられなかった。でも自分の弱さを理解してくれる相手が、ずっと欲しかったんよ。だから『取り寄せ電話』はわかるのよね。加藤さんも寂しかったんやろうなって。誰かに甘えたかったんやろうなって。加藤さんもさ、親の不安定なメンタルに対して受動的に応じるばっかりだったじゃん。俺もそうだったから。強くなって、パパのことを助けてあげたい。誰にも弱みは見せられないって、そればっかりだったから。
そうそう。それに『他人の体』なんて、めちゃくちゃわかるのよね。俺も男になりたいって思っているから。誰か別の男になりたいって、ずっと思っている。俺、生理も結構重くてしんどいしね。こんなカスみたいな体には生まれたくなかったよ。俺にとって理想の男はね、シルヴェスタ・スタローンやね。かっこいい。タフでマッチョでさ。『人生より重いパンチはない』って、いいよね。『ロッキー』ね。それにスタローンの映画って、どこか影があってさ。マッチョでムキムキなボディの中に、どこか哀愁を湛えていてね。吉田拓郎かよ、みたいな。
加藤さんってオスカー・ワイルドの作品が好きだったみたいだけれど、ワイルドもそんな感じだよね、ワイルドさの中に悲しみを宿していてね。俺もあんな感じに生きたいわけよ。男臭さの中にメランコリーを隠していて、それで周りの注目を集められるクソ男に生まれたかったわけ、俺は。カスなバンドマンみたいにね。
まあ、結局寂しがり屋さんなわけだよね、俺も。誰かに甘えたい、かまってちゃんとして俺はこうして生きて来たってわけ。だからね、加藤さんの気持ちがいろいろわかる、加藤さんもひとりぼっちで寂しくて、今回の事件も助けを求めてくれていたんだと思う。呪殺されても許せちゃうわ、うん。大変だったんだろうなって、いろいろ共感できるからね。
それに、こうして俺は助かったわけだからね。みんなのおかげよ。信じてよかった。加藤さんも、きっとみんなを信じていたんだと思うよ。俺たちのことを信じて、自分の人生を最後に精一杯生きようとしたんだと思うよ。それこそ、加藤さんが好きだったラベンダーの花みたいにね、最後に精一杯咲こうとしたんだと思うよ。月並みな表現やけどね。
あー。そういえばラベンダーか。俺のママが好きだったな。てか『時をかける少女』って、ママが好きだった映画だわ。あの映画にラベンダーが出てくるのよね。原田知世ちゃんのことをね、ママは好きだったの。なんかママってね、ああいう無垢で可憐な薄幸の美少女みたいな設定を纏っていた印象あったんだよね。なんかこう、すごく被害者意識が強くて自分本位でね、かまってちゃんだったの。ああいう感じがね、俺は嫌だったわけ。俺は、だから俺は、男になりたいなって、思うようになったわけ。ああいうセンチメンタルで女々しい雰囲気が嫌でね。タフでありたいなって、思うようになった。
でも俺もね、ラベンダーの香りが好きで。なんかセンチメンタルでノスタルジックな香りがする気がするんだよね。まあ俺も結局センチメンタルな人間なわけですよ。ママのことはうざいなって思うけれど、同族嫌悪はあるんだろうなって、思う。かまってちゃんで、寂しがりやで。ラベンダーの香りを嗅ぐとね、俺はいつもママを思い出して、そんな思いに囚われるの。忌々しいような、切ないような。だから、加藤さんのことも、わかる気がするわ。
何はともあれ、これで一件落着だね。みんな無事で何よりだよ。そうだ、今度加藤さんのお墓参りにでも行こうよ。ラベンダーの花を捧げに。
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